福岡大学人文学部
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Novis 2008

Novis 2008 目次

Novis 2008 本文

人文学部新入生の皆さんへ
則松彰文 (人文学部長)
 今日わたしたちが生きている、この世界に対しては様々な形容が与えられています。 近代化社会、 工業化社会、物質文明社会。 近年では、 情報化社会やグローバル化社会といった言葉をしばしば眼にします。 これらの言葉は、いずれも現代社会のもつ象徴的一面を見事に表しています。
 例えば、 情報化社会について考えてみましょう。ここ数年におけるパソコン、 インターネットの世界的普及によって、 情報の絶対量が格段に増加したのみならず、その伝達スピード・伝達範囲が決定的に増進・拡大しました。 しかし、 多量の情報を受け取る私たちの側、 とくに私たちの知識量や視野は、以前に比べ明らかに減退しています。 換言すれば、 情報量の増加とともに、 私たちは情報に流され先入観や予断を持ち、客観的で冷静な判断が難しくなってきていると言えるのではないでしょうか。
 ここで問われるのが、 「教養」 です。 教養とは、単なる知識量を示す言葉ではありません。 深い知識に裏打ちされた人間の品位ある言動を表す言葉なのです。 そのような教養は、 幅広い知識、豊かな経験と感性、 そして深い思索の中で徐々に育まれるものでしょう。
 この小冊子は、 新入生諸君に対する、 人文学部の諸先生方からのアドバイス集です。 先人の声に、 皆さんしばし耳を傾けてはみませんか?

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Ⅰ. 読むこと、見ること、聴くことの勧め
卑譲徳之基也
青木文夫 (スペイン語)
 ワープロの画面に向かって 「ひじょう」 と打ち変換する。当然のように 「非常、 非情」 と出るが 「卑譲」 などはない。ワープロソフトよ、 「お前もゆとり教育の犠牲者か」、などと思わず呟いてしまう。

 過日、 部長を務める書道部の新入部員歓迎会で新入生に向かって、 「君たちはゆとり教育の第一世代、 心して読み書きの技を磨け」と話したのだが、 残念ながら、 今年度の授業を終えてその感をますます強いものとしたのであった。
題に記した 「卑譲徳之基也」 は 「ひじょうはとくのもといなり」 と読み、 中国古典の 「春秋左氏伝 (通称左伝)」の中の名言である。 この言葉の意味と出典の解説は、 この紙面では省くことにし、 末尾に挙げた参考文献を是非読んで、その意味とその他の中国古典の名言を、 人文学部の学生であれば最低限の教養として身に付けてもらいたい。

 ここでの話は授業中のちょっとした体験談。 西班牙語 (読めるかな?) で僕が使っているテキストの中の単語に 「鱈」という訳がついているのだが、 僕は当然誰もが読めると思っていた。 それが、 ある日、 「先生、 この漢字どう読むんですか」 という質問が出た。その時、 他の学生に 「どう読むの」 と尋ねたのだが、 思わぬ沈黙に唖然としたのが、 もう七、 八年前。 それ以来、 逆に学生の誰かに、「この漢字どう読むの」 と尋ねることにしてきたが、 答えられた学生はほんの数名、 片手で足りるくらいである。このテキストも来年には改訂の年を迎えるので、 この部分を 「たら」 又は 「鱈たら」 にすべきか悩むところではあるが、 やはり 「鱈」のままにしておきたいと思っている。

 僕の父は数学者であったが、 高校時代は英語、大学に入ってからはスペイン語ばっかりやっている僕にいつも 「お前には一般常識が欠けている」、 「専門バカになるなよ」と口を酸っぱくして言っていた。 その父から勉強の類いは一切学んだことがなく、 勉強しろとも言われなかった。 学んだのは、 麻雀(もちろん賭けて)、 花札、 囲碁、 将棋、 そして故事来歴と戦前・戦後の日本が経験した生の歴史の口承であった。 そのおかげで、今君たちに偉そうに左の本を読めと言える程度の最小限の知識を身に付けて、 この文章を書いたり、教室で漢字の読みや熟語の意味なんかで学生をからかったりできるのである。 君たちも携帯とパソコンから離れて、 書に勤しもう。

書道部機関紙 「荒鷲」 に掲載したものを一部修正しました。

参考文献 守屋洋著 「中国古典一日一言」PHP文庫

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映画・イタリア・ベニーニ
浦上雅司 (西洋美術史)
 最近ではレンタルビデオ、 レンタルDVDの普及によって、映画館にわざわざ足を運ぶ学生諸君は少なくなったかも知れない。 私が育った家の隣は場末の映画館だったが、 そのころ (昭和30年代)の子供は外で遊ぶのが普通で、 映画館というと日常とは違う異世界という雰囲気があった。もちろん映画館に若い女性が一人で行くことなどまずなかったが、 現在の映画館は全般的に清潔で明るく、 レディースデイまであって、全く隔世の感がある。

 その一方で現在では、 あまりヒットしない作品であれば上映期間は短く、 必見と思っていた映画でも、日常の仕事に追われてちょっと油断していると既に上映が終わっていて悔しかったりする。 もっともそうした映画でも、上映が終わって間もなくDVDが発売され、 ほぼ同時にレンタルが開始される。 まるで映画館における上映は、 DVDを売るための 「コマーシャル」のように位置づけられているようにも思える。 このような状況では、そのうちに映画鑑賞券付きDVDの先行発売なんてものまで現れるのではないだろうか。

 それはともあれ、 最近は安価なDVDが出回っていて、過去のさまざまな作品を安価に手元において繰り返し鑑賞できるようになったのは映画ファンには有り難いことである。 「外国語の学習」 ないし「一国の文化に対する知見を深める」 という大義名分で映画を鑑賞すれば、 家族から、実際は遊んでいるのではないかと疑いの目で見られることはあっても面と向かって非難されることはあまりないだろう。韓国映画や中国映画などアジアにも素晴らしい映画は多いし、 ハリウッド映画にも興味深いものはあるが、 私はイタリア美術を専門にしているので、DVDで発売されているイタリア映画を幾つか紹介しておきたい。 但し、 体系的な紹介ではない。 ほとんどはレンタルもあると思う。

 かつてイタリア映画といえば、 フェッリーニやヴィスコンティ、 パゾリーニといった監督の作品が 「教養として」 もてはやされた。フェッリーニでは 『ローマ』 や 『サティリコン』 のDVDが安価である。 前者は、 北イタリアのリミニという町で生まれ育ち、戦争の頃からローマで育った監督の都市ローマについて抱くさまざまなイメージ (古代ローマ遺跡、 近代都市、 カトリックの首都など都市ローマでは、さまざまな、 時として相容れない文化が渾然一体となっている) を映画化したもの、後者は古代ローマ皇帝ネロの時代を生きた文人ガイウス・ペトロニウスの風刺小説 (邦訳―岩波文庫) を原作とした映画で、小説でも重要な場面である解放奴隷で大金持ちのトリマルキオが催す宴会の情景が特筆される。いきなりこの映画を見ても情景の意味はなかなか理解できないかも知れないが、 そういう方には小説の併読をお勧めしたい。これらの作品が特にフェッリーニらしい作品かどうかには議論があるかも知れない。 『ローマ』 にはフェッリーニ自身も姿を見せるから、 『サティリコン』 よりはこちらの方が 「フェッリーニ的」 だろう。自伝的要素が含まれる作品を多く作っているこの監督についてもっと知りたければ、 自分を投影したマルチェッロ・マストロヤンニが登場する 『甘い生活』 (DVDあり) や 『8 1/2』 (今のところビデオのみ)を見ることが必要だろう。 ヴィスコンティではトーマス・マンの小説 (邦訳―岩波文庫) を原作として、グスタフ・マーラーを思わせる作曲家を主人公とした 『ヴェニスに死す』 や、 ナチス勃興期のドイツ上流階級の頽廃をテーマにした 『地獄に堕ちた勇者たち』 が安価なDVDになっていてこの監督の一面を垣間見ることができるが、 『山猫』 や 『家族の肖像』『若者のすべて』 などのDVDは販売されていても残念ながらまだ高価である。

 最近のイタリア映画では、 ロベルト・ベニーニ主演・監督の 『ライフ・イズ・ビューティフル』 が日本でもちょっと評判になった。子供の頃から舞台に立っていたベニーニが現代のイタリアを代表する喜劇役者の一人であることは間違いない。 この映画は喜劇人としてのベニーニが「ナチの強制収容所を舞台にした喜劇を作って人を笑わせることが出来るか」 というテーマに果敢に取り組んだ作品であり、アカデミー賞を受賞したのは誠に慶賀の至りであった。 これもDVDで鑑賞できる。 その後、 再び監督を兼ねて挑戦した 『ピノキオ』 も日本で公開され、DVDが発売された。 だが50才で頭がはげたピノキオの出来については、 賛否両論あるようだから、 興味のある方は自分で見て判断して頂きたい。もっとも、 本来スタンダップ・コメディアンだったベニーニの本領は、 アメリカの映画監督ジム・ジャームッシュのオムニバス映画 『ナイト・オン・ザ・プラネット』 (DVDあり) に登場するローマの恐るべきタクシー・ドライバー役に最もよく現れていると思うので、ベニーニファンの方にはこの作品を一見するようお勧めしたい。

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シネ・マ・ンガ 2006―2007
遠藤文彦 (フランス文学)
『ストロベリーショートケイクス』 魚喃キリコ作・矢崎仁司監督 (06・9)
『天然コケッコー』くらもちふさこ作・山下敦弘監督 (07・8)
『自虐の詩』業田良家作・堤幸彦監督 (07・10)

 学生諸君にマンガを云々するなど釈迦に説法も甚だしい。そこにシネマを持ち込んでも事態にさほど変化はないだろう。それでも日本における最近のマンガとシネマの数あるナイスコラボレーションから最新の三作品を紹介したい。 そうしてみたいと思わせる作品だから。(数字は公開年月)

 『ストロベリーショートケイクス』 は魚喃キリコ作品としては 『Blue』 (安藤尋監督 03・3) に続く映画化第二弾。 『Blue』 は二人の女子高生が染め上げるシンプルでピュアな色彩空間からなるが、 それが 『ストロベリー』 では二十代の女性四人が織り成す重層的音響空間へと展開される。 バイナリーワールドの単なる並列でないロマネスクな時空への飛躍がそこにある。原作にない細部―紛失した 「絵」、 なにげに放り込まれた 「トマト」―も効果的。

 『天然コケッコー』 は 『ジョゼと虎と魚たち』 (犬童一心監督 03・12) 『メゾン・ド・ヒミコ』 (同05・8) の渡辺あやが 「完璧な」 原作を相手に脚本担当。 演出は 『リンダ リンダ リンダ』 (05・7)の山下敦弘。 あの文化祭映画にも魅せられたが 『天コケ』 が映す技巧の果ての 「天然」 の妙、 その澄明な演出には文字通り感服。 なるほどこれは原作者に 「奇跡」と言わしめた作品だ。 作家主義 の閉塞を自然体で突き破るあの 「めがね男子」 の逆説的天才ぶりにシャポー。 彼とは 『リアリズムの宿』 (つげ義春作04・4)以来のくるりのエンディングも味がある。

 『自虐の詩』 のイサオ&幸江は 『罪と罰』 のラスコーリニコフ&ソーニャ 『死の棘』 の敏男&美保 etc と連綿と続く自虐カップルの系譜に属す。 かくして元来自虐は至純の愛に由来し自虐者とは幸福者 (幸江)の謂いであったことをこの作品は想起させる。 となりのおばちゃんにもあさひ屋のマスターにも自虐ぶりが伝染してゆくさまは壮観。シネマの方は懲りすぎの感が否めない。 とにかくマンガ (傑作!) の超絶的次元には達していない。 自虐ものの秀作ならちょっと古いが 『さよならみどりちゃん』 (南Q太作・古厩智之監督 05・8) を挙げておこう。

 さて、 現在福岡市内には一般商業映画館が八館 (プラスα=特殊なやつ) と、 福岡市総合図書館映像ホール 「シネラ」 があります。いまどきは家でビデオやDVD観賞というのが一般的でしょうが、 学生時代の四年をかけて全館制覇をこころみるのも一興では……。

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おすすめの本
大嶋仁 (比較文学)
 新入生の皆さん、 人文部にようこそ。 新入生の皆さんに、 おすすめしたい本と言えば、 まず皆さんが一冊の本に何を求めるかによります。読み終えて生きる元気が湧いてきた、 と感じられるものとしては、 何より福沢諭吉の 『福翁自伝』 でしょう。落ち込んでいる人、 孤独を悩んでいる人には、 フランツ・カフカの 『短編集』 か 『変身』 をおすすめします。 暗い内容のようでいて、 なぜか根源から力が湧くでしょう。 また、人に対して優しい気持になりたい、細かい文章の味をかみしめたいと思ったら、 井伏鱒二の短編ですね。 『山椒魚』 などのタイトルの付いた一冊を選べばよいのです。

