福岡大学人文学部
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Novis 2007

Novis 2007 目次

Novis 2007 本文

はじめに
山中博心 (人文学部長)
 お気に入りの歌手のどこが好きなのか、よく考えると声そのものに魅せられているように思えます。艶のある声、伸びのある声。言わんとする言葉の意味よりも遥かに大きな力を持つ声の質。虹のごとき七色の声、独りでハーモニーを奏でるポリフォニー (多声)。味わい深い歌。
 文章にも書く人の人柄が現れてきます。「文体とは人なり」と言われる所以です。他の人のではなく、その人の文章に何かを感じるのは、食する度にその味が記憶の底から思い出されるのに似ています。読んだ文章の内容は忘れていても、その香り、その色合いが心に染み込んでいます。書き手と感応(コレスポンデンス)することの喜びの数だけ人生は豊かで味わい深いものになります。
 人間や自然との関わり方は様々です。 五感を働かせて、 その本質に迫ること、 人文学の基本はこれです。

目には青葉山時鳥初松魚(やまほととぎすはつがつお)  山口素堂

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Ⅰ. 読むこと、見ること、聴くことの勧め
『マイモニデス伝』
青木文夫 (言語学)
『マイモニデス伝』、A.J.ヘッシェル著、森泉弘次訳、教文館
 スペインのイスラム文化の中心だったコルドバ(Crdoba)の回教寺院(Mezquita)からユダヤ人地区の街並みに入っていくと、ひっそりと彼の像が置かれています。過日、その前にしばし佇んで、この賢者の生き様について思いを馳せたものでした。僕が教えているスペイン語のテキストにも彼の記述がありますよ。

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映画・イタリア・ベニーニ
浦上雅司 (西洋美術史)
 最近ではレンタルビデオ、レンタルDVDの普及によって、映画館にわざわざ足を運ぶ学生諸君は少なくなったかも知れない。私が育った家の隣は場末の映画館だったが、そのころ(昭和30年代)の子供は外で遊ぶのが普通で、映画館というと日常とは違う異世界という雰囲気があった。もちろん映画館に若い女性が一人で行くことなどまずなかったが、現在の映画館は全般的に清潔で明るく、レディースデイまであって、全く隔世の感がある。

その一方で現在では、 あまりヒットしない作品であれば上映期間は短く、 必見と思っていた映画でも、日常の仕事に追われてちょっと油断していると既に上映が終わっていて悔しかったりする。 もっともそうした映画でも、上映が終わって間もなくDVDが発売され、 ほぼ同時にレンタルが開始される。 まるで映画館における上映は、 DVDを売るための 「コマーシャル」のように位置づけられているようにも思える。 このような状況では、そのうちに映画鑑賞券付きDVDの先行発売なんてものまで現れるのではないだろうか。

 それはともあれ、 最近は安価なDVDが出回っていて、過去のさまざまな作品を安価に手元において繰り返し鑑賞できるようになったのは映画ファンには有り難いことである。 「外国語の学習」 ないし「一国の文化に対する知見を深める」 という大義名分で映画を鑑賞すれば、 家族から、実際は遊んでいるのではないかと疑いの目で見られることはあっても面と向かって非難されることはあまりないだろう。韓国映画や中国映画などアジアにも素晴らしい映画は多いし、 ハリウッド映画にも興味深いものはあるが、 私はイタリア美術を専門にしているので、DVDで発売されているイタリア映画を幾つか紹介しておきたい。 但し、 体系的な紹介ではない。 ほとんどはレンタルもあると思う。

 かつてイタリア映画といえば、 フェッリーニやヴィスコンティ、 パゾリーニといった監督の作品が 「教養として」 もてはやされた。フェッリーニでは 『ローマ』 や 『サティリコン』 のDVDが安価である。 前者は、 北イタリアのリミニという町で生まれ育ち、戦争の頃からローマで育った監督の都市ローマについて抱くさまざまなイメージ (古代ローマ遺跡、 近代都市、 カトリックの首都など都市ローマでは、さまざまな、 時として相容れない文化が渾然一体となっている) を映画化したもの、後者は古代ローマ皇帝ネロの時代を生きた文人ガイウス・ペトロニウスの風刺小説 (邦訳―岩波文庫) を原作とした映画で、小説でも重要な場面である解放奴隷で大金持ちのトリマルキオが催す宴会の情景が特筆される。いきなりこの映画を見ても情景の意味はなかなか理解できないかも知れないが、 そういう方には小説の併読をお勧めしたい。これらの作品が特にフェッリーニらしい作品かどうかには議論があるかも知れない。 『ローマ』 にはフェッリーニ自身も姿を見せるから、 『サティリコン』 よりはこちらの方が 「フェッリーニ的」 だろう。自伝的要素が含まれる作品を多く作っているこの監督についてもっと知りたければ、 自分を投影したマルチェッロ・マストロヤンニが登場する 『甘い生活』 (DVDあり) や 『8 1/2』 (今のところビデオのみ)を見ることが必要だろう。 ヴィスコンティではトーマス・マンの小説 (邦訳―岩波文庫) を原作として、グスタフ・マーラーを思わせる作曲家を主人公とした 『ヴェニスに死す』 や、 ナチス勃興期のドイツ上流階級の頽廃をテーマにした 『地獄に堕ちた勇者たち』 が安価なDVDになっていてこの監督の一面を垣間見ることができるが、 『山猫』 や 『家族の肖像』『若者のすべて』 などのDVDは販売されていても残念ながらまだ高価である。

 最近のイタリア映画では、 ロベルト・ベニーニ主演・監督の 『ライフ・イズ・ビューティフル』 が日本でもちょっと評判になった。子供の頃から舞台に立っていたベニーニが現代のイタリアを代表する喜劇役者の一人であることは間違いない。 この映画は喜劇人としてのベニーニが「ナチの強制収容所を舞台にした喜劇を作って人を笑わせることが出来るか」 というテーマに果敢に取り組んだ作品であり、アカデミー賞を受賞したのは誠に慶賀の至りであった。 これもDVDで鑑賞できる。 その後、 再び監督を兼ねて挑戦した 『ピノキオ』 も日本で公開され、DVDが発売された。 だが50才で頭がはげたピノキオの出来については、 賛否両論あるようだから、 興味のある方は自分で見て判断して頂きたい。もっとも、 本来スタンダップ・コメディアンだったベニーニの本領は、 アメリカの映画監督ジム・ジャームッシュのオムニバス映画 『ナイト・オン・ザ・プラネット』 (DVDあり) に登場するローマの恐るべきタクシー・ドライバー役に最もよく現れていると思うので、ベニーニファンの方にはこの作品を一見するようお勧めしたい。

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小説世界への入り口
遠藤文彦 (フランス文学)
遠藤周作『沈黙』(新潮文庫)
 高一のときだったと思います。級友の若松君にすすめられて読んだのが遠藤周作の『沈黙』でした。若松君は家がクリスチャンで、自分もクリスチャンなんだと言ってましたが、最近キリシタンの話で自分が読んで面白かったので、作者の名前も同じだし、遠藤君も読んでみないかと言うので、すすめられるままにこの本を読んだのでした。ぼくはそれまでとくに文学に興味はなく、小説なども長いやつは読み終えたことがなかったのですが、この本を読んでたちまち小説というものの世界に引き込まれてしまいました。この小説は、日本人にとっての宗教という重いテーマを扱っていますが、場所の設定や時代背景など、エキゾティックな魅力にあふれていて、ぼくにとっての小説世界への入り口であったように思います。

 ところで、小説の舞台になった長崎の外海(そとめ)町出津(しつ)地区には、いま遠藤周作文学館が建っています。かなたから東シナ海の波が打ち寄せる、高い崖の上に立つその文学館は、数ある文学館のなかでもきわだって美しいものです。そこにたたずめば、『沈黙』を読んだことのある者ならだれしも、かならずや深い感動にとらえられることでしょう。福岡での大学生活四年間のうちにぜひ一度訪れてみてください。詳しくは遠藤周作文学館のホームページで。

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おすすめの本
大嶋仁 (比較文学)
 新入生の皆さん、 人文部にようこそ。 新入生の皆さんに、 おすすめしたい本と言えば、 まず皆さんが一冊の本に何を求めるかによります。読み終えて生きる元気が湧いてきた、 と感じられるものとしては、 何より福沢諭吉の 『福翁自伝』 でしょう。落ち込んでいる人、 孤独を悩んでいる人には、 フランツ・カフカの 『短編集』 か 『変身』 をおすすめします。 暗い内容のようでいて、 なぜか根源から力が湧くでしょう。 また、人に対して優しい気持になりたい、細かい文章の味をかみしめたいと思ったら、 井伏鱒二の短編ですね。 『山椒魚』 などのタイトルの付いた一冊を選べばよいのです。

 こんなところでしょうか。 ここに挙げたどの本も文庫本で手に入ります。

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批評的態度を学ぼう
甲斐勝二 (中国文学)
『オーウェル評論集』 岩波文庫 小野寺 健 編訳  掲載される 「象を撃つ」 を読んだとき、「奴隷の主人も奴隷だ」 といった魯迅の評論を思い出した。 魯迅の方が早いが、 概ね時代も重なり、「知識人」 としての態度には共通性があるのだろう。 また、 「ナショナリズムについて」 では、 やがてサイードの 『オリエンタリズム』 へとつながる思想の流れがあるように思い、 インド人を縛り首にする 「絞首刑」 では 「悲情城市」の映画で政治犯として殺害される台湾の青年の姿が浮かんだ。 イギリスのユダヤ人差別問題を取り上げて、「なぜあきらかに非合理なこんな信念が世間の人々の心をとらえるのだろう」 とは考えず、 当然「なぜユダヤ人差別問題はわたしの心をとらえるのだろう」 という問題から出発するべきだと説くのは確かにその通り。かかる人材を生み出したイギリスの土壌の豊かさに感心する。

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ブラームス「バイオリン協奏曲」を聴く
片多順 (文化人類学)
 皆さんは悲しいとき、苦しいとき、人が信じられなくなった時などどうしていますか? その状態から逃避したり、忘れようとしたり、ほかの事で気を紛らわしたり、人それぞれに様々な対処の仕方があるでしょう。
 そんな時、私はしばしばこの曲を聴きます。そうです。ドイツの作曲家ブラームスのバイオリン協奏曲です。バイオリンが激しく軋(きし)む音色を奏でます。オーケストラが強烈にそれに応えて怒涛のように押し寄せてきます。一度聴いてみて下さい。あなたが抱いていた苦しみや悲しみが少しは軽くなるかもしれません。繊細な弦の音色が心の奥底にしみ込むこともあるでしょう。人それぞれでしょうが、ヨシッとまたやる気が出るかもしれません。
 ブラームスはそういう作曲家なのでしょう。生涯結婚せず人妻を密かに想い続けた彼の愛と苦悩がこの曲全体に秘められているからかもしれません。

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「よい子」ってどんな子?
勝山吉章 (教育史)
灰谷健次郎著 『兎の目』 (理論社)  「よい子」 ってどんな子?親や教師の言うことを素直に何でも聞く子どもは、 確かによい子に違いない。 では、 親や教師の言うことを聞かない、親や教師の権威を認めない子どもは 「悪い子」 なのだろうか。 いつも親や教師のご機嫌を伺い、 「よい子」 であり続けることに疲れた子どもは、もうよい子ではなくなるのだろうか。

 『兎の目』 の主人公「鉄三」 は、 そのような問いを投げかける。  偏差値教育、 管理主義的教育に慣らされてきた者にとって、 「鉄三」 は落ちこぼれに映るだろう。 しかし、 人間本性に照らし合わせて考えた時、管理化された現代社会に馴染んでいる私たちこそが、 大切な人間性を失っているとは言えないだろうか。

 本書を既に読んだ学生も多いと思うが、 大学時代に再度読んでもらいたい書物である。

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中国の歴史(全12巻)
紙屋正和 (東洋史)
講談社版『中国の歴史』(全12巻)(講談社)
 1970年代に、『中国の歴史』(全10巻)、『図説中国の歴史』(全12巻)、『新書東洋史』(全11巻、うち中国史は5巻)と、中国史の概説書のシリーズをあいついで刊行した講談社が、『新書東洋史』以外は入手困難になった2004年から2005年にかけて、ほぼ 30年ぶりに刊行した中国史の概説書がこのシリーズである。この間に中国史・中国自体、あるいはそれらをとりまく環境は大きくかわった。

 古い時代については、考古学の大きな発見があいついでいる。稲作の起源は、遺跡が発掘されるたびに千年単位で古くさかのぼり、今や1万2千年前の栽培稲が発見されたというニュースが流れているほどである。また以前は、中国の古代文明といえば黄河文明と相場がきまっていたが、現在は長江流域において黄河文明に勝るとも劣らない高度な長江文明があったことが明らかになっている。戦国・秦・漢・魏晋南北朝時代については、当時の法令・行政文書や思想・文学などの著作を書きしるした簡牘(かんとく)(竹のふだと木のふだ)類や人の目をうばう遺跡が多く発見され、これまで文献史料で知ることのできなかった事実が明らかにされつつある。新しい時代については、放っておいても新事実が積みかさなってくるのであるが、以前に未発表であった公文書が公表され、さらに中国・中国経済自体が大きくかわりつつある。政治は社会主義のままであるが、経済はもう完全な資本主義に、少し大げさにいえば日本よりも極端な資本主義になり、現在の成長がつづいていけば世界経済を牛耳るようになるかもしれないといわれている。こうした変化をふまえて、今回の『中国の歴史』(全12巻)が企画されたのである。ただし、このように大きくかわりつつある「古い時代」と「新しい時代」とに挟まれた中間の時代の場合、大発見があったわけでもなく、新しい文献が見つかったわけでもないため、執筆者はこまったらしいが、旧来通りの中央からの視線でえがくのではなく、地方の現場から世界を見なおすといった機軸によって新鮮味をだそうとしたという。

