福岡大学人文学部
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Novis 2006

Novis 2006 目次

Novis 2006 本文

はじめに
山中博心 (人文学部長)
 体が健康であるためにはできるだけ多くの種類の食物を摂取する必要がありますが、心もまた様々な情報を必要としていないでしょうか。偏食をしていれば体のどこかに変調を来すことは必然です。体の病に対しては素早く対応します。医者に行ったり薬を飲んで元の状態に戻そうとします。しかし、心の偏食は厄介です。偏りを自覚することが難しいからです。体にはもともと復元力(ホメオスタシス)が備わっていますが、心は後天的に培われていくものですから。バランス感覚を自分で身に付けなくてはなりません。一般にいわれているように、一日三十品目を摂るにはそれなりの努力がいります。そのうえ、一口三十回噛むとなると大変です。同じように読書もただ楽しい本だけではなくて、少し長めの骨の折れるものも読まなくてはなりません。人間がこの世の中にあるということは「大地」にしっかりとつながれていると同時に「天上」へのあこがれも捨てきれないということでしょう。社会に出ていけば自由な時間は限りなく少なく、自由な発想をする余裕もないかもしれません。その意味では大学の四年間にしっかりと心に栄養をつけておいて下さい。それがあなたの人生を豊かにしてくれるものと思います。

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Ⅰ. 読むこと、見ること、聴くことの勧め
映画・イタリア・ベニーニ
浦上雅司 (西洋美術史)
 最近ではレンタルビデオ、レンタルDVDの普及によって、映画館にわざわざ足を運ぶ学生諸君は少なくなったかも知れない。私が育った家の隣は場末の映画館だったが、そのころ(昭和30年代)の子供は外で遊ぶのが普通で、映画館というと日常とは違う異世界という雰囲気があった。もちろん映画館に若い女性が一人で行くことなどまずなかったが、現在の映画館は全般的に清潔で明るく、レディースデイまであって、全く隔世の感がある。
 その一方で現在では、あまりヒットしない作品であれば上映期間は短く、必見と思っていた映画でも、日常の仕事に追われてちょっと油断していると既に上映が終わっていて悔しかったりする。もっともそうした映画でも、上映が終わって間もなくDVDが発売され、ほぼ同時にレンタルが開始される。まるで映画館における上映は、DVDを売るための「コマーシャル」のように位置づけられているようにも思える。このような状況では、そのうちに映画鑑賞券付きDVDの先行発売なんてものまで現れるのではないだろうか。
 それはともあれ、最近は安価なDVDが出回っていて、過去のさまざまな作品を安価に手元において繰り返し鑑賞できるようになったのは映画ファンには有り難いことである。「外国語の学習」ないし「一国の文化に対する知見を深める」という大義名分で映画を鑑賞すれば、家族から、実際は遊んでいるのではないかと疑いの目で見られることはあっても面と向かって非難されることはあまりないだろう。韓国映画や中国映画などアジアにも素晴らしい映画は多いし、ハリウッド映画にも興味深いものはあるが、私はイタリア美術を専門にしているので、DVDで発売されているイタリア映画を幾つか紹介しておきたい。但し、体系的な紹介ではない。ほとんどはレンタルもあると思う。
 かつてイタリア映画といえば、フェッリーニやヴィスコンティ、パゾリーニといった監督の作品が「教養として」もてはやされた。フェッリーニでは『ローマ』や『サティリコン』のDVDが安価である。前者は、北イタリアのリミニという町で生まれ育ち、戦争の頃からローマで育った監督の都市ローマについて抱くさまざまなイメージ(古代ローマ遺跡、近代都市、カトリックの首都など都市ローマでは、さまざまな、時として相容れない文化が渾然一体となっている)を映画化したもの、後者は古代ローマ皇帝ネロの時代を生きた文人ガイウス・ペトロニウスの風刺小説(邦訳―岩波文庫)を原作とした映画で、小説でも重要な場面である解放奴隷で大金持ちのトリマルキオが催す宴会の情景が特筆される。いきなりこの映画を見ても情景の意味はなかなか理解できないかも知れないが、そういう方には小説の併読をお勧めしたい。これらの作品が特にフェッリーニらしい作品かどうかには議論があるかも知れない。『ローマ』にはフェッリーニ自身も姿を見せるから、『サティリコン』よりはこちらの方が「フェッリーニ的」だろう。自伝的要素が含まれる作品を多く作っているこの監督についてもっと知りたければ、自分を投影したマルチェッロ・マストロヤンニが登場する『甘い生活』(DVDあり)や『81/2』(今のところビデオのみ)を見ることが必要だろう。ヴィスコンティではトーマス・マンの小説(邦訳―岩波文庫)を原作として、グスタフ・マーラーを思わせる作曲家を主人公とした『ヴェニスに死す』や、ナチス勃興期のドイツ上流階級の頽廃をテーマにした『地獄に堕ちた勇者たち』が安価なDVDになっていてこの監督の一面を垣間見ることができるが、『山猫』や『家族の肖像』『若者のすべて』などのDVDは販売されていても残念ながらまだ高価である。
 最近のイタリア映画では、ロベルト・ベニーニ主演・監督の『ライフ・イズ・ビューティフル』が日本でもちょっと評判になった。子供の頃から舞台に立っていたベニーニが現代のイタリアを代表する喜劇役者の一人であることは間違いない。この映画は喜劇人としてのベニーニが「ナチの強制収容所を舞台にした喜劇を作って人を笑わせることが出来るか」というテーマに果敢に取り組んだ作品であり、アカデミー賞を受賞したのは誠に慶賀の至りであった。これもDVDで鑑賞できる。その後、再び監督を兼ねて挑戦した『ピノキオ』も日本で公開され、DVDが発売された。だが50才で頭がはげたピノキオの出来については、賛否両論あるようだから、興味のある方は自分で見て判断して頂きたい。もっとも、本来スタンダップ・コメディアンだったベニーニの本領は、アメリカの映画監督ジム・ジャームッシュのオムニバス映画『ナイト・オン・ザ・プラネット』(DVDあり)に登場するローマの恐るべきタクシー・ドライバー役に最もよく現れていると思うので、ベニーニファンの方にはこの作品を一見するようお勧めしたい。

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小説世界への入口
遠藤文彦 (フランス文学)
遠藤周作『沈黙』(新潮文庫)
 高一のときだったと思います。級友の若松君にすすめられて読んだのが遠藤周作の『沈黙』でした。若松君は家がクリスチャンで、自分もクリスチャンなんだと言ってましたが、最近キリシタンの話で自分が読んで面白かったので、作者の名前も同じだし、遠藤君も読んでみないかと言うので、すすめられるままにこの本を読んだのでした。ぼくはそれまでとくに文学に興味はなく、小説なども長いやつは読み終えたことがなかったのですが、この本を読んでたちまち小説というものの世界に引き込まれてしまいました。この小説は、日本人にとっての宗教という重いテーマを扱っていますが、場所の設定や時代背景など、エキゾティックな魅力にあふれていて、ぼくにとっての小説世界への入口であったように思います。
 ところで、小説の舞台になった長崎の外海(そとめ)町出津(しつ)地区には、いま遠藤周作文学館が建っています。かなたから東シナ海の波が打ち寄せる、高い崖の上に立つその文学館は、数ある文学館のなかでもきわだって美しいものです。そこにたたずめば、『沈黙』を読んだことのある者ならだれしも、かならずや深い感動にとらえられることでしょう。福岡での大学生活四年間のうちにぜひ一度訪れてみてください。詳しくは遠藤周作文学館のホームページで。

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おすすめの本
大嶋仁 (比較文学)
 新入生の皆さん、人文部にようこそ。新入生の皆さんに、おすすめしたい本と言えば、まず皆さんが一冊の本に何を求めるかによります。読み終えて生きる元気が湧いてきた、と感じられるものとしては、何より福沢諭吉の『福翁自伝』でしょう。落ち込んでいる人、孤独を悩んでいる人には、フランツ・カフカの『短編集』か『変身』をおすすめします。暗い内容のようでいて、なぜか根源から力が湧くでしょう。また、人に対して優しい気持になりたい、細かい文章の味をかみしめたいと思ったら、井伏鱒二の短編ですね。『山椒魚』などのタイトルの付いた一冊を選べばよいのです。
 こんなところでしょうか。ここに挙げたどの本も文庫本で手に入ります。

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お経を朗読してみよう
甲斐勝二 (中国文学)
高神覚昇『般若心経講義』(角川文庫)
ひろさちや『てのひら般若心経』(小学館文庫)

 眠っている脳を活性化させるには朗読や簡単な計算をするのがよいと聞きました。数字の簡単な計算は味気ないので、朗読する良いものはないか、どうせ朗読するのなら天下の名文に限るが、長いものでは途中でくたびれる、というわけで、わずか300字に満たない『般若心経』に目を付け、一日に何度か声を出して読む事をはじめました。
 脳の活性化が本当かどうか不明ですが、活性化するなら中年ばかりではなく若者だって同じはず。皆さんも勉強前の読経はいかがですか。朗読だけではやはりちんぷんかんぷんなので、この二書を薦めます。他にも解説書はたくさんあるので、読んでみてください。

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ブラームス「バイオリン協奏曲」を聴く
片多順 (文化人類学)
 皆さんは悲しいとき、苦しいとき、人が信じられなくなった時などどうしていますか? その状態から逃避したり、忘れようとしたり、ほかの事で気を紛らわしたり、人それぞれに様々な対処の仕方があるでしょう。
 そんな時、私はしばしばこの曲を聴きます。そうです。ドイツの作曲家ブラームスのバイオリン協奏曲です。バイオリンが激しく軋(きし)む音色を奏でます。オーケストラが強烈にそれに応えて怒涛のように押し寄せてきます。一度聴いてみて下さい。あなたが抱いていた苦しみや悲しみが少しは軽くなるかもしれません。繊細な弦の音色が心の奥底にしみ込むこともあるでしょう。人それぞれでしょうが、ヨシッとまたやる気が出るかもしれません。
 ブラームスはそういう作曲家なのでしょう。生涯結婚せず人妻を密かに想い続けた彼の愛と苦悩がこの曲全体に秘められているからかもしれません。

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「よい子」ってどんな子?
勝山吉章 (教育史)
灰谷健次郎著『兎の目』(理論社)
 「よい子」ってどんな子? 親や教師の言うことを素直に何でも聞く子どもは、確かによい子に違いない。では、親や教師の言うことを聞かない、親や教師の権威を認めない子どもは「悪い子」なのだろうか。いつも親や教師のご機嫌を伺い、「よい子」であり続けることに疲れた子どもは、もうよい子ではなくなるのだろうか。
 『兎の目』の主人公「鉄三」は、そのような問いを投げかける。 偏差値教育、管理主義的教育に慣らされてきた者にとって、「鉄三」は落ちこぼれに映るだろう。しかし、人間本性に照らし合わせて考えた時、管理化された現代社会に馴染んでいる私たちこそが、大切な人間性を失っているとは言えないだろうか。
 本書を既に読んだ学生も多いと思うが、大学時代に再度読んでもらいたい書物である。