こんなところでしょうか。 ここに挙げたどの本も文庫本で手に入ります。

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批評的態度を学ぼう
甲斐勝二 (中国文学)
『オーウェル評論集』 岩波文庫 小野寺 健 編訳

 掲載される 「象を撃つ」 を読んだとき、「奴隷の主人も奴隷だ」 といった魯迅の評論を思い出した。 魯迅の方が早いが、 概ね時代も重なり、「知識人」 としての態度には共通性があるのだろう。 また、 「ナショナリズムについて」 では、 やがてサイードの 『オリエンタリズム』 へとつながる思想の流れがあるように思い、 インド人を縛り首にする 「絞首刑」 では 「悲情城市」の映画で政治犯として殺害される台湾の青年の姿が浮かんだ。 イギリスのユダヤ人差別問題を取り上げて、「なぜあきらかに非合理なこんな信念が世間の人々の心をとらえるのだろう」 とは考えず、 当然「なぜユダヤ人差別問題はわたしの心をとらえるのだろう」 という問題から出発するべきだと説くのは確かにその通り。かかる人材を生み出したイギリスの土壌の豊かさに感心する。

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江戸時代を見なおそう
梶原良則 (日本史)
 新入生の皆さんは、江戸時代についてどのようなイメージを持っておられるでしょうか。 近年の歴史学研究は、 江戸時代の通説的イメージに修正を迫りつつあります。ここでは、 新入生にも読みやすい代表的な本を紹介しましょう。 まず、 磯田道史 『武士の家計簿』 (新潮新書、 2003年)は、江戸時代の中下級武士の生活を家計簿から復元し、 従来の武士のイメージを一新させました。

 つぎに、 高木侃 『三くだり半―江戸の離婚と女性たち』 (平凡社ライブラリー、 1999年)・『三くだり半と縁切寺―江戸の離婚を読みなおす』 (講談社現代新書、 1992年)は、夫が妻を一方的に離縁できるという夫優位の夫婦関係の通念をくつがえしました。

 最後に、 少し時代をさかのぼりますが、 宇田川武久 『真説 鉄砲伝来』 (平凡社新書、 2006年)は、1543年種子島に漂着したポルトガル人によって鉄砲が伝えられたという通説に疑問を呈しています。

 このほかにも、 知的好奇心を刺激してくれる多くの本が皆さんを待っています。 図書館を有効に活用しましょう。

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若き日に読んで感銘を受けた本
片多順 (文化人類学)
倉田百三 『出家とその弟子』

 私自身が学生時代に先輩から 「読んでみたら」といわれて読んだ本です。 何気なく読んでとても感動した記憶があるので、 皆さんにもお薦めしたいと思います。これは著者の倉田百三が26歳のとき、 1917年に書いたものです。 大正から昭和の初期にかけて日本の若者たちが熱狂的に読んだものです。内容は詳しくは述べませんが、 青春の葛藤、 悩み、 苦しみを描いています。

 新潮、 岩波、 角川、 講談社など、 どの文庫本にも含まれており、 安く簡単に手に入るものですので、 どうぞ手にとって見てください。

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「よい子」 ってどんな子?
勝山吉章 (教育史)
灰谷健次郎著 『兎の目』 (理論社)

 「よい子」 ってどんな子?親や教師の言うことを素直に何でも聞く子どもは、 確かによい子に違いない。 では、 親や教師の言うことを聞かない、親や教師の権威を認めない子どもは 「悪い子」 なのだろうか。 いつも親や教師のご機嫌を伺い、 「よい子」 であり続けることに疲れた子どもは、もうよい子ではなくなるのだろうか。

 『兎の目』 の主人公「鉄三」 は、 そのような問いを投げかける。  偏差値教育、 管理主義的教育に慣らされてきた者にとって、 「鉄三」 は落ちこぼれに映るだろう。 しかし、 人間本性に照らし合わせて考えた時、管理化された現代社会に馴染んでいる私たちこそが、 大切な人間性を失っているとは言えないだろうか。

 本書を既に読んだ学生も多いと思うが、 大学時代に再度読んでもらいたい書物である。

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中国の歴史(全12巻)
紙屋正和 (東洋史)
講談社版『中国の歴史』(全12巻)(講談社)

 1970年代に、『中国の歴史』(全10巻)、『図説中国の歴史』(全12巻)、『新書東洋史』(全11巻、うち中国史は5巻)と、中国史の概説書のシリーズをあいついで刊行した講談社が、『新書東洋史』以外は入手困難になった2004年から2005年にかけて、ほぼ 30年ぶりに刊行した中国史の概説書がこのシリーズである。この間に中国史・中国自体、あるいはそれらをとりまく環境は大きくかわった。

 古い時代については、考古学の大きな発見があいついでいる。稲作の起源は、遺跡が発掘されるたびに千年単位で古くさかのぼり、今や1万2千年前の栽培稲が発見されたというニュースが流れているほどである。また以前は、中国の古代文明といえば黄河文明と相場がきまっていたが、現在は長江流域において黄河文明に勝るとも劣らない高度な長江文明があったことが明らかになっている。戦国・秦・漢・魏晋南北朝時代については、当時の法令・行政文書や思想・文学などの著作を書きしるした簡牘(かんとく)(竹のふだと木のふだ)類や人の目をうばう遺跡が多く発見され、これまで文献史料で知ることのできなかった事実が明らかにされつつある。新しい時代については、放っておいても新事実が積みかさなってくるのであるが、以前に未発表であった公文書が公表され、さらに中国・中国経済自体が大きくかわりつつある。政治は社会主義のままであるが、経済はもう完全な資本主義に、少し大げさにいえば日本よりも極端な資本主義になり、現在の成長がつづいていけば世界経済を牛耳るようになるかもしれないといわれている。こうした変化をふまえて、今回の『中国の歴史』(全12巻)が企画されたのである。ただし、このように大きくかわりつつある「古い時代」と「新しい時代」とに挟まれた中間の時代の場合、大発見があったわけでもなく、新しい文献が見つかったわけでもないため、執筆者はこまったらしいが、旧来通りの中央からの視線でえがくのではなく、地方の現場から世界を見なおすといった機軸によって新鮮味をだそうとしたという。

 全体的にかなり高度な内容になっているが、全部を紹介するわけにいかないので、私の専門に近い古代史関係についてのみ内容を簡単に紹介し、のこりは執筆者と書名だけを列記するにとどめる。

 宮本一夫著『神話から歴史へ―神話時代・夏王朝』(01)は、中国の地に人類が居住しはじめてから、殷周社会が成立する前まで、いわば中国の先史時代をとりあつかう。現在の中国の経済発展は巨大な開発をともない、発掘もさかんに行なわれている。その結果、先史時代の文明は黄河流域だけではなく、現在は中国の各地で発見されている。宮本氏はこうした発掘成果をもとに、物質文化における地域間比較だけでなく、社会構造上の地域間比較をも試みることによって、先史時代における段階的な社会構造の変化に注目し、殷周社会にいたる道のりを多元的に説明する。これまで「中国の歴史」というとき、先史時代についても文献史学の研究者が執筆することが多かったが、これは考古学の専門家の手になる概説書である。

 平勢隆郎著『都市国家から中華へ―殷周・春秋戦国』(02)は、新石器時代から戦国時代までを対象とする。本巻は、著者自身がみとめるように「一般に提供されている中国史とは、若干異なった視点」で書かれている。すなわち中国史を、蘇秉琦氏著・張名声訳『新探 中国文明の起源』(言叢社)が提唱した「新石器時代以来の文化地域」を基礎において分析し、まぼろしの夏王朝、殷王朝・周王朝、そして戦国時代の領域国家のいずれもが新石器時代以来の文化地域を母体として成立したという。こうした歴史を背負う戦国時代の諸国家は、自国の立場から、先行する夏・殷・周の王朝を論じ、そのうちの一部が史書として現在にのこされている。しかしそれらの史書は、それができあがった時代に規制され、ときには無かった内容を付けくわえている。そこで、本巻は、何が後世に付加された虚構の産物なのか、またどの記述が事実を伝えているのかを検討する形で書かれている。安易な気持ちで、急いで読もうとすると、絶対に理解できない。

 鶴間和幸著『ファーストエンペラーの遺産―秦漢帝国』(03)は、秦・始皇帝による天下統一から前漢・新をへて後漢が滅亡するまでの440年間をとりあつかう。この時代は、簡牘類や多くの目を見はる遺跡・遺物の発見があいつぎ、歴史像が大きくかわりつつある時代である。鶴間氏は秦の歴史、始皇帝像の再評価を試み、また秦・漢時代を地域の視点から見なおそうと試みてきた研究者である。そうした自分自身のの研究を反映させ、あわせて新発見の出土資料を既存の文献史料とつきあわせて本巻を書いている。とくに新出土資料についてはよく調べて多くの情報を提供しており、専門家としても参考にすべきところが多かった。

 金文京著『三国志の世界―後漢・三国時代』(04)は、後漢後半期に外戚・宦官が政治を乱しはじめた時期から西晋の統一によって三国時代がおわる時までの約130年をとりあつかう。この書名にある「三国志」とは、『魏志』倭人伝などをふくむ歴史書の『三国志』ではなく、小説の『三国志演義』であり、執筆者は歴史家ではなく、中国文学者である。本巻は、ゲーム・アニメ・漫画によってつくられた『三国志』ブームを意識したもので、よくいえばこのシリーズに新鮮味をだすための、悪くいえば読者に迎合するための企画といえよう。内容は、この時代の歴史の動きを淡々とおいかけ、ところどころで『三国志演義』がどのように脚色されているかを明らかにしている。本巻は歴史の概説書として読みごたえがあるが、『三国志演義』ファンにも歓迎されるであろう。

 川本芳昭著『中華の崩壊と拡大―魏晋南北朝』(05)は、西晋が中国を再統一したものの、また分裂してから隋が久々に中国を統一するまでの約300年をとりあつかっている。基本的には分裂の時代といえるこの時期の歴史を、胡漢、すなわち遊牧民族と漢民族の対立と融合をキーワードにして、隋・唐時代に新しい漢民族・中国文化が登場すること、また中原(黄河中流域)の混乱などによって、未開発地がまだ多くのこされていた長江流域に厖大な人口が移動・移住し、その地の開発が急速に進展することを明らかにし、あわせて中国の周辺において朝鮮半島の三国や倭のような国家がうまれてくることにも目をくばっている。

氣賀澤保規著『絢爛たる世界帝国―隋唐時代』(06)
小島毅著『中国思想と宗教の本流―宋朝』(07)
杉山正明著『疾苦する草原の征服者―遼・西夏・金・元』(08)
上田信著『海と帝国―明清時代』(09)
菊池秀明著『ラストエンペラーと近代中国―清末・中華民国』(10)
天児慧著『巨龍の胎動―毛沢東vs鄧小平』(11)

 尾形勇など著『日本にとって中国とは何か』(12)は、太古から現代までの中国の歴史をふりかえったあとで、日中関係がギクシャクしている現在、日本にとって中国とは何か、逆に、中国にとって日本とは何かについて、このシリーズの編集委員四人と中国人二人が総論的に論じたものである。日本と中国は同じ漢字文化圏、儒教文化圏であるから何もいわなくても分かりあえると認識することが、大きな誤解であることを知らなければならない今この時、一読すべき本であろう。以下、執筆者と論題だけを紹介する。

尾形 勇「大自然に立ち向かって―環境・開発・人口の中国史」
鶴間和幸「中国文明論―その多様性と多元性」
上田信「中国人の歴史意識」
葛剣雄「世界史の中の中国―中国と世界」
王勇「中国史の中の日本」
礪波護「日本にとって中国とは何か」

 概説書は新しければ新しい顔をして我々の前にあらわれてくる。新しければよいというものではないが、少なくとも情報は新しいものがふくまれている。読書には、自分の知らないことをまなぶという「学ぶ姿勢」と同時に、何かおかしい、納得できないことを書いていないかをさぐるという「批判の姿勢」も必要である。

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学問の領域に捉われない読書の勧め
鴨川武文 (地理学)
木内信蔵(1968)『地域概論―その理論と応用』(東京大学出版会)
日高敏隆(1998)『チョウはなぜ飛ぶか』高校生に贈る生物学3(岩波書店)
武野要子(2000)『博多―町人が育てた国際都市―』(岩波新書)

 木内信蔵の『地域概論』は39 年前に刊行されました。39年前の本というと、「なんて古い本なんだろう」と思うかもしれませんが、地理学や地理学が研究対象とする地域について体系的に論じられています。私は共通教育科目の地理学を担当していますが、この本は、地理学の講義を学生の皆さんに行うにあたっての、私にとっての参考書ともいうべき座右の書です。