 全体的にかなり高度な内容になっているが、全部を紹介するわけにいかないので、私の専門に近い古代史関係についてのみ内容を簡単に紹介し、のこりは執筆者と書名だけを列記するにとどめる。

 宮本一夫著『神話から歴史へ―神話時代・夏王朝』(01)は、中国の地に人類が居住しはじめてから、殷周社会が成立する前まで、いわば中国の先史時代をとりあつかう。現在の中国の経済発展は巨大な開発をともない、発掘もさかんに行なわれている。その結果、先史時代の文明は黄河流域だけではなく、現在は中国の各地で発見されている。宮本氏はこうした発掘成果をもとに、物質文化における地域間比較だけでなく、社会構造上の地域間比較をも試みることによって、先史時代における段階的な社会構造の変化に注目し、殷周社会にいたる道のりを多元的に説明する。これまで「中国の歴史」というとき、先史時代についても文献史学の研究者が執筆することが多かったが、これは考古学の専門家の手になる概説書である。

 平勢隆郎著『都市国家から中華へ―殷周・春秋戦国』(02)は、新石器時代から戦国時代までを対象とする。本巻は、著者自身がみとめるように「一般に提供されている中国史とは、若干異なった視点」で書かれている。すなわち中国史を、蘇秉琦氏著・張名声訳『新探 中国文明の起源』(言叢社)が提唱した「新石器時代以来の文化地域」を基礎において分析し、まぼろしの夏王朝、殷王朝・周王朝、そして戦国時代の領域国家のいずれもが新石器時代以来の文化地域を母体として成立したという。こうした歴史を背負う戦国時代の諸国家は、自国の立場から、先行する夏・殷・周の王朝を論じ、そのうちの一部が史書として現在にのこされている。しかしそれらの史書は、それができあがった時代に規制され、ときには無かった内容を付けくわえている。そこで、本巻は、何が後世に付加された虚構の産物なのか、またどの記述が事実を伝えているのかを検討する形で書かれている。安易な気持ちで、急いで読もうとすると、絶対に理解できない。

 鶴間和幸著『ファーストエンペラーの遺産―秦漢帝国』(03)は、秦・始皇帝による天下統一から前漢・新をへて後漢が滅亡するまでの440年間をとりあつかう。この時代は、簡牘類や多くの目を見はる遺跡・遺物の発見があいつぎ、歴史像が大きくかわりつつある時代である。鶴間氏は秦の歴史、始皇帝像の再評価を試み、また秦・漢時代を地域の視点から見なおそうと試みてきた研究者である。そうした自分自身のの研究を反映させ、あわせて新発見の出土資料を既存の文献史料とつきあわせて本巻を書いている。とくに新出土資料についてはよく調べて多くの情報を提供しており、専門家としても参考にすべきところが多かった。

 金文京著『三国志の世界―後漢・三国時代』(04)は、後漢後半期に外戚・宦官が政治を乱しはじめた時期から西晋の統一によって三国時代がおわる時までの約130年をとりあつかう。この書名にある「三国志」とは、『魏志』倭人伝などをふくむ歴史書の『三国志』ではなく、小説の『三国志演義』であり、執筆者は歴史家ではなく、中国文学者である。本巻は、ゲーム・アニメ・漫画によってつくられた『三国志』ブームを意識したもので、よくいえばこのシリーズに新鮮味をだすための、悪くいえば読者に迎合するための企画といえよう。内容は、この時代の歴史の動きを淡々とおいかけ、ところどころで『三国志演義』がどのように脚色されているかを明らかにしている。本巻は歴史の概説書として読みごたえがあるが、『三国志演義』ファンにも歓迎されるであろう。

 川本芳昭著『中華の崩壊と拡大―魏晋南北朝』(05)は、西晋が中国を再統一したものの、また分裂してから隋が久々に中国を統一するまでの約300年をとりあつかっている。基本的には分裂の時代といえるこの時期の歴史を、胡漢、すなわち遊牧民族と漢民族の対立と融合をキーワードにして、隋・唐時代に新しい漢民族・中国文化が登場すること、また中原(黄河中流域)の混乱などによって、未開発地がまだ多くのこされていた長江流域に厖大な人口が移動・移住し、その地の開発が急速に進展することを明らかにし、あわせて中国の周辺において朝鮮半島の三国や倭のような国家がうまれてくることにも目をくばっている。

氣賀澤保規著『絢爛たる世界帝国―隋唐時代』(06)
小島毅著『中国思想と宗教の本流―宋朝』(07)
杉山正明著『疾苦する草原の征服者―遼・西夏・金・元』(08)
上田信著『海と帝国―明清時代』(09)
菊池秀明著『ラストエンペラーと近代中国―清末・中華民国』(10)
天児慧著『巨龍の胎動―毛沢東vs鄧小平』(11)

 尾形勇など著『日本にとって中国とは何か』(12)は、太古から現代までの中国の歴史をふりかえったあとで、日中関係がギクシャクしている現在、日本にとって中国とは何か、逆に、中国にとって日本とは何かについて、このシリーズの編集委員四人と中国人二人が総論的に論じたものである。日本と中国は同じ漢字文化圏、儒教文化圏であるから何もいわなくても分かりあえると認識することが、大きな誤解であることを知らなければならない今この時、一読すべき本であろう。以下、執筆者と論題だけを紹介する。

尾形 勇「大自然に立ち向かって―環境・開発・人口の中国史」
鶴間和幸「中国文明論―その多様性と多元性」
上田信「中国人の歴史意識」
葛剣雄「世界史の中の中国―中国と世界」
王勇「中国史の中の日本」
礪波護「日本にとって中国とは何か」

概説書は新しければ新しい顔をして我々の前にあらわれてくる。新しければよいというものではないが、少なくとも情報は新しいものがふくまれている。読書には、自分の知らないことをまなぶという「学ぶ姿勢」と同時に、何かおかしい、納得できないことを書いていないかをさぐるという「批判の姿勢」も必要である。

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学問の領域に捉われない読書の勧め
鴨川武文 (地理学)
木内信蔵(1968)『地域概論―その理論と応用』(東京大学出版会)
日高敏隆(1998)『チョウはなぜ飛ぶか』高校生に贈る生物学3(岩波書店)
武野要子(2000)『博多―町人が育てた国際都市―』(岩波新書)

 木内信蔵の『地域概論』は39年前に刊行されました。39年前の本というと、「なんて古い本なんだろう」と思うかもしれませんが、地理学や地理学が研究対象とする地域について体系的に論じられています。私は共通教育科目の地理学を担当していますが、この本は、地理学の講義を学生の皆さんに行うにあたっての、私にとっての参考書ともいうべき座右の書です。

 日高敏隆の『チョウはなぜ飛ぶか』は生物学の本ですが、この本は次の2点において興味深い本です。

 第1点は、「チョウはなぜ飛ぶか」というタイトルですが、内容は、一言でいうと、チョウは自分自身が飛ぶ道筋をしっかりと認識して飛んでいるということです。つまり勝手気ままに飛んでいるのではないのです。全く土地鑑のない場所に出かけた時に頼りになるのは地図です。地図を見てわれわれ人間は行きたいところに行くことができます。チョウは地図を持ってはいませんが、自分が行きたいと思うところへ行くことができ、またそのような本能を持っているのです。

 第2点は、研究というものはどのように行われているのか? 研究者は試行錯誤・紆余曲折を繰り返しながら研究成果を出している、研究者とはどのようなタイプの人たちなのか、科学的なものの考え方とは何か、などについていきいきと書かれているという点です。学生の皆さんが志している学問の枠に捉われることなく、多くの本を手にして教養を高め、知識を習得してほしいと思います。

 武野要子福岡大学名誉教授の『博多』には、博多の町の成り立ちや、政治的に、また経済的に博多に関わりのあった武士や豪商のエピソード、今に伝わる博多の伝統や住民の生活史など興味深い話題が数多くあります。また、聖福寺や承天寺、櫛田神社、鴻臚館、防塁など博多にゆかりのあるものの記述もあり、この本を携えて福博の町を散策してみたらいかがでしょう。

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南の島の夕焼けと快楽を秘めた闇
桑原隆行 (フランス文学)
吉田拓郎 『月夜のカヌー』 (CD)
フランソワ・オゾン監督 『ふたりの5つの分かれ路』 (DVD)
安野モヨコ 『ハッピー・マニア』 (祥伝社)
吉田修一 『長崎乱楽坂』 (新潮社)
伊坂幸太郎 『重力ピエロ』 (新潮社)

吉田拓郎 『月夜のカヌー』
 田舎の一本道とおぼしき道に立つ拓郎さんの写真、 緑のフィルターを通して日中を撮ったような(トリュフォー風の言い方をすると) 「アメリカの夜」 写真が歌詞冊子の表紙を飾っている。 写真の三分の一を雲浮かぶ空が領している。道の先の家の前で 「白いレースの日傘」 の女が待っているのなら、 ぼくも夏空の下、 こんな道を楽しみに近づくように歩いて行くよ。 そして、美しい時間を共有したあらゆる 「聖なる場所に祝福を」 捧げる。 「月夜のカヌー」 で、 ルイ・マル監督の 『恋人たち』 のように愛しあうというのはどうかな。 小池真理子さんの 『月狂ひ』 が教えてくれるように、 月光は肉体をざわめかせ、 物狂いへと誘う。 月光の下、 舟を浮かべる男女は狂おしく愛しあわずにはいられない。 こんなぼくの話を媚薬のように耳に注がれるあなたは、 ゆったりと快楽の予感の波に身も心も委ねていればいい。

フランソワ・オゾン監督 『ふたりの5つの分かれ路』
 この映画は一組の男女の恋を、時間を逆に辿る形、終わりが始まりであるような形で物語る。離婚調停が成立する場面が最初で、終わりは、その離婚する未来を知らない男女の出会いと恋に落ちるカリプソの海だ。永遠に続く恋に入っていくかのように、美しい夕焼けの海に入っていこうとする男と女。二人を魅了幻惑した恋幻想の結末は、冷たい散文的な別れ。その別れから、裏切り、出産、結婚、出会いと時間軸が逆向きの物語を観客は見るわけだ。それは奇妙でいて、新鮮な印象を与える。ぼくに関して言えば、恋に幻惑されたくて、何度も恋を始めるだろうと思った。たとえ、確実な終わりが待ちかまえていることが分かっていても。いつか、あなたを誘いますね。永遠と接しているかのような西の海に沈む夕日を見る旅に。そして、その後は村上龍さんが『冬の花火』に書いているような花火を、水辺のホテルの部屋で、シャンパンでも飲みながら眺めて、美しい時間を共有しましょう。
 オゾン監督の映画は他、『ぼくを葬る』、『ホームドラマ』、『焼け石に水』等々を見たらどうだろう。

安野モヨコ 『ハッピー・マニア』
 ファンの女の子がモヨコと呼ぶ安野モヨコさん。この漫画はタイトルが示すように、幸福という得体の知れないものを偏執狂的に求めて悪戦苦闘し、思い込みゆえの興奮と落胆の間でアタフタを繰り返すシゲタ・カヨコという女の物語。シゲタの幸福幻想は男探しだけに投影される。彼氏欲しさにせき立てられる余り、出会った男をすぐに運命の男と思い込み、すぐに男に体を開く。そして、幻想は美味しいプチ・フールのように一口で消え去り、彼女は男を見限る。その繰り返しなのだ。作者モヨコさんも書いているように、過度の幸せマニア振りが不幸(不幸だと思い込む傾向)を誘引する破目になっているシゲタを反面教師とみることもできる。恐らくはシゲタ自身、自分が何を本当に望んでいるのかが分かっていなくて、幸福幻想に依存しているのだ。それにしても、モヨコさんと登場人物の距離感、作者の介入・注釈、登場人物の勝手な言い分や野次や居直りが面白い。シゲタは説教されると、「フラフラしているから、この漫画が続いているんでしょう」とほざく始末。友だちのフクちゃんは、浮かれるシゲタの前に突然現れて、「まんがだと思っていいオトナが歌いながら歩いていんじゃないよ」と遠慮がない。モヨコさんの漫画は他に、『さくらん』も読んでみたら。江戸吉原の遊廓が舞台のお話だよ。
 ところで、ぼくは幸せという言葉が掻き立てるイメージにはあまり惹かれない。幸せというのは余りに抽象的すぎて、曖昧で、どこか胡散臭い。むしろ面白い人生、予期せぬ楽しみが待つ人生がいいな。欲しいのは幸福ではなくて、快楽の共犯者。

吉田修一 『長崎乱楽坂』
 極道というか組の者たちの大家族の中で成長していく少年、駿と悠太の物語。性と暴力、男と女の情念が濃厚に漂う家。その影響から脱出しようとして果たせずに、その家に呪縛される兄。大学進学を機に外の世界を知り、地霊から解放されたかのような人生を選ぶ弟。何はともかく舞台は長崎だ、読まないわけにはいかないでしょう。恋物語を読みたいなら、ロマンチックな恋の街・長崎を歩きたいなら、同じ吉田修一さんの『7月24日通り』を読めばいい。恋する人と海を見て、坂道を歩いて、中華を食べたくなること請け合いだよ。
 『東京湾景』も良い。東京湾を泳いで好きな女に会いにいく男。こんな恋のエネルギーに突き動かされたくなるはずだ。そして、湾岸のホテルの部屋の窓から差し込む夕日に染まる愛しい女を抱きしめるのさ。『日曜日たち』も良い。日曜日の男女を巡る五つの連作物語。ぼくが想像する日曜日の物語は次のような言葉に要約される。河豚の肝に挑戦、ジュリアン・ソレルのような決心、挑戦に付きあってくれた女性とのキス、部屋の中、目覚めた平日の朝はそのまま二人の日曜日。何のことか分からないよね、これじゃ。でもいいさ。ぼくの妄想だから。ここで、妄想を露呈するつもりはない。ひれ酒のほろ酔い気分で、詳しく話したいのは、目の前にいるその女性にだけだから。