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中国の歴史(全12巻)
紙屋正和 (東洋史)
講談社版『中国の歴史』(全12巻)(講談社)
 1970年代に、『中国の歴史』(全10巻)、『図説中国の歴史』(全12巻)、『新書東洋史』(全11巻、うち中国史は5巻)と、中国史の概説書のシリーズをあいついで刊行した講談社が、『新書東洋史』以外は入手困難になった2004年から2005年にかけて、ほぼ 30年ぶりに刊行した中国史の概説書がこのシリーズである。この間に中国史・中国自体、あるいはそれらをとりまく環境は大きくかわった。
 古い時代については、考古学の大きな発見があいついでいる。稲作の起源は、遺跡が発掘されるたびに千年単位で古くさかのぼり、今や1万2千年前の栽培稲が発見されたというニュースが流れているほどである。また以前は、中国の古代文明といえば黄河文明と相場がきまっていたが、現在は長江流域において黄河文明に勝るとも劣らない高度な長江文明があったことが明らかになっている。戦国・秦・漢・魏晋南北朝時代については、当時の法令・行政文書や思想・文学などの著作を書きしるした簡牘(かんとく)(竹のふだと木のふだ)類や人の目をうばう遺跡が多く発見され、これまで文献史料で知ることのできなかった事実が明らかにされつつある。新しい時代については、放っておいても新事実が積みかさなってくるのであるが、以前に未発表であった公文書が公表され、さらに中国・中国経済自体が大きくかわりつつある。政治は社会主義のままであるが、経済はもう完全な資本主義に、少し大げさにいえば日本よりも極端な資本主義になり、現在の成長がつづいていけば世界経済を牛耳るようになるかもしれないといわれている。こうした変化をふまえて、今回の『中国の歴史』(全12巻)が企画されたのである。ただし、このように大きくかわりつつある「古い時代」と「新しい時代」とに挟まれた中間の時代の場合、大発見があったわけでもなく、新しい文献が見つかったわけでもないため、執筆者はこまったらしいが、旧来通りの中央からの視線でえがくのではなく、地方の現場から世界を見なおすといった機軸によって新鮮味をだそうとしたという。
 全体的にかなり高度な内容になっているが、全部を紹介するわけにいかないので、私の専門に近い古代史関係についてのみ内容を簡単に紹介し、のこりは執筆者と書名だけを列記するにとどめる。
 宮本一夫著『神話から歴史へ―神話時代・夏王朝』(01)は、中国の地に人類が居住しはじめてから、殷周社会が成立する前まで、いわば中国の先史時代をとりあつかう。現在の中国の経済発展は巨大な開発をともない、発掘もさかんに行なわれている。その結果、先史時代の文明は黄河流域だけではなく、現在は中国の各地で発見されている。宮本氏はこうした発掘成果をもとに、物質文化における地域間比較だけでなく、社会構造上の地域間比較をも試みることによって、先史時代における段階的な社会構造の変化に注目し、殷周社会にいたる道のりを多元的に説明する。これまで「中国の歴史」というとき、先史時代についても文献史学の研究者が執筆することが多かったが、これは考古学の専門家の手になる概説書である。
平勢隆郎著『都市国家から中華へ―殷周・春秋戦国』(02)は、新石器時代から戦国時代までを対象とする。本巻は、著者自身がみとめるように「一般に提供されている中国史とは、若干異なった視点」で書かれている。すなわち中国史を、蘇秉琦氏著・張名声訳『新探 中国文明の起源』(言叢社)が提唱した「新石器時代以来の文化地域」を基礎において分析し、まぼろしの夏王朝、殷王朝・周王朝、そして戦国時代の領域国家のいずれもが新石器時代以来の文化地域を母体として成立したという。こうした歴史を背負う戦国時代の諸国家は、自国の立場から先行する夏・殷・周の王朝を論じ、そのうちの一部が史書として現在にのこされている。しかしそれらの史書は、それができあがった時代に規制され、ときには無かった内容を付けくわえている。そこで、本巻は、何が後世に付加された虚構の産物なのか、またどの記述が事実を伝えているのかを検討する形で書かれている。安易な気持ちで、急いで読もうとすると、絶対に理解できない。
 鶴間和幸著『ファーストエンペラーの遺産―秦漢帝国』(03)は、秦・始皇帝による天下統一から前漢・新をへて後漢が滅亡するまでの440年間をとりあつかう。この時代は、簡牘類や多くの目を見はる遺跡・遺物の発見があいつぎ、歴史像が大きくかわりつつある時代である。鶴間氏は秦の歴史、始皇帝像の再評価を試み、また秦・漢時代を地域の視点から見なおそうと試みてきた研究者である。そうした自分自身のの研究を反映させ、あわせて新発見の出土資料を既存の文献史料とつきあわせて本巻を書いている。とくに新出土資料についてはよく調べて多くの情報を提供しており、専門家としても参考にすべきところが多かった。
 金文京著『三国志の世界―後漢・三国時代』(04)は、後漢後半期に外戚・宦官が政治を乱しはじめた時期から西晋の統一によって三国時代がおわる時までの約130年をとりあつかう。この書名にある「三国志」とは、『魏志』倭人伝などをふくむ歴史書の『三国志』ではなく、小説の『三国志演義』であり、執筆者は歴史家ではなく、中国文学者である。本巻は、ゲーム・アニメ・漫画によってつくられた『三国志』ブームを意識したもので、よくいえばこのシリーズに新鮮味をだすための、悪くいえば読者に迎合するための企画といえよう。内容は、この時代の歴史の動きを淡々とおいかけ、ところどころで『三国志演義』がどのように脚色されているかを明らかにしている。本巻は歴史の概説書として読みごたえがあるが、『三国志演義』ファンにも歓迎されるであろう。
 川本芳昭著『中華の崩壊と拡大―魏晋南北朝』(05)は、西晋が中国を再統一したものの、また分裂してから隋が久々に中国を統一するまでの約300年をとりあつかっている。基本的には分裂の時代といえるこの時期の歴史を、胡漢、すなわち遊牧民族と漢民族の対立と融合をキーワードにして、隋・唐時代に新しい漢民族・中国文化が登場すること、また中原(黄河中流域)の混乱などによって、未開発地がまだ多くのこされていた長江流域に厖大な人口が移動・移住し、その地の開発が急速に進展することを明らかにし、あわせて中国の周辺において朝鮮半島の三国や倭のような国家がうまれてくることにも目をくばっている。

氣賀澤保規著『絢爛たる世界帝国―隋唐時代』(06)
小島毅著『中国思想と宗教の本流―宋朝』(07)
杉山正明著『疾苦する草原の征服者―遼・西夏・金・元』(08)
上田信著『海と帝国―明清時代』(09)
菊池秀明著『ラストエンペラーと近代中国―清末・中華民国』(10)
天児慧著『巨龍の胎動―毛沢東vs鄧小平』(11)

 尾形勇など著『日本にとって中国とは何か』(12)は、太古から現代までの中国の歴史をふりかえったあとで、日中関係がギクシャクしている現在、日本にとって中国とは何か、逆に、中国にとって日本とは何かについて、このシリーズの編集委員四人と中国人二人が総論的に論じたものである。日本と中国は同じ漢字文化圏、儒教文化圏であるから何もいわなくても分かりあえると認識することが、大きな誤解であることを知らなければならない今この時、一読すべき本であろう。以下、執筆者と論題だけを紹介する。
尾形 勇「大自然に立ち向かって―環境・開発・人口の中国史」
鶴間和幸「中国文明論―その多様性と多元性」
上田信「中国人の歴史意識」
葛剣雄「世界史の中の中国―中国と世界」
王勇「中国史の中の日本」
礪波護「日本にとって中国とは何か」

 概説書は新しければ新しい顔をして我々の前にあらわれてくる。新しければよいというものではないが、少なくとも情報は新しいものがふくまれている。読書には、自分の知らないことをまなぶという「学ぶ姿勢」と同時に、何かおかしい、納得できないことを書いていないかをさぐるという「批判の姿勢」も必要である。

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学問の領域に捉われない読書の勧め
鴨川武文 (地理学)
木内信蔵(1968)『地域概論―その理論と応用』(東京大学出版会)
日高敏隆(1998)『チョウはなぜ飛ぶか』高校生に贈る生物学3(岩波書店)
武野要子(2000)『博多―町人が育てた国際都市―』(岩波新書)

 木内信蔵の『地域概論』は37年前に刊行されました。37年前の本というと、「なんて古い本なんだろう」と思うかもしれませんが、地理学や地理学が研究対象とする地域について体系的に論じられています。私は共通教育科目の地理学を担当していますが、この本は、地理学の講義を学生の皆さんに行うにあたっての、私にとっての参考書ともいうべき座右の書です。
 日高敏隆の『チョウはなぜ飛ぶか』は生物学の本ですが、この本は次の2点において興味深い本です。
 第1点は、「チョウはなぜ飛ぶか」というタイトルですが、内容は、一言でいうと、チョウは自分自身が飛ぶ道筋をしっかりと認識して飛んでいるということです。つまり勝手気ままに飛んでいるのではないのです。全く土地鑑のない場所に出かけた時に頼りになるのは地図です。地図を見てわれわれ人間は行きたいところに行くことができます。チョウは地図を持ってはいませんが、自分が行きたいと思うところへ行くことができ、またそのような本能を持っているのです。「へぇー」、まさにトリビアの泉です。
 第2点は、研究というものはどのように行われているのか? 研究者は試行錯誤・紆余曲折を繰り返しながら研究成果を出している、研究者とはどのようなタイプの人たちなのか、科学的なものの考え方とは何か、などについていきいきと書かれているという点です。学生の皆さんが志している学問の枠に捉われることなく、多くの本を手にして教養を高め、知識を習得してほしいと思います。

 武野要子福岡大学名誉教授の『博多』には、博多の町の成り立ちや、政治的に、また経済的に博多に関わりのあった武士や豪商のエピソード、今に伝わる博多の伝統や住民の生活史など興味深い話題が数多くあります。また、聖福寺や承天寺、櫛田神社、鴻臚館、防塁など博多にゆかりのあるものの記述もあり、この本を携えて福博の町を散策してみたらいかがでしょう。

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尾道の海の光と坂道を下りる女
桑原隆行 (フランス文学)
サザン・オールスターズ『キラー・ストリート』(CD)
成瀬巳喜男監督『乱れる』(DVD)
里中満智子『悪女志願1・2』(双葉文庫)
石田衣良『1ポンドの悲しみ』(集英社)

サザン・オールスターズ『キラー・ストリート』
 あらためて断言しておくと、ぼくは唐突や不意打ちが好きだ。だから、例えば、「愛と死の輪舞」の歌詞の中にベラミ、レセ・フェール、ポワゾン、ロクサーヌといったフランス語が出てくると、嬉しくなってしまう。さらには、「セイシェル」という曲名が楽園の島のイメージを喚起して、ランカウイ島やバリ島での愛した女との蜜月のような日々を思い出させる。その思いがけない瞬間を享受するのが好きだ。 ところで十二月のある日、知らない女性がフランス語を教えてほしいと訪ねてきた。こういう不意の訪問も歓迎だよ。その時から、何かが始まった気が、ぼくはしているのだけれど。

成瀬巳喜男監督『乱れる』
 俳優陣を挙げておく。高峰秀子、加山雄三、草笛光子、白川由美、浜美枝、藤木悠、北村和夫、十朱久雄、柳谷寛、三益愛子。「乱れる」、いいですね、タイトルはこのように誘惑的でありたい。成瀬監督には、『ねぇ興奮しちゃいやよ』、『蝕める春』、『チョコレートガール』、『限りなき舗道』、『女が階段を上る時』、『女の中にいる他人』のように、魅力的なタイトルの映画が多い。成瀬さんや小津(安二郎)さんの映画の女優さんたちは声と喋り方がきれいで、気持ちがいい。
 『乱れる』で好きなのは、加山雄三が階段を上っていって、山上のお寺の境内で高峰秀子と会う場面。階段や眼下に見える海が、場所は違うけれど、尾道の思い出を蘇らせてくれるので。志賀直哉の旧居の縁側に座って、お喋りしていると優雅で素敵な時が流れていった。隣に座る、その女性の肩先に出現した小さなカマキリを、ぼくはそっと払い落とした。

里中満智子『悪女志願1・2』
 悪女という言葉は妖しい魅力を放つ禁断の扉を連想させる。一度魅入られてしまうと男は、その扉に引き寄せられて行き、開けずにはいられない。そして、入ったが最後抜け出すことはできない。悪女の悪は、女に備わっているセックスアピール、性的魅力の象徴なのだ。好きになってしまった女ならなおさら、男はその魅力に抵抗できない。
 そして、あなたは本屋さんで鹿島茂さんの『悪女入門』、『悪女の人生相談』、堀江珠喜さんの『男はなぜ悪女にひかれるのか』のような本に無意識に手を伸ばしてしまう。もう、あなたは悪女という言葉の魅惑に取り憑かれ始めているのだ。逃げ出すなら今だけど、もう駄目だよね、きっと。

石田衣良『1ポンドの悲しみ』
 フランス人作家たちの恋文を読む授業をしているぼくにとって、恋愛小説集は注文して試してみずにはいられない一品料理のようなもの。美味への期待に舌舐めずりするように、初めて頁を開く時を待つ。それが、好きな『池袋ウエストゲートパーク』の作者、石田衣良さんの本となれば期待は増幅して、はち切れそうになっていた。好きな女の蠱惑的な肉体を前にした時のように。読後感だって? 本の帯に書かれてある「ささやかで切ない恋の瞬間10シーン」、「ふつうの恋のちいさな火花」、「日常に舞い降りた一瞬のときめき 10 drops」という惹句そのままだった。素敵な時間を味わったよ。「デートは本屋で」という一編は、本好きだった彼女との蜜のような時間を思い出させてくれた。
 『スローグッドバイ』も読むといい。恋愛小説集『愛がいない部屋』も出たばかり。早速、購入したのは言うまでもないこと。でも、悲しいことに、今のぼくには耽溺すべき現実の恋は失われている。物語の恋愛世界に浸るしか術はない。ところで、本屋さんで待ち合わせて、飲みに行かない?