 日高敏隆の『チョウはなぜ飛ぶか』は生物学の本ですが、この本は次の2点において興味深い本です。

 第1点は、「チョウはなぜ飛ぶか」というタイトルですが、内容は、一言でいうと、チョウは自分自身が飛ぶ道筋をしっかりと認識して飛んでいるということです。つまり勝手気ままに飛んでいるのではないのです。全く土地鑑のない場所に出かけた時に頼りになるのは地図です。地図を見てわれわれ人間は行きたいところに行くことができます。チョウは地図を持ってはいませんが、自分が行きたいと思うところへ行くことができ、またそのような本能を持っているのです。

 第2点は、研究というものはどのように行われているのか? 研究者は試行錯誤・紆余曲折を繰り返しながら研究成果を出している、研究者とはどのようなタイプの人たちなのか、科学的なものの考え方とは何か、などについていきいきと書かれているという点です。学生の皆さんが志している学問の枠に捉われることなく、多くの本を手にして教養を高め、知識を習得してほしいと思います。

 武野要子福岡大学名誉教授の『博多』には、博多の町の成り立ちや、政治的に、また経済的に博多に関わりのあった武士や豪商のエピソード、今に伝わる博多の伝統や住民の生活史など興味深い話題が数多くあります。また、聖福寺や承天寺、櫛田神社、鴻臚館、防塁など博多にゆかりのあるものの記述もあり、この本を携えて福博の町を散策してみたらいかがでしょう。

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夜の観覧車と昼のロープウェー
桑原隆行 (フランス文学)
ビル・エバンス 『フロム・レフト・トゥ・ライト』 (CD)
根岸吉太郎監督 『サイドカーに犬』 (DVD)
吉田秋生 『蝉時雨のやむ頃』 (小学館 flowers comics)
佐藤正午 『ジャンプ』 (光文社文庫)

ビル・エバンス 『フロム・レフト・トゥ・ライト』 (CD)
 ビル・エバンスのピアノの音は「よく磨かれた硬い金属を思わせる」、 「まるで宝石が空中に浮かんで跳ねているような」 (村上龍 『半島を出よ』 (下))感じがする。 今、 ぼくの研究窒では、 「ドルフィン」という曲の水しぶきや光や風が鮮明な音の結晶となって軽やかに跳ねている。 その中で、 この文章は書かれている。 「ソワレ」というフランス語がタイトルになっている曲は、 好きな女性との二人だけのソワレ、 光と闇が共存するバーでの二人だけの密やかな夜会を想像させる。ジンを舐めるように飲みながら、 ぼくは、 淡い琥珀色の液体が落ちていく女性の喉元を見つめている。 そのうち、 ぼくの左手が、ワンピースの女の右腿の上に親密の結晶のように落ちて置かれる。 結晶は静かに熱く溶け出して、 触れ合った箇所から二人の全身へと広がっていく。ぼくらはバーに来る前に、 映画館の闇の中に身を置いて、 スクリーンを見つめていたのだった。 その映画は、

根岸吉太郎監督 『サイドカーに犬』 (DVD)
 その日、 この映画の観客はぼくら二人だけだった。本当に贅沢で優雅な気分だったなあ。 原作者は長嶋有さんで、 原作は 『猛スピードで母は』 に載っている。 映画では自転車で駆ける竹内結子さんが颯爽として印象的だ。 後にぼくらは、 『クローズド・ノート』 でスクリーンの竹内結子に再会した。 その時の彼女はバイクに乗っていた。

 ぼくは年間50本くらい映画を観る。 この50という数字はぼくの控えめな性格が言わせている謙遜の数字だ。 ところが困ったことに、謙遜の言葉をそのまま鵜呑みにするような人、 コンテクスト、 あやを読み取れない人がいる。本当は三倍ぐらいの数を考えてもらうと実際に近い数になるのだけれど。 そうした当方の意図、 苦衷を察してもらうには膨大な時間がかかりそうだ。だから、 150本観ると、 はっきり言っておく方がいいね。 150本。 その殆どをDVDで観る。 一割程度、 つまり十数本は映画館で観る。同伴してくれる女性がいればという条件付きで言うと、 映画館で観る映画の時間は格別だ。 さて、 映画の前に待ち合わせた本屋さんで、男が購入したのは、

吉田秋生 『蝉時雨のやむ頃』 (小学館 flowers comics)
 ぼくが Novis で吉田秋生さんの 『ラヴァーズ・キス』 を紹介したのは、 2002年のことである。 それから六年、 今度の漫画も同じくまた鎌倉が舞台だ。 鎌倉に一緒に暮らす三姉妹は、 父親の死後、新たに妹を一人引き取ることになる。 それは、 彼女らを置いて家を出ていった父親が他の女性との間につくった女の子。漫画には父親の葬儀が行われる山形の田舎の風景や仙山線も出てくる。 仙山線、 これはぼくの大学院時代の思い出を蘇らせる。朝早く仙台からこの線に乗って山形の短大にフランス語を教えに行っていたのだ。 その日はいつも、 駅前の吉野家で牛丼を朝食にするのが習慣だった。

 一つ教えておくと、 今、小池真理子さんが読売新聞朝刊に連載中の小説の舞台もまた鎌倉だ。 映画、 漫画、小説に描かれている風景や場所や街は、 ぼくの想像力を掻き立て、 旅へと誘う。 そういう時、 一緒に行きたいと思う相手は、 あなたなのだ。映画の同伴者だけでなく旅の同伴者にもなってほしい。 どこかの街で観覧車から夜景を楽しみたい。ロープウェーで登った展望台から眼下に広がる街を眺めるのはどうだろう。 あるいは、 映画 『愛の流刑地』 の男女のように、古都の寺の大樹の下で木漏れ日に照らされながら唇を接触させて、 永遠の一瞬に浸るのも素敵だよ。西九州もあなたと一緒に旅の時間を共有したい地域だけれど、 その西九州の街の一つ佐世保に在住の作家とその作品の一つは、

佐藤正午 『ジャンプ』 (光文社文庫)
 リンゴを買いに行ったままいなくなった女、その失踪の謎の解明に奔走する男の物語。 読者はという一般化は止めて、 ぼくはと言い直して言うと、 ぼくは時間軸に沿った物語ばかりでなくて、時間が前後し視線が重層して想像力を刺激するような物語も読みたい。 語りが皮肉でひねりが利いていて、登場人物が引用好きであるような物語も歓迎だ。 ぼくは欲張りで要求が多い読者なのだ。 その点、 佐藤正午さんの小説は偶然の連鎖、 記憶の検証、隠されていた真相の浮上、 巧妙な構成などどれもがぼくを喜ばせてくれる。 映画化された 『ジャンプ』 を観るのもいいかもしれない。主人公を原田泰造が演じている。

 リンゴのことが出てくるのも好きだ。 ぼくもリンゴ好きだし、 リンゴの皮むきは得意中の得意だから。 何しろ、生まれた時からリンゴを食べてきたのだ、 経験の長さも、 食べた数も途轍もない。 ぼくにとってリンゴという言葉は、リンゴ作りをしていた父親の思い出や子供時代の記憶につながるのだ。

 気に入った作家の作品は次々に出来るだけ多く読むといういつもの癖で、 佐藤正午さんの本もいっぱい読んだ。 『ビコーズ』、 『スペインの雨』、 『彼女について知ることのすべて』、 『取り扱い注意』、 『カップルズ』、 『5』、 『アンダーリポート』 等々。 『象を洗う』 のような奇妙なタイトルのエッセー集もいい感じ。 全てを読んで把握したいというぼくの欲望は、 好きな女性に対しても発揮される。隅々まで隈無く読んで検証、 確認したい。 どこかの密室ではビル・エバンスのピアノの音が流れ、彼女の裸体をピアノの音が軽やかで透明な宝石の衣のように包んでいる。 さあ、 二人でアブジンスキーを飲みましょう。

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三遊亭圓朝全集
小林信行 (哲学)
 幕末から明治にかけて怪談咄で名をはせた落語家三遊亭圓朝の高座筆記が残っている。 文庫でそのいくつかを入手できるが、 著作権問題が係争中ながら、インターネットを利用すれば多くの作品を簡単に無料で読むことができる。 それを読めば直ちに分かることだが、現代の落語家たちのイメージからはほど遠く、 やはり噺家と呼ぶ方が適切だろう。

 かれの作品については、 いくつかの難点がある。 速記録が活字化されているために、 当時の言葉遣いのまどろっこしさに加えて、聞き慣れない表現、 混乱といったものがそのままとなっている。 したがって、 最初は読みづらく、 とても作品とは思えないかも知れないが、逆にそれが噺家の仕事であったことを考えれば、 このような形で残してくれた人たちに感謝すべき点も多い。 破綻や混乱にもかかわらず、かれの際立ったストーリー・テラーとしての資質、 高座のすばらしさがそのまま伝わってくるからだ。

 かれの物語は小さなエピソードの有機的な結びつけによって構成されており、 その全体像は、 物語世界のもっとも原初的な型を彷彿とさせ、あえて言えば叙事詩のような風貌をもって現出してくる。 その意味では落語よりも講談に近い印象を与えるが、英雄ものや戦記もののようなフォーマルな内容をもっているわけではなく、 あくまでも人情ものに徹しており、 肩を山の字にさせることもなく、つい客席で聞き入っているような気分にしてくれる心やすいものだ。

 もちろん、 幕末明治の人たちの感情生活は、 かれらの道徳意識と深くむすびついており、 なかなか感情移入も難しいところがあるが、しかし裏を返せば、 自由に生きていると思っているわれわれが意外にもさまざまな制約に縛られ、 その中でものごとを見ているからこそ、かれらの感情生活に対してつい傍観者的となっていることにも気づかされる。 ひとたびかれらの感情生活に同調してしまうと、人情のしがらみこそが、われわれの空疎な人間関係に濃厚な色彩を与えるものであることを再確認させられるだろう。

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『九鬼周造随筆集』
国語学 佐野宏 (国語学)
 このような小文を書いてどれほどの学生に受け入れられるかは知らない。 しかし、 読書案内として入学したばかりの諸君らに勧めるべき本として 『九鬼周造随筆集』 (岩波文庫・青146-2) を挙げる。 その中においては、 特に 「書斎漫筆」 を是非一読されたい。 そこにはいくつかの本が紹介されている。そのうちのいずれでもかまわないから読んでみるとよい。 私がちょうど諸君らの年に、 恩師から九鬼周造の 『偶然性の問題』 を読むように言われた。私の恩師は森重敏という国語学者である。 先生は田辺元という哲学者と親しかった。 先生の国語学演習の受講者は私以外では女性の先輩一人であった。私はまだ演習を科目登録できない学年だったから、 森重先生の講義は聴講していただけであったが、先輩が卒業すると受講者なしになるからというのでそのまま居着いてしまった。確かに演習の内容は萬葉集・古事記・日本書紀・風土記といった古代語・古代文学を中心とした音韻論、 文法論、 文体論、 語彙論であったが、たいていはそこから出発して哲学の話になった。 萬葉歌についていえば、 人の悲しみとは何か、 愛しみとは何か、 死とは何か、 命とは何か、というように展開してゆくのである。 その時々に先生が解説される哲学関係の本について、具体的な演習準備とは別に読んできて次の週にレポートを提出することが求められた。肝心の演習の準備だけでレポートがどうしても書けないときは読んだ内容を私が概説し、 それに対しての口頭試問があった。よくわからぬままに毎週そんなことをしていたが、 たまたま神話の定義に際して、 可能・不可能、 現実・非現実、 偶然・必然が問題となって、九鬼の全集を読んでいた。 そのうちに彼に随筆集のあることを知り、 前掲の箇所を読んで、 その最後に出てくるエピクテートスの 『遺訓』 を読んでみた。その週に若い私は不躾にも先生のようになるにはどうしたら良いかと聴いた。 先生の答えは簡潔であった。 それはここには書かない。 しかし、それから今に至るまで変わらず、 ただそのときに教えられた道を歩いている。 九鬼も引用しているが、 『遺訓』 (『人生談義』 (下)鹿野治助訳・岩波文庫263頁) には、 次のようにある (なお同書68―71頁も参照されたい)。

 常に哲学者であることをもって満足せよ。 おんみが誰かに哲学者と思われることを欲するなら、 まずおんみ自身にそう思わせるがよい。それで十分である。

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Tips for Learning English
Stephen Howe (英語学)
Here are some tips for learning English:

  1. Use your English!
    • To speak a language well, you must use it - as often as possible
    • Practise speaking to yourself in English
    • Try to think - or even speak - to yourself in English, for example when taking the train, shopping or brushing your teeth - how would you say that in English?
    • Practise speaking English with your friends
    • Meet your friends for coffee and practise speaking English for fun
  2. Practice makes perfect
    • Don't worry about making mistakes, just speak, speak and speak
  3. Practise a little and often
    • Improve a little each day, and you will improve a lot over a year
    • Try to learn some new words every day
  4. Learn outside class
    • Don't think of your English class as the only time you learn English - try to improve your English all the time
  5. Make friends with international students on campus
    • Practise your English on the international students at Fukudai - they want to talk to you!
    • Ask them about their country and tell them about Japan
  6. Plan a trip abroad
    • Start improving your English ready for a trip
    • It will be easy to meet people if you can speak a little English
    • Practise the words and phrases you will need with your friends
  7. Watch TV and movies in English
    • Movies are a great and easy way to listen to natural spoken English - andthey are available anywhere - watch as many as you can
    • Switch to English sound when you watch an English programme or movieon TV. This may be difficult at first, but gradually you will find yourself understanding more and more.
  8. Read a book, magazine or newspaper in English
    • Read a book in English - there are thousands to choose from!
    • Read an English magazine
    • If you like fashion, read an English fashion magazine; if you like sport, read a sports magazine in English. You will learn a lot of vocabulary about your interest.
    • Read a newspaper
    • The Japan Times is available everywhere and is easy to read
    • Read the news in English online
    • Try www.bbc.co.uk for English news
  9. Write a diary in English
    • Like Samuel Pepys and Bridget Jones, write a diary about what you do each day, your thoughts and feelings, in English. This will improve your writing and help you express yourself better.
  10. Listen to English music and radio
    • Listen to your favourite British or American bands - they can help you learn English!
    • Listen to English music on the web at www.bbc.co.uk/ radio1 /
    • Listen to the news online at www.bbc.co.uk / worldservice /
  11. And, last but not least, have fun
    • Have fun using your English - the more you enjoy it, the more you will learn

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『坊ちゃん』を読み直す
高木雅史 (教育史)
夏目漱石『坊ちゃん』(夏目漱石全集、ちくま文庫[筑摩書房]ほか)

 大学生になったみなさんに対して、いまさら『坊ちゃん』を紹介するなんてとあきれる人が多いことだろう。正義感に富んだ直情的で無鉄砲な青年教師である主人公が魅力的な、広く読み継がれている作品であるから。それにもかかわらずここで取り上げるのは、登場人物への共感的理解を中心としたいわゆる「読書感想文」的な読み方ではなく、教育問題の歴史に位置づけて読み直してみると、どんな風に見えるかを考えてみたいからである。

 今日、学校内外でおこる暴力事件などを例に若者のモラルの低下が指摘され、それは現代日本に特有な病理現象であると批評されることが多い。「昔はよかったのに、今の若いヤツは……」と決めつけられて不愉快な思いをした人もいることだろう。

 しかし〈昔はよかった〉とすると、およそ百年前(1906年刊行)の『坊ちゃん』に描かれた生徒たちの行動はどのように理解したらいいのだろうか。〈旧制中学校と師範学校の生徒たちの紛争事件〉〈坊ちゃんの日常生活をスパイし板書してひやかした天麩羅事件〉〈寄宿舎で坊ちゃんの寝床に大量のバッタを混入したバッタ事件〉。脚色や誇張があるにせよ、〈紛争事件〉の場面では数十人規模で投石や棒での殴り合いが行われるという大乱闘の様子が描かれている(ちなみに当時似たような紛争は全国あちこちで起こっていた)。制止に入った坊ちゃんに対して生徒たちは教師であると承知の上で石をぶつけている。〈天麩羅事件〉〈バッタ事件〉を見ても、詰問されても生徒たちはふてぶてしい態度をとり続け、反省するどころか悪質で陰湿な行為をエスカレートさせている。

 この作品がフィクションであることを割り引いて考えても、はたして百年前の若者は現在よりモラルが高く、悪さをしても節度があり、素直であったといえるだろうか。仮に今日、同じような事件を身近であるいはマスコミ等を通じて目にしたら、私たちはどのように感じ反応するだろうか。〈昔はよかった〉という見方を問題にするあまり、短絡的に〈今の方がいいのだ〉あるいは〈昔も今もたいして変わっていないのだ〉ということを言いたいのではない。昔と今を比べてみて、何が変わって、何が変わっていないのだろう。変わったのは、若者のモラルや行動なのだろうか。それとも彼らを見る大人社会のまなざしなのだろうか。

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大学って何?
高田熱美 (教育学)
阿部謹也 『大学論』 (日本エディタースクール出版部)
 わたしたちは、いま、大学にいます。そうであれば、大学について考えてみることも大切であるように思われます。

 ここに紹介している「大学論」は、そうしたことについて考えるよすがになる本です。

 いままで、「大学論」と称される本は沢山出ていますが、それらには、堅苦しく、読みにくいものが多いようです。ところが、この「大学論」は、いかめしい書名にもかかわらず、大学の歴史をかいま見ながら、現在の大学とわたしたちの在りようを適確に、分かり易く語っています。 一読をおすすめします。

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アゴタ・クリストフの 『悪童日記』
高名康文 (フランス文学)
 東欧の国々は、第二次世界大戦下ではナチス・ドイツの支配下に置かれて国土が荒廃し、 大戦後の冷戦時代はソビエト連邦の勢力下に置かれて、 共産党の独裁の下、文化と思想において厳しい統制を受けました。 大国の勢力争いに巻き込まれて運命を翻弄されたのです。今日のボスニア・ヘルツェゴビナにおける民族紛争に繋がる全体主義の負の歴史は、 二一世紀に生きる私たちが知っておかなければならないことですが、こういうことを高校までの授業で習った人も、 聞いたことがない人も、 この小説を是非読んでみて下さい。
アゴタ・クリストフ『悪童日記』堀茂樹訳、早川書房(ハヤカワ epi 文庫)

 作品の中には明確に示されていないのですが、物語の舞台は、 第二次世界大戦下のハンガリーの、 オーストリア国境に近い〈小さな町〉です。町外れの、 国境に一番近い家に住む祖母の下に、〈大きな町〉から小学生ぐらいの双子の兄弟が母親に連れて来られて預けられます。戦火の下食糧は不足し、 祖母は畑を耕し家畜を飼い、 自給自足の暮らしをしながら、 収穫したものを市場で売って日々をしのいでいるのですが、兄弟もそれを手伝わないことには何も食べさせてもらえません。 人々の心は荒れており、 村の子供たちは、 疎開者の子供が歩いているのを見ると、殴りかかってくるといった具合です。 生き延びるために彼らは、 労働を覚え、 襲って来る者たちを叩きのめすことを覚えなくてはなりません。時には、 盗むことも、 強請(ゆす)りをすることも、生き物を殺すことも、 強い者を利用することも。 そのような日々を、彼らは〈大きなノート〉(原題の "Le grand cahier" はこの意味) に綴っていきます。 学校のない非常時に生きる 「ぼくら」の作文の集大成がこの作品であるという構造を、 この物語はとっています。

 作品には、 戦争という非常時にあってむき出しになる人間の暴力 (ナチス・ドイツのユダヤ人狩り、 それを笑って見る人々、絶滅強制収容所の死体の山)、 普遍的に存在するが、 そのような時だからこそ浮き彫りになる歪んだ欲望 (サディズム、 幼児性愛)といった重くて暗いテーマが次々と表れます。 生き延びるためには、 そのような現実に対して怯むことなく立ち向かわなければなりません。そのために、 彼らが獲得したものの見方と態度が、 彼らの文章作法を記した次の一節に集約しています。

 ぼくらは書きはじめる。 一つの主題を扱うのに、 持ち時間は二時間で、 用紙は二枚使える。 二時間後、 ぼくらは用紙を交換し、 辞典を参照して互いに相手の綴字の誤りを正し、 頁の余白に、 「良」 または 「不可」 と記す。「不可」 ならその作文は火に投じ、 次回の演習でふたたび同じ主題に挑戦する。 「良」 なら、 その作文を〈大きなノート〉に清書する。  「良」 か 「不可」 かを判定する基準として、 ぼくらには、 きわめて単純なルールがある。 作文の内容は真実でなければならない、というルールだ。 ぼくらが記述するのは、 あるがままの事物、 ぼくらが見たこと、 ぼくらが実行したこと、 でなければならない。  [中略]  「〈小さな町〉は美しい」 と書くことは禁じられている。 なぜなら、〈小さな町〉は、 ぼくらの目に美しく映り、それでいてほかの誰かの目には醜く映るのかもしれないから。  同じように、 もしぼくらが 「従卒は親切だ」 と書けば、 それは一個の真実ではない。 というのは、 もしかすると従卒に、ぼくらの知らない意地悪な面があるのかもしれないからだ。 だから、 ぼくらは単に、 「従卒はぼくらに毛布をくれる」 と書く。   [中略]  感情を定義する言葉は非常に漠然としている。 その種の言葉の使用は避け、 物象や人間や自分自身の描写、つまり事実の忠実な描写だけにとどめたほうがよい。  (42、 43ページより引用)  彼らにとって、 重要なのは、 どのように感じるかということではなく、 見たものをありのままに把握し、それに対してどのように行動するかということなのです。 現実を冷徹に見据えることによって養われた彼ら独自の行動規範は、善悪の概念のようにできあいの価値基準には決してなびくことがないゆえに、 常に衝撃的であり、 刺激的です。 それゆえに、 日本語訳の題名は「悪童」 日記なのですが、 知的過ぎるほどに知的な 「悪童」 たちによって書かれたことになっている飾り気のない文体の文章からは、 時として、彼らが懸命に隠そうとしているごく当り前の人間的な感情―遠い母親を慕う気持ち、 虐げられた者を見て憤る心、弱りゆく老人を労わる心―が迸り出ます。 この作品のそういうところに、 筆者は詩作品以上の詩を感じます。

 作者は、 1956年の動乱を機にスイスに亡命したハンガリー出身の女性で、 この作品以後フランス語で作品を発表しています。原著のフランス語は比較的読みやすいので、 フランス語を学ぶ人は、 基本文法を一通り終えたら、 是非読んでみて下さい。

Agota Kristof, Le grand cahier, Seuil, coll. Points.

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中国社会に関するものをすこし
田村和彦 (文化人類学)
魯迅の作品と
『リン家の人々―台湾農村の家庭生活』(マージャレイ・ウルフ著、中生勝美訳、1998年、風響社) など

 最近、中国について様々な情報が流れ、週刊誌の記事や書籍となって書店に積まれています。日本と中国の長い関係を考えれば古典や歴史の本が多いのは不思議ではありませんが、同時代のものに限れば、政治や経済に関するものが多いように思われます。他方で、日常生活を送る場としての社会を真面目に紹介した本は多くはないのではないでしょうか。

 そこで、ここでは、こうした領域について手がかりを与えてくれそうな、いくつかの作品を推薦します。
 一つ目は魯迅のもの。皆さんももしかしたら『故郷』を教科書などで触れたことがあるかもしれないし、なにをいまさらという声が聞こえないでもないのですが、読んだことのある人も、そうでない人もしばらくお付き合いを。

 突然ですが、皆さんは一年に数冊の日本語の本しか読めないという状況に出会ったことがありますか。私事で恐縮ですが、中国の農村に住み込んだときのわたしがそんな状況でした。かなり悩んだ末に持ち込んだものが、今昔物語と魯迅の文庫、淡水魚類図鑑でした。今でもなかなか良い選択だったと思います。特に魯迅には随分助けられたのを憶えています。

 私は文学の研究者ではありません。にもかかわらず、魯迅の作品を挙げる理由は、激しい論調や手厳しい諷刺のなかに垣間見える鋭い社会観察は、今日の中国社会を考える上でも有用ではないかと思うからです。もちろん魯迅を読めば今の社会がわかるといっているわけではありません。社会背景もずいぶんと異なるはずですし、作品はあくまで作品でしょう。けれども、様々なヒントが含まれているという点で、今日でも繰り返し読む価値のある作品が多いと思います(著者の死因について、最近はご子息の活躍もあってか、理解を超えた説明がかの国の若者を中心に支持されているのは悲しいことです)。

 いろいろな人が訳しているので、誰のものを選ぶかは好みで結構。まず手始めに『吶喊』を手にとって見てください。

 二冊目は『リン家の人々』という本。これは、1950年代末に台湾北部の村で生活した人類学者の妻(後に著者本人も人類学者になってしまいました。「異文化体験」というのはなかなか強烈で侮れません)が記したある大家族の記録です。推薦理由は、訳者の解説にあるように漢民族の家庭生活の肌触りを知るうえでは良書であるから、です。人や情報の往来は急増し、中国について語る機会が増え、私たちはなにか中国社会について理解を深めたような自覚を持ちやすい今日の状況がありますが、果たしてどの程度理解している、理解しようとしたことがあるでしょうか。たとえば、本書の扱う家庭や人間関係などは如何でしょう。この本は、反省と驚き、知ることへの欲求をかきたててくれる事でしょう。また、最近、中国大陸中心の議論が極端に増加していますが、台湾、香港といった地域から考える、あるいはこれらを含めて考えることが不可欠なのではないかと私は思っています。なので、台湾を舞台とした、面白いけれどもあまり話題にならない本を選びました。