伊坂幸太郎 『重力ピエロ』
 何はともかく舞台は仙台だ。六年間、この街に住んだことのあるぼくは読まないわけにはいかなかったね。場所の記憶は、ぼくの恋にさえ影響を及ぼす。好ましい場所の思い出は、そこの出身である女性に対する好印象となって投影される。逆に最初に好意があり、その女性がぼくの好きな街の生まれだと知った途端、好きな気持ちが加速することもある。好意を感じたのも当然だったのだと納得してしまうのだ。
 伊坂さんの物語は、別々に置かれていた異なる時間、多くの異なる風変わりな人物たちが最後に、バラバラのパズルが完成して鮮明な絵柄になるように結びつき、統一されていくのが刺激的で面白い。そして、終わった後も、新たな始まりを予感させる感じがして心憎いばかりだ。ある小説の登場人物を、別の小説にも登場させてみせたりするのも冴えた演出だ。ぼくは、特異で魅力的な登場人物たちの中でも、領収書を律義に残してくる泥棒、引用好きでカウンセラーにも向いていると言われる探偵兼泥棒の黒澤さんが好きだな。探る役割と盗みを実行する役割を同時に満たせるなんて、なんて効率的で特別で魅力的なことだろう。
 他、 『ラッシュライフ』、『オーデュボンの祈り』、『アヒルと鴨のコインロッカー』等々、伊坂さんの作品はどれもが楽しめる。恐怖感も含めて楽しめる。腐ったやつ、いじめいたぶることしか能がない邪悪な者たちが死を見舞われ徹底的に排除されるカタルシス。狡猾で奸悪なやつらは、運命の手であれ、運命の代理人によってであれ、愛する人が被害にあったその恋人の復讐心によってであれ、カラスに喰われることによってであれ処罰され、この世から抹殺される。愛したことのある読者なら誰でも、それを見て喝采を送るはずだ。デュマの 『モンテ・クリスト伯爵』のように、復讐心は読者をハラハラ、ドキドキ、ワクワクさせる。『アヒルと鴨のコインロッカー』 は夏に上映されるらしい。また、あなたを誘いますね。映画の後は二人だけの宴。あなたのほろ酔いの唇が好きです。

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「蓼食う虫」 になる
小林信行 (哲学)
sade lovers live (ISBN 0-7389-0193-8s)
 大学の新入生に「趣味は何」と尋ねたとき、「読書、音楽、映画」といった回答はどれほどの割合を占めるのだろう。少なくとも「スーパーのレジ袋蒐集、無酸素登山、アフリカマイマイの料理法研究」といったものよりは多いのではないだろうか。しかし、「あなた、ほんとに映画(読書、音楽)が好きなの」と思わず聞き返したくなる学生に出くわすことは多い。必ずしも無関心とは思えないけれど、自分の触手の広がる可能性に気づいていないのではないかと、つい教師根性から説教したくなる。

 プラトンという哲学者は、 何かをほんとうに好きだということはそのすべてを好きなのではないか、 と大胆な発言をしている。たしかに自分の恋人のことを考えてみればわかるように、 あばたもえくぼに見えるほどに相手のすべてが好きなのだし、 またほんとうの酒好きにしても、ビールはいいが日本酒はダメだといったつまらない文句は言わないものだ。 (「健康に気遣う酒飲みなんてほんとうの酒好きではない」と言いたい人たちの数は多いはずだ。) 履歴書の趣味欄にそんな覚悟をもって書く必要はないかも知れないが、 「好きか嫌いか」というような些細なことにでも、 気づかないうちに自分の生き方を確認する機会を与えられているのだ。

 ともあれ、 輸入盤だが入手容易なこの映像ディスク (DVD) は、 自分が音楽好きだということを再確認させてくれた一枚。最近はクラッシック音楽以外はほとんど視聴しなかったし、 他の音楽を聴きたいという気持ちもなかったが、新作ディスクよりはるかに安価だという不純な動機で購入してみた。 バブル期のディスコ音楽風にも聞こえるが、 内容はかなり深刻なものもあり、ポピュラーらしく多様な音楽要素をふくみながら、 演奏も歌も質が高く、 充実したサウンドが聞こえてくる。 五、六年前のコンサート・ツアーを収録したもので、 ショウ的要素にも配慮がなされており、 退屈することなく臨場感にひたれる、コスト・パフォーマンスの高いディスク。 エンタテイメントとは、 けっして子供のものではなく、 大人のものだということを知ることができるだろう。

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『坊ちゃん』を読み直す
高木雅史 (教育史)
夏目漱石『坊ちゃん』(夏目漱石全集、ちくま文庫[筑摩書房]ほか)
大学生になったみなさんに対して、いまさら『坊ちゃん』を紹介するなんてとあきれる人が多いことだろう。正義感に富んだ直情的で無鉄砲な青年教師である主人公が魅力的な、広く読み継がれている作品であるから。それにもかかわらずここで取り上げるのは、登場人物への共感的理解を中心としたいわゆる「読書感想文」的な読み方ではなく、教育問題の歴史に位置づけて読み直してみると、どんな風に見えるかを考えてみたいからである。

 今日、学校内外でおこる暴力事件などを例に若者のモラルの低下が指摘され、それは現代日本に特有な病理現象であると批評されることが多い。「昔はよかったのに、今の若いヤツは……」と決めつけられて不愉快な思いをした人もいることだろう。

 しかし〈昔はよかった〉とすると、およそ百年前(1906年刊行)の『坊ちゃん』に描かれた生徒たちの行動はどのように理解したらいいのだろうか。〈旧制中学校と師範学校の生徒たちの紛争事件〉〈坊ちゃんの日常生活をスパイし板書してひやかした天麩羅事件〉〈寄宿舎で坊ちゃんの寝床に大量のバッタを混入したバッタ事件〉。脚色や誇張があるにせよ、〈紛争事件〉の場面では数十人規模で投石や棒での殴り合いが行われるという大乱闘の様子が描かれている(ちなみに当時似たような紛争は全国あちこちで起こっていた)。制止に入った坊ちゃんに対して生徒たちは教師であると承知の上で石をぶつけている。〈天麩羅事件〉〈バッタ事件〉を見ても、詰問されても生徒たちはふてぶてしい態度をとり続け、反省するどころか悪質で陰湿な行為をエスカレートさせている。

 この作品がフィクションであることを割り引いて考えても、はたして百年前の若者は現在よりモラルが高く、悪さをしても節度があり、素直であったといえるだろうか。仮に今日、同じような事件を身近であるいはマスコミ等を通じて目にしたら、私たちはどのように感じ反応するだろうか。〈昔はよかった〉という見方を問題にするあまり、短絡的に〈今の方がいいのだ〉あるいは〈昔も今もたいして変わっていないのだ〉ということを言いたいのではない。昔と今を比べてみて、何が変わって、何が変わっていないのだろう。変わったのは、若者のモラルや行動なのだろうか。それとも彼らを見る大人社会のまなざしなのだろうか。

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大学って何?
高田熱美 (教育学)
阿部謹也 『大学論』 (日本エディタースクール出版部)  わたしたちは、いま、大学にいます。そうであれば、大学について考えてみることも大切であるように思われます。

 ここに紹介している「大学論」は、そうしたことについて考えるよすがになる本です。

 いままで、「大学論」と称される本は沢山出ていますが、それらには、堅苦しく、読みにくいものが多いようです。ところが、この「大学論」は、いかめしい書名にもかかわらず、大学の歴史をかいま見ながら、現在の大学とわたしたちの在りようを適確に、分かり易く語っています。 一読をおすすめします。

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『色で読む中世ヨーロッパ』
高名康文 (フランス文学)
徳井淑子 『色で読む中世ヨーロッパ』 (講談社選書メチエ、 2006年)
 本屋で見つけたら手にとって、 まずは表紙に続いて掲載されている図版を眺めてみて下さい。 フランス、イタリアの図書館所蔵の中世の写本に収められている細密画が極彩色の輝きを放っています。 ヨーロッパ中世は、栄光の古代とその再生のルネサンスの間に挟まれた無知蒙昧な暗黒の世紀、 という一昔前の固定概念をどこかで吹き込まれた人がいれば、 これだけでも、それを払拭するのに十分な説得力を持っているのではないでしょうか?

 例えば黄色や縞模様を説明しているところを読んでみてください。 黄色は未熟者、 裏切り者のシンボルであり、縞模様は娼婦など社会的に差別されていた人たちが目印として着せられていたのでした。時と場所に応じて色や模様に対する評価が変化するのは当然のことですが、中世人は私たちとずいぶん違った価値基準に沿って世界を見ていたことが分かるでしょう。このような意味付けを成り立たせている中世の色彩の象徴体系のことや、 その体系が中世末期以降にどのように変化したかについては、本書を熟読して下さい。

 著者のご専門は、 フランス服飾・文化史なのですが、 中世の物語、 詩、 年代記をたくさん読み込んでいて、 ご自身の研究の資料にされています。 歴史と文学の垣根をとりはらったところに成り立った素敵なお仕事であると思います。

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中国社会に関するものをすこし
田村和彦 (文化人類学)
魯迅の作品と 『リン家の人々―台湾農村の家庭生活』(マージャレイ・ウルフ著、中生勝美訳、1998年、風響社) など
 最近、中国について様々な情報が流れ、週刊誌の記事や書籍となって書店に積まれています。日本と中国の長い関係を考えれば古典や歴史の本が多いのは不思議ではありませんが、同時代のものに限れば、政治や経済に関するものが多いように思われます。他方で、日常生活を送る場としての社会を真面目に紹介した本は多くはないのではないでしょうか。

 そこで、ここでは、こうした領域について手がかりを与えてくれそうな、いくつかの作品を推薦します。  一つ目は魯迅のもの。皆さんももしかしたら『故郷』を教科書などで触れたことがあるかもしれないし、なにをいまさらという声が聞こえないでもないのですが、読んだことのある人も、そうでない人もしばらくお付き合いを。突然ですが、皆さんは一年に数冊の日本語の本しか読めないという状況に出会ったことがありますか。私事で恐縮ですが、中国の農村に住み込んだときのわたしがそんな状況でした。かなり悩んだ末に持ち込んだものが、今昔物語と魯迅の文庫、淡水魚類図鑑でした。今でもなかなか良い選択だったと思います。特に魯迅には随分助けられたのを憶えています。

 私は文学の研究者ではありません。にもかかわらず、魯迅の作品を挙げる理由は、激しい論調や手厳しい諷刺のなかに垣間見える鋭い社会観察は、今日の中国社会を考える上でも有用ではないかと思うからです。もちろん魯迅を読めば今の社会がわかるといっているわけではありません。社会背景もずいぶんと異なるはずですし、作品はあくまで作品でしょう。けれども、様々なヒントが含まれているという点で、今日でも繰り返し読む価値のある作品が多いと思います(著者の死因について、最近はご子息の活躍もあってか、理解を超えた説明がかの国の若者を中心に支持されているのは悲しいことです)。

 いろいろな人が訳しているので、誰のものを選ぶかは好みで結構。まず手始めに『吶喊』を手にとって見てください。

 二冊目は『リン家の人々』という本。これは、1950年代末に台湾北部の村で生活した人類学者の妻(後に著者本人も人類学者になってしまいました。「異文化体験」というのはなかなか強烈で侮れません)が記したある大家族の記録です。推薦理由は、訳者の解説にあるように漢民族の家庭生活の肌触りを知るうえでは良書であるから、です。人や情報の往来は急増し、中国について語る機会が増え、私たちはなにか中国社会について理解を深めたような自覚を持ちやすい今日の状況がありますが、果たしてどの程度理解している、理解しようとしたことがあるでしょうか。たとえば、本書の扱う家庭や人間関係などは如何でしょう。この本は、反省と驚き、知ることへの欲求をかきたててくれる事でしょう。また、最近、中国大陸中心の議論が極端に増加していますが、台湾、香港といった地域から考える、あるいはこれらを含めて考えることが不可欠なのではないかと私は思っています。なので、台湾を舞台とした、面白いけれどもあまり話題にならない本を選びました。

 さきに断っておきますが、ここに挙げた本は、ある事象についての知識を簡潔に記したものではありません。もしそうした知識だけが必要であれば、百科事典でも暗記したほうがましでしょう。大学に来た以上、自分で問いを立てて、常識を疑い、明確な論証を挙げて検討することが必要です。こうした営みが楽しいかどうかは人によると思いますが、大学とはそういうところだと私は思っていますので、上の本を推薦してみました。後は自分で面白そうなものを探してください。

 最後に、本ばかりでは味気ないという意見もあるかもしれないので、映画をいくつか推薦しておきます。ここでは、わたし好みの監督から『青い凧』(田壮壮監督、1993年)、『女人、四十。』(アン・ホイ監督、1995年)、『麻花売りの女』(周暁文監督、1994年)、『延安の娘』(池谷薫監督、2002年)の四本を選びました。図書館や教室だけが学ぶ場というわけではありません。前の三作品は本学の言語教育研究センターにもありますので、在学中に是非足を運んでみてください。

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大人への道
辻部大介 (フランス文学)
スピノザ『神学・政治論―聖書の批判と言論の自由―』(上・下巻)畠中尚志訳、岩波文庫

 岩波文庫の巻末には、どの一冊にも、「真理は万人によって求められることを自ら欲し、」で始まる発刊の辞が掲げられている。この冒頭の一文を、人は美辞麗句の類として読み流してしまうかもしれない。しかし、真理(と信ぜられるもの)を公にする企てが、古来いかに多くの障碍に出会わなくてはならなかったか、そしてそうした障碍は今なお現実のものでありつづけているということを知れば、この一文にこめられたメッセージの重みを受けとめないわけにはいかないだろう。ここで障碍というのは、時の権力者が民衆を無知蒙昧の状態にとどめるべく意図的に設けるもののみを指すのではない。むしろ、私たち一人一人の側に、現にアクセス可能なものとしてある真実の認識を、拒絶、あるいは敬遠する心理が働くことの方が、より重大であると考えたほうがいい。