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作家ってどんなひと?
小林信行 (哲学)
ドナルド・キーン『思い出の作家たち』(新潮社)
 世の中にはさまざまな分野でさまざまな入門書(ガイドブック、ガイダンスブック)や指南書(マニュアルブック)が氾濫している。もちろんこれは現代にかぎった現象ではなく、印刷術が流布し始めたときから書物が担ってきた重要な役割の一つであった。ただ、現代に一つの特徴があるとすれば、書物をもとめる人と書く人たちの関係が経済活動につよく影響されて、「有益な結果」に焦点が当てられがちである点だろう。たとえば、「~が面白い」「すぐにわかる~」式の表題をもつ書物は、知的関心の誘発が報償・報いを約束するかのようないわゆる「インセンティブ」的発想と結びついている。かつて某研究者が、自分の発明権利を主張して莫大な報酬を関係会社に請求したとき、これくらいの請求をしなければ、後進研究者の励みにならない旨の発言をしたが、たしかに過去の発明王たちの伝記にはそのような部分がこれまで隠されていた。しかし、こんなことをして何になるのか、何かの役に立つのかという問いは、人文学にかぎらず、およそ学問全体についてまわるものだ。こうすれば金になる、これを読めばこれこれになるという短絡的な答えは、少なくとも純粋に知的関心をもつ者にとってはどうでもよいことだし、口にすることすら恥ずかしいという認識をもつ人々も大勢いる。
 ともあれ、ただ何らかの関心が呼び覚まされて、とにかく読んでみよう、見てみようという気持ちが生じることはすごく大切なことだ。とくに哲学や歴史や文学といった先の見えにくい分野に関する読書は、思いもよらぬ到達点に遭遇する可能性も高く、学生時代に為すべき挑戦に値する。ここに取り上げた書物の原題は「五人の現代日本小説家」であるが、翻訳タイトルが示唆するとおり、紹介される五人の作家(谷崎、川端、三島、安部、司馬)はもはや故人ばかりであり、馴染みがないかも知れない(五人の姓名を正確に書ける新入生が何人いるだろう)。しかし、著者自身の知り合いということもあって、その確かな存在感も伝わってくるし、簡便だが文学史的見識も養ってくれる読み物。何かのきっかけになれば、という老婆心から。

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養老「ヒト学」と文化人類学
白川琢磨 (文化人類学)
養老孟司『カミとヒトの解剖学』(ちくま学芸文庫、2002年)
 おなじみの解剖学者、養老先生の宗教論集である。いつもながら論旨はすこぶる明快である。明快である理由は先生の考察の原点が常にヒトという身体にあるからである。もちろん脳も身体の一部である。人類学ではこの脳が作り出す世界を文化と呼ぶ。宗教は重要な文化の一部分である。ところがこの宗教、鰯の頭からアッラーの神まであらゆるものが含まれてきて極めて厄介である。中でも頭を悩ませるのが「霊魂」である。常に死体を扱う養老「ヒト学」は明快で、生きている身体-死体=「霊魂」である。霊魂が身体を離れた時に人が「死ぬ」ことには文化人類学者も宗教学者も同意せざるを得ない。逆に言えば身体は死んでも、霊魂は死なない「らしい」。どころか、きちんと「あの世」に行かないでその辺をウロウロしていて写真に撮られたり(心霊写真)、他人の身体に入ってみたり(シャマニズム)する霊魂もある「らしい」。
 大体この辺りで「科学的」な学生は逆ギレする。私の授業でもそうである。そんな実体のない非科学的な霊魂などというものを扱うのはやめろ、もし在るというのならちゃんと目の前に出してみろというわけである。養老先生は直ちにこう返す。「それなら君の言う『科学』というものを目の前に出してみなさい。目の前に出してくれなきゃ『科学』の存在を私は信じない」。
 しかし付け加えておきたい。逆ギレする学生は見込みがある。私は大いに歓迎したい。授業でそうした学生を集めて英国の人類学者、ロドニー・ニーダムの"Belief, Language, and Experience"を、残念だが翻訳がないので原文で読んでいきたいのである。最後に「養老『ヒト学』も文化人類学もヒトの脳が作り出す世界である」という宿題を出して置きたい。この問に答えることがどんな分野にしろ、人文科学の営みなのである。

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グルメ番組より小説の方が面白い
高名康文 (フランス文学)
 僕の家族はテレビの食べ歩きの番組を見ることが好きだ。僕も食いしん坊なので、つられて見てしまう。(「まいうー」とか「これ、やばい」とか言っているのは論外で、さすがに見ていられない。)でも番組の作りが安直だから、すぐに飽きて自室に入る。そういう時にこっそりと読んでいたのが最近では次の二作品。食べものの描かれ方が魅力的だったり、扱われ方が効果的だったりするのだ。

池波正太郎『鬼平犯科帳』(文春文庫、全24巻)
 『鬼平犯科帳』に出てくる食べものはいつも美味しそうだ。でも、読み返してみると、そばだの鰻だの団子だのという江戸時代の庶民が普通に食べていたと想像されるものばかりで、あの有名な五鉄の軍鶏(しゃも)鍋にしても、決して贅沢な類のものではなかったらしい。また、食材や料理法についてあれこれ蘊蓄(うんちく)が傾けられているわけではない。それでも美味しそうに思えるのは、語りの間合が絶妙なのだからだと思う。「蛇の目」という作品の冒頭で長谷川平蔵がそばをすする場面は次の通りだ。
「その客のことを、平蔵は忘れることにし、はこばれて来た貝柱の【かき揚げ】を浮かせたそばをやりはじめ/(む…うまい)/否応なしに舌へ来る味覚と同時に、またも、/(あの男、どうも、くさい…)」(『鬼平犯科帳2』所収「蛇の目」より)
新鮮な小柱(アオヤギの貝柱)のかき揚げの揚げたてを、じゅっ、とそばの上に載せるのであろう。さくさくとした食感もあいまってさぞかし美味しかろう、つゆには濃厚に鰹の出汁が効いているのだろう、などと想像が働くのであるが、池波氏はそのような無駄な言葉を弄しはしない。火付盗賊改方の長官たるものが、「あやしいやつ」から瞬時注意をそらしてしまう程に出てきたそばは魅力的なのだ。この間合があるから、「否応なしに舌へ来る味覚」という表現が説得力を持つのである。

壇一雄『火宅の人』(新潮文庫、上下巻)
 愛人と浅草のアパートに住むことになった時に主人公の「私」が最初に買ったのは「巨大な青光りするナマコの火鉢」だった。目的は手をあぶることではない。「これなら鍋ものでも、チリでも、二つ一緒に並べながらだって、煮炊き出来るだろう。」幼い頃に母親が恋人と駈け落ちして、残された家族のために煮炊きをしていた主人公は、自分で食べるものは自分で作らなければ気が済まない。煮炊きをすることは彼の生の一部なのだ。
 主人公はサービス精神の旺盛な人物である。食事をふるまう相手が多ければ多いほど、気持ちが明るくなるようで、欧米旅行中にニューヨークで邦人や世話になった作家たちのために料理をふるまう場面からは高揚感が漂ってくる。
 「中華風の前菜、日本風の寄鍋、エビのトマトいため、鷄モツの揚もの等を手あたり次第に作るつもりだから、まずチャイナ・タウンの行きつけの店に出向いて行ってあらましの品を揃え、今度は日本人商店で豆腐などを買い足し、最後にシー・フッドの料理店にまで駈けこんでエビをわけてもらう始末。」
これとは対照的に、愛人との暮らしを振りかえっての述懐は寒々しい。
 「恵子と私のたった二人だけの生活というのは、簡便に見えて、悲しいものである。例えば私がブイヨンをつくる。私は自分の流儀で大規模につくるから大鍋一杯、そのポトフがおいしく出来上ったって、恵子も一二度はつついてみるが、とても食べ切れず、大鍋いっぱいのスープは遂に真白の黴だらけになってしまう有様だ。」
 作品の後半、愛人との別れの予感が強まった頃、主人公が九州に一人滞在した後、大鰤(ぶり)を土産に下げて東京に帰るという件がある。出発前に大喧嘩をした愛人には連絡がつかず、家族の元に帰ることもできない彼は、浦島太郎のように途方にくれてしまう。引き取り手のない大鰤を抱えて町を彷徨う姿は凄惨である。溢れかえる生命力をもてあまして進んできた先に寂寥があった。
 池波正太郎には『食卓の情景』(新潮文庫)、檀一雄には『わが百味真髄』、『檀流クッキング』(ともに中公文庫)という食に特化したエッセー集があるが、まずは彼らの小説を読んでもらいたい。

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中国社会に関するものをすこし
田村和彦 (文化人類学)
魯迅の作品と
『リン家の人々―台湾農村の家庭生活』(マージャレイ・ウルフ著、中生勝美訳、1998年、風響社) など
 最近、中国について様々な情報が流れ、週刊誌の記事や書籍となって書店に積まれています。日本と中国の長い関係を考えれば古典や歴史の本が多いのは不思議ではありませんが、同時代のものに限れば、政治や経済に関するものが多いように思われます。他方で、日常生活を送る場としての社会を真面目に紹介した本は多くはないのではないでしょうか。

 そこで、ここでは、こうした領域について手がかりを与えてくれそうな、いくつかの作品を推薦します。
 一つ目は魯迅のもの。皆さんももしかしたら『故郷』を教科書などで触れたことがあるかもしれないし、なにをいまさらという声が聞こえないでもないのですが、読んだことのある人も、そうでない人もしばらくお付き合いを。

 突然ですが、皆さんは一年に数冊の日本語の本しか読めないという状況に出会ったことがありますか。私事で恐縮ですが、中国の農村に住み込んだときのわたしがそんな状況でした。かなり悩んだ末に持ち込んだものが、今昔物語と魯迅の文庫、淡水魚類図鑑でした。今でもなかなか良い選択だったと思います。特に魯迅には随分助けられたのを憶えています。

 私は文学の研究者ではありません。にもかかわらず、魯迅の作品を挙げる理由は、激しい論調や手厳しい諷刺のなかに垣間見える鋭い社会観察は、今日の中国社会を考える上でも有用ではないかと思うからです。もちろん魯迅を読めば今の社会がわかるといっているわけではありません。社会背景もずいぶんと異なるはずですし、作品はあくまで作品でしょう。けれども、様々なヒントが含まれているという点で、今日でも繰り返し読む価値のある作品が多いと思います(著者の死因について、最近はご子息の活躍もあってか、理解を超えた説明がかの国の若者を中心に支持されているのは悲しいことです)。

 いろいろな人が訳しているので、誰のものを選ぶかは好みで結構。まず手始めに『吶喊』を手にとって見てください。

 二冊目は『リン家の人々』という本。これは、1950年代末に台湾北部の村で生活した人類学者の妻(後に著者本人も人類学者になってしまいました。「異文化体験」というのはなかなか強烈で侮れません)が記したある大家族の記録です。推薦理由は、訳者の解説にあるように漢民族の家庭生活の肌触りを知るうえでは良書であるから、です。人や情報の往来は急増し、中国について語る機会が増え、私たちはなにか中国社会について理解を深めたような自覚を持ちやすい今日の状況がありますが、果たしてどの程度理解している、理解しようとしたことがあるでしょうか。たとえば、本書の扱う家庭や人間関係などは如何でしょう。この本は、反省と驚き、知ることへの欲求をかきたててくれる事でしょう。また、最近、中国大陸中心の議論が極端に増加していますが、台湾、香港といった地域から考える、あるいはこれらを含めて考えることが不可欠なのではないかと私は思っています。なので、台湾を舞台とした、面白いけれどもあまり話題にならない本を選びました。
 さきに断っておきますが、ここに挙げた本は、ある事象についての知識を簡潔に記したものではありません。もしそうした知識だけが必要であれば、百科事典でも暗記したほうがましでしょう。大学に来た以上、自分で問いを立てて、常識を疑い、明確な論証を挙げて検討することが必要です。こうした営みが楽しいかどうかは人によると思いますが、大学とはそういうところだと私は思っていますので、上の本を推薦してみました。後は自分で面白そうなものを探してください。  最後に、本ばかりでは味気ないという意見もあるかもしれないので、映画をいくつか推薦しておきます。ここでは、わたし好みの監督から『青い凧』(田壮壮監督、1993年)、『女人、四十。』(アン・ホイ監督、1995年)、『麻花売りの女』(周暁文監督、1994年)、『延安の娘』(池谷薫監督、2002年)の四本を選びました。図書館や教室だけが学ぶ場というわけではありません。前の三作品は本学の言語教育研究センターにもありますので、在学中に是非足を運んでみてください。

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大人への道
辻部大介 (フランス文学)
スピノザ『神学・政治論―聖書の批判と言論の自由―』(上・下巻)畠中尚志訳、岩波文庫
 岩波文庫の巻末には、どの一冊にも、「真理は万人によって求められることを自ら欲し、」で始まる発刊の辞が掲げられている。この冒頭の一文を、人は美辞麗句の類として読み流してしまうかもしれない。しかし、真理(と信ぜられるもの)を公にする企てが、古来いかに多くの障碍に出会わなくてはならなかったか、そしてそうした障碍は今なお現実のものでありつづけているということを知れば、この一文にこめられたメッセージの重みを受けとめないわけにはいかないだろう。ここで障碍というのは、時の権力者が民衆を無知蒙昧の状態にとどめるべく意図的に設けるもののみを指すのではない。むしろ、私たち一人一人の側に、現にアクセス可能なものとしてある真実の認識を、拒絶、あるいは敬遠する心理が働くことの方が、より重大であると考えたほうがいい。
 大学生の時期は、精神の発達という観点からいっても、子供から大人へと完全に移行する段階にあたるので、それまで禁じられていた、あるいは、自分にはまだ早いと判断していたようなさまざまな事柄について知ることが、いまや何の制限もなしに許されるようになる。これは逆にいえば、知っているべき物事を、知っているか、それともまだ知らずにいるかという点について、自分自身が責任を負う年齢を迎えるということでもある。知識を、また探究を、知力において勝る他者に安んじて委ねる態度は、子供のものだといわねばならない。カントが「啓蒙とは何か」を定義して、「人が、自分自身のせいでそうなっている未成年状態から出ること」だと述べているのは、生物学的にも社会的にも立派な大人である人々の多くが、肝腎な心構えの点で、じつは子供のままである、という現実を撃つものにほかならないのだ。
 1670年に原著が、そして1944年に(ほかならぬ岩波文庫に収められて)邦訳が刊行されたスピノザの『神学・政治論』は、ここまで述べてきたような意味で、人類が子供時代から大人へと脱皮する重要なステップを刻んだ書物であるということができる。ここには、誰にでもわかることが誰にでもわかるように、ただし、子供にはわからないように書いてある。予備知識は何もいらないかわりに、(ことに現代の日本人たるわれわれにとってはおよそ身近でない話題について、)緻密に組みあげられた論述を時間をかけてたどる意欲を欠く者には、何も語ってくれないことだろう。私自身、大学三年か四年の頃にこの本を読んで大きな感銘を受けたのだが、その感銘には、この本から感銘を受けることのできた自分への満足が、少なからず含まれていたのだった。読む者に努力を要求し、かつ、その努力に報いてくれるこの本を、みずから大人への道を切り開く契機とすべく、ぜひ手にとってみてください。