 さきに断っておきますが、ここに挙げた本は、ある事象についての知識を簡潔に記したものではありません。もしそうした知識だけが必要であれば、百科事典でも暗記したほうがましでしょう。大学に来た以上、自分で問いを立てて、常識を疑い、明確な論証を挙げて検討することが必要です。こうした営みが楽しいかどうかは人によると思いますが、大学とはそういうところだと私は思っていますので、上の本を推薦してみました。後は自分で面白そうなものを探してください。

 最後に、本ばかりでは味気ないという意見もあるかもしれないので、映画をいくつか推薦しておきます。ここでは、わたし好みの監督から『青い凧』(田壮壮監督、1993年)、『女人、四十。』(アン・ホイ監督、1995年)、『麻花売りの女』(周暁文監督、1994年)、『延安の娘』(池谷薫監督、2002年)の四本を選びました。図書館や教室だけが学ぶ場というわけではありません。前の三作品は本学の言語教育研究センターにもありますので、在学中に是非足を運んでみてください。

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大人への道
辻部大介 (フランス文学)
スピノザ『神学・政治論―聖書の批判と言論の自由―』(上・下巻)畠中尚志訳、岩波文庫

 岩波文庫の巻末には、どの一冊にも、「真理は万人によって求められることを自ら欲し、」で始まる発刊の辞が掲げられている。この冒頭の一文を、人は美辞麗句の類として読み流してしまうかもしれない。しかし、真理(と信ぜられるもの)を公にする企てが、古来いかに多くの障碍に出会わなくてはならなかったか、そしてそうした障碍は今なお現実のものでありつづけているということを知れば、この一文にこめられたメッセージの重みを受けとめないわけにはいかないだろう。ここで障碍というのは、時の権力者が民衆を無知蒙昧の状態にとどめるべく意図的に設けるもののみを指すのではない。むしろ、私たち一人一人の側に、現にアクセス可能なものとしてある真実の認識を、拒絶、あるいは敬遠する心理が働くことの方が、より重大であると考えたほうがいい。

 大学生の時期は、精神の発達という観点からいっても、子供から大人へと完全に移行する段階にあたるので、それまで禁じられていた、あるいは、自分にはまだ早いと判断していたようなさまざまな事柄について知ることが、いまや何の制限もなしに許されるようになる。これは逆にいえば、知っているべき物事を、知っているか、それともまだ知らずにいるかという点について、自分自身が責任を負う年齢を迎えるということでもある。知識を、また探究を、知力において勝る他者に安んじて委ねる態度は、子供のものだといわねばならない。カントが「啓蒙とは何か」を定義して、「人が、自分自身のせいでそうなっている未成年状態から出ること」だと述べているのは、生物学的にも社会的にも立派な大人である人々の多くが、肝腎な心構えの点で、じつは子供のままである、という現実を撃つものにほかならないのだ。

 1670年に原著が、そして1944年に(ほかならぬ岩波文庫に収められて)邦訳が刊行されたスピノザの『神学・政治論』は、ここまで述べてきたような意味で、人類が子供時代から大人へと脱皮する重要なステップを刻んだ書物であるということができる。ここには、誰にでもわかることが誰にでもわかるように、ただし、子供にはわからないように書いてある。予備知識は何もいらないかわりに、(ことに現代の日本人たるわれわれにとってはおよそ身近でない話題について、)緻密に組みあげられた論述を時間をかけてたどる意欲を欠く者には、何も語ってくれないことだろう。私自身、大学三年か四年の頃にこの本を読んで大きな感銘を受けたのだが、その感銘には、この本から感銘を受けることのできた自分への満足が、少なからず含まれていたのだった。読む者に努力を要求し、かつ、その努力に報いてくれるこの本を、みずから大人への道を切り開く契機とすべく、ぜひ手にとってみてください。

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「見る」
冨重純子 (ドイツ文学)
洲之内徹 『絵のなかの散歩』 (新潮社)
洲之内徹 『おいてけぼり』 (世界文化社)

 地下鉄福大前駅から長いエスカレーターを上って外に出ると、目の前に油山がある。 いつも、 あ、 油山があると思う。 乗り物の窮屈と、 これから始まる授業の窮屈の間の、 一瞬の解放だからだろう。遠くに見える日も近くに見える日もある。

 それにしても、 見ているようで、 何も見ていないことが多いなあと思う。 中川一政は新鮮ということは抽象であると言った。絵はすべて抽象である。 写実とは見たままを描くことではなく、 思ったままを描くことだ。 これは絵のことだけではなくて、 ことばもまた、そうだろう。 「心に感動がなければ、 物を見ないにひとしい。」 洲之内徹の文章は、 「見る」 とはどのようなことかを感じさせてくれる。

 『絵のなかの散歩』 は、 画商なのだが、 絵を売りたくない画商だった洲之内徹の書いた文章を集めた本だ。 絵を見る。 「買えなければ盗んでも」 欲しいと思う。まずその所有者に、 場合によっては画家その人に、 手放すことを承諾させなければならない。 相手もなかなかうんとは言わない。たいてい自分には金がないのだが、 相手が金を必要としているときもある。 機会をとらえる。 待つ。 奇襲作戦が効を奏することもある。好きで好きで手に入れて、 あるいは縁あって手元に残った絵とその画家の話。

 たとえば、 長谷川二郎という 「仕事の遅い」 画家の話など、 一度読んだらとうてい忘れることはできない。この人はどうしても実物を前にしないと絵がかけなくて、 たとえば、 一本の新緑の木を描くにも、 夏に緑が濃くなるとその年はもうそこで終わりで、次の年を待たなければならない。 数年立つうちに、 木が切られでもしたら、 そこで中絶である。 待っている方もたまらない。ほぼ完成した猫の絵があって、 あとは髭だけとなっている。 ところが、 その猫がその絵に描かれたような姿勢で寝るのは春と秋だけで、その時期を待たないとかけない。 そのうち、 猫が死んでしまう。 完成は絶望かと思われるが、 デッサンがあるという。 髭をかきました、と連絡があり、 著者が絵を取りに行くと、 どういうわけか、 片方だけしか描かれていない。 しかし、下手な質問をしてまた何年も待つことになってはたいへんなので、 そのまま受け取ってくる。

 「惚れた女」 を男が見るように絵を見るという。 他の人が見ないようなことを見る。 そして、 資料を探したり、絵が描かれた場所を確かめに行ったり、 画家を知っていた人を訪ねて行ったり、 見えなかったつがなりが見えてきて、 ふと、そのような絵になるほかなかったものとしての画家の世界が見えてくる。 絵の批評や調べたことの報告ではない。 すみからすみまで、著者が心を向けて見たものが記されている。

 『絵のなかの散歩』 は新潮文庫に入って、 文庫というのがまたいいなあと思っていたのだが、 今は絶版のようで、 それで 『おいてけぼり』 も挙げておく。 こちらは書き手の姿勢はまったく変わらないが、 もっと短い文章を集めたもので、 図版もより多い。

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お気に入りの本
永井太郎 (日本文学)
 新入生向けの読書案内ということで、何かの勉強になるとか、大学生として読んでおくべきといった本を紹介しようかとも思ったのですが、やめました。これからあげるのは、僕が読んで、個人的に面白かったという、お気に入りの作品です。完全な趣味です。傾向が少し偏っているので、万人向けとはいきませんが、良かったら本屋や図書館で手にとってみてください。

H・G・ウエルズ『タイムマシン』(創元推理文庫)
 最近少し古いエンタテイメントにこっているのですが、中でもウエルズの作品は今読んでも十分に面白いと思います。「タイムマシン」という言葉はもう常識ですが、このアイデアをはじめて作品化したウエルズの小説を、実際に読むことはなかなかありません。読んでみると、持っていたイメージとは違いがあって、逆に新鮮に感じられます。集中の「塀についたドア」や「水晶の卵」なども名作です。

ロバート・マキャモン『少年時代』上・下(ヴィレッジブックス)
 時代は飛んで、いきなり現代作家です。マキャモンは、もとはスティーヴン・キングなどと同じホラー作家でしたが、この本はホラーではありません。一人の少年の一年の経験を描いた成長小説です。しかし、ただ成長小説というだけでなく、ホラーやファンタジーやミステリーなどの要素が詰まった、実に魅力的な小説です。久しぶりにページをめくる手がもどかしいという経験をしました。

日影丈吉「猫の泉」(『日本怪奇小説傑作集2』(創元推理文庫)、『怪奇探偵小説名作選8日影丈吉集』(ちくま文庫)などに所収)
 日影丈吉という名はまず知らないと思います。ミステリー作家であり、幻想文学でも優れた作品を数多く残しました。あげたのは彼の代表作の一つで、南仏の谷間の町を舞台にした、静かな怪異譚です。他にも、同傾向の幻想的な短編としては、「かむなぎうた」や「吉備津の釜」、「吸血鬼」などが有名です。

澁澤龍彦 『夢の宇宙誌』(河出文庫)
 西洋の怪しい知識を紹介したエッセイ集です。本を開くと、アンドロギュヌスやホムンクルスや自動人形といった楽しげな言葉が飛び交っています。かつて澁澤龍彦の本は、こうした話題についての定番だったのですが、今でも読まれているのでしょうか。そう思って、あげてみました。この本以外にも、『黒魔術の手帖』など、澁澤龍彦の本はいくつも文庫で出ているので、探してみて下さい。

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社会の認識
平兮元章 (社会学)
(1) 市野川容孝著 『社会』 岩波書店(シリーズ思考のフロンティア)
 本書のタイトルは 「社会」 であるが、 「社会とは何か」とか 「社会なるものは如何にして可能か」といったことを問うているのではない。 むしろここで問うているのは、 ある種の様相や様態、 運動を意味する 「社会的 (social)」という形容 (動) 詞と、 そこから派生する 「社会的なもの(the social)」 という概念である。 したがって、正確にいうと適切なタイトルは 「社会的なものの概念」 である。 この 「社会的」 という言葉が、 実は何を意味し、 意味しない (しなかった)のか、 さらに、 この 「社会的」 という言葉によって、 如何なる現実が構築され、 構築されない (なかった) のかを考察している。主として欧米の社会科学の先達の使用法をその文献をとおして歴史的に振り返る作業を行っている。 ドイツやフランスでは、 「社会的な国家」という表現がなされる。 読者はこの本を読むとき、 日本で最も見落とされている意味のあることに気づかされるであろう。

(2)石黒武彦『科学の社会化シンドローム』 岩波書店(岩波科学ライブラリー131)
 今日、 科学と技術は、 社会に深く取り込まれ、もはや科学を抜きにしては社会を語ることはできない状況に来ている。 一方、科学を発展させるには、 資金や人材を社会に求めなければならない。 したがって、 科学と社会は強く影響しあう関係になってしまっている。このような事態のもとで、 科学システムの必要とするものが、 社会の供給能力の限界に達し、 科学がもたらすデメリットが無視できなくなり、そのことに対する批判が多く寄せられるようになった。 このような状況に沿うかのごとく科学を蝕むミスコンダクト (不正行為) も生じているという。世界中で相次ぐ論文捏造事件を例に出しながら、 様々な論点を明らかにしていく。 そして、 科学と社会の新しい関係の構築を探り、人材需給と研究環境のあり方、 科学のあるべき途などを模索している。

〈付録〉ここでは本を読むということだけに限ってものを言いますが、 教養を身につけるといっても、具体的にどのような本を読めばいいのか分からないという人にとって格好のガイドブックがありますので、 紹介しておきます。 理系・文系を問わず、幅広く紹介してあって、 面白く読めます。
小林康夫・山本泰 (編) 『教養のためのブックガイド』 東京大学出版会