 大学生の時期は、精神の発達という観点からいっても、子供から大人へと完全に移行する段階にあたるので、それまで禁じられていた、あるいは、自分にはまだ早いと判断していたようなさまざまな事柄について知ることが、いまや何の制限もなしに許されるようになる。これは逆にいえば、知っているべき物事を、知っているか、それともまだ知らずにいるかという点について、自分自身が責任を負う年齢を迎えるということでもある。知識を、また探究を、知力において勝る他者に安んじて委ねる態度は、子供のものだといわねばならない。カントが「啓蒙とは何か」を定義して、「人が、自分自身のせいでそうなっている未成年状態から出ること」だと述べているのは、生物学的にも社会的にも立派な大人である人々の多くが、肝腎な心構えの点で、じつは子供のままである、という現実を撃つものにほかならないのだ。

 1670年に原著が、そして1944年に(ほかならぬ岩波文庫に収められて)邦訳が刊行されたスピノザの『神学・政治論』は、ここまで述べてきたような意味で、人類が子供時代から大人へと脱皮する重要なステップを刻んだ書物であるということができる。ここには、誰にでもわかることが誰にでもわかるように、ただし、子供にはわからないように書いてある。予備知識は何もいらないかわりに、(ことに現代の日本人たるわれわれにとってはおよそ身近でない話題について、)緻密に組みあげられた論述を時間をかけてたどる意欲を欠く者には、何も語ってくれないことだろう。私自身、大学三年か四年の頃にこの本を読んで大きな感銘を受けたのだが、その感銘には、この本から感銘を受けることのできた自分への満足が、少なからず含まれていたのだった。読む者に努力を要求し、かつ、その努力に報いてくれるこの本を、みずから大人への道を切り開く契機とすべく、ぜひ手にとってみてください。

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チャペックの『園芸家12カ月』
冨重純子 (ドイツ文学)
 チャペックの本はどれもすばらしい。そして何と言っても、『園芸家12カ月』はすばらしい。(『園芸家12カ月』小松太郎訳、中公文庫)
チャペックは、『ロボット』(このことばを作ったのがチャペック)などの戯曲や小説のほか、ユーモアに満ちたエッセイ、旅行記でも知られるチェコの作家(1890-1938)。「庭をつくるには」から始まり、園芸熱にかかった人間の一年を語るこの本には、なにかに夢中になっている人間の楽しさ、おかしさがぎっしりつまっている。
 ……もし園芸家がエデンの園へ行ったとしたら、花などかまわずに、鼻をひくひくさせて言うだろう。
 「これは、これは、神さま、なんというすばらしい堆肥でしょう!」
そして、おそらく知恵の木の果実を食べることさえわすれ、なんとかしてエデンの土を車に一台ちょろまかしていくわけにはいくまいかと、キョロキョロあたりを見わたすにちがいない。でなければ、知恵の木の根もとのまわりに、水肥をやるための溝がなくなっているのに気がつき、頭の上に何がぶらさがっているかも知らずに、さっそく溝を掘りはじめる。
 「どこにいる、アダム?」と神さまがよぶ。
 「待ってください。いま、ちょっと忙しいんです。」……
 素人園芸家は自分の庭をもっている。したいことは何でもできる。だが、自然法則を変えることはできない。植物を植えている人間は、たしかに保守的になる。法則と習慣に従うようになる。もっとも、別の側面もある。
 素人園芸家は自分の庭をもっている。したいことは何でもできる。だが、北向きの庭を南向きにはできないし、ふつうはありあまる余暇や経済力にも恵まれていない。林達夫は「アマチュアの領域」という文章で、アマチュア園芸家がさまざまな個別具体的な制約のもとで得る、個人的経験の意義について述べている。素人園芸家は、ひとりひとり、他のだれとも異なる条件のもとで、工夫して庭を作るのである。本を読み、人の助言を受けもするが、工夫とその結果は自分の経験であり、同時に、園芸文化に寄与するものにもなる。これは、園芸に限ることではあるまい。
 チャペックは言う。若いうちは、花はボタンホールにさすもの、でなければ女の子に贈るものだと思っている。素人園芸家になるには、ある程度、人間が成熟していないとだめだ。言いかえると、ある程度、おやじらしい年配にならないとだめだ。それではまず、『園芸家12カ月』を読もう。植物が鍬で耕され、肥料をもらい、移植され、挿木に使われ、剪定され、支柱にくくられ、枯れた葉をとってもらい、アブラムシやウドンコ病から保護されているものだということを知り、園芸家がしようと思いつくことや、そこまで手がまわらなくて、結局じっさいにする仕事についてのチャペックの話を聞こう。
 チャペックをすすめているのか、園芸をすすめているのか、わからなくなってしまった。

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お気に入りの本
永井太郎 (日本文学)
 新入生向けの読書案内ということで、何かの勉強になるとか、大学生として読んでおくべきといった本を紹介しようかとも思ったのですが、やめました。これからあげるのは、僕が読んで、個人的に面白かったという、お気に入りの作品です。完全な趣味です。傾向が少し偏っているので、万人向けとはいきませんが、良かったら本屋や図書館で手にとってみてください。

H・G・ウエルズ『タイムマシン』(創元推理文庫)
 最近少し古いエンタテイメントにこっているのですが、中でもウエルズの作品は今読んでも十分に面白いと思います。「タイムマシン」という言葉はもう常識ですが、このアイデアをはじめて作品化したウエルズの小説を、実際に読むことはなかなかありません。読んでみると、持っていたイメージとは違いがあって、逆に新鮮に感じられます。集中の「塀についたドア」や「水晶の卵」なども名作です。

ロバート・マキャモン 『少年時代』上・下(ヴィレッジブックス)
 時代は飛んで、いきなり現代作家です。マキャモンは、もとはスティーヴン・キングなどと同じホラー作家でしたが、この本はホラーではありません。一人の少年の一年の経験を描いた成長小説です。しかし、ただ成長小説というだけでなく、ホラーやファンタジーやミステリーなどの要素が詰まった、実に魅力的な小説です。久しぶりにページをめくる手がもどかしいという経験をしました。

日影丈吉「猫の泉」(『日本怪奇小説傑作集2』(創元推理文庫)、『怪奇探偵小説名作選8日影丈吉集』(ちくま文庫)などに所収)
 日影丈吉という名はまず知らないと思います。ミステリー作家であり、幻想文学でも優れた作品を数多く残しました。あげたのは彼の代表作の一つで、南仏の谷間の町を舞台にした、静かな怪異譚です。他にも、同傾向の幻想的な短編としては、「かむなぎうた」や「吉備津の釜」、「吸血鬼」などが有名です。

澁澤龍彦 『夢の宇宙誌』(河出文庫)
 西洋の怪しい知識を紹介したエッセイ集です。本を開くと、アンドロギュヌスやホムンクルスや自動人形といった楽しげな言葉が飛び交っています。かつて澁澤龍彦の本は、こうした話題についての定番だったのですが、今でも読まれているのでしょうか。そう思って、あげてみました。この本以外にも、『黒魔術の手帖』など、澁澤龍彦の本はいくつも文庫で出ているので、探してみて下さい。

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社会・人間の認識
平兮元章 (社会学)
大塚久雄著『社会科学の方法 ― ヴェーバーとマルクス ― 』(岩波新書 青版 B-62)
大塚久雄著『社会科学における人間』(岩波新書 黄版11)
内田義彦著『社会認識の歩み』(岩波新書 青版 B-63)
内田義彦著『資本論の世界』(岩波新書 青版 B-69)

 今日の社会社会科学における学問的状況を瞥見するならば、一方に大学生の間に広く見られる学問的アパシーの進行があり、他方に研究者個々人の学問的テリトリーへの固執と埋没の進行がある。一種の学問的閉塞状況にあるといえよう。

 社会科学の重要な対象の一つに人間関係がある。現実の生活の中で人と人の関係が希薄になり、社会関係のもつ意味が低減すれば、学問自体も魅力のないものに映ってしまう。さらに社会問題について考えることを回避すればなお社会科学は不必要なものに思えてしまう。しかし、学生諸君がやがて競争と効率の世界で生きて行かなければならないのも現実である。私はここ数年来、人間の心の摩滅を防ぐためにも社会を把握する学問としての社会科学は復権しなければならないと思ってきた。

 われわれが今為し得ることは、近代社会科学の原点に立ち返って、マキャヴェリ、ホッブス、ルソー、スミス、マルクス、ヴェーバーら社会科学上の過去の遺産を現代に生かす途を模索することである。そして、社会を見る眼をどう養っていけばよいか、学問の総合化をどのように考えればよいか、社会秩序はいかにして可能か、等の事柄を深く再考しなければならない。そのためにも上記の4冊を読むことを推奨したい。そのうえで、これらの文献にでてくる原典に再びあたって熟考することを勧める。

 (付録) 近代の幕開け前夜の啓蒙主義思想に触れておくことは、人文科学、社会科学を学ぶ者にとって必要なことである。J.J.ルソーの『告白』(岩波文庫、上・中・下、青622-8、9、0)を勧める。この文献は、文学のジャンルに分類されているが、その辺のベストセラー本よりはるかに面白く、考えさせられる。社会科学上の名著で同じルソーの『人間不平等起源論』(岩波文庫)、『エミール』(岩波文庫)との関連において書かれているのは明らかであり、かの「自然」あるいは「自然人」について考察するときに欠かせない文献でもある。

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「犯罪者」 は語る
広瀬貞三 (朝鮮史)
1. 林郁夫 『オウムと私』 (文春文庫、 2001年)
1995年、48才の時、地下鉄サリン事件の実行犯を務め、逮捕される。一審で無期懲役となり、控訴せずに刑が確定。慶応大学医学部を卒業し、外科医となる。患者の死に接して医学の限界を感じ、宗教に深い関心を持つ。阿含宗を経て、オウム真理教に入信する。妻子とともに「出家」。オウムでは「クリシュナナンダ」とよばれ、「治療省大臣」となる。なぜ麻原彰晃を盲信したのか、悔悟の中でその過程と心象を克明に記録した大作。
2. 福田和子 『涙の谷』 (扶桑社文庫、 2002年)
同僚の女性を殺害した後、家族を残して家出をし、約15年におよぶ逃亡生活を続ける。整形手術を受け、ネオン街などを転々としながら潜伏する。異例の懸賞金500万円をかけられ、時効の21日前に、行きつけのおでん屋から通報される。高裁は無期懲役を決定し、和歌山刑務所で服役する。極度の貧困と、複雑な家庭環境の中で成長する。短文で、しかも描写が極端に省略された、独特の文章である。2005年に獄中で病死。享年 57。
3. 佐佐木吉之助 『蒲田戦記―政官財暴との死闘2500日』 (文春文庫、 2003年)
1996年の「住専国会」に証人喚問され、偽証罪などで逮捕される。二審で懲役2年執行猶予3年となる。慶応大学医学部を卒業し、病院を開業する。1971年に不動産会社桃源社を設立し、バブル期に一躍時代の寵子となる。巨額の土地投機により、世界富豪ランキングにも登場する。1987年に旧国鉄蒲田駅跡地を657億円で落札し、社会に衝撃を与える。自らの破綻は、銀行・ゼネコン・政府による「謀略」であると主張する。
4. 荒井まり子 『未決囚十一年の青春』 (現代教養文庫、 1994年)
連続企業爆破を行なった東アジア反日武装戦線「狼」グループの一員だとして、1975年、24歳で逮捕される。全共闘運動の渦中で法政大学を中退し、町工場で働き、看護婦を目指して短大に入学する。実行犯グループのために、爆弾の材料となる除草剤四〇キロを購入したことが罪に問われる。「精神的無形的幇助行為」により、一審で懲役8年。1987年に、獄中12年半ぶりに出獄する。姉は荒井まり子の逮捕直後に自殺した。
5. 見沢知廉 『囚人狂時代』 (新潮文庫、 1998年)
「スパイ粛清事件」、右翼ゲリラの実行犯として1982年に逮捕される。懲役20年の刑を受け、獄中12年を千葉刑務所で過ごし、35歳で出獄する。長期刑務所の中での厳しい「日常」をつづる。獄中では、狭山事件の石川一雄、浅間山荘事件の吉野雅邦などの「著名人」とも出会う。約7年間は、特別隔離舎房である「泣く子も黙る十一舎」で生活。獄中で書いた『天皇ごっこ』が新日本文学賞を受賞する。2005年に自殺。享年 46。

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〈人間学〉のススメ
馬本誠也 (イギリス文学)
  1. 内村鑑三 『後世への最大遺物』 (『世界教養全集9』 平凡社刊行、 1962)  物質主義や自己中心主義が横行している今の時代に、このような書物を紹介すること自体、アナクロニズムの誹りを免れないかもしれない。

     だが、この本を読み、私は久しぶりに本当の日本人に触れた思いがした。「生きる」ことの意味やこの世に生きる使命感を彼ほど純粋な力強いことばで語れる人は、そう多くないはずだ。ここに示されているいくつかの生き方は、おそらく真摯に自分の行き方を模索している青年の魂に深く訴えてくるのではないだろうか。

     わたしは、すべての学生にこの書物を推薦しようとは思わない。こころの奥底から聞こえてくる〈内なる声〉に耳を澄ますことのできる人であれば誰でもいい。「わたし」とは、いったい何者であるのか。自然界における人間の位置づけをどう考えるのか。「社会」と「個人」はどのように関わり合っていけばいいのか。およそ人文学部に身を置く学生であれば、内村鑑三のような高い志しをもった日本人の声に謙虚に耳を傾けて欲しい。〈文化〉の意味や、外国語を学ぶ楽しさとすばらしさが、すべてこのなかで語られている。