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チャペックの『園芸家12カ月』
冨重純子 (ドイツ文学)
 チャペックの本はどれもすばらしい。そして何と言っても、『園芸家12カ月』はすばらしい。(『園芸家12カ月』小松太郎訳、中公文庫)
 チャペックは、『ロボット』(このことばを作ったのがチャペック)などの戯曲や小説のほか、ユーモアに満ちたエッセイ、旅行記でも知られるチェコの作家(1890-1938)。「庭をつくるには」から始まり、園芸熱にかかった人間の一年を語るこの本には、なにかに夢中になっている人間の楽しさ、おかしさがぎっしりつまっている。
……もし園芸家がエデンの園へ行ったとしたら、花などかまわずに、鼻をひくひくさせて言うだろう。「これは、これは、神さま、なんというすばらしい堆肥でしょう!」
そして、おそらく知恵の木の果実を食べることさえわすれ、なんとかしてエデンの土を車に一台ちょろまかしていくわけにはいくまいかと、キョロキョロあたりを見わたすにちがいない。でなければ、知恵の木の根もとのまわりに、水肥をやるための溝がなくなっているのに気がつき、頭の上に何がぶらさがっているかも知らずに、さっそく溝を掘りはじめる。
「どこにいる、アダム?」と神さまがよぶ。
「待ってください。いま、ちょっと忙しいんです。」……

 素人園芸家は自分の庭をもっている。したいことは何でもできる。だが、自然法則を変えることはできない。植物を植えている人間は、たしかに保守的になる。法則と習慣に従うようになる。もっとも、別の側面もある。
 素人園芸家は自分の庭をもっている。したいことは何でもできる。だが、北向きの庭を南向きにはできないし、ふつうはありあまる余暇や経済力にも恵まれていない。林達夫は「アマチュアの領域」という文章で、アマチュア園芸家がさまざまな個別具体的な制約のもとで得る、個人的経験の意義について述べている。素人園芸家は、ひとりひとり、他のだれとも異なる条件のもとで、工夫して庭を作るのである。本を読み、人の助言を受けもするが、工夫とその結果は自分の経験であり、同時に、園芸文化に寄与するものにもなる。これは、園芸に限ることではあるまい。
 チャペックは言う。若いうちは、花はボタンホールにさすもの、でなければ女の子に贈るものだと思っている。素人園芸家になるには、ある程度、人間が成熟していないとだめだ。言いかえると、ある程度、おやじらしい年配にならないとだめだ。それではまず、『園芸家12カ月』を読もう。植物が鍬で耕され、肥料をもらい、移植され、挿木に使われ、剪定され、支柱にくくられ、枯れた葉をとってもらい、アブラムシやウドンコ病から保護されているものだということを知り、園芸家がしようと思いつくことや、そこまで手がまわらなくて、結局じっさいにする仕事についてのチャペックの話を聞こう。
チャペックをすすめているのか、園芸をすすめているのか、わからなくなってしまった。

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お気に入りの本
永井太郎 (日本文学)
 新入生向けの読書案内ということで、何かの勉強になるとか、大学生として読んでおくべきといった本を紹介しようかとも思ったのですが、やめました。これからあげるのは、僕が読んで、個人的に面白かったという、お気に入りの作品です。完全な趣味です。傾向が少し偏っているので、万人向けとはいきませんが、良かったら本屋や図書館で手にとってみてください。

H・G・ウエルズ『タイムマシン』(創元推理文庫)
 最近少し古いエンタテイメントにこっているのですが、中でもウエルズの作品は今読んでも十分に面白いと思います。「タイムマシン」という言葉はもう常識ですが、このアイデアをはじめて作品化したウエルズの小説を、実際に読むことはなかなかありません。読んでみると、持っていたイメージとは違いがあって、逆に新鮮に感じられます。集中の「塀についたドア」や「水晶の卵」なども名作です。

ロバート・マキャモン 『少年時代』上・下(ヴィレッジブックス)
 時代は飛んで、いきなり現代作家です。マキャモンは、もとはスティーヴン・キングなどと同じホラー作家でしたが、この本はホラーではありません。一人の少年の一年の経験を描いた成長小説です。しかし、ただ成長小説というだけでなく、ホラーやファンタジーやミステリーなどの要素が詰まった、実に魅力的な小説です。久しぶりにページをめくる手がもどかしいという経験をしました。

日影丈吉「猫の泉」(『日本怪奇小説傑作集2』(創元推理文庫)、『怪奇探偵小説名作選8日影丈吉集』(ちくま文庫)などに所収)
 日影丈吉という名はまず知らないと思います。ミステリー作家であり、幻想文学でも優れた作品を数多く残しました。あげたのは彼の代表作の一つで、南仏の谷間の町を舞台にした、静かな怪異譚です。他にも、同傾向の幻想的な短編としては、「かむなぎうた」や「吉備津の釜」、「吸血鬼」などが有名です。

澁澤龍彦 『夢の宇宙誌』(河出文庫)
 西洋の怪しい知識を紹介したエッセイ集です。本を開くと、アンドロギュヌスやホムンクルスや自動人形といった楽しげな言葉が飛び交っています。かつて澁澤龍彦の本は、こうした話題についての定番だったのですが、今でも読まれているのでしょうか。そう思って、あげてみました。この本以外にも、『黒魔術の手帖』など、澁澤龍彦の本はいくつも文庫で出ているので、探してみて下さい。

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社会・人間の認識
平兮元章 (社会学)
大塚久雄著『社会科学の方法 ― ヴェーバーとマルクス ― 』(岩波新書 青版 B-62)
大塚久雄著『社会科学における人間』(岩波新書 黄版11)
内田義彦著『社会認識の歩み』(岩波新書 青版 B-63)
内田義彦著『資本論の世界』(岩波新書 青版 B-69)

 今日の社会社会科学における学問的状況を瞥見するならば、一方に大学生の間に広く見られる学問的アパシーの進行があり、他方に研究者個々人の学問的テリトリーへの固執と埋没の進行がある。一種の学問的閉塞状況にあるといえよう。
 社会科学の重要な対象の一つに人間関係がある。現実の生活の中で人と人の関係が希薄になり、社会関係のもつ意味が低減すれば、学問自体も魅力のないものに映ってしまう。さらに社会問題について考えることを回避すればなお社会科学は不必要なものに思えてしまう。しかし、学生諸君がやがて競争と効率の世界で生きて行かなければならないのも現実である。私はここ数年来、人間の心の摩滅を防ぐためにも社会を把握する学問としての社会科学は復権しなければならないと思ってきた。
 われわれが今為し得ることは、近代社会科学の原点に立ち返って、マキャヴェリ、ホッブス、ルソー、スミス、マルクス、ヴェーバーら社会科学上の過去の遺産を現代に生かす途を模索することである。そして、社会を見る眼をどう養っていけばよいか、学問の総合化をどのように考えればよいか、社会秩序はいかにして可能か、等の事柄を深く再考しなければならない。そのためにも上記の4冊を読むことを推奨したい。そのうえで、これらの文献にでてくる原典に再びあたって熟考することを勧める。 (付録) 近代の幕開け前夜の啓蒙主義思想に触れておくことは、人文科学、社会科学を学ぶ者にとって必要なことである。J.J.ルソーの『告白』(岩波文庫、上・中・下、青622-8、9、0)を勧める。この文献は、文学のジャンルに分類されているが、その辺のベストセラー本よりはるかに面白く、考えさせられる。社会科学上の名著で同じルソーの『人間不平等起源論』(岩波文庫)、『エミール』(岩波文庫)との関連において書かれているのは明らかであり、かの「自然」あるいは「自然人」について考察するときに欠かせない文献でもある。

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〈人間学〉のススメ
馬本誠也 (イギリス文学)
1. 内村鑑三『後世への最大遺物』(『世界教養全集9』平凡社刊行、1962)
 物質主義や自己中心主義が横行している今の時代に、このような書物を紹介すること自体、アナクロニズムの誹りを免れないかもしれない。だが、この本を読み、わたしは久しぶりに本当の日本人に触れた思いがした。「生きる」ことの意味やこの世に生きる使命感を、彼ほど純粋な力強い言葉で語れる人は、そう多くないはずだ。ここに示されている幾つかの生き方は、おそらく真蟄に自分の人生を模索している青年の魂に深く訴えてくるのではなかろうか。
 わたしは、総ての学生にこの書物を推薦しようとは、思わない。実際、この本を読み、そのあら捜しをしようと思えば、簡単に出来るだろう。しかし、人文学部に籍をおく学生であれば、内村鑑三のような高い志を持った日本人の声に、ぜひ謙虚に耳を傾けて欲しい。「文化」の意味や外国語を学ぶ素晴らしさが、すべて、ここには語られている。
 この書物は、すでに過去数年にわたって紹介しているが、今日の時勢を考えると、どうしてもいまの若い人に伝えたい書物の一つである。これは、約百年前に当時の青年たちを前にして行った講演である。その中で、内村鑑三は、こう言っている。
 「我々は何をこの世に遺して逝こうか。金か。事業か。思想か。これいずれも遺すに価値のあるものである。しかし、これは何人にも遺すことのできるものではない。……何人にも遺すことのできる本当の最大遺物は何であるか。それは勇ましい高尚なる生涯である」
2. 吉田健一『英国の文学』(岩波文庫)
 大学に入学して、これから何を勉強していこうかと漫然と思っていたとき、たまたま読んだのがこの書物であった。イギリス及びイギリス人の風土や文学をこれほど見事に語った書物は、そうないと思う。私がイギリス文学を専攻したのも、この書物に触れ、その感動を少しでも追体験したいという気持ちに駆られたからであった。爾来、私の本棚から、この書物は消えたことがない。重厚な文体で語られるシェイクスピアの解説、中でもソネットや「ハムレット」のくだりは、白眉と言って良い。この書物については、多言を労する必要はないと思う。先ず、手にとって読んでみることだ。
3. ジャパンタイムズ編『ライブ・フロム・ロンドン』(ジャパンタイムズ社)
 これは、CDつきの実用書である。つまり、ナマのイギリス英語を現地で録音したものをそのまま本にしたのである。行き帰りの通勤電車やバスの中で、目を閉じてウォークマンで聴いているだけで、気持ちはすでにロンドンに飛んでいる。不思議な感覚だ。このCDを聴いて思うことは、イギリス人だって、ときには言い間違えたり、文法的に正しくない英語を発していることがある、ということだ。私たちは、英語を話すことを、何も恐れることはない。片言でも、先ず笑顔で話してみることだ。教科書的な英語にばかり触れていると、いつまで経っても、ある種の硬さから抜け出せない。ときには、プールから離れて川の流れに身を置いてみることも必要だと思う。昨年、講義でも紹介したが、実際にCDを聴いた学生は、「先生、まるで自分がイギリスに行って来たような気になりました」と、いずれも目を輝かせながら語ってくれた。

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カネにならないものの価値
道行啓爾 (イギリス文学)
宇根豊著『国民のための百姓学』(家の光協会)
 「金銭の欲は、すべての悪の根」(『聖書』「テモテへの手紙一」6章10節)とあるように、お金には負の側面があります。
 人間が発明したもののなかで、至極ありがたく、またいちばん厄介なものは「お金」でしょう。思えばカネにまつわる話題がいつも世をにぎわせています。この文を書いている時点での三大ニュース―耐震偽装、ライブドア疑惑、米牛肉脊柱混入―はいずれも、お金のために道をあやまったことによって生じたものでしょう。悪徳商法や詐欺・脅し・忌まわしい保険金殺人など悪事が横行し、社会は狂ってしまっています。お金は諸悪の根源になりさがってしまった感があります。もちろん悪いのはお金ではなく、人間のほうですね。
 現代社会が陥っている困難な状況―紛争、食料、環境、エネルギー、貧富格差等の問題―から脱却するにはお金儲けをよしとする「常識」ははたして通用するのでしょうか。いつまでも金中心の世の常識にしがみついていると金と心中してしまうことになりはしまいか。心底心配です。
 そうならないためには、新たな「まなざし」が必要だと思います。つまり、カネにならないものに価値を見出す思想に耳を傾けてほしいのです。金銭主義に傾斜した価値観を問い直し、カネで評価できないものにこそ、おおきなめぐみが隠されていることを著者は伝えようとしています。(誤解しないでください。著者は修身の先生ではないから、禁欲主義を説いているのではありません。)「めぐみ」とは、いきがい、幸福感、満足感をあたえてくれるもののようです。ご自分で読んで、本当のところを理解してください。
 「カネになるものだけが生産ではない」との著者のことばを、あなたはどう受けとめますか?