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新入生のための人文学案内 (二〇〇八年)
広瀬貞三 (朝鮮史)
地球の生き物たち
  1. 星野道夫 『イニュニック 〔生命〕 ― アラスカの原野を旅する―』 (新潮文庫、 1998年)
     アラスカの自然、 動物、人に強く魅かれた写真家星野道夫は、1990年現地に家を建てて定着する。 冬は白熊を狙い、 夏はカリブーとユーコーンを追う。 動物だけでなく、極限の地で移りゆく自然も克明に撮影する。 多くの人々からは、 アラスカの地に根ざした生活を学ぶ。 カリブーを解体した直後、「息吹を与えていた心臓を、 私たちは今食べている」 と星野は生命を讃歌した。 しかし、 1996年に取材中、 熊に襲われ死亡。 44歳だった。
  2. 開高健・秋元啓一 『フィッシュ・オン』(新潮文庫、 1974年)
     作家の開高健、 写真家の秋元啓一が共同で作った釣りの本。稀代の名文家である開高健は世界各地を転々として、 キング・サーモン、 パイク、 マス、 ツノザメ、 イワナに挑む。 饒舌な彼は、 釣りから酒、女、 料理、 小説、 人生を語りつくす。 スウェーデンで会ったパイク (淡水魚) を、 「巨大な骨と牙と巨眼の頭から野卑と孤独、凶暴と荘厳のまじりあった、 冷酷な精力の気品がにじんでいる。 (中略) 醜男の魅力である」 と、 見事に表現する。
  3. 柳宗民 『日本の花』 (ちくま新書、 2006年)
     文は柳宗民、 挿画は相田あずみ。 園芸研究家の柳宗民が、日本の四季を彩る48種類の花々を語る。 「花は自らを誇らない」 とは、 誰の言葉だっただろうか。 おのれの生命を文字通りに開花させ、その種を次代に残す。 人はその無心な花々に心打たれ、 慈しみ、 物語を紡ぎだす。 ツツジの鮮やかな紅色に思わずたたずみ、凛としたロウバイの姿と清楚な香りに真冬を実感する。 柳宗民の文章は花々の美しさが巧みに描かれ、 その匂いすら漂う。
  4. 岩合光昭・岩合日出子 『たくましく育ってほしい』(新潮文庫、 2002年)
     写真は岩合光昭、 文は岩合日出子。世界各地に暮らす動物の親子二六組を写真で記録。 タテゴトアザラシ、 オオサマペンギン、 アカカンガルー等が主役である。人間は長い時間をかけて子どもを育てる。 動物は短期間の内に、 えさの獲り方、 身の守り方、 自立する術を教え込む。 厳しい自然環境、弱肉強食の食物連鎖の中で生きていく。 死は常に身近にあり、 一瞬の間に起きる。 動物の親子の可愛いさ、 けなげさ、 哀れさ、はかなさが胸を打つ。
  5. 水口博也 『巨鯨』 (講談社文庫、 1994年)
     鯨の肉はたくさん食べたが、 本物は一度も見たことがない。しかし、 写真家水口博也が取った写真をながめていると、 目の前を、 巨大で、 黒光するその神々しい姿が悠々と動きだす。 この本にはアラスカ、カリフォルニア、 パタゴニアなどで撮影された、 ザトウクジラ、 シロナガスクジラ、 コククジラなどが登場する。 噴気孔から潮を吹き上げ、尾びれで激しく海面を打ち、 空中に巨体を躍らせる。 地球上で最大の生物に、 敬意を払いたくなる。
  6. 秋元良平・石黒謙吾 『盲導犬クイールの一生』(文春文庫、 1990年)
     写真は秋元良平、 文は石黒謙吾。ラブラドール・レトリーバーの盲導犬クイールは、12歳で逝った。 短い生涯だったが、 多くの人々に勇気と希望、 喜びを与えてくれた。五匹の中から盲導犬として選ばれたクイールは、 視覚障害者のために訓練を受ける。 しかし、 盲導犬としての期間はわずか二年だけだった。ハーネスをつけ、 人間とともに、 人間のために生きる。 すべてを理解し、 すべてを受容しているようなクイールの表情がいとおしい。

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名著たち
藤本恭比古 (フランス文学)
 入試監督中のことだった。 日本史Bの問題で、 秀吉が「関東の北条氏政には大軍を送って降伏させ」 という件くだりが、 たまたま目に入った。 その時、 数年前に物故した異色の作家、山田風太郎の忍法帖シリーズの中に、 この北条攻めの合戦で、 一命を賭して北条の姫君をお守りし、ひとりまたひとりと散っていった異形の忍びたちを描いた一巻があったことが思い出された。 『風来忍法帖』 だったか。 タイトルは、はっきりしない。 もし受験生が受験勉強中にこんな本を読んだとしたら、 あまりに面白すぎて合格は覚束ないかもしれないと心配になる。 とはいえ、合格の暁には、 この史実には忠実でありながらも奇想天外なファンタジーを読めば、 受験の知識が楽しくふくらんでゆくのではないか、 などと、とりとめのないこと考えていた。

 しかしながら、 山田風太郎の、 かなりエロティックな幻想歴史小説を若い人たちにとくに奨めようとは思わない。 ただ、風太郎作品に現れる姫君たちは、 現在放映中の某局大河ドラマの 「篤姫」 も顔色を失うほど、 利発で天衣無縫であり、 じつに魅力的である。彼の作品集が版元を変えながら、 何度も蘇るのは、 その目の覚めるような面白さのためだろう。 そういうわけで、ただ単に私が薦めたいという理由からだけではなく、 多くの読者が読むことを欲しているからこそ、 何度も版元を変えては生き続けているような書物を、この新入生の読書案内に取り上げてみたいと思った次第。

1. 松原秀一・松原秀治著『フランス語らしく書く――仏作文の考え方』 (白水社)
 もともと第三書房から 『仏作文の考え方』 というタイトルで刊行されていたハード・カバーの小型の本だった。 学生時代、 古書店でたまたま発見した。 短い和文仏訳 (テーム)でフランス語を学ぶことが、 まず新鮮だった。 それまで読んでいたいずれも似たり寄ったりの文法解説の参考書とは切り口が違っていた。 それでいて、この名著は 「作文」 の本のくせに、 文法説明が明快で網羅的だった。 そして第二部で、われわれを高度なレベルにまで導いてくれることが分かった。 残念ながら、 私はそこまではたどり着けなかったけれども。

2. スタンダール作、 野崎歓訳 『赤と黒』(光文社古典新訳文庫)
 この作品は、 フランス文学の必読書ベスト、というランク付けならば、 常に上位に入るのではないか。 これまでに、 岩波文庫、 新潮文庫、 講談社文庫をはじめとして、何種類も名訳はあるけれども、 この新訳は解説が実に親切である。 作品の時代背景をわかりやすい言葉で、 丁寧に教えてくれる。 本文に関しては、贅言を要さない。

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〈人間学〉のススメ
馬本誠也 (英文学)
  1. 内村鑑三 『後世への最大遺物』 (『世界教養全集9』 平凡社刊行、 1962)  物質主義や自己中心主義が横行している今の時代に、このような書物を紹介すること自体、アナクロニズムの誹りを免れないかもしれない。

     だが、この本を読み、私は久しぶりに本当の日本人に触れた思いがした。「生きる」ことの意味やこの世に生きる使命感を彼ほど純粋な力強いことばで語れる人は、そう多くないはずだ。ここに示されているいくつかの生き方は、おそらく真摯に自分の行き方を模索している青年の魂に深く訴えてくるのではないだろうか。

     わたしは、すべての学生にこの書物を推薦しようとは思わない。こころの奥底から聞こえてくる〈内なる声〉に耳を澄ますことのできる人であれば誰でもいい。「わたし」とは、いったい何者であるのか。自然界における人間の位置づけをどう考えるのか。「社会」と「個人」はどのように関わり合っていけばいいのか。およそ人文学部に身を置く学生であれば、内村鑑三のような高い志しをもった日本人の声に謙虚に耳を傾けて欲しい。〈文化〉の意味や、外国語を学ぶ楽しさとすばらしさが、すべてこのなかで語られている。

     この書物は、すでに過去数年にわたって紹介してきているが、今日の日本の時勢、日本を取り巻く世界情勢を考えると、どうしても今の若い人たちに贈りたい書物の一冊である。内村は、その中で、こう言っている。「われわれは、何をこの世に遺して逝こうか。金か。事業か。思想か。これいずれも遺すに価値のあるものである。しかし、これは何人にも遺すことのできるものではない。……何人にも遺すことのできる本当の最大遺物は何であるか。それは勇ましい高尚なる生涯である」
    ※ ここに紹介した内村鑑三『後世への最大の遺物』 は、図書館で検索すれば必ずあると思いますが、書店での入手は難しいでしょう。自分で所有したい場合には、インターネットの「日本の古本屋」を検索すれば、必ずどこかの古本屋が出しています。
  2. 吉田健一 『英国の文学』 (岩波文庫)  ずいぶん昔のことであるが、大学の文学部に入学して、さてこれから何を勉強していこうかと、漫然と思案していたとき、たまたま書店の本棚で見つけたのがこの書物であった。英国、および英国人の風土や文学をこれほど見事に語った書物は、そう多くないと思う。わたしがイギリス文学を専攻したのも、この書物に触れ、その感動を少しでも追体験したいという気持ちに駆られたからであった。爾来、この書物はわたしの本棚から消えたことが無い。折に触れ、その一部の詩や名文を味読している。たとえば、シェイクスピアの十四行詩をつぎのような名文に訳出している。

    君を夏の一日に譬えようか。
    君は更に美しくて、更に優しい。
    心ない風は五月の蕾を散らし、
    又、夏の期限が余りにも短いのを何とすればいいのか。
    太陽の熱気は時には堪え難くて、
    その黄金の面を遮る雲もある。
    そしてどんなに美しいものでもいつも美しくはなくて、
    偶然の出来事や自然の変化に傷つけられる。
    併し君の夏が過ぎることはなくて、
    君の美しさが褪せることもない。
    この数行によって君は永遠に生きて、
    死はその暗い世界を君がさ迷っていると得意げに言うことは出来ない。
    人間が地上にあって盲にならない間、
    この数行は読まれて、君に命を与える。

     このソネットの解説を始めとするシェイクスピアや幾多の文人を語る重厚な文体については、多言を弄する必要はないと思う。まず、手にとって読んでみることだ
  3. BBC活用法  昨年わたしは、この欄でジャパンタイムズ編の『ライブ・フロム・ロンドン』(ジャパンタイムズ社)を紹介した。これは、ナマのイギリス英語を現地で録音したものをそのままCD付きの実用書にしたものである。これでわたしは、行き帰りの通勤電車やバスのなかでだいぶ楽しませてもらった。不思議な感覚だ。目を閉じてウォークマンを聴いているだけで、こころはすでにロンドンに飛んでいる。このCDを聴いて思うことは、イギリス人だって時には言い間違えたり、文法的に正しくない英語を発していることがある、ということだ。まして、わたしたちは外国人だ。英語を話すことを躊躇したり、尻込みしたりすることはない。実用英語を身につけようとするならば、まず笑顔で話しかけてみることだ。今は昔と違ってネイティブスピーカーの授業を受けようと思えば、いつでも機会は提供されている。福岡大学は、ネイティブスピーカーの数だけでも全国有数のスタッフを擁している。学生諸君がこの教育環境の利点を積極的に利用されることを勧めたい。
     しかし、本場の英語を日常的な場でもっとシャワーを浴びるように聞きたいと願う学習者に勧めたいのが、インターネットを利用した「BBC活用法」である。グーグル検索でも何でもいいから、〈BBC活用法〉と入力して検索すれば、その利用の仕方について具体的に教示してある。これで、学生諸君は日本に居ながらにして英国本国のラジオ放送五局を現在流されているかたちでそのまま聴けることになる。なかでも特に学生諸君に勧めたいのがひとつある。『英語学習者向け : BBC Learning English』のコーナーだ。ここをクリックすれば、テキストや単語の解説まで用意されているので、時事英語を勉強するには最適な教材だと言えよう。

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カネにならないものの価値
道行啓爾 (イギリス文学)
宇根豊著『天地友情の農学』(コモンズ)
 「金銭の欲は、すべての悪の根」(『聖書』 「テモテへの手紙一」6章10節)とあるように、お金には負の側面があります。

 人間が発明したもののなかで、至極ありがたく、またいちばん厄介なものは「お金」でしょう。思えばカネにまつわる話題がいつも世をにぎわせています。悪徳商法や詐欺・脅し・忌まわしい保険金殺人など悪事が横行し、社会は狂ってしまっています。お金は諸悪の根源になりさがってしまった感があります。もちろん悪いのはお金ではなく、人間のほうですね。

 現代社会が陥っている困難な状況 ― 紛争、食料、環境、エネルギー、貧富格差等の問題 ― から脱却するにはお金儲けを善とする「常識」ははたして通用するのでしょうか。いつまでも金中心の世の常識にしがみついていると、金と心中、してしまうことになりはしまいか、心底心配です。

 そうならないためには、新たな「まなざし」が必要だと思います。つまり、カネにならないものに価値を見出す思想に耳を傾けてほしいのです。金銭主義に傾斜した価値観を問い直し、カネで評価できないものにこそ、おおきなめぐみが隠されていることを著者は伝えようとしています。「従来の農学は、近代化が進んでいるかどうか、 つまり生産性が向上しているかどうかで技術や経営を分析し、 優劣をつけてきた。 それに対して、 天地有情の農学は「非近代化尺度」 を提案する。 …労働時間が長くても、 労働がきつくても、 収量が少なくても、 収益が減っても、 働く喜びが増え、自然に対するまなざしが深まるなら、 価値があるとする尺度である。」 と著者は説いています。 「めぐみ」 とは、 いきがい、 幸福感、満足感をあたえてくれるもののようです。 同じ著者による 『国民のための百姓学』 (家の光協会)もあわせて読んで、 本当のところを理解してください。

 「カネになるものだけが生産ではない」 との著者のことばを、 あなたはどう受けとめますか?