     この書物は、すでに過去数年にわたって紹介してきているが、今日の日本の時勢、日本を取り巻く世界情勢を考えると、どうしても今の若い人たちに贈りたい書物の一冊である。内村は、その中で、こう言っている。「われわれは、何をこの世に遺して逝こうか。金か。事業か。思想か。これいずれも遺すに価値のあるものである。しかし、これは何人にも遺すことのできるものではない。……何人にも遺すことのできる本当の最大遺物は何であるか。それは勇ましい高尚なる生涯である」

    ※ ここに紹介した内村鑑三『後世への最大の遺物』 は、図書館で検索すれば必ずあると思いますが、書店での入手は難しいでしょう。自分で所有したい場合には、インターネットの「日本の古本屋」を検索すれば、必ずどこかの古本屋が出しています。
  2. 吉田健一 『英国の文学』 (岩波文庫)  ずいぶん昔のことであるが、大学の文学部に入学して、さてこれから何を勉強していこうかと、漫然と思案していたとき、たまたま書店の本棚で見つけたのがこの書物であった。英国、および英国人の風土や文学をこれほど見事に語った書物は、そう多くないと思う。わたしがイギリス文学を専攻したのも、この書物に触れ、その感動を少しでも追体験したいという気持ちに駆られたからであった。爾来、この書物はわたしの本棚から消えたことが無い。折に触れ、その一部の詩や名文を味読している。たとえば、シェイクスピアの十四行詩をつぎのような名文に訳出している。

    君を夏の一日に譬えようか。
    君は更に美しくて、更に優しい。
    心ない風は五月の蕾を散らし、
    又、夏の期限が余りにも短いのを何とすればいいのか。
    太陽の熱気は時には堪え難くて、
    その黄金の面を遮る雲もある。
    そしてどんなに美しいものでもいつも美しくはなくて、
    偶然の出来事や自然の変化に傷つけられる。
    併し君の夏が過ぎることはなくて、
    君の美しさが褪せることもない。
    この数行によって君は永遠に生きて、
    死はその暗い世界を君がさ迷っていると得意げに言うことは出来ない。
    人間が地上にあって盲にならない間、
    この数行は読まれて、君に命を与える。

    このソネットの解説を始めとするシェイクスピアや幾多の文人を語る重厚な文体については、多言を弄する必要はないと思う。まず、手にとって読んでみることだ
  3. BBC活用法  昨年わたしは、この欄でジャパンタイムズ編の『ライブ・フロム・ロンドン』(ジャパンタイムズ社)を紹介した。これは、ナマのイギリス英語を現地で録音したものをそのままCD付きの実用書にしたものである。これでわたしは、行き帰りの通勤電車やバスのなかでだいぶ楽しませてもらった。不思議な感覚だ。目を閉じてウォークマンを聴いているだけで、こころはすでにロンドンに飛んでいる。このCDを聴いて思うことは、イギリス人だって時には言い間違えたり、文法的に正しくない英語を発していることがある、ということだ。まして、わたしたちは外国人だ。英語を話すことを躊躇したり、尻込みしたりすることはない。実用英語を身につけようとするならば、まず笑顔で話しかけてみることだ。今は昔と違ってネイティブスピーカーの授業を受けようと思えば、いつでも機会は提供されている。福岡大学は、ネイティブスピーカーの数だけでも全国有数のスタッフを擁している。学生諸君がこの教育環境の利点を積極的に利用されることを勧めたい。  しかし、本場の英語を日常的な場でもっとシャワーを浴びるように聞きたいと願う学習者に勧めたいのが、インターネットを利用した「BBC活用法」である。グーグル検索でも何でもいいから、〈BBC活用法〉と入力して検索すれば、その利用の仕方について具体的に教示してある。これで、学生諸君は日本に居ながらにして英国本国のラジオ放送五局を現在流されているかたちでそのまま聴けることになる。なかでも特に学生諸君に勧めたいのがひとつある。『英語学習者向け : BBC Learning English』のコーナーだ。ここをクリックすれば、テキストや単語の解説まで用意されているので、時事英語を勉強するには最適な教材だと言えよう。

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カネにならないものの価値
道行啓爾 (イギリス文学)
宇根豊著『天地友情の農学』(コモンズ)  「金銭の欲は、すべての悪の根」(『聖書』 「テモテへの手紙一」6章10節)とあるように、お金には負の側面があります。

 人間が発明したもののなかで、至極ありがたく、またいちばん厄介なものは「お金」でしょう。思えばカネにまつわる話題がいつも世をにぎわせています。悪徳商法や詐欺・脅し・忌まわしい保険金殺人など悪事が横行し、社会は狂ってしまっています。お金は諸悪の根源になりさがってしまった感があります。もちろん悪いのはお金ではなく、人間のほうですね。

 現代社会が陥っている困難な状況 ― 紛争、食料、環境、エネルギー、貧富格差等の問題 ― から脱却するにはお金儲けを善とする「常識」ははたして通用するのでしょうか。いつまでも金中心の世の常識にしがみついていると、金と心中、してしまうことになりはしまいか、心底心配です。

 そうならないためには、新たな「まなざし」が必要だと思います。つまり、カネにならないものに価値を見出す思想に耳を傾けてほしいのです。金銭主義に傾斜した価値観を問い直し、カネで評価できないものにこそ、おおきなめぐみが隠されていることを著者は伝えようとしています。「従来の農学は、近代化が進んでいるかどうか、 つまり生産性が向上しているかどうかで技術や経営を分析し、 優劣をつけてきた。 それに対して、 天地有情の農学は「非近代化尺度」 を提案する。 …労働時間が長くても、 労働がきつくても、 収量が少なくても、 収益が減っても、 働く喜びが増え、自然に対するまなざしが深まるなら、 価値があるとする尺度である。」 と著者は説いています。 「めぐみ」 とは、 いきがい、 幸福感、満足感をあたえてくれるもののようです。 同じ著者による 『国民のための百姓学』 (家の光協会)もあわせて読んで、 本当のところを理解してください。

 「カネになるものだけが生産ではない」 との著者のことばを、 あなたはどう受けとめますか?

 追記―知らないひともいるかもしれないから、 付け加えておくと、 実はこの著者にわれわれ全国民はこの上もない恩恵をうけています。 この人による 『減農薬のイネつくり』 他、多くの著作と働きかけによって、 全国で農薬使用が以前に比べかなり削減されたのです。 その結果、 環境汚染が軽減され、人間をふくむ生きとし生けるものすべてが被ったであろう甚大な被害が回避されたのです。

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『きみが読む物語』
毛利潔 (フランス文学)
最近(2005年2月)の週刊誌に「おじさんだって泣きたい映画!『きみに読む物語』(2004米)」という記事がありました。それに倣って、今回のタイトルを『きみが読む物語』としました。

では、どんな物語なのか?

 世界には無数の物語があって、そのどれかを、明確に、ひとつの《物語》として、意識して読むことができれば、それが誰にとっても、それが自分の物語になることははっきりしています。

 しかし、どんな物語なのか・・・?

 たしかに、この世界は様々な出来事に満ち溢れ、ほとんどすべてが謎に埋め尽くされた世界のようです。しかし、本当のところ、この世界はただ、古今の哲学が語るように、静かに風だけが吹いているだけの世界かも知れない、と考えることができるかも知れません。このような風景を描写できる小説が、もし、あるとすれば、たぶんそれが、「究極の小説」だと言うことができます。これまで、そのような小説を書くことのできた小説家は一人もいないからです。ただ、それに近い世界に接近できた作家は何人かはいることは確かです。

 その一人がトルーマン・カポーティ。
1. 『ティファニーで朝食を』 2. 『草の竪琴』 3. 『遠い声 遠い部屋』
(1、2は映画化されています)

 カポーティとは、では、どんな作家なのか? それは、いずれ分かります。ただ、私としては、カポーティに関しては、一つしか言うべきことはありません。それは、彼がこの世界に一番近い作家だ、ということです。

 たとえば、『ティファニーで朝食を』の中で、ヒロインが作家志望の青年の小説の習作をコメントして、「あんたの物語には(中略)ただ、木の葉のそよぎがあるだけ」というようなことを言う部分があります。つまり、この作品には、木の葉のそよぐ風の描写しかない、という訳です。

 こんな風に、何にも事件が起こらない、ただ、風が吹くだけ・・・こんな世界が本当に面白いのだろうか、ただ、うざったいだけかも知れない、と考える新入生の方には、とりあえず、村上春樹さんの小説をお勧めします。(ただし、『羊の歌』までの初期群の作品に限ります)。とりわけ、デビュー作の、その名もズバリ、『風の歌を聴け』です。

 おそらく、はじめは、何も分からないかも知れません。しかし、私たちが理解しなければならないことは、ひょっとしたら、そのような世界があるのかも知れない、という、普段は見えない世界を意識することではないか、と思っています。

 村上春樹を通して、カポーティが何となく分かった、となれば、後は皆さんの自由です。
いきなり、オカルトとかポルノの世界に入っても構いません。キーワードはちゃんと掴んでいるからです

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歴史と文学との垣根をとり払おう
森茂暁 (日本史)
福田秀一・岩佐美代子・川添昭二他校注
新日本古典文学大系『中世日記紀行集』(岩波書店)

 創造的な人生を送るには、柔軟な頭脳と大胆な発想とがまず必要でしょう。身近なことでは、たとえば卒業論文のテーマ探しや執筆のさい、このことは決定的に重要です。常日頃から固定的な物の考え方をしないで、自分の頭で物事をのびのびと考えてみましょう。ここでは、文学の史料は歴史の史料として充分に活用できるということを述べます。

 例えば、鎌倉初期成立の『平家物語』、鎌倉末期成立の『徒然草(つれづれぐさ)』、南北朝末期成立の『太平記』などは、高等学校の段階まではいずれも文学作品として扱われ、古典の時間に読まれます。しかし、このような作品は同時代の歴史を知るための史料として極めて有用で、価値の高いものです。今度は歴史の史料として再読しましょう。むろん原文で。この場合肝心なのは、一部分ではなく全部を読み通おすことです。きっと感動が湧きおこります。古典のもつ不思議な力です。

 さて、冒頭にあげた書物はそれに類するものです。日本中世の紀行文(旅行記)が多く収められています。中世日本人の旅行意欲をかきたてたのは(すべてが単なる旅行ではありませんが)、十四世紀の南北朝の動乱を通した人々の地理的視野の広がりだと筆者は考えていますが、この動乱を契機に国内を旅する人が増えてきます。そのようななかで、紀行文が書かれるわけです。それらは主として国文学のジャンルで研究の素材となってきましたが、歴史の方ではほとんど無関心です。

 このような紀行文が、どのような意味で歴史研究に有用かというと、たとえば、阿仏尼(あぶつに)の「十六夜日記(いざよいにっき)」は、十三世紀後半(鎌倉時代)の所領訴訟関係史料としてはもとより、東海道(京都と鎌倉をつなぐ基幹道路)の交通史の史料としても使えますし、また、連歌師宗祗(そうぎ)の「筑紫道記(つくしみちのき)」は、十五世紀後半(室町時代)の筑前・豊前国(福岡県)、特に博多の人々の生活や周辺の景観をくっきりと描き出しています。一例をあげますと、筥崎宮(はこざきぐう)を訪れた宗祗(そうぎ)は博多湾をへだてて、夕日のなかの可也(かや)山(福岡県糸島郡志摩町)をながめ、「富士に似たる山」と感慨深げに書き留めています。同記は、大内氏研究のための史料としても貴重です。

 同書では丁寧な脚注や解説が施されていますので、容易に読み進むことができます。さあ、実際この本を手にとって、読んでみましょう。

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「嫉妬」 の詩学/史学
山内正一 (イギリス文学)
シェイクスピア (福田恆存訳) 『オセロー』新潮文庫 1973年
山内昌之 『嫉妬の世界史』 新潮新書 2004年

 最近、久しぶりに『オセロー』を読み返す機会をえました。きっかけとなったのは、『嫉妬の世界史』という本の内容です。著者(東京大学大学院教授)は国際関係史とイスラーム地域研究の専門家。歴史学者の視点から歴史上著名な人物たちの生きざまを「嫉妬」という切り口で論じた、興味深い本です。嫉妬する側とされる側の両面から、人間の心の葛藤や心理のあやを解きほぐしてくれます。自分もその一員である〈人間〉を知る上でたいへん有益な書であるように思われます。

 「嫉妬は女のさがであり、男は嫉妬しないと言う人もいる。(中略、段落)しかし、男も嫉妬するのだ」(『嫉妬の世界史』11―12 頁)という観点にたつ著者がシェイクスピアの『オセロー』に言及するのは当然です(13―15、162頁)。この大文豪の戯曲の中では「緑色の目をした怪物」(三幕三場)と呼ばれる「嫉妬」 ― それも男の嫉妬 ― が大活躍をするからです。「嫉妬」という漢字には女偏がついています。どうやら世間では「嫉妬」は女性に特徴的に見られるものと思われているようです。しかし、『オセロー』の作者は「嫉妬」を男の激情として余すところなく描いてみせます。デスデモーナ(主人公オセローの妻)もエミリア(悪党イアーゴーの妻)も、いや娼婦のビアンカですら、『オセロー』に登場する女たちはみな、病的な「嫉妬」とは無縁の存在です。そのことによって、彼女たちは男の激情(嫉妬)の卑しさと醜さをあざ笑っているようにさえ見えるのです。