追記―知らないひともいるかもしれないから、付け加えておくと、この著者にわれわれ全国民は知らずしてこの上もない恩恵をうけているのですよ。この人による『減農薬のイネつくり』他、多くの著作と働きかけによって、全国で農薬使用が激減したのです。その結果、環境汚染が軽減され、人間をふくむ生きとし生けるものすべてが被ったであろう甚大な被害が回避されたのです。

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『きみが読む物語』
毛利潔 (フランス文学)
 最近(2005年2月)の週刊誌に「おじさんだって泣きたい映画!『きみに読む物語』(2004米)」という記事がありました。それに倣って、今回のタイトルを『きみが読む物語』としました。
 では、どんな物語なのか?
世界には無数の物語があって、そのどれかを、明確に、ひとつの《物語》として、意識して読むことができれば、それが誰にとっても、それが自分の物語になることははっきりしています。
 しかし、どんな物語なのか・・・?
 たしかに、この世界は様々な出来事に満ち溢れ、ほとんどすべてが謎に埋め尽くされた世界のようです。しかし、本当のところ、この世界はただ、古今の哲学が語るように、静かに風だけが吹いているだけの世界かも知れない、と考えることができるかも知れません。このような風景を描写できる小説が、もし、あるとすれば、たぶんそれが、「究極の小説」だと言うことができます。これまで、そのような小説を書くことのできた小説家は一人もいないからです。ただ、それに近い世界に接近できた作家は何人かはいることは確かです。
 その一人がトルーマン・カポーティ。
1『ティファニーで朝食を』 2『草の竪琴』 3『遠い声 遠い部屋』
(1、2は映画化されています)
 カポーティとは、では、どんな作家なのか? それは、いずれ分かります。ただ、私としては、カポーティに関しては、一つしか言うべきことはありません。それは、彼がこの世界に一番近い作家だ、ということです。
 たとえば、『ティファニーで朝食を』の中で、ヒロインが作家志望の青年の小説の習作をコメントして、「あんたの物語には(中略)ただ、木の葉のそよぎがあるだけ」というようなことを言う部分があります。つまり、この作品には、木の葉のそよぐ風の描写しかない、という訳です。
 こんな風に、何にも事件が起こらない、ただ、風が吹くだけ・・・こんな世界が本当に面白いのだろうか、ただ、うざったいだけかも知れない、と考える新入生の方には、とりあえず、村上春樹さんの小説をお勧めします。(ただし、『羊の歌』までの初期群の作品に限ります)。とりわけ、デビュー作の、その名もズバリ、『風の歌を聴け』です。
 おそらく、はじめは、何も分からないかも知れません。しかし、私たちが理解しなければならないことは、ひょっとしたら、そのような世界があるのかも知れない、という、普段は見えない世界を意識することではないか、と思っています。
 村上春樹を通して、カポーティが何となく分かった、となれば、後は皆さんの自由です。
 いきなり、オカルトとかポルノの世界に入っても構いません。キーワードはちゃんと掴んでいるからです。

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歴史と文学との垣根をとり払おう
森茂暁 (日本史)
福田秀一・岩佐美代子・川添昭二他校注
新日本古典文学大系『中世日記紀行集』(岩波書店)

 創造的な人生を送るには、柔軟な頭脳と大胆な発想とがまず必要でしょう。身近なことでは、たとえば卒業論文のテーマ探しや執筆のさい、このことは決定的に重要です。常日頃から固定的な物の考え方をしないで、自分の頭で物事をのびのびと考えてみましょう。ここでは、文学の史料は歴史の史料として充分に活用できるということを述べます。
 例えば、鎌倉初期成立の『平家物語』、鎌倉末期成立の『徒然草(つれづれぐさ)』、南北朝末期成立の『太平記』などは、高等学校の段階まではいずれも文学作品として扱われ、古典の時間に読まれます。しかし、このような作品は同時代の歴史を知るための史料として極めて有用で、価値の高いものです。今度は歴史の史料として再読しましょう。むろん原文で。この場合肝心なのは、一部分ではなく全部を読み通おすことです。きっと感動が湧きおこります。古典のもつ不思議な力です。
 さて、冒頭にあげた書物はそれに類するものです。日本中世の紀行文(旅行記)が多く収められています。中世日本人の旅行意欲をかきたてたのは(すべてが単なる旅行ではありませんが)、十四世紀の南北朝の動乱を通した人々の地理的視野の広がりだと筆者は考えていますが、この動乱を契機に国内を旅する人が増えてきます。そのようななかで、紀行文が書かれるわけです。それらは主として国文学のジャンルで研究の素材となってきましたが、歴史の方ではほとんど無関心です。
 このような紀行文が、どのような意味で歴史研究に有用かというと、たとえば、阿仏尼(あぶつに)の「十六夜日記(いざよいにっき)」は、十三世紀後半(鎌倉時代)の所領訴訟関係史料としてはもとより、東海道(京都と鎌倉をつなぐ基幹道路)の交通史の史料としても使えますし、また、連歌師宗祗(そうぎ)の「筑紫道記(つくしみちのき)」は、十五世紀後半(室町時代)の筑前・豊前国 (福岡県)、特に博多の人々の生活や周辺の景観をくっきりと描き出しています。一例をあげますと、筥崎宮(はこざきぐう)を訪れた宗祗(そうぎ)は博多湾をへだてて、夕日のなかの可也(かや)山(福岡県糸島郡志摩町)をながめ、「富士に似たる山」と感慨深げに書き留めています。同記は、大内氏研究のための史料としても貴重です。
 同書では丁寧な脚注や解説が施されていますので、容易に読み進むことができます。さあ、実際この本を手にとって、読んでみましょう。

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日本人の自己主張のための英語学習(その二)
山内正一 (イギリス文学)
藤原正彦『国家の品格』新潮新書 2005年
泉三郎『堂々たる日本人』祥伝社黄金文庫 2004年
斎藤兆史『英語達人列伝』中公新書 2000年

 「膨大な時間とお金をかけながら、日本人の英語学習ほど成果の上がらないものはない、とは巷間でよく言われることです」と、私は昨年度の『NOVIS』の原稿を書き始めています。本年度も同じ問題をめぐって、さらに所見を述べてみたくなりました。きっかけは、数学者、藤原正彦氏の「英語と国際人に直接の関係はない」(『国家の品格』143 頁)という、刺激的なことばとの出会いにあります。有名な作家を両親に持ち、自らも優れたエッセイストである氏は、アメリカやイギリスでの研究生活が長く、文理両系に跨って活躍している「国際人」です。その「国際人」の口から出たことばですから、聞き捨てにできません。藤原氏によれば、「国際人」とは「世界に出て、人間として敬意を表されるような人」です。したがって、藤原氏の論法に則って言えば、英語(外国語)ができる、話せる、という事実はその人が国際社会で尊敬される人であることをなんら保証しない、ということになります。ここでまた「なぜ日本人は、何を目的に、英語学習に血道を上げるの」かという、あの昨年も触れた問題が浮かび上がってくるのです。
 氏は「公立小学校のカリキュラムに英語を入れてはいけない」とも主張します。その理由は次のようなものです―「少なくとも一つの言語で十割の力がないと、人間としてのまともな思考ができません。言語と思考はほとんど同じものだからです。日本の公立小学校は一人前の日本人を作る教育機関ですから、英語はダメなのです。」(145頁)氏が「国際人」の必須条件として〈人間としてのまともな思考ができること〉を考えておられることは言うまでもありません。そして、氏によれば、思考は「言語とほとんど同じもの」なのです。私たちは、言語を用いずしては、頭の中で一つの理屈も論理も組み立てることができません。つまり、言語が思考を支配しているのです。昨年の『NOVIS』で紹介した渡部昇一氏の言葉「日本人は日本語の中に生まれるのであって、単に意思伝達の道具として日本語を学ぶのではないのである。われわれは自然界にある桜花の美がわかる前に、日本語の中にまず桜花の美を見るのだ」は、まさに〈人の思考と言語が同じものである〉ことを述べていたのです。
 私は小学校で英語を教えることに必ずしも反対ではありませんが、教育の力点の置き場所を間違えるようなことがあれば(英語教育のために国語教育がいささかでも疎かになるようなことがあれば)、反対もやむなしと思います。義務教育レベルの言語教育は〈日本人として一人前の思考ができる人間をつくること〉を目的とすべきだ、と考えるからです。国際経験豊かな藤原氏の所説「少なくとも一つの言語で十割の力がないと、人間としてのまともな思考ができません」には、強い説得力があります。母語以外の言葉 ―私の場合は英語ですが―で思考するとき、私はときに自分が十二歳程度の子供に戻った気がすることがあります(日本語で思考するときは大人なのに)。そこで不安が私の胸をよぎります―「幼少期からの英語教育によって日本語も英語も中途半端という人間が量産される事態になったとき、まともな思考能力を備えた日本人がはたしてどのくらい生まれるだろうか」という不安が。
 日本語教育を疎かにする体の英語教育は本末転倒です。しかし、この急速かつ大規模な国際化の時代に英語教育自体が疎かにされて良い訳がありません。英語教育はたしかに必要です。ただ、その際に忘れてはならないことがあります。それは、〈日本語で言えないこと(日頃頭に無いこと)は外国語でも言えない〉ということです。主張する中身が無ければ、たとえ何語を使おうとも、自己主張できるはずがありません。英語(外国語)を学習する一方で、日本の習慣や伝統や文化について日本語で深く強く思考するプロセスを絶対に抜かしてはいけません。それこそが真の「国際人」になる唯一のみちだからです。
 他の二冊の本『堂々たる日本人』と『英語達人列伝』は、日本語や日本文化を拠り所に、世界に通用する国際人として活躍した日本人の事績を紹介する本です。前者は、明治初期に一年九ヶ月余りをかけて欧米十四カ国を視察した岩倉(具視)使節団の行動記録です。著者はこの旅を称して「比較文明の大研修パノラマ旅行」と呼びます。この旅の主役である日本人たちは、欧米各地で人々の賞賛の的となります。一体何が彼らを「颯爽」たる日本人たらしめたのか、それを明らかにするのがこの本の狙いです。著者がこの問に与えた答は、当時の日本人使節団の「使命感」と「教養」です。彼らの「教養」に関連して、語学学習にも触れる一節を引けば―「(漢書の)素読の繰り返しによるその学習方法は勢い熟読玩味して血肉にいたることになり、大事なところは暗記してしまうまで習うところに、身に着いた真の教養というべきものになっていくプロセスが読みとれる」ということです。後者は、東大で英語・英文学を教えておられる斎藤氏の、次のような思いから生まれた本です―「教育上の関心から日本英学の歴史などを調べているとき、かつての日本には僕など足元にも及ばぬ英語の使い手がいたことを知った。彼らは基本的に日本にいながらにして英米人も舌を巻くほどの英語力を身につけ、けっして西洋かぶれになることなく、日本と外国との橋渡し的な役割を演じた。彼らの活躍ぶりを見るかぎり、日本人は本質的に英語が苦手だという通念などまったく信じるに足らぬものだと思う。ただし、残念なことに、日本の英語教育において彼らの英語学習法が研究されたことはほとんどない。」このような止むに止まれぬ思いから生まれた本書の一読を皆さんに勧めます。
 前節で紹介した二人の著者が共通して推奨する外国語学習法に触れておきます。それは一言で言えば「素読」を重視する方法です。内容(中身)の有る文章を、完全に暗記してしまうまで何度も繰り返し音読すること。日本人が、基本的に日本にいながら、日本人として自己主張できる水準の外国語を修得するにはこれが最良の方法である、との結論が導き出されます。この結論に賛成する人も反対する人も、手にとってみるに値する二冊です。
 最後は再び藤原氏のことばで締め括ることにいたしましょう。これは私が、そして恐らくは『堂々たる日本人』と『英語達人列伝』の著者も、同感とすることばです―「真の国際人には外国語は関係ない。多くの日本人が海外に留学しました。彼らの殆どが下級武士の息子でした。福沢諭吉、新渡戸稲造、内村鑑三、岡倉天心と、みな下級武士の息子です。(段落)彼らの多くは、欧米に出向いていって、賞賛を受けて帰って来る。(中略、段落)彼らの身につけていたものは何か。まず日本の古典をきちんと読んでいた。それから漢籍、すなわち漢文をよく読んでいた。そして武士道精神をしっかり身に付けていた。この三つで尊敬されて帰って来たのです。美しい情緒と形で武装していたわけです。(中略、段落)日本人は日本人のように思い、考え、行動して初めて国際社会の場で価値を持つ。」心に留めておきたいことばです。