 追記―知らないひともいるかもしれないから、 付け加えておくと、 実はこの著者にわれわれ全国民はこの上もない恩恵をうけています。 この人による 『減農薬のイネつくり』 他、多くの著作と働きかけによって、 全国で農薬使用が以前に比べかなり削減されたのです。 その結果、 環境汚染が軽減され、人間をふくむ生きとし生けるものすべてが被ったであろう甚大な被害が回避されたのです。

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『きみが読む物語』
毛利潔 (フランス文学)
 最近(2005年2月)の週刊誌に「おじさんだって泣きたい映画!『きみに読む物語』(2004米)」という記事がありました。それに倣って、今回のタイトルを『きみが読む物語』としました。

 では、どんな物語なのか?

 世界には無数の物語があって、そのどれかを、明確に、ひとつの《物語》として、意識して読むことができれば、それが誰にとっても、それが自分の物語になることははっきりしています。

 しかし、どんな物語なのか・・・?

 たしかに、この世界は様々な出来事に満ち溢れ、ほとんどすべてが謎に埋め尽くされた世界のようです。しかし、本当のところ、この世界はただ、古今の哲学が語るように、静かに風だけが吹いているだけの世界かも知れない、と考えることができるかも知れません。このような風景を描写できる小説が、もし、あるとすれば、たぶんそれが、「究極の小説」だと言うことができます。これまで、そのような小説を書くことのできた小説家は一人もいないからです。ただ、それに近い世界に接近できた作家は何人かはいることは確かです。

 その一人がトルーマン・カポーティ。 1. 『ティファニーで朝食を』 2. 『草の竪琴』 3. 『遠い声 遠い部屋』
(1、2は映画化されています)

 カポーティとは、では、どんな作家なのか? それは、いずれ分かります。ただ、私としては、カポーティに関しては、一つしか言うべきことはありません。それは、彼がこの世界に一番近い作家だ、ということです。

 たとえば、『ティファニーで朝食を』の中で、ヒロインが作家志望の青年の小説の習作をコメントして、「あんたの物語には(中略)ただ、木の葉のそよぎがあるだけ」というようなことを言う部分があります。つまり、この作品には、木の葉のそよぐ風の描写しかない、という訳です。

 こんな風に、何にも事件が起こらない、ただ、風が吹くだけ・・・こんな世界が本当に面白いのだろうか、ただ、うざったいだけかも知れない、と考える新入生の方には、とりあえず、村上春樹さんの小説をお勧めします。(ただし、『羊の歌』までの初期群の作品に限ります)。とりわけ、デビュー作の、その名もズバリ、『風の歌を聴け』です。

 おそらく、はじめは、何も分からないかも知れません。しかし、私たちが理解しなければならないことは、ひょっとしたら、そのような世界があるのかも知れない、という、普段は見えない世界を意識することではないか、と思っています。

 村上春樹を通して、カポーティが何となく分かった、となれば、後は皆さんの自由です。 いきなり、オカルトとかポルノの世界に入っても構いません。キーワードはちゃんと掴んでいるからです。

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歴史と文学との垣根をとり払おう
森茂暁 (日本史)
福田秀一・岩佐美代子・川添昭二他校注
新日本古典文学大系『中世日記紀行集』(岩波書店)
 創造的な人生を送るには、柔軟な頭脳と大胆な発想とがまず必要でしょう。身近なことでは、たとえば卒業論文のテーマ探しや執筆のさい、このことは決定的に重要です。常日頃から固定的な物の考え方をしないで、自分の頭で物事をのびのびと考えてみましょう。ここでは、文学の史料は歴史の史料として充分に活用できるということを述べます。

 例えば、鎌倉初期成立の『平家物語』、鎌倉末期成立の『徒然草(つれづれぐさ)』、南北朝末期成立の『太平記』などは、高等学校の段階まではいずれも文学作品として扱われ、古典の時間に読まれます。しかし、このような作品は同時代の歴史を知るための史料として極めて有用で、価値の高いものです。今度は歴史の史料として再読しましょう。むろん原文で。この場合肝心なのは、一部分ではなく全部を読み通おすことです。きっと感動が湧きおこります。古典のもつ不思議な力です。

 さて、冒頭にあげた書物はそれに類するものです。日本中世の紀行文(旅行記)が多く収められています。中世日本人の旅行意欲をかきたてたのは(すべてが単なる旅行ではありませんが)、十四世紀の南北朝の動乱を通した人々の地理的視野の広がりだと筆者は考えていますが、この動乱を契機に国内を旅する人が増えてきます。そのようななかで、紀行文が書かれるわけです。それらは主として国文学のジャンルで研究の素材となってきましたが、歴史の方ではほとんど無関心です。

 このような紀行文が、どのような意味で歴史研究に有用かというと、たとえば、阿仏尼(あぶつに)の「十六夜日記(いざよいにっき)」は、十三世紀後半(鎌倉時代)の所領訴訟関係史料としてはもとより、東海道(京都と鎌倉をつなぐ基幹道路)の交通史の史料としても使えますし、また、連歌師宗祗(そうぎ)の「筑紫道記(つくしみちのき)」は、十五世紀後半(室町時代)の筑前・豊前国(福岡県)、特に博多の人々の生活や周辺の景観をくっきりと描き出しています。一例をあげますと、筥崎宮(はこざきぐう)を訪れた宗祗(そうぎ)は博多湾をへだてて、夕日のなかの可也(かや)山(福岡県糸島郡志摩町)をながめ、「富士に似たる山」と感慨深げに書き留めています。同記は、大内氏研究のための史料としても貴重です。

 同書では丁寧な脚注や解説が施されていますので、容易に読み進むことができます。さあ、実際この本を手にとって、読んでみましょう。

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「嫉妬」 の詩学/史学
山内正一 (イギリス文学)
シェイクスピア (福田恆存訳) 『オセロー』新潮文庫 1973年
山内昌之 『嫉妬の世界史』 新潮新書 2004年
 最近、久しぶりに『オセロー』を読み返す機会をえました。きっかけとなったのは、『嫉妬の世界史』という本の内容です。著者(東京大学大学院教授)は国際関係史とイスラーム地域研究の専門家。歴史学者の視点から歴史上著名な人物たちの生きざまを「嫉妬」という切り口で論じた、興味深い本です。嫉妬する側とされる側の両面から、人間の心の葛藤や心理のあやを解きほぐしてくれます。自分もその一員である〈人間〉を知る上でたいへん有益な書であるように思われます。

 「嫉妬は女のさがであり、男は嫉妬しないと言う人もいる。(中略、段落)しかし、男も嫉妬するのだ」(『嫉妬の世界史』11―12 頁)という観点にたつ著者がシェイクスピアの『オセロー』に言及するのは当然です(13―15、162頁)。この大文豪の戯曲の中では「緑色の目をした怪物」(三幕三場)と呼ばれる「嫉妬」 ― それも男の嫉妬 ― が大活躍をするからです。「嫉妬」という漢字には女偏がついています。どうやら世間では「嫉妬」は女性に特徴的に見られるものと思われているようです。しかし、『オセロー』の作者は「嫉妬」を男の激情として余すところなく描いてみせます。デスデモーナ(主人公オセローの妻)もエミリア(悪党イアーゴーの妻)も、いや娼婦のビアンカですら、『オセロー』に登場する女たちはみな、病的な「嫉妬」とは無縁の存在です。そのことによって、彼女たちは男の激情(嫉妬)の卑しさと醜さをあざ笑っているようにさえ見えるのです。

 作品『オセロー』における「嫉妬」の火つけ役はイアーゴーです。上官であるオセロー将軍を「嫉妬」の餌食にして私怨を晴らそうとするこの悪漢の行為は、彼の策謀の徹底した悪辣さゆえにしばしば「動機不明の行為」(原因と結果が不釣り合いな行為)と目されてきました。しかし、筆者が見るところ、シェイクスピアは十分すぎるほど明瞭にイアーゴーの復讐の動機を劇中に書き込んでいます。ひとつは、自分を差し置いて副官に昇格した同僚キャシオーへの「嫉妬」とキャシオーを抜擢したオセローへの憎しみ(『オセロー』9―10頁)、次に自分の妻を寝取った(ことが疑われる)オセローとキャシオーに対する「嫉妬」と憎悪(39―40、56頁)、加えて将軍の妻デスデモーナへの横恋慕(56頁)、最後にイアーゴーの貪婪な物欲・金銭欲(37―38、 142頁)。これだけ揃えば、イアーゴーがオセローに復讐を企てる動機としては十分でしょう。

 イアーゴーは怪物でも悪魔でもありません。多少誇張されてはいますが〈人間〉という一点において私の一部であり、あなたの分身でもあるのです。もともと他人には厳しく自分に甘いのが、人間ではないでしょうか。同僚キャシオーの昇進に「嫉妬」するイアーゴーは、「おのれに甘くて人に厳しい」人間評価を下す人物の典型です。他人の欠点は見えても、自分のそれは見えないのです。別の言い方をすれば、イアーゴーは自尊心の固まりです。イアーゴーの「嫉妬」(「緑色の目をした怪物」)は、傷ついた彼の自尊心という手負いの怪物の子供なのです。同様のことがオセローにも当てはまります。彼は人一倍名誉を重んじる武人・軍人です。誇り高いこの将軍が、部下のキャシオーに妻を寝取られたと、イアーゴーに吹き込まれるのです。彼の自尊心が傷つかぬはずはありません。ここからオセローの「嫉妬」に火がつくのです。ところで「自尊心」を意味する英語 pride には二つの意味があることをご存じですか。「誇り」と「傲り」です。前者が良い意味で用いられるのに対し、後者はキリスト教では「七つの大罪」のうちのひとつに数えられます。(単語 pride の二つの意味を巧みに用いて主題化した小説が、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』。)

 『オセロー』の作者シェイクスピアは、人間の「プライド」の両面性とそれが孕む恐ろしさを熟知していたに違いありません。イエスが「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(「マタイによる福音書」二三章一二節)と諭したのも、同じ理由からです。旗手イアーゴーのプライドと将軍オセローのプライドを同一視するのは解せない、との不満の声が聞こえてきそうです。しかし「一寸の虫にも五分の魂」という諺を思いだしてください。弱者や小者の「プライド」を侮れば、オセローの二の舞にもなりかねません。

 皆さんは意外に思われるかもしれませんが、オセローの悲劇の中心的主題は「嫉妬」ではありません。真の主題は、『オセロー』とほぼ同じ時期に書かれた他の悲劇同様、外見 appearance と真実 reality をめぐるテーマ ― 軽信と妄信と不信のテーマ ― です。非凡な主人公が ― さまざまな要因で ― 事の真相を見誤るところから悲劇は生まれます。オセローの悲劇の原因は、彼が部下のイアーゴーの人柄と言葉を盲信し、妻デスデモーナの本当の姿を見誤った点にあります。彼の「嫉妬」はその結果にすぎません。『オセロー』の場合には、夫婦愛、男女間の愛をめぐってこのテーマが展開されます。読者はイアーゴーの恋愛観や女性観(37―38、 46頁)とオセローのそれ(51―52頁)との根本的な相違に気づかねばなりません。前者は肉欲と打算に支えられたもの、後者は親子(父娘)の絆にも勝る、深く強い愛です。オセローの真の悲劇は、〈愛〉に対する彼の理想が潰えた(そう主人公が思いこまされた)ところにあるのです。おのれの過ちを悟り自害するオセローの最後の台詞は、そのことを語っています ― 「ただどうしてもお伝えいただきたいのは、愛することを知らずして愛しすぎた男の身の上、めったに猜疑に身を委ねはせぬが、悪だくみにあって、すっかり取りみだしてしまった一人の男の物語。それ、話にもあること、無智なインディアンよろしく、おのが一族の命にもまさる宝を、われとわが手で投げ捨て、かつてはどんな悲しみにも滴ひとつ宿さなかった乾き切ったその目から、樹液のしたたり落ちる熱帯の木も同様、さん然と涙を流していたと、そう書いていただきたい」(178頁)。オセローを自分と同じ「嫉妬」の地獄に落とすことを画策したイアーゴーの手の届かぬところに、いまオセローはいます。オセローは以前とは人が変わったのです。悪党が味わった「嫉妬」とは異なる感情の高みに、いまオセローは昇っているのです。真実の〈愛〉への信頼の回復、これこそシェイクスピアが最後に主人公に用意した救いです。