 作品『オセロー』における「嫉妬」の火つけ役はイアーゴーです。上官であるオセロー将軍を「嫉妬」の餌食にして私怨を晴らそうとするこの悪漢の行為は、彼の策謀の徹底した悪辣さゆえにしばしば「動機不明の行為」(原因と結果が不釣り合いな行為)と目されてきました。しかし、筆者が見るところ、シェイクスピアは十分すぎるほど明瞭にイアーゴーの復讐の動機を劇中に書き込んでいます。ひとつは、自分を差し置いて副官に昇格した同僚キャシオーへの「嫉妬」とキャシオーを抜擢したオセローへの憎しみ(『オセロー』9―10頁)、次に自分の妻を寝取った(ことが疑われる)オセローとキャシオーに対する「嫉妬」と憎悪(39―40、56頁)、加えて将軍の妻デスデモーナへの横恋慕(56頁)、最後にイアーゴーの貪婪な物欲・金銭欲(37―38、 142頁)。これだけ揃えば、イアーゴーがオセローに復讐を企てる動機としては十分でしょう。

 イアーゴーは怪物でも悪魔でもありません。多少誇張されてはいますが〈人間〉という一点において私の一部であり、あなたの分身でもあるのです。もともと他人には厳しく自分に甘いのが、人間ではないでしょうか。同僚キャシオーの昇進に「嫉妬」するイアーゴーは、「おのれに甘くて人に厳しい」人間評価を下す人物の典型です。他人の欠点は見えても、自分のそれは見えないのです。別の言い方をすれば、イアーゴーは自尊心の固まりです。イアーゴーの「嫉妬」(「緑色の目をした怪物」)は、傷ついた彼の自尊心という手負いの怪物の子供なのです。同様のことがオセローにも当てはまります。彼は人一倍名誉を重んじる武人・軍人です。誇り高いこの将軍が、部下のキャシオーに妻を寝取られたと、イアーゴーに吹き込まれるのです。彼の自尊心が傷つかぬはずはありません。ここからオセローの「嫉妬」に火がつくのです。ところで「自尊心」を意味する英語 pride には二つの意味があることをご存じですか。「誇り」と「傲り」です。前者が良い意味で用いられるのに対し、後者はキリスト教では「七つの大罪」のうちのひとつに数えられます。(単語 pride の二つの意味を巧みに用いて主題化した小説が、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』。)

 『オセロー』の作者シェイクスピアは、人間の「プライド」の両面性とそれが孕む恐ろしさを熟知していたに違いありません。イエスが「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(「マタイによる福音書」二三章一二節)と諭したのも、同じ理由からです。旗手イアーゴーのプライドと将軍オセローのプライドを同一視するのは解せない、との不満の声が聞こえてきそうです。しかし「一寸の虫にも五分の魂」という諺を思いだしてください。弱者や小者の「プライド」を侮れば、オセローの二の舞にもなりかねません。

 皆さんは意外に思われるかもしれませんが、オセローの悲劇の中心的主題は「嫉妬」ではありません。真の主題は、『オセロー』とほぼ同じ時期に書かれた他の悲劇同様、外見 appearance と真実 reality をめぐるテーマ ― 軽信と妄信と不信のテーマ ― です。非凡な主人公が ― さまざまな要因で ― 事の真相を見誤るところから悲劇は生まれます。オセローの悲劇の原因は、彼が部下のイアーゴーの人柄と言葉を盲信し、妻デスデモーナの本当の姿を見誤った点にあります。彼の「嫉妬」はその結果にすぎません。『オセロー』の場合には、夫婦愛、男女間の愛をめぐってこのテーマが展開されます。読者はイアーゴーの恋愛観や女性観(37―38、 46頁)とオセローのそれ(51―52頁)との根本的な相違に気づかねばなりません。前者は肉欲と打算に支えられたもの、後者は親子(父娘)の絆にも勝る、深く強い愛です。オセローの真の悲劇は、〈愛〉に対する彼の理想が潰えた(そう主人公が思いこまされた)ところにあるのです。おのれの過ちを悟り自害するオセローの最後の台詞は、そのことを語っています ― 「ただどうしてもお伝えいただきたいのは、愛することを知らずして愛しすぎた男の身の上、めったに猜疑に身を委ねはせぬが、悪だくみにあって、すっかり取りみだしてしまった一人の男の物語。それ、話にもあること、無智なインディアンよろしく、おのが一族の命にもまさる宝を、われとわが手で投げ捨て、かつてはどんな悲しみにも滴ひとつ宿さなかった乾き切ったその目から、樹液のしたたり落ちる熱帯の木も同様、さん然と涙を流していたと、そう書いていただきたい」(178頁)。オセローを自分と同じ「嫉妬」の地獄に落とすことを画策したイアーゴーの手の届かぬところに、いまオセローはいます。オセローは以前とは人が変わったのです。悪党が味わった「嫉妬」とは異なる感情の高みに、いまオセローは昇っているのです。真実の〈愛〉への信頼の回復、これこそシェイクスピアが最後に主人公に用意した救いです。

 シェイクスピアの人間観察には畏ろしいものがあります。彼は一連の悲劇で人間の弱点をえぐりだすだけでなく、その弱さのなかに潜む強さや輝きをも描いてみせます。シェイクスピアは、われわれが善と信じるものの内に悪の種を、悪と見なすものの中に善因を洞察します。人間が、人生が一筋縄ではいかないことを、この天才は知り尽くしているのです。(新潮文庫版『オセロー』には劇の種本となった原話からの一節が収載されています。原作を天才がいかにみごとに翻案したかを自分の目で確かめてください。)シェイクスピアは人間の悲劇を提示するだけでなく、そこからの脱出法も抜かりなく教えてくれます。『オセロー』の場合、それはデスデモーナの祈りのことばに見られます ― 「神様、どうぞお力を、悪意から悪を学びませぬよう、それを鏡に自分の悪を正すことが出来ますよう!」(151頁)。

 『嫉妬の世界史』は、架空の人物オセローへの言及こそあれ、もともと歴史上実在の人物を扱った書物です。「嫉妬」する側、される側とにかかわらず、そこには古今東西変わらぬ人間の悲しく恐ろしくも、滑稽なドラマが綴られています。この本の終章「嫉妬されなかった男」は紙数の多くを江戸時代の政治家、保科正之に割いています。この「知足の人」「嘘をつかない政治家」を賞揚する際に、著者は政治に携わる者に対して警鐘を鳴らすことを忘れません ― 「注意すべきは、一時の嫉妬を恐れるあまり、自分が国を愛することでは人後に落ちず金銭の誘惑にも負けない人間だと、威厳や赤心を示すのを忘れてしまうことである。時には勇気をもっておのれを語らなくてはならない」。ここに紹介した、「嫉妬」をめぐる二冊の本は、人間の弱さと強さを示唆してやみません。歴史学はいざしらず、文学はすぐ何かの役にたつことはないかもしれません。しかし、人間を観察し、人間を学び、人間力を磨くためには欠かせないものではないでしょうか。一読を勧めるゆえんです。

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寄席はよせ
山田英二 (英語学)
古今亭志ん生 『なめくじ艦隊』 (ちくま文庫、 1991年)
『びんぼう自慢』 (ちくま文庫、 2005年)

 君は、「古今亭志ん生」ってぇ名前を聞いた事があるかぃ?
 古今東西、破天荒と形容された天才肌の人間は数多いが、しかしこの人ほど八方破り、天衣無縫ぶりを愛された噺家(はなしか)はおそらく他にあるまい。本名は美濃部孝蔵といって、四九才で五代目志ん生を名乗るまでに、十六、七回も芸名を変えている。自分が生まれた日付けも両親の名前も、間違って覚えていたらしい。身の上話に一貫性を欠き、生い立ちからしてすでに怪しい男である。明治二三年に生まれ、長い下積み時代を経て、「大ブレーク」したのが六十過ぎてからで、昭和の半ばに八三才で没した。
 噺がいつも少しずつ違っていた。貧乏がウリだった。家賃がタダだったので、なめくじの這う貧乏長屋に住んでいた。「五、六寸ぐれえはあった」ソーセージのような大きい大きいなめくじは、「こん畜生ッ、てんで、塩をかけても溶けるどころか、頭をピョイ、と振って塩を振り落としてしまった。錐で突いたって血も泪もでねえやつなんですよ」。なめくじ、蚊、こおろぎを友? とし、雨漏り長屋で猛勉強、生涯の噺のネタは六百あったともいわれる。老いて毎日冷やで一升という酒豪であったが、ある時酔ったまま高座に上がり、御辞儀をするや前のめりに寝てしまった。前座が慌てて駆け寄ると、「そのまま寝かせといてやれ。」とヤジが飛ぶ。脳溢血を経た晩年は、ろれつもまわらなくなったが、「しゃべんなくてもいいんだ、志ん生さんが高座にでてきてくれるだけでいいんだ。」とまで客に言わせたという語りの神様である。

「身体(からだ)ひとつ、客ひとりから始められるんだ、落語って芸は。」
「貧乏はするもんじゃありません。味わうものですな。」

さんざんな貧乏自慢の果てに、師匠はこういう。

「こういうことは、学校では教えねえ。」
「どんなにきまりの悪い思いをしても、生きていれば、また花が咲く。それを、苦しいからって心中したりしてると、あたしなんざ、いくつ命があっても、足りなかった(笑)。二度とこの世に生まれてくる事は、できねえんだから、テキを作らないで、一日でも楽しく暮らしていく。」

 そんな彼の肉声を聞く事は残念ながらもう出来ないが、百円ショップにCDが置いてあるという、いいのか悪いのかわからない時代だ。「淀五郎」など雨の夜にひとり聴いてみるのも粋かもしれない。まぁとにかく学生諸君、寄席はよせ。クセになる。

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大嶋先生の著書
山田洋嗣 (日本文学)
大嶋仁『精神分析の都 ブエノス・アイレス幻視』
『表層意識の都 パリ1991―1995』
 大嶋さんは散歩をする。大嶋さんは喫茶店が好きだ。旅をしても自分の街でもまず喫茶店に行き、本を開いたり話をしたりする。喫茶店は「括弧」か「句読点」のようなもので、全体から切取られた一画でありながら、一つの喫茶店はその街を集約しており、その外には街が広がって、そこから街を感じることができる。大嶋さんは人と人の作り出したものの中に身を置くのが好きなのだ。しかも外に侵されずきちんと自分自身を保持して、感じ、考える。これらはそうしてできた本である。こういう人は本質的に見る人である。そして、見ることは愛することだ。ここにはこの二つの都に住んで得た見聞と体験、そこから感じ、考えたことが書かれている。パリの方の初めに「サルタンバンク」という前書きがある。旅芸人のことだそうである。

 この言葉はこの二冊の本質を表す言葉だ。大嶋さんは外国に出て日本文化を講じていたこの期間を旅芸人のようなものと思ったという。本当の芸人の芸はすでに彼の肉体そのものになっていて、改めて特別な意志を必要としない彼の自然である。芸人は自然の中にいて旅をしつつ芸を見せる。では、芸人は見られるのであるか。そうではない、彼は旅をしつつ芸を通して旅と観客を見るのである。読んでいくと、随所にきちんと見える目を持った一個の精神の動きというものを感じるであろう。それとも散歩する精神か。読者はこの目が教える、パリとは、ブエノス・アイレスとは何か、あるいは精神、文化、人間とは何か、といったものを「ひとつの記録」として読み取ることができる。だが、実は、このきちんと見える目を持った精神の見事なふくよかさを味わうのがこの二冊を読む妙味である。そして我々を幸福にするのは、文章の底に漂う甘すぎない透明な叙情だ。名文である。それは、ブエノス・アイレスの口絵にある、チュウスカというマラーノの画家の絵「ブエノス・アイレス・ブルース」ともよく見合っている。

 幸福といえば、大嶋さんは今、唐津の街と福岡の街を歩いている。このキャンパスも歩いている。このことも嬉しいこととして書き添えておかなければならない。大嶋さんと一緒に喫茶店に入ることもできるのだから。

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言葉そして言葉の彼方へ
山中博心 (ドイツ文学)
『日本の美 その夢と祈り』 宗左近 (日本経済新聞社)
『断片と線』 清岡卓行 (講談社)

 宗左近氏は詩人、歌人であるばかりか焼き物や絵画にも造詣が深く、非常に感性豊かな芸術家です。氏の有名な詩編『炎える母』は第二次世界大戦で死なせてしまった母への鎮魂を詠ったものです。その鮮明なイメージが私の心に焼き付いています。上記の本の印象に残った箇所を擧げておきます。
 「無がゆらぐ。そのとき、時間が生まれるか?生まれない。むしろ、時間以前に戻る。この状態を、わたしは未生未死と名付ける。これは、おのれがおのれを見るときの、主体であるおのれ(=未生)と、客体であるおのれ(=未死)の状態である。そして、その主体と客体の合体したおのれの状態である。生きてもいず、死んでもいない。生きていなくもなく、死んでいなくもない。時間以前である。そして空間以前である。」(16 頁)
 清岡卓行氏も詩人であり、『アカシヤの大連』で芥川賞を取られた作家です。推薦書の中には文学のことだけでなく、青春時代に野球に情熱を傾けたこと、モーツアルトに聞き惚れたこと、生まれ故郷大連のことなど心の琴線に触れる文が載せられています。同じく引用をひとつ。
 「われわれが他の人間あるいは人間の集合体に対する時、あるいは更に根元的に他の生物に対する時、われわれの自由は無疵ではあり得ない。そこには何等かの衝突があって疵は疼き始める。一個の人間を愛することが自己の喜びであっても、その対者がその愛を拒否する時、われわれは悲しまないでありませうか。自分と同様に他人にも神聖な自由がある。自分の幸福を以て他人の幸福を傷つけないといふことはここにおいて悲しい倫理であり、われわれの胸奥に住む信ずるに足る神でありました。」(57頁)

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考える力のために―パスカル『パンセ』のすすめ―
輪田裕 (フランス文学)
 世はIT時代。情報を手にいれるための道具はますます便利になって、音楽も、かつてのカセットテープのためのウォークマンなど全く比較にならないほど、音質も容量もすぐれた機器が出現しています。昔の話ですが、LPレコードで音楽を楽しんでいた私には、針が飛ばないように身動きにも気をつけながら耳を澄ましていたころのほうが、今よりも音楽を聴いたという実感があったような気がします。語学も、いまや電子辞書でらくらく単語をひくことができます。でも便利になって語学は上達したのでしょうか。確かに同じ労力をはらっていれば、かつて以上に上達しているに違いないのですが。

 さて、ここに紹介するパスカルの『パンセ』は文庫本に収まるほどの量にすぎません。それも断片の寄せ集めなので最初から最後まで通して読むことが求められるものではありません。一つの断片は、短いものなら数秒で、長いものでも15分もあれば読み終わる長さです。その断片のどこから読んでもいいし、どこで終わってもいい。仮に意味を取り違えてしまっても、誤解も一つの読み方なのだと思わせてくれる一冊です。では、気楽な随筆なのかといえばそうではない。簡単に分かってしまうものは少ない。何度も読み返すこと、行ったり来たりすること、さまようこと、そうしているうちに少しずつ理解できてくる。はっとする言葉に出会ったり、反発を感じたり、つまり「こころ」に何かがひびくとき、それがパスカルの声が直接聞こえたときです。

 考える力、などというといかにも論理的思考を意味しているように思うかもしれませんが、実は「さまようこと」なのではないか、と思います。あるいはそのように「さまよう力」といってもいいでしょう。さまようのは手引きとしてのマニュアルがないからです。わたしたちの生きる世界にはマニュアルはありません。たとえマニュアルがあったとしても、それはすでに「今」には通用しないものです。「今」を生きるためには、さまよいながら自分で作るマニュアルが必要です。つまり、自前のマニュアルです。

『パンセ』を読み、自前のマニュアルを作ることができるように、さまよう力をつけませんか?