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義挙
山縣浩 (日本語史)
 人文科学において大切な姿勢の一つが人に対して限りない興味・関心を抱くことではないでしょうか。このとき、その人が歴史上の人物である場合、教科書に記されているような人だけでなく、今日殆ど知られていない人にも目を向けてください。ただならぬ時代・地域に生まれ合わせたため、しかるべき身分・地位でないにもかかわらず、歴史の表舞台に登場した普通の人が少なくないことが分かってきます。

神山征二郎監督・映画「草の乱」(出演 緒形直人・藤谷美紀・杉本哲太・田中好子・林隆三他)
浅見好夫(1990)『秩父事件史』(言叢社)
井上幸治(1994)『完本 秩父事件』(藤原書店)
井出孫六(1995)『平凡社ライブラリー峠の廃道秩父困民党紀行』(平凡社)
中嶋幸三(2000)『井上伝蔵 秩父事件と俳句』(邑書林)
秩父事件研究顕彰協議会(2004)『秩父事件 圧制ヲ変ジテ自由ノ世界ヲ』(新日本出版社)

 映画「草の乱」は、秩父事件120周年記念作品として制作され、2004年秋から全国で公開されました。
 1884年10月31日埼玉県秩父地方で起きた「秩父事件」は、自由民権運動の一つとして語られます。しかし、出発点は、高岸善吉・坂本宗作・落合寅市という養蚕を生業とする農民たちが負債に苦しむ仲間たちを助けたい一心で行った高利貸しへの借金据え置きなどの交渉や郡役所・警察署への高利貸し説諭の誓願運動にあります。当時秩父地方の農民たちは、財政安定化のためのデフレ政策に伴う生糸価格の暴落と軍備拡張のための増税によって違法な高利を承知で借金をせざるを得ませんでした。その結果、「身代限(破産)」に追い込まれ、自殺・夜逃げが続出していたのです。その後、運動は、秩父困民党の幹部となる、民権運動に接した地域の知識層・中農層へと広がっていきます。しかし、平和的な交渉・誓願は無視されつづけ、散発的な衝突を経て、下吉田村の椋神社に約 3000人もの農民が集結して、本格的な蜂起に至ります。その後、11月4日に本陣が解体するまで、秩父地方を明治政府の力の及ばない状態にし、当時警察権力の中枢にあった山県有朋を震撼させました。
 鎮圧された後、事件は無頼の輩に煽動された「暴動」と見なされ、参加者は「暴徒」と呼ばれました。しかし、困民党は借金の返済延期や諸税の軽減など、生活に基づいた要求を掲げ、蜂起後も厳しい軍律を定めるなど、「暴動・暴徒」にはほど遠い秩序と統制の取れたものだったのです。勿論、結果だけを見れば、警察関係者に死傷者を出し、高利貸しに焼き討ちをかけ、打ち壊しをした訳で、参加者が処罰されるのは当然のことでしょう。ただ、解消不可能な不公平が存在し、弱者が理不尽に虐げられる社会で話し合いを求める声が悉く拒否され、今後の生活に全く見通しのない状態に追い込まれた農民たちを考えれば、蜂起を押し止めることは出来なかったのです。結果の違法性だけを取り立て、それに至らざるを得なかった背景を考えずに糾弾するのは、持てる側・勝者の側の論理です。事実明治政府は事件の背景が明らかになることを恐れ、異例の早さで裁判を進めて主要な幹部は逮捕後6ヶ月内外で処刑されました。
 勿論、幹部たちは相応の覚悟をして蜂起に踏み切ったのです。例えば、最初から運動に関わり、本陣解体後も一隊と上州・山中谷から十石峠を越え、信州・野辺山で散開するまで従った坂本宗作は、白鉢巻きに「悟山道宗居士」という戒名を記していたと言われます。事件に関わらなければ、鍛冶屋も営む養蚕農民として今日に名を伝えられることなく静かな生涯を送っていたことでしょう。
 映画「草の乱」は、困民党で会計長を務めた井上伝蔵(緒形直人)の視点から事件を描いたものです。伝蔵は商家の当主でありながら、農民たちの窮状を救おうと運動に参加します。事件後は身を隠し、死刑判決を受けながらも北海道に渡って伊藤房次郎と名を替え、65歳で生涯を終えます。今日「柳蛙(りゅうあ)」という俳号で作った俳句によって北海道での足跡を辿ることが出来ます。
 映画は伝蔵が晩年に事件を振り返るという形で進行します。約120分の限られた時間内に事件の背景から蜂起、解体までが史実に即して描いてあります。勿論、史料にない映画故の見せ場も少なくありません。
 請われて総理に就く田代栄助(林隆三)が妻にさりげなく蜂起への参加を語ったり、副総理を務めた加藤織平(杉本哲太)が出発前に息子を見詰めて後を託したりする場面は胸に迫るものがあります。また落合寅市(安藤一夫)は粥仁田峠で警察隊に木砲を打ち込み、不敵な笑いを浮かべて撤退します。仲間の離脱や敗退に無念を滲ませる高岸善吉(田中実)や坂本宗作(神山兼三)と対照的な姿は、刑に服して帰郷した後、参加者の復権のため建碑運動を進めるその後の生涯を暗示しているようで、何かホッとします。
 そして、主人公・井上伝蔵の妻(藤谷美紀)や幼い子との分かれの場面も感動的ですが、一番の見せ場は最後の場面でしょう。
 北海道・野付牛(現北見市)で写真屋が伝蔵の家に駆け込むところから始まります。臨終数時間前死の床にある伝蔵が妻子に囲まれて写真を撮るシーンです。数日前死期を悟った伝蔵は北海道で迎えた妻(田中好子)らに自らの正体を明かし、事件の本当の姿を後世に正しく伝えることを託しています。そして、映画の中での撮影シーンは、現存する伝蔵最後の写真に重なります。
 この写真は、中嶋(2000)など、近年出版された文献で見ることが出来ます。しかし、それまで伝蔵の姿は蜂起前の20代の写真―面長の美男で、商家の若旦那風の羽織姿―くらいでしか見ることが出来ませんでした。私がこの写真に出会ったのは1994年9月30日秩父郡吉田町(現秩父市)の古びた歴史民俗資料館の一室です。覚え知った若い頃の面影はありません。死の間近さは明らかです。しかし、真っ直ぐこちらを見据える視線は鋭く、暫く声が出ませんでした。その眼差しは、蜂起は「義挙(多くの人を救う目的で個人的な利害・打算を抜きにしてする計画・行動『新明解国語辞典』)」であり、参加者は「暴徒」ではなく、「国事犯(政治犯)」として裁かれるべきだったと訴えています。

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暗黒界を往(ゆ)く
山田英二 (英語学)
推薦図書 立花隆著 『宇宙からの帰還』(中央公論社、1983年)
 「プルート」は、ミッキーマウスの黒い忠犬の名であり、また、エドガー・アラン・ポウがあの恐るべき「黒猫」につけた名前だ。Pluto、「冥界の王」を意味するこの名を持つ惑星は、冥王星である。雑誌 TIME(2006年1月16日号)によると、冥王星とその衛星 Charon(カロン)は、二つ並べるとアメリカ合衆国内にすっぽり収まるほどの小さな星だ。
 2006年1月、NASA は地球から四九億キロ離れたこの星へ十年かけて到達すべく無人探査機ニューホライズンズを打ち上げた。太陽光がほとんど届かない暗黒の世界を旅するため、太陽電池に代わるPlutonium(プルトニウム)電池を積み、新幹線のおよそ三百倍の早さで進むという。我々が住む地球にも、未知の世界はあるのだが、果たして冥王星の先はどうなっているのだろう。
 宇宙の謎には果てがない。しかし人はそれに挑み続けている。例えば ISS と呼ばれる国際宇宙ステーション内部では、国家や男性、女性の区別なくスタッフが協力しあって実験を行っている。2005年の夏に野口聡一さんもここで一週間を過ごした。
 彼らのように、選ばれた宇宙飛行士だけが、宇宙から肉眼で地球を見ることができる。そうした飛行士達の生の声を集めたものが『宇宙からの帰還』という本である。赤裸々に語られる宇宙での体験やその折々の感情が、ひたひたと胸を打つ。次に挙げるのは月に二度着陸した男、ジーン・サーナンの言葉である。
 「地球を離れるに従って、大陸や大洋が一目で見渡せるようになり、やがて、地球の球体としての輪郭が見えてくる。世界が一目で見える。全人類が私の視野の中に入ってしまう。目の前の青と白の球体の上で、世界で起きている全てのことが現にいま起きているのだと思うと何とも感動的だ。しかも地球の上で時間が流れていくさまが目で見える。夜明けの地域と日没の地域が同時に見え、地球が回転し、時間が流れて行くさまを観察することができる。それはまさに神の眼で世界を見ることだ。生きた世界が刻一刻と私の目の前でその生を展開しつつある。(中略)写真で地球を見ても地球しか見えないのに、現実には地球を見るとき同時に地球の向こう側が見えるのだ。地球の向こう側は何もない暗黒だ。真の暗黒だ。その黒さ。その黒さの持つ深みが、それを見たことがない人には、絶対に想像することができない。あの暗黒の深さは、地上の何ものをもってしても再現することはできないだろう。あの暗黒を見たときにはじめて、人間は空間の無限の広がりと時間の無限の連なりを共に実感できる。永遠というものを実感できる。永遠の闇の中で太陽が輝き、その太陽の光を受けて青と白に彩られた地球が輝いている美しさ。これは写真では表現できない。」
 米ソの熾烈な宇宙開発競争の時代をとうに過ぎ、今や、乗用車規模のニューホライズンズが、人類最後の太陽系未探査惑星へとひた走っているのである。冥王星到着後は三個の衛星を含むデータを地球に送る。その後、近辺領域にも探査を広げる予定で、ハワイにある日本のすばる望遠鏡が協力することになっているそうだ。
 宇宙関連事業にはつねに危険や失敗が伴う。巨額の無駄遣いだという批判も絶えない。しかし冥王の名にちなむプルトニウムを軍事利用するより、それを動力として永遠の闇を往く無人の宇宙船には、少なくとも、明日への夢がある。

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大嶋先生の著書
山田洋嗣 (日本文学)
大嶋仁『精神分析の都 ブエノス・アイレス幻視』
『表層意識の都 パリ1991―1995』
 大嶋さんは散歩をする。大嶋さんは喫茶店が好きだ。旅をしても自分の街でもまず喫茶店に行き、本を開いたり話をしたりする。喫茶店は「括弧」か「句読点」のようなもので、全体から切取られた一画でありながら、一つの喫茶店はその街を集約しており、その外には街が広がって、そこから街を感じることができる。大嶋さんは人と人の作り出したものの中に身を置くのが好きなのだ。しかも外に侵されずきちんと自分自身を保持して、感じ、考える。これらはそうしてできた本である。こういう人は本質的に見る人である。そして、見ることは愛することだ。ここにはこの二つの都に住んで得た見聞と体験、そこから感じ、考えたことが書かれている。パリの方の初めに「サルタンバンク」という前書きがある。旅芸人のことだそうである。
 この言葉はこの二冊の本質を表す言葉だ。大嶋さんは外国に出て日本文化を講じていたこの期間を旅芸人のようなものと思ったという。本当の芸人の芸はすでに彼の肉体そのものになっていて、改めて特別な意志を必要としない彼の自然である。芸人は自然の中にいて旅をしつつ芸を見せる。では、芸人は見られるのであるか。そうではない、彼は旅をしつつ芸を通して旅と観客を見るのである。読んでいくと、随所にきちんと見える目を持った一個の精神の動きというものを感じるであろう。それとも散歩する精神か。読者はこの目が教える、パリとは、ブエノス・アイレスとは何か、あるいは精神、文化、人間とは何か、といったものを「ひとつの記録」として読み取ることができる。だが、実は、このきちんと見える目を持った精神の見事なふくよかさを味わうのがこの二冊を読む妙味である。そして我々を幸福にするのは、文章の底に漂う甘すぎない透明な叙情だ。名文である。それは、ブエノス・アイレスの口絵にある、チュウスカというマラーノの画家の絵「ブエノス・アイレス・ブルース」ともよく見合っている。
 幸福といえば、大嶋さんは今、唐津の街と福岡の街を歩いている。このキャンパスも歩いている。このことも嬉しいこととして書き添えておかなければならない。大嶋さんと一緒に喫茶店に入ることもできるのだから。