 シェイクスピアの人間観察には畏ろしいものがあります。彼は一連の悲劇で人間の弱点をえぐりだすだけでなく、その弱さのなかに潜む強さや輝きをも描いてみせます。シェイクスピアは、われわれが善と信じるものの内に悪の種を、悪と見なすものの中に善因を洞察します。人間が、人生が一筋縄ではいかないことを、この天才は知り尽くしているのです。(新潮文庫版『オセロー』には劇の種本となった原話からの一節が収載されています。原作を天才がいかにみごとに翻案したかを自分の目で確かめてください。)シェイクスピアは人間の悲劇を提示するだけでなく、そこからの脱出法も抜かりなく教えてくれます。『オセロー』の場合、それはデスデモーナの祈りのことばに見られます ― 「神様、どうぞお力を、悪意から悪を学びませぬよう、それを鏡に自分の悪を正すことが出来ますよう!」(151頁)。

 『嫉妬の世界史』は、架空の人物オセローへの言及こそあれ、もともと歴史上実在の人物を扱った書物です。「嫉妬」する側、される側とにかかわらず、そこには古今東西変わらぬ人間の悲しく恐ろしくも、滑稽なドラマが綴られています。この本の終章「嫉妬されなかった男」は紙数の多くを江戸時代の政治家、保科正之に割いています。この「知足の人」「嘘をつかない政治家」を賞揚する際に、著者は政治に携わる者に対して警鐘を鳴らすことを忘れません ― 「注意すべきは、一時の嫉妬を恐れるあまり、自分が国を愛することでは人後に落ちず金銭の誘惑にも負けない人間だと、威厳や赤心を示すのを忘れてしまうことである。時には勇気をもっておのれを語らなくてはならない」。ここに紹介した、「嫉妬」をめぐる二冊の本は、人間の弱さと強さを示唆してやみません。歴史学はいざしらず、文学はすぐ何かの役にたつことはないかもしれません。しかし、人間を観察し、人間を学び、人間力を磨くためには欠かせないものではないでしょうか。一読を勧めるゆえんです。

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汽車旅の勧め
山縣浩 (日本語史)
 近年交通手段が多様化し、相対的に鉄道の地位が低下してきたことは周知のことであろう。 このため、 鉄道を目的地に至るための手段としてでなく、列車に乗ることを目的とする余裕が生まれ、 そのような行為が注目されるようになってきた。鉄道会社によって様々な乗り放題の企画切符が販売されるようになったこともそれに拍車をかけている。
 この文章は、 列車に乗ることを移動のため、 即ち、 目的地に至るための手段でなく、 乗ること自体を目的とする 「汽車旅」を勧めようとするものである。 列車に乗って、 行ったことのない土地をゆっくり巡り、 新たに発見すること、 感じることがあれば、それはきっと若いみなさんの人生にとって大きな糧になると信じる。 また 「用事」 もなく列車に乗るからこそ生まれる楽しさもある。
内田百閒(ひゃっけん) 『新潮文庫・第一阿房 (あほう)列車』 新潮社 (初版・1952年)
――  『新潮文庫・第二阿房列車』 新潮社(初版・1953年)
――  『新潮文庫・第三阿房列車』 新潮社(初版・1956年)
宮脇俊三 『角川文庫・時刻表二万キロ』 角川書店(初版・1978年)
――  『新潮文庫・最長片道切符の旅』 新潮社(初版・1979年)
――  『新潮文庫・最長片道切符の旅』 新潮社(初版・1979年)
 列車に乗る楽しさを教えてくれる古典的な入門書が、百閒氏・宮脇氏の諸作品である。

 高度経済成長期前の一九五一年に雑誌掲載された百閒氏の 「特別阿房列車」 冒頭の二・三文「用事がなければどこへも行ってはいけないと云うわけはない。 なんにも用事がないけれど、 汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う。」 (『第一阿房列車』 7頁) は、汽車旅の精神を表している。 ただ、 一連のシリーズの面白さは、 旅の先々での出会いによる人間観察の妙にある。
 なお、 百閒氏は九州に何度もやってきたが、 八代の松浜軒が段々お目当てになってきている。 このため、 福岡・博多に立ち寄ることはあるが、当時の博多駅や街の様子はあまり描かれていない。
 鉄道紀行を文学として確立し、 また列車に乗ることの本当の楽しさを教えてくれるのが宮脇氏の諸作品である。それらの中でも先ず手にしてもらいたい作品を掲げた。
 『時刻表二万キロ』 は、 宮脇氏が出版社に勤めながら、 週末などを利用して国鉄の全線を乗り尽くした記録である。 当時の国鉄の総延長が約2万キロであるため、この書名となった。 赤字ローカル線廃止以前のことであるので、 氏は筑豊の添田線・上山田線・漆生線・宮田線などにも乗車している。
 その偉業を成し遂げた後、 出版社を退社し、 本格的な取材に基づいて書かれたのが、 『最長片道切符の旅』 である。「自由は、 あり過ぎると扱いに困る。」 (同書9頁) の一文で始まる本書は、 「制約」 を求めた結果、「同じ駅を二度通らなければどんなに遠回りであっても片道切符になる」 「一筆(ひとふで)書き切符」 (同書12頁) で最も長い経路を算出し、 最短で2,764・2キロのところを13,319・4キロもの大回りをして、 広尾駅(今はなき北海道の広尾線) から枕崎駅まで乗車した、 壮大な汽車旅をまとめたものである。 約20年前に読んだ際には、あまりの馬鹿馬鹿しさに呆れると同時に、 そのエネルギーを羨ましく思った。 近年NHKで同種の企画番組があったらしいが、相次ぐローカル線の廃止で、 今日宮脇氏と同じ旅をすることは出来ない。
 『時刻表昭和史』 は宮脇氏の別の面を物語る名著である。 特に第13章 「米坂線一〇九列車―昭和二〇年」 は様々な人によって取り上げられている。
 政治思想史を専門とする原武史氏は 「この本の圧巻」 として宮脇氏が 「ただの鉄道マニアではなかったことを思い知らされる」 (『講談社現代新書・鉄道ひとつばなし』 講談社95頁) 文章とする。 また作家の関川夏央氏は宮脇氏と同じく米坂線の今泉駅 (山形県長井市) に佇(たたず)み、玉音放送を聞いて 「時は止っていたが汽車は走っていた。」 (『時刻表昭和史』 249頁) という宮脇氏の一文を受け、 「終戦の夏を思わせる風景は何もなかった。 …いまも時は止まっているが、 その質が違う。」 (『汽車旅放浪記』 新潮社132頁) と結ぶ。 そして、 英文学者の小池滋氏は「昭和20年8月15日を描いた短篇の傑作のひとつ」 (303頁) として鉄道を扱った名作アンソロジー 『鉄道愛 [日本篇]』 (晶文社)に納める。
 右の諸作品によって旅情がかき立てられたら、 実践である。 汽車旅を楽しいものとするための五箇条を記す。
 汽車旅は単に列車に乗っていればよいというものではない。 車中で、 友達とおしゃべりに興じたり、 携帯電話を眺めたりしていては無意味である。
① 一人であること。
② 携帯電話は持参しないこと。 たとえ持参しても非常事態への備えのためである。 必ず電源を切り、 鞄やリュックサックの下の方に入れておく。
③ 晴天時を避け、 曇り・雨・雪の日に乗車すること。
④ 大判の時刻表を持参すること。
⑤ 一日に列車が往復十二本以下の路線に努めて乗車すること。
 汽車旅の楽しみは、 車窓からの眺めと車内での乗客観察にある。 それを妨げないための条件が①~③である。
 近年は⑤のような地方ローカル線でも汽車旅ブームのためか、 時期・曜日によっては座席が一通り埋まってしまうことがある。 このため、晴天時にはブラインドを閉めるの、 閉めないのでトラブルが生じる。 不愉快な思いをさせられる。 それを避けるため、 日の射さない日を選ぶか、北側の座席を占めることを勧める。 しかし、 列車は絶えず方向を変え、 また日が僅かでも射すと、 すぐにブラインドを閉めたがるエセ旅人がいる。
 汽車旅に際して、 私は携帯がなくて困ったことがない (元々持たないので困りようがないが)。 しかし、 時刻表がないため、不安に思ったことは少なくない。 万が一のことが生じた場合、 例えば、 雨や雪が度を超したために発生する列車の遅れ・運行打ち切りなどに対しては、携帯電話より、 情報満載の、 特に大判の時刻表が頼りとなる。 それに時刻表は絶対に充電切れしない。
 最後に地方ローカル線での様々な出会いを記す。
 一般にローカル線は自然に恵まれたところを走る。 近年は多額の税金が投入されて、 どこに行っても道路が整備され、鉄路と平行する。 しかし、 地域によっては鉄路しか敷設されていないところがある。 そして、列車だけからしか眺めることのできない絶景が少なくない。 また難所では列車は時速10キロ・20キロで走るため、 ゆっくり絶景が楽しめる。
 約670キロにも及ぶ山陰本線は、 殆どの区間日本海に沿って走るが、 海が望める箇所は意外と少ない。 兵庫県の竹野駅・居組駅間は、確かに鎧駅や餘部(あまるべ)鉄橋など、 有名どころはあるが、 線ではない。 むしろ、益田駅・東萩駅間の山口県内では鉄路が海にせり出す。 飛沫の掛かりそうな間近、 また崖の中ほどなどで鉄路が海に寄りそう。
 また島根県の宍道駅から広島県の備後落合駅に至る木次線は、 奥出雲に分け入る。 その中で圧巻と言えるのは、三段スイッチバックの出雲坂根駅からである。 スイッチバックで行ったり来たりして駅を出ると、 八岐大蛇(やまたのおろち)がとぐろを巻いた姿をイメージさせる二重ループ式の奥出雲おろちループ橋を谷の向こうに、 また眼前にしながら、一両の気動車は山肌に張り付いた鉄路をゆるゆる登っていく。
 また思わぬ光景をローカル線は見せてくれる。
 人家は多く道路を意識して建てられている。 このため、 鉄路に対しては無防備である。 目を凝らすと、 地域の生活や人々が目に飛び込んでくる。家の中が丸見えで、 すっかり陽気のよくなった頃であるのに居間に炬燵 (こ たつ)がしつらえてあったりする。 道路に背を向け、 安心して用を足しているおじさんを列車の真下に見ることもない訳ではない。
 また近年は山間の路線で朽ちた人家や廃校、 荒れ果てた田畑や倒木の夥しい山林を見かけることが多い。 「さようなら○○小学校!」 などと、半紙に一字一字書かれ、 ガラスの内側に貼られた文字列を捉えることもある。 しかし、 そんな路線でも、 山と川に挟まれた狭い土地に建つ一軒家で、物干しに掛けられた子供服を目にすると、 何かほっとする。
 地元の人たちの会話が聞こえてくることもある。
 晩秋の芸備線、 新見駅・備後落合駅間である。 お年寄りが病院通いの必要性からやむなく倉敷に住んでいるが、冬に備えて以前住んでいた備後西城の家の様子を見に行くという話を聞いた。 たまたま乗り合わせたおばあさんどうしであったが、都会暮らしはねえ…など、 一人の方が降りるまで話は続いた。
 南アルプスを見上げ、 天竜川に沿って走る飯田線では、 小さな花束を持った、 卒業式帰りと思われる女子高校生たちと一緒になった。明日進学か就職かのため、 東京に発つ話をしていた。 同じように親元を離れるとき、 私が抱いた不安と期待を思い出した。
 高校一年生の間、 私は蒸気機関車の牽引する古びた客車に乗って、 季節ごとに姿を変える椹野(ふしの)川や東西の鳳翩(ほうべん)山、盆地に広がる田畑を眺めながら、 通学した。二年生からは気動車になったが、 今思えば、 毎日が汽車旅であった。
 それから数十年経った今日、 学会や出張などで新幹線や飛行機を利用することが多くなった。 その帰路に時間の余裕があれば、汽車旅を敢行することがある。 しかし、 日常的には改まってすることになる。 確かに時刻表と首っ引きで計画を練ることは楽しい。 その際、一日に数本の列車しか走らない路線の起点に効率よく辿り着くため、 新幹線や夜行バスを利用することもある。 そして、 列車に乗り込めば、沢山の楽しみに出会えるが、 堅いシートに長時間座り続けるのはいささか辛くなってきた。
 大学生の頃にいろんな乗り放題切符があったなら…と思う。 その頃であれば、 もう少し鋭い感受性で、 見るもの、 聴くものを受け入れ、もう少しまともな大人になれていたかもしれないと考える。

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「真珠」 という名の水の道
山田英二 (英語学)
推薦図書 中村哲 『医者、 用水路を拓(ひら)く ―アフガンの大地から世界の虚構に挑む―』(石風社、 2007年)
こんな話を想像してみてほしい。

 一人の男がいた。 蝶が