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Ⅱ. 探索の勧め
Volunteer 活動
Tim Cross (Communication and Media Studies)
Finding part-time work has become part of the student experience. It is important to learn the skills of job-seeking early, and to be able to find work that suits you. I hope you also think about doing some volunteer work.

Being a volunteer for a NPO or community group will teach you a whole range of skills that will be very useful when you graduate from Fukuoka University. Learning these interpersonal skills by cooperating with groups of people is something that you probably wouldn't be able to learn from taking a university class. If you do two or three years of volunteer work, you will also build up a network of contacts with a wide range people who will be happy to help you find your way after graduation.

If you do a web search using "福岡" and "NPO," you will be surprised at the range of possibilities to select.

Good luck for the adventures ahead of you!

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お祭り見学の勧め
白川琢磨 (文化人類学)
 主に福大に入学する皆さんは、九州か中国・四国出身の人が多いだろうから、「もう一度」お祭り見学の勧めと言うべきだろう。幼い頃から少なくとも何回かは近所の神社や寺のお祭り、あるいは民俗行事に参加した経験があるかもしれない。だが年を経て自然と足が遠ざかり、大学受験を控えてお祭りなどに行っている場合じゃないと思っていたかもしれない。しかし今、改めて行って欲しいのである。そこに集う人々が何を語り、何を楽しみにしているのか、またどのような神仏に何を祈り、何故に来るのか、じっくり耳を傾け、しっかりと経験して欲しい。そのようにして君らにはまず立派な「ネイティヴ」に成って欲しい。

 大学に入って「文化」を研究するのであれば、そうした君らの経験を再度「他者」の視線から捉え直すことになる。しかしそれはそれ程難しいことではない。近代人類学は、「異文化」に「他者」として参入することを業としてきた。だが人類学者という「他者の語り」におとなしく耳を傾ける「未開社会」などもう世界の何処にもありはしない。世界各地でネイティヴたちは、しっかりと自らの文化を語り始めたのだ。その力強い語りを前に、近代人類学という巨人はしばしその歩みを留めているのである。西欧の人類学者の殿(しんがり)に連なってきた日本の人類学にとって、その影響は深刻である。我々は一体何者なのか? 日本は西欧と同じく研究する側なのか、それとも異文化として研究される側なのか? 答えはその両方であろう。研究し、そして研究されるのである。ただし、前提がある。「ネイティブとして」である。日本のアフリカ研究の草分け、和崎洋一氏は、亡くなる前に「先生がもう一度生まれ変わって研究するとしたら何処でしょうか?」との問いに躊躇なく「日本」と答えたそうである。ポストモダンの時代に生きる我々は、大和崎が二つの人生に分けた課題を一時に果たさねばならない。そのためにはまず我々はネイティヴに成り、ネイティヴを磨かなくてはならない。

 昨年は一年かけて「鬼」というネイティヴの産物を追いかけてきた。写真家の清水健さんと共同で文藝春秋の平成一九年一月号にグラビア特集が掲載されているので関心のある人は見て欲しい。天念寺の修正鬼会を撮り終えた後、国東半島の宿で夜遅くまで語り合ったが、「いやーそれにしても九州は奥深い凄い所ですね」と感に堪えたように呟いた。ナショナルジオグラフィックの撮影で世界中を飛び廻り、今回の特集では全国を撮影して歩いた清水さんの言葉である。それに励まされて私は思わず書いてしまった。「九州は鬼の宝庫である。」実は鬼だけではない。ネイティヴを育成し醸成する豊かな土壌に恵まれているのである。祭や民俗芸能はそうした豊かな土着の集合表象に触れる絶好の機会である。

 今年の暦も既に動き始めている。正月七日夜、久留米大善寺の大松明の灯と煙に咽びながら闇夜に紛れる鬼を追うことから始まり、十四日には志賀海神社で大宮司四良、別当五良ら若者八人が渾身の力を込めた歩射の力強い矢鳴りを聞いた。やがて節分、さらに「松会」、桜の開花の頃から駈仙(ミサキ)が活躍する勇壮な神楽が始まる。そして汗ばむ季節になると各地で「山笠」の声が聞こえ始める。出身地は元より、福岡に来たら近郊の祭に足を運んで欲しい(福岡民俗芸能ライブラリー http://www.fsg.pref.fukuoka.jp/e_mingei/index.asp)。必ず、何か得るものがあるはずである。文字に書いてあるものだけが価値があるという偏見を捨て、祭や芸能という生きた教材を是非経験して欲しいものである。

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古本屋に行こう
関口浩喜 (哲学)
 福岡市内にはかなり良い古本屋が、かなりの数、揃っている。(注1)。 思いつくままに挙げても、六本松には葦書房、三和書房、天導書店、鳥飼には出島書店、薬院には幻邑げんゆう堂、唐人町には田中書店、赤坂にはバンド・ワゴン、大名には入江書店と痛快洞、荒江には太陽書房と、どれも何度でも訪れ、その棚に並ぶ書物を見るに値する古本屋である。

 ただし、このうちの三和書房はある意味で上級者(マニア)向けの店なので注意を要する。というのもこの古本屋には、整理整頓などという、俗世間のいじましい徳目はかけらほどにも存在しないからである。狭い店内には、かなり汚れ傷んだ古本が無秩序かつ無軌道に積み上げられており、進入不可能な場所さえある。長い年月を経て形成されたと思(おぼ)しき古本の堆積層のなかには、時折、他店では決して見かけることのないめずらしい本が埋もれていて、それを発掘することに古本上級者(マニア)は無上の喜びを覚えるが、この喜びを上級者(マニア)でない(ということはつまり、まともな)人々が同じように味わえるかといえば、それはまあ無理というものであろう。店の主人(おやじ)は、奥の、そのまま「昭和生活博物館」の展示物になるのではないかと思われる畳座敷でたいていテレビをつけっぱなしにしたまま昼寝をしていて、私などはこの光景のうちに人間の生き方のひとつの模範と規範を見出すが、しかしこれまた普遍的に共有されうる判断とはいいがたい(私自身は、かつて河原晉也が詩人鮎川信夫に捧げた「幽霊船長」という呼称(注2)に倣(なら)って、ひそかにこの店主のことを幽霊船長と呼んで敬意を表している)。 ― ちなみに私は乱雑な環境にかなり耐性がある方だが、それでもこの店ぐらいまでが限界である。数年前、九州某県のある古本屋に入ったときには、そのあまりの乱雑さに腰を抜かさんばかりに驚いた。潰れたスーパーマーケットをそのまま古本屋にしてしまったらしい広い店内には、棚のみならず床の上に大量の古本が、これは並べられているというより、打ち捨てられているという表現の方が明らかに適切なしかたで放置されていた。天井から「MEAT」と書いてある看板が斜めにぶら下がっている脇を通って、「FISH」という表示が往時を偲(しの)ばせる一角にまで恐る恐る歩みを進めてみると、あたりの床には下水溝が縦横に走っていて、そこから発生する瘴気(しょうき)に当てられた私は、ついに古本の山を前にしてほうほうの態で逃げ出した。帰路、思わず保健所に連絡しそうになったほどである。むろん、消毒の要請のためにである。

 しかし、こんな古本屋を紹介していたのでは、「古本屋に行こう」という勧めにまったくならないので、慌てて軌道修正する。右に述べたのはあくまでも例外中の例外である。例えば、ちょっと足を伸ばすことになるが、小倉には「古書城田」という、洒落た内装の古本屋があって(けやき通り沿いにある「キューブリック」という本屋に似た内装といえば、その雰囲気が多少はわかってもらえるかもしれない)、これは私がかなり気に入っている店である。店内の棚に整然かつ優雅に並べられた本それ自体の良さもさることながら、その配列のしかたからは、店主の見識の高さが見てとれる。(注3)。長年探していた由良君美の還暦祝いに捧げられた論文集『文化のモザイック』や、三年前に忽然と世を去ってしまった種村季弘(すえひろ)の第一期の著作集『種村季弘のラビリントス』が全巻揃いであっさりと(安価で)手に入ったのも、この店においてである。

 実のところをいえば、古本屋めぐりを本格的に行なおうとしたら、福岡だけでは足りず、東京に行かなければいけない。東京の神保町、及び早稲田の古本屋街に行かなければいけない。東京はこれといった名所に乏しい土地柄だが、こと古本屋に関しては侮(あなど)れない土地である。近々東京を間違いなく見舞うであろう大(おお)地震によってこれらの古本屋街も、そこに蓄えられた大量の古本と共に灰燼(かいじん)に帰(き)すことが運命づけられているから、そうなる前にこれらの古本屋街のもつ迫力と魅力を自らの目で確認しておくことが望ましい。かような運命を念頭に置きつつ神保町で古本を手に取るとき、この世の無常がひしひしと身に迫り味わいも一入(ひとしお)である。交通費の算段を無理につけてでもいま行っておくだけの価値はある。

 と、ここまで書いて、なぜ古本屋に行くことを勧めるのか、その理由を詳(つまび)らかにしていないことに気がついた。しかし私にとって、古本屋に行くという行為はあまりに自明なことなので、その理由を改めて他人(ひ と)様に筋道立てて説明し「勧める」ことはひどくむずかしい(どうやら私はこの文章の題名の選択を誤ったようだ)。かろうじていえるのは、必要な本、読みたい本はすべて新刊書店か図書館で手に入るものだと考えている人は、無邪気なまでに幸せであるという嫌味ぐらいのものである(人文学部に入学した学生である以上、必要な本、読みたい本があるのは当然の前提としよう。 ― これも嫌味だね)。本も幸福と同様、あちらから歩いてきてはくれない。だからこちらから歩いて行くしかない。(注4)。そして、私の経験からすれば、古本は幸福よりもかなり手に入れやすいのである。というわけで、幸福が手に入らないのならせめて、古本屋に行こう。行きなさい。行くべし。行け。

注1 しかしながら、福岡の古本屋事情は必ずしも楽観を許さない状況に置かれている(これは福岡に限った話ではないが)。とりわけ、箱崎九大周辺の惨状には目を覆いたくなるものがある。ここ数年のうちにかなり良質の古本屋が次々と店を畳んでしまった。私は、大学近辺にある古本屋が閉店してしまうことに関して、その責任の大半は当該大学の学生及び教員にあると固く信じている。九大(よそさま)のことはいえない、福大(うちのだいがく)もつい数年前、大学近くに開店した古賀游文堂という、なかなかの選択眼をもった店主の営む古本屋を短期間のうちに閉店に追い込むという文化的失態を演じている。

注2 河原晉也の遺稿集『幽霊船長』(文藝春秋社、1987年)を参照のこと。なお、師鮎川信夫のあとを義理堅く追うように四十四歳という若さで逝(い)ってしまった「ペンキ屋」こと河原晉也がこの本で用いた魅惑的なフレーズを本稿で一箇所、こっそり借用している。

注3 「古書城田」と比べると洒落た内装とはお世辞にもいえないが、そして扱う本の分野はかなり異なるが、赤坂某ビルの地下にあるバンド・ワゴンも、店主の見識の高さを感じさせる店である。スペースが許せば力を込めてこの本屋の美点を並べ立てたいところである。

注4 何もわざわざ古本屋まで足を運ばなくともインターネットで注文すればよいではないか、などというなかれ。たしかにインターネット上には複数の古本関係のサイトがあり私も重宝している。しかし当たり前のことだが、すべての古本屋がインターネット上で在庫目録を公開しているわけではないし、公開されている在庫目録が在庫のすべてを尽くしているわけでもない。したがって、やはり自らの足を使って一軒一軒古本屋を廻らなければならないのである。とりわけ、若いうちは(私もこんな言葉を使って若い人に説教できる年齢になったのだと感慨に耽りたくなる)自ら古本屋に足を運び、自らの目で本を眺め自らの手で本に触れなければならない。

(*本稿は、文化学科フォーラムが発行している機関誌『LCジャーナル』第三号に掲載した文章を一部書き改めたものです。)

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博物館へのいざない
武末純一 (考古学)
 博物館へ行ったことがあるだろうか。人文学部の新入生ならば、すでに一つか二つはあるだろう。しかし大学生には大学生なりの見方がある。行ったことのない人はまず特別展を見に行くのが良い。