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数えられない、金で買えない、書き表わせない…
山中博心 (ドイツ文学)
谷川俊太郎『愛のパンセ』(新風舎文庫)
 この本が最初に出版されたのは今から50年前(1957年)ですが、その中身は今でも新鮮さを失ってはいません。詩人谷川俊太郎氏の出発点であり、氏の生き方の基本であると思います。その中から私が気になっている箇所を二つほど、抜き書きしてみます。「生きているということと、生活しているということとの相違をもっともてっとりばやく云えば、前者を非人間的、後者を人間的と云って差しつかえないだろうと僕は思う。生きるとは、コスモスの中に生きることだ。だが生活するとは、人間の社会の中に生きることだ…。」「初めに沈黙があった。言葉はその後できた。今でもその順序に変わりはない。言葉はあとからくるものだ。」

西垣通『情報学的転回』(春秋社)
 西垣氏はこの本の中で情報を3つに分けています。命に関わる「生命情報」、人間社会の中で意味を持つ「社会情報」、社会情報の中で記号表現だけを独立させた「機械情報」です。この最後の「機械情報」が現在あまりにも巨大になり様々な社会問題を生み出しています。コンピューターのオーソリティーがそうした社会への一つの警告として次のようなことをいっています。
生命情報から社会情報を抽出する時、「何か恐いな」という感じがするときがあります。幼い子供は常にそういうものにドライブされている。余剰が生む無意識のようなものですね。大人になってくると理性的になって、合理的な世界ができてくると思い込もうとするのですが、その解釈の編み目は決して絶対的なものではないわけです。
 ふと気づくと、何か自分を超えたもの、自分の力ではない統御不能のものがある、そう思わせられます。人間は、世界はこうできているのだと、信じて、先回りして予測し、計画的に暮らしています。ところが、どうもこれは違うと気付く。予測が外れるわけです。
 太古であれば、森の中にはいろいろな精霊(スピリッツ)みたいなものが蠢いているんじゃないか。それが力を持っているんじゃないか。あの人にはどうやら精霊が宿っているんじゃないか。それに対して我々は恭順するか、少なくとも仲良くしていかなければいけないんじゃないか。そんなことを考えはじめるわけです。
ここに「聖性」というものが出てくるのです。

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考える力のために―パスカル『パンセ』のすすめ―
輪田裕 (フランス文学)
 世はIT時代。情報を手にいれるための道具はますます便利になって、音楽も、かつてのカセットテープのためのウォークマンなど全く比較にならないほど、音質も容量もすぐれた機器が出現しています。昔の話ですが、LPレコードで音楽を楽しんでいた私には、針が飛ばないように身動きにも気をつけながら耳を澄ましていたころのほうが、今よりも音楽を聴いたという実感があったような気がします。語学も、いまや電子辞書でらくらく単語をひくことができます。でも便利になって語学は上達したのでしょうか。確かに同じ労力をはらっていれば、かつて以上に上達しているに違いないのですが。
 さて、ここに紹介するパスカルの『パンセ』は文庫本に収まるほどの量にすぎません。それも断片の寄せ集めなので最初から最後まで通して読むことが求められるものではありません。一つの断片は、短いものなら数秒で、長いものでも15分もあれば終わる長さです。その断片のどこから読んでもいいし、どこで終わってもいい。仮に意味を取り違えてしまっても、誤解も一つの読み方なのだと思わせてくれる一冊です。では、気楽な随筆なのかといえばそうではない。簡単に分かってしまうものは少ない。何度も読み返すこと、行ったり来たりすること、さまようこと、そうしているうちに少しずつ理解できてくる。はっとする言葉に出会ったり、反発を感じたり、つまり「こころ」に何かがひびくとき、それがパスカルの声が直接聞こえたときです。
 考える力、などというといかにも論理的思考を意味しているように思うかもしれませんが、実は「さまようこと」なのではないか、と思います。あるいはそのように「さまよう力」といってもいいでしょう。さまようのは手引きとしてのマニュアルがないからです。わたしたちの生きる世界にはマニュアルはありません。たとえマニュアルがあったとしても、それはすでに「今」には通用しないものです。「今」を生きるためには、さまよいながら自分で作るマニュアルが必要です。つまり、自前のマニュアルです。
『パンセ』を読み、自前のマニュアルを作ることができるように、さまよう力をつけませんか?

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II.探索の勧め

Ⅱ. 探索の勧め
古本屋に行こう
関口浩喜 (哲学)
 福岡市内にはかなり良い古本屋が、かなりの数、揃っている(注1)。思いつくままに挙げても、六本松には葦書房、三和書房、天導書店、鳥飼には出島書店、薬院には幻邑堂、唐人町には田中書店、赤坂にはバンド・ワゴン、大名には入江書店と痛快洞、荒江には太陽書房と、どれも何度でも訪れ、その棚に並ぶ書物を見るに値する古本屋である。
 ただし、このうちの三和書房はある意味で上級者向けの店なので注意を要する。というのもこの古本屋には、整理整頓などという、俗世間のいじましい徳目はかけらほどにも存在しないからである。狭い店内には、かなり汚れ傷んだ古本が無秩序かつ無軌道に積み上げられており、進入不可能な場所さえある。長い年月を経て形成されたと思しき古本の堆積層のなかには、時折、他店では決して見かけることのないめずらしい本が埋もれていて、それを発掘することに古本上級者は無上の喜びを覚えるが、この喜びを上級者でない(ということはつまり、まともな)人々が同じように味わえるかといえば、それはまあ無理というものであろう。店の主人は、奥の、そのまま「昭和生活博物館」の展示物になるのではないかと思われる畳座敷でたいていテレビをつけっぱなしにしたまま昼寝をしていて、私などはこの光景のうちに人間の生き方のひとつの模範と規範を見出すが、しかしこれまた普遍的に共有されうる判断とはいいがたい(私自身は、かつて河原晉也が詩人鮎川信夫に捧げた「幽霊船長」という呼称(注2)に倣って、ひそかにこの店主のことを幽霊船長と呼んで敬意を表している)。―ちなみに私は乱雑な環境にかなり耐性がある方だが、それでもこの店ぐらいまでが限界である。数年前、九州某県のある古本屋に入ったときには、そのあまりの乱雑さに腰を抜かさんばかりに驚いた。潰れたスーパーマーケットをそのまま古本屋にしてしまったらしい広い店内には、棚のみならず床の上に大量の古本が、これは並べられているというより、打ち捨てられているという表現の方が明らかに適切なしかたで放置されていた。天井から「MEAT」と書いてある看板が斜めにぶら下がっている脇を通って、「FISH」という表示が往時を偲ばせる一角にまで恐る恐る歩みを進めてみると、あたりの床には下水溝が縦横に走っていて、そこから発生する瘴気に当てられた私は、ついに古本の山を前にしてほうほうの態で逃げ出した。帰路、思わず保健所に連絡しそうになったほどである。むろん、消毒の要請のためにである。
 しかし、こんな古本屋を紹介していたのでは、「古本屋に行こう」という勧めにまったくならないので、慌てて軌道修正する。右に述べたのはあくまでも例外中の例外である。例えば、ちょっと足を伸ばすことになるが、小倉には「古書城田」という、洒落た内装の古本屋があって(けやき通り沿いにある「キューブリック」という本屋に似た内装といえば、その雰囲気が多少はわかってもらえるかもしれない)、これは私がかなり気に入っている店である。店内の棚に整然かつ優雅に並べられた本それ自体の良さもさることながら、その配列のしかたからは、店主の見識の高さが見てとれる(注3)。長年探していた由良君美の還暦祝いに捧げられた論文集『文化のモザイック』や、一昨年忽然と世を去ってしまった種村季弘の第一期の著作集『種村季弘のラビリントス』が全巻揃いであっさりと(安価で)手に入ったのも、この店においてである。
 実のところをいえば、古本屋めぐりを本格的に行なおうとしたら、福岡だけでは足りず、東京に行かなければいけない。東京の神保町、及び早稲田の古本屋街に行かなければいけない。東京はこれといった名所に乏しい土地柄だが、こと古本屋に関しては侮れない土地である。近々東京を間違いなく見舞うであろう大地震によってこれらの古本屋街も、そこに蓄えられた大量の古本と共に灰燼に帰すことが運命づけられているから、そうなる前にこれらの古本屋街のもつ迫力と魅力を自らの目で確認しておくことが望ましい。かような運命を念頭に置きつつ神保町で古本を手に取るとき、この世の無常がひしひしと身に迫り味わいも一入である。交通費の算段を無理につけてでもいま行っておくだけの価値はある。
 と、ここまで書いて、なぜ古本屋に行くことを勧めるのか、その理由を詳らかにしていないことに気がついた。しかし私にとって、古本屋に行くという行為はあまりに自明なことなので、その理由を改めて他人様に筋道立てて説明し「勧める」ことはひどくむずかしい(どうやら私はこの文章の題名の選択を誤ったようだ)。かろうじていえるのは、必要な本、読みたい本はすべて新刊書店か図書館で手に入るものだと考えている人は、無邪気なまでに幸せであるという嫌味ぐらいのものである(人文学部に入学した学生である以上、必要な本、読みたい本があるのは当然の前提としよう。―これも嫌味だね)。本も幸福と同様、あちらから歩いてきてはくれない。だからこちらから歩いて行くしかない(注4)。そして、私の経験からすれば、古本は幸福よりもかなり手に入れやすいのである。というわけで、幸福が手に入らないのならせめて、古本屋に行こう。行きなさい。行くべし。行け。

注1 しかしながら、福岡の古本屋事情は必ずしも楽観を許さない状況に置かれている(これは福岡に限った話ではないが)。とりわけ、箱崎九大周辺の惨状には目を覆いたくなるものがある。ここ数年のうちにかなり良質の古本屋が次々と店を畳んでしまった。私は、大学近辺にある古本屋が閉店してしまうことに関して、その責任の大半は当該大学の学生及び教員にあると固く信じている。九大のことはいえない、福大もつい数年前、大学近くに開店した古賀游文堂という、なかなかの選択眼をもった店主の営む古本屋を短期間のうちに閉店に追い込むという文化的失態を演じている。
注2 河原晉也の遺稿集『幽霊船長』(文藝春秋社、1987年)を参照のこと。なお、師鮎川信夫のあとを義理堅く追うように44歳という若さで逝ってしまった「ペンキ屋」こと河原晉也がこの本で用いた魅惑的なフレーズを本稿で一箇所、こっそり借用している。
注3「古書城田」と比べると洒落た内装とはお世辞にもいえないが、そして扱う本の分野はかなり異なるが、赤坂某ビルの地下にあるバンド・ワゴンも、店主の見識の高さを感じさせる店である。スペースが許せば力を込めてこの本屋の美点を並べ立てたいところである。
注4 何もわざわざ古本屋まで足を運ばなくともインターネットで注文すればよいではないか、などというなかれ。たしかにインターネット上には複数の古本関係のサイトがあり私も重宝している。しかし当たり前のことだが、すべての古本屋がインターネット上で在庫目録を公開しているわけではないし、公開されている在庫目録が在庫のすべてを尽くしているわけでもない。したがって、やはり自らの足を使って一軒一軒古本屋を廻らなければならないのである。とりわけ、若いうちは(私もこんな言葉を使って若い人に説教できる年齢になったのだと感慨に耽りたくなる)自ら古本屋に足を運び、自らの目で本を眺め自らの手で本に触れなければならない。
(*本稿は、文化学科フォーラムが発行している機関誌『LCジャーナル』第三号に掲載した文章を一部書き改めたものです。)

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Volunteer 活動
Tim Cross (Communication and Media Studies)
Finding part-time work has become part of the student experience. It is important to learn the skills of job-seeking early, and to be able to find work that suits you. I hope you also think about doing some volunteer work.
Being a volunteer for a NPO or community group will teach you a whole range of skills that will be very useful when you graduate from Fukuoka University. Learning these interpersonal skills by cooperating with groups of people is something that you probably wouldn't be able to learn from taking a university class. If you do two or three years of volunteer work, you will also build up a network of contacts with a wide range people who will be happy to help you find your way after graduation.
If you do a web search using "福岡" and "NPO," you will be surprised at the range of possibilities to select.
Good luck for the adventures ahead of you!

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博物館へのいざない
武末純一 (考古学)
 博物館へ行ったことがあるだろうか。人文学部の新入生ならば、すでに一つか二つはあるだろう。しかし大学生には大学生なりの見方がある。行ったことのない人はまず特別展を見に行くのが良い。
 私の専門は考古学、モノから歴史を考えていく学問である。以下は、博物館などでひらかれている考古学関係の特別展へのささやかな招待状である。
 特別展は、秋の文化シーズンにあちこちの博物館や資料館で開かれる。このごろは夏休みや春休みに開くところも増えてきた。内幕をいえば、特別展を開く → お金がかかる → その分だけ多くの入館者が欲しい(でないと来年の予算にもひびく)→ 学生が休みで大人も活発に動く夏や春に開こう、という発想がほとんどだが。でも特別展は楽しい。
 楽しさの一つは、それまで写真や図でしかみたことのなかった実物に会えること。せっかくの機会だから、上から、下から、横から、斜めから、じっくりと眺めて、どのように作られ、どんなふうに使われたかを想像しよう。もちろん、図録や横にそえられた解説文に答えがのっている場合もあるし、それを理解するのも大事だが、それよりも大切なのは、答をうのみにしないで自分で考えること、自分の疑問をもつこと。
 二つ目は、あちこちに発掘品が一か所に集められていることである。それぞれの保管場所に行って見せてもらうととんでもない金額になるから、一見高そうに見える特別展の料金も実は安いものである。
 それと、いつもは全く別のところにあるモノ同士がすぐ横に並ぶから、比較ができる。これはけっこう大事である。何回もいったりきたりして見比べ、「似た形だけどここが違うな。これは出たところが違うからかな、それとも作った時代が違うからかな」「へー、こんなに遠く離れて出ているのにそっくりじゃないの」など、自分だけの発見ができればしめたものだ。
 三つ目は、発掘の記録は報告書という形で本になるが、手に入りにくいし、入ったとしても一般の人が読み通して理解するのはけっこうシンドイ。でも博物館では、そうした成果をできるだけ噛みくだいて、どんな発見があったのか、何がわかったのか、どういう問題が出てきたのかを、実際にモノを示しながら説明してくれる。
 ちょっと変わった楽しみ方もある。学芸員になった気分で。この照明は展示品のどこを強調しているのか。自分だったらこういう角度でここをみせたい。このパネルはなぜこの大きさでここにかけられているのだろう。展示品をきわだたせるためにどんな形や色の台を使っているのか。なぜこの展示品とあの展示品の間がこの位空いているのか、などなどなど。
そう、ここまでくれば、もう特別展だけじゃなくて常設展でも十分に楽しめることがわかってくる。まずは福岡県内あるいは故郷の博物館だ。
 昔の博物館は、展示品がケースの中に重々しく鎮座し、いかにも「見せてやる」といった感じが強かったが、いまでは〈さわる〉〈作る〉〈使う〉などの体験コーナーも整いつつある。充実したミュージアムショップや市民ライブラリー、しゃれたレストランもけっこう多い。講堂や入り口のホールで演奏会を開くところも出てきた。〈博物館は古くさい〉というイメージは消え始めている。
 自分の知の世界を広げるために博物館をのぞき、どれでもいいから、自分の心にとまった展示品をスケッチする。そんなすてきな時間を作ってみたらどうだろう。
 なお老婆心から蛇足を一つ。ゆめゆめ月曜日のデートの場所に博物館や美術館は指定しないように。日本では月曜日は休館日なのだから。

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現代中国・アジアからの視点
則松彰文 (東洋史)
 今年1月のある火曜日の夕刻、私は札幌から帰ってくる家族を出迎えるため、福岡空港のロビーに居た。しかし、東日本に降った大雪の影響で飛行機はかなり遅れるとのこと。私は、喫茶店でコーヒーを飲みながら時間をつぶすことにした。
 さほど広くはない店内に客はまばら。いつもの空港特有のざわつきはなく、比較的落ち着いた雰囲気である。そのせいか、三つほど離れた隣席の男女二人連れの客の会話が、窓際カウンター席に座った私の耳に聞くとはなしに入ってきた。
 六十近い年恰好の男性客が、連れの若い女性に向かって熱っぽく語っている。
 「今の中国はねえ、もう金、カネ、かね……金が第一。中国人は日本人と見ると金をかすめ取ろうと、あの手この手で近づいてくるんだ!」
 「へえ~っ、そうなんですかぁ~」
  男性は自らの経験に基づくものか、具体例をあげて女性に語り続けているらしいが、声のボリュームを落としたために詳細は聞き取れない。女性はといえば、この話に興味があるのか無いのか「そうなんですかぁ~」を連発している。二人はコーヒーを飲み終えると、これから飛行機に搭乗するのか、バタバタと店を出て行った。この男性がこれまで何を経験し、一体中国で何があったのか? 話を聞いた女性には中国・中国人がどのようにインプットされたのか? 勿論、私には知る由もない。しかし、この会話に接した後の私の脳裏には、次のような想いが浮かんできたのであった。
 近年経済成長の著しい中国。2005年度の中国の貿易額は、2年連続して日本を抜き、米・独につぐ世界第3位となった。しかし、沿海部と内陸部、都市と農村、持てる者と持たざる者の間においては気の遠くなる程の経済格差・生活水準の落差が存在する。実際、中国に一歩足を踏み入れると、街を行き交う人々の圧倒的エネルギーと表面立った格差が現実のものとして両の眼に飛び込んでくる。観光地では、土産物売りがすさまじいパワーで我々に迫ってくるのだ。「センセイ、センセイ!3個で千円!」見事な日本語と彼らのパワーに惑わされて、いわゆるボッたくられるケースを、誰しも一度や二度は経験するだろう。しかし、言うまでもないことだが、これは現代中国の一面ではあっても、全てではない。小さな子に優しい手を差し伸べ、さわやかな笑顔で会釈する寛容な中国の人々もまた驚くほど多いのだ。
 思うに、私たち日本人の多くは、自らがアジア唯一の「先進国」の人間で、経済的にも豊か。それに対して中国をはじめとするアジア諸国は未だに発展途上・経済成長途上で、一部の都市や金持ちを除いて貧しく、汚く、そして遅れている……。こう無意識のうちに断定してはいないだろうか。
 はっきり言って、この認識は決定的に誤りである。全てが誤りというわけではないにしても、本質的に誤っている。大学生となった新入生諸君は、それを自らの眼で確かめ、自らの五感をもって体感して欲しい。シンガポールに行けば、福岡以上に発展した都市のスケールに目を丸くすることだろう。マレーシアを訪れたなら、人々の落ち着いた暮らしぶりにため息をつくことだろう。まさに百聞は一見に如かず。私が先に述べたことをも含め、人の話を鵜呑みにするばかりではなく、先ずは自らが体験し、自らの頭で考えるようにすることを、新入生諸君に私は求めたいのである。

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Ⅲ.書くことの勧め

Ⅲ. 書くことの勧め
「レポート」が書ける人になろう
上枝美典 (西洋哲学史)
 ここだけの話、レポートが書ける日本人はとても少ないのです。ほとんどの人は、感想文しか書けません。しかし、感想文とレポートの違いは、とても大切です。これがわかっているかいないかで、人間の質が違うといっても言い過ぎではありません。ちょっと言い過ぎかも知れませんが。しかし、そのくらい大切な違いであると私は言いたい。
 はっきり言って、大学で勉強するということは、「感想文しか書けない人」から「レポートが書ける人」にレベルアップすることなのです。知らなかったでしょう? しかし、知らなかったからといって、恥じることはありません。なぜなら、この違いを教えるシステムが、日本ではまだちゃんとできていないからなのです。つまり、日本で通常の教育を受けて、高校を卒業しただけの人は、まだこの違いを習っていないのです。なんとなく、大学に進学してよかったな、という気分になってきたでしょう?
 では、感想文とレポートとの違いは何でしょうか。もったいぶらずに早く教えてくれ、というあなたの顔が目に浮かぶようです。ですが、それは秘密です。というのは冗談ですが、秘密にしたいほど、それは単純なことなのです。ひとことで言って、「感想文」は、自分が感じたことや考えたことを、そのまま書いたものです。あれっ? それって、いいんじゃないの? という声が聞こえてくるようですね。たしかに、そういう感想文を書かせることに、ある一定の教育効果があることはたしかでしょう。そういうのは、「作文」と呼ばれていて、日本の教育界ではいろいろとややこしいことがあるみたいです。しかし、断言しますが、大学で身につけるべきことは、「よい作文」を書く力ではなくて、「ふつうのレポート」を書く技術です。「技術」と言うと、なにか職業訓練所みたいですが、よい作文を書けるか書けないかは、ある程度、「文才」と呼ばれる文学的才能で決まりますが、「ふつうのレポート」は、書き方さえわかったら、だれでも書けるのです。なんといっても、「ふつう」でいいんですから。
 なにか話があっちこっちに飛んでいっこうに要点を得ない。おまえはレポートの書き方がわかっているのか、という叱責の声が聞こえてきそうですから、そろそろ本題に入ります。「作文」や「感想文」でない「レポート」とは、
  1. あたえられた問い、あるいは自分で立てた問いに対して、
  2. 一つの明確な答えを主張し、
  3. その主張を論理的に裏付けるための事実的・理論的な根拠を提示して主張を論証する
という三つの要素がそろっている文章のことです。おっと急いで付け加えますが、この定義は、私があたえたものではありません。次の本からの抜粋です。

戸田山和久(2002)『論文の教室:レポートから卒論まで』
(NHKブックス)定価:本体 1120円+税
 私がここに書いていることは、ほとんどが、この本からの受け売りです。責任転嫁をするわけではないですが。ともかく、レポートや論文の書き方を教える本はたくさんありますが、まず一番はじめに読むべき本はこれです。どのようにすれば、この三つの要素がきっちりそろった文章を書くことができるのか、懇切丁寧に教えてくれています。 この本を読んで、「うひゃあ。みんなこんなことを考えて論文を書いていたんだ。まずい」と焦った人は、巻末にある「おすすめの図書など」を見て頑張って追いつきましょう。たとえば次の本などは、安いのにとてもいい本です。どういう経緯で、自分が「レポート」の書き方を学ぶことができなかったのか、よくわかります。

木下是雄(1981)『理科系の作文技術』(中公新書)定価:本体700円+税
 「理科系の」というタイトルは、気にする必要はありません。むしろ文系・理系を問わず読むべき本です。あなたが文章を書こうとするときに、「ひとの心を打つ」「自分の気持ちをすなおに表現」「起承転結をしっかり」「天声人語の文章のように」とかいう言葉が頭に浮かんでくるのであれば、大急ぎでこれらの本を読んで、「文章を書く」「頭を使う」ということについての認識を改めてください。でないと、あとで大変なことになりますよ。

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LaTeX による美文書作成の勧め
永田善久 (ドイツ語)
奥村晴彦著『[改訂第四版] LaTeX2e 美文書作成入門(CD-ROM 付)』(技術評論社)
 この書籍は、レポート・論文・本などを印刷したり電子化したりするためのフリーソフト LaTeX (ラテフまたはラテックと読みます、ラテックスではありません)についてできるだけ易しく解説した、日本における定番の入門書です。LaTeX は、米国スタンフォード大学の数学者クヌース教授が開発した TeX(テフまたはテックと読みます)をベースに拡張されたもので、次のような特徴を持っています。
・「フリー(オープンソース)」ソフトだから、誰でも無償で入手でき、自由に中身を覗いたり改良したりできる
・多言語の自動ハイフネーション、自動ペアカーニング、リガチャ、孤立行処理など、高度な組版技術が組み込まれている
・超高精度で、約0.000005 ㎜ 単位で文字位置を決定できる
・文書のレイアウトは全面的にプログラムに委ねられるので、文書作成に際しては文書の「論理構造」のみに集中すればよく、従って、文書作成の能率を飛躍的に高めることができる
・Windows, Macintosh , UNIX をはじめ、どのような種類のコンピュータでも使える
・標準化が行き届いており、どのコンピュータで処理しても、出力に寸分の違いも生じない
・パソコン用プリンタ、PostScript プリンタ、イメージセッタ、電算写植機まで、あらゆる出力装置に対応している
・特に数式処理や多言語処理に定評があり、多くの学会や学術出版社が LaTeX による投稿を受け付けている
・索引自動作成ソフト MakeIndex や文献データベース管理ソフト BIBTeX など、LaTeX と組み合わせて使う多くの高機能なフリーソフトが標準で同梱されている
・出力を PostScript や PDF 形式に変換することのできる充実したフリーの関連ソフトも同時に配布されることから、従来の印刷物作成はもちろん、電子出版・プレゼンテーション用途にまでオールラウンドに使用できる
・さらに、無数の機能拡張パッケージを自由に利用できる
・LaTeX の文書は「テキストファイル」であり、通常のテキストエディタで読み書きできるため、文書の再利用・再加工・データベース化が容易である
・ライセンス料が不要なので、他のシステムに組み込むことも可能で、例えば、XML ベースの文書印刷や、Web 上での PDF 自動作成サービスなどにも幅広く応用できる

本書は、従って、次のような人たちにお薦めします。

・大学に入ったからには「洗練され、垢抜けた文書作成システム」を持ちたいと考える人
・そのまま書籍の版下となるような、高品質の整形文書を作成したい人
・数式を沢山用いるようなテクニカルな文書を作成したい人
・多言語混在文書を、その正書法・組版慣習にいたるまで、正確かつ簡便に処理したい人
・カラー画像・アニメーション・動画ファイル・音声ファイル・ハイパーリンクなどを組み込んだ、表現力豊かなプレゼンテーション用 PDF ファイルを作成したい人
・高度な組版から PDF 作成まで、Adobe-Japan1-5 に含まれる「2万を超える文字」を使いこなしたい人
・情報ネットワーク時代における「文書の互換性・再利用・再加工」ということを真剣に考える人
・「フリー」という簡潔な言葉の中に含まれる「自由」という高尚な精神的態度から「無償」という現実的意義までを深く理解できる人
・コンピュータを能動的に使いこなしたいと思う人
・「ライオン」の好きな人

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Novis 2006
― 新入生のための人文学案内 ―

印 刷 平成18年3月25日
発 行 平成18年4月1日
発行者 福岡大学人文学部
印刷所 城島印刷有限会社