 私の専門は考古学、モノから歴史を考えていく学問である。以下は、博物館などでひらかれている考古学関係の特別展へのささやかな招待状である。

 特別展は、秋の文化シーズンにあちこちの博物館や資料館で開かれる。このごろは夏休みや春休みに開くところも増えてきた。内幕をいえば、特別展を開く → お金がかかる → その分だけ多くの入館者が欲しい(でないと来年の予算にもひびく)→ 学生が休みで大人も活発に動く夏や春に開こう、という発想がほとんどだが。でも特別展は楽しい。

 楽しさの一つは、それまで写真や図でしかみたことのなかった実物に会えること。せっかくの機会だから、上から、下から、横から、斜めから、じっくりと眺めて、どのように作られ、どんなふうに使われたかを想像しよう。もちろん、図録や横にそえられた解説文に答えがのっている場合もあるし、それを理解するのも大事だが、それよりも大切なのは、答をうのみにしないで自分で考えること、自分の疑問をもつこと。

 二つ目は、あちこちに発掘品が一か所に集められていることである。それぞれの保管場所に行って見せてもらうととんでもない金額になるから、一見高そうに見える特別展の料金も実は安いものである。

 それと、いつもは全く別のところにあるモノ同士がすぐ横に並ぶから、比較ができる。これはけっこう大事である。何回もいったりきたりして見比べ、「似た形だけどここが違うな。これは出たところが違うからかな、それとも作った時代が違うからかな」「へー、こんなに遠く離れて出ているのにそっくりじゃないの」など、自分だけの発見ができればしめたものだ。

 三つ目は、発掘の記録は報告書という形で本になるが、手に入りにくいし、入ったとしても一般の人が読み通して理解するのはけっこうシンドイ。でも博物館では、そうした成果をできるだけ噛みくだいて、どんな発見があったのか、何がわかったのか、どういう問題が出てきたのかを、実際にモノを示しながら説明してくれる。

 ちょっと変わった楽しみ方もある。学芸員になった気分で。この照明は展示品のどこを強調しているのか。自分だったらこういう角度でここをみせたい。このパネルはなぜこの大きさでここにかけられているのだろう。展示品をきわだたせるためにどんな形や色の台を使っているのか。なぜこの展示品とあの展示品の間がこの位空いているのか、などなどなど。

 そう、ここまでくれば、もう特別展だけじゃなくて常設展でも十分に楽しめることがわかってくる。まずは福岡県内あるいは故郷の博物館だ。

 昔の博物館は、展示品がケースの中に重々しく鎮座し、いかにも「見せてやる」といった感じが強かったが、いまでは〈さわる〉〈作る〉〈使う〉などの体験コーナーも整いつつある。充実したミュージアムショップや市民ライブラリー、しゃれたレストランもけっこう多い。講堂や入り口のホールで演奏会を開くところも出てきた。〈博物館は古くさい〉というイメージは消え始めている。

 自分の知の世界を広げるために博物館をのぞき、どれでもいいから、自分の心にとまった展示品をスケッチする。そんなすてきな時間を作ってみたらどうだろう。

 なお老婆心から蛇足を一つ。ゆめゆめ月曜日のデートの場所に博物館や美術館は指定しないように。日本では月曜日は休館日なのだから。

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アジアからの視点
則松彰文 (東洋史)
 1月のある火曜日の夕刻、私は札幌から帰ってくる家族を出迎えるため、福岡空港のロビーに居た。しかし、東日本に降った大雪の影響で飛行機はかなり遅れるとのこと。私は、喫茶店でコーヒーを飲みながら時間をつぶすことにした。

 さほど広くはない店内に客はまばら。いつもの空港特有のざわつきはなく、比較的落ち着いた雰囲気である。そのせいか、三つほど離れた隣席の男女二人連れの客の会話が、窓際カウンター席に座った私の耳に聞くとはなしに入ってきた。

 六十近い年恰好の男性客が、連れの若い女性に向かって熱っぽく語っている。

 「今の中国はねえ、もう金、カネ、かね……金が第一。中国人は日本人と見ると金をかすめ取ろうと、あの手この手で近づいてくるんだ!」
 「へえ~っ、そうなんですかぁ~」

 男性は自らの経験に基づくものか、具体例をあげて女性に語り続けているらしいが、声のボリュームを落としたために詳細は聞き取れない。女性はといえば、この話に興味があるのか無いのか「そうなんですかぁ~」を連発している。二人はコーヒーを飲み終えると、これから飛行機に搭乗するのか、バタバタと店を出て行った。この男性がこれまで何を経験し、一体中国で何があったのか? 話を聞いた女性には中国・中国人がどのようにインプットされたのか? 勿論、私には知る由もない。しかし、この会話に接した後の私の脳裏には、次のような想いが浮かんできたのであった。

 近年経済成長の著しい中国。ここ数年、年平均で二ケタを超える経済成長率を維持し続けている。しかし、沿海部と内陸部、都市と農村、持てる者と持たざる者の間においては気の遠くなる程の経済格差・生活水準の落差が存在する。実際、中国に一歩足を踏み入れると、街を行き交う人々の圧倒的エネルギーと表面立った格差が現実のものとして両の眼に飛び込んでくる。観光地では、土産物売りがすさまじいパワーで我々に迫ってくるのだ。「センセイ、センセイ!3個で千円!」見事な日本語と彼らのパワーに惑わされて、いわゆるボッたくられるケースを、誰しも一度や二度は経験するだろう。しかし、言うまでもないことだが、これは現代中国の一面ではあっても、全てではない。小さな子に優しい手を差し伸べ、さわやかな笑顔で会釈する寛容な中国の人々もまた驚くほど多いのだ。

 思うに、私たち日本人の多くは、自らがアジア唯一の「先進国」の人間で、経済的にも豊か。それに対して中国をはじめとするアジア諸国は未だに発展途上・経済成長途上で、一部の都市や金持ちを除いて貧しく、汚く、そして遅れている……。こう無意識のうちに断定してはいないだろうか。

 はっきり言って、この認識は決定的に誤りである。全てが誤りというわけではないにしても、本質的に誤っている。大学生となった新入生諸君は、それを自らの眼で確かめ、自らの五感をもって体感して欲しい。シンガポールに行けば、福岡以上に発展した都市のスケールに目を丸くすることだろう。マレーシアを訪れたなら、人々の落ち着いた暮らしぶりにため息をつくことだろう。まさに百聞は一見に如かず。私が先に述べたことをも含め、人の話を鵜呑みにするばかりではなく、先ずは自らが体験し、自らの頭で考えるようにすることを、新入生諸君に私は求めたいのである。

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Ⅲ. 書くことの勧め
「レポート」が書ける人になろう
上枝美典 (西洋哲学史)
 ここだけの話、レポートが書ける日本人はとても少ないのです。ほとんどの人は、感想文しか書けません。しかし、感想文とレポートの違いは、とても大切です。これがわかっているかいないかで、人間の質が違うといっても言い過ぎではありません。ちょっと言い過ぎかも知れませんが。しかし、そのくらい大切な違いであると私は言いたい。

 はっきり言って、大学で勉強するということは、「感想文しか書けない人」から「レポートが書ける人」にレベルアップすることなのです。知らなかったでしょう? しかし、知らなかったからといって、恥じることはありません。なぜなら、この違いを教えるシステムが、日本ではまだちゃんとできていないからなのです。つまり、日本で通常の教育を受けて、高校を卒業しただけの人は、まだこの違いを習っていないのです。なんとなく、大学に進学してよかったな、という気分になってきたでしょう?

 では、感想文とレポートとの違いは何でしょうか。もったいぶらずに早く教えてくれ、というあなたの顔が目に浮かぶようです。ですが、それは秘密です。というのは冗談ですが、秘密にしたいほど、それは単純なことなのです。ひとことで言って、「感想文」は、自分が感じたことや考えたことを、そのまま書いたものです。あれっ? それって、いいんじゃないの? という声が聞こえてくるようですね。たしかに、そういう感想文を書かせることに、ある一定の教育効果があることはたしかでしょう。そういうのは、「作文」と呼ばれていて、日本の教育界ではいろいろとややこしいことがあるみたいです。しかし、断言しますが、大学で身につけるべきことは、「よい作文」を書く力ではなくて、「ふつうのレポート」を書く技術です。「技術」と言うと、なにか職業訓練所みたいですが、よい作文を書けるか書けないかは、ある程度、「文才」と呼ばれる文学的才能で決まりますが、「ふつうのレポート」は、書き方さえわかったら、だれでも書けるのです。なんといっても、「ふつう」でいいんですから。

 なにか話があっちこっちに飛んでいっこうに要点を得ない。おまえはレポートの書き方がわかっているのか、という叱責の声が聞こえてきそうですから、そろそろ本題に入ります。「作文」や「感想文」でない「レポート」とは、
  1. あたえられた問い、あるいは自分で立てた問いに対して、
  2. 一つの明確な答えを主張し、
  3. その主張を論理的に裏付けるための事実的・理論的な根拠を提示して主張を論証する
という三つの要素がそろっている文章のことです。おっと急いで付け加えますが、この定義は、私があたえたものではありません。次の本からの抜粋です。
戸田山和久(2002)『論文の教室:レポートから卒論まで』
(NHKブックス)定価:本体 1120円+税

 私がここに書いていることは、ほとんどが、この本からの受け売りです。責任転嫁をするわけではないですが。ともかく、レポートや論文の書き方を教える本はたくさんありますが、まず一番はじめに読むべき本はこれです。どのようにすれば、この三つの要素がきっちりそろった文章を書くことができるのか、懇切丁寧に教えてくれています。

 この本を読んで、「うひゃあ。みんなこんなことを考えて論文を書いていたんだ。まずい」と焦った人は、巻末にある「おすすめの図書など」を見て頑張って追いつきましょう。たとえば次の本などは、安いのにとてもいい本です。どういう経緯で、自分が「レポート」の書き方を学ぶことができなかったのか、よくわかります。
木下是雄(1981)『理科系の作文技術』(中公新書)定価:本体700円+税
 「理科系の」というタイトルは、気にする必要はありません。むしろ文系・理系を問わず読むべき本です。あなたが文章を書こうとするときに、「ひとの心を打つ」「自分の気持ちをすなおに表現」「起承転結をしっかり」「天声人語の文章のように」とかいう言葉が頭に浮かんでくるのであれば、大急ぎでこれらの本を読んで、「文章を書く」「頭を使う」ということについての認識を改めてください。でないと、あとで大変なことになりますよ。

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LaTeX による美文書作成の勧め
永田善久 (ドイツ語)
奥村晴彦著『[改訂第四版] LaTeX2e 美文書作成入門(CD-ROM 付)』(技術評論社)
 この書籍は、レポート・論文・本などを印刷したり電子化したりするためのフリーソフト LaTeX (ラテフまたはラテックと読みます、ラテックスではありません)についてできるだけ易しく解説した、日本における定番の入門書です。LaTeX は、米国スタンフォード大学の数学者クヌース教授が開発した TeX(テフまたはテックと読みます)をベースに拡張されたもので、次のような特徴を持っています。

・「フリー(オープンソース)」ソフトだから、誰でも無償で入手でき、自由に中身を覗いたり改良したりできる
・多言語の自動ハイフネーション、自動ペアカーニング、リガチャ、孤立行処理など、高度な組版技術が組み込まれている
・超高精度で、約0.000005 ㎜ 単位で文字位置を決定できる
・文書のレイアウトは全面的にプログラムに委ねられるので、文書作成に際しては文書の「論理構造」のみに集中すればよく、従って、文書作成の能率を飛躍的に高めることができる
・Windows, Macintosh , UNIX をはじめ、どのような種類のコンピュータでも使える
・標準化が行き届いており、どのコンピュータで処理しても、出力に寸分の違いも生じない
・パソコン用プリンタ、PostScript プリンタ、イメージセッタ、電算写植機まで、あらゆる出力装置に対応している
・特に数式処理や多言語処理に定評があり、多くの学会や学術出版社が LaTeX による投稿を受け付けている
・索引自動作成ソフト MakeIndex や文献データベース管理ソフト BIBTeX など、LaTeX と組み合わせて使う多くの高機能なフリーソフトが標準で同梱されている
・出力を PostScript や PDF 形式に変換することのできる充実したフリーの関連ソフトも同時に配布されることから、従来の印刷物作成はもちろん、電子出版・プレゼンテーション用途にまでオールラウンドに使用できる
・さらに、無数の機能拡張パッケージを自由に利用できる
・LaTeX の文書は「テキストファイル」であり、通常のテキストエディタで読み書きできるため、文書の再利用・再加工・データベース化が容易である
・ライセンス料が不要なので、他のシステムに組み込むことも可能で、例えば、XML ベースの文書印刷や、Web 上での PDF 自動作成サービスなどにも幅広く応用できる
・ユニコード(UTF-8)対応版もある

本書は、従って、次のような人たちにお薦めします。
・大学に入ったからには「洗練され、垢抜けた文書作成システム」を持ちたいと考える人
・そのまま書籍の版下となるような、高品質の整形文書を作成したい人
・数式を沢山用いるようなテクニカルな文書を作成したい人
・多言語混在文書を、その正書法・組版慣習にいたるまで、正確かつ簡便に処理したい人
・カラー画像・アニメーション・動画ファイル・音声ファイル・ハイパーリンクなどを組み込んだ、表現力豊かなプレゼンテーション用 PDF ファイルを作成したい人
・高度な組版から PDF 作成まで、Adobe-Japan1-5 に含まれる「2万を超える文字」を使いこなしたい人
・情報ネットワーク時代における「文書の互換性・再利用・再加工」ということを真剣に考える人
・「フリー」という簡潔な言葉の中に含まれる「自由」という高尚な精神的態度から「無償」という現実的意義までを深く理解できる人
・コンピュータを能動的に使いこなしたいと思う人
・「ライオン」の好きな人

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Novis 2007
― 新入生のための人文学案内 ―

印 刷 平成19年3月25日
発 行 平成19年4月1日
発行者 福岡大学人文学部
印刷所 城島印刷株式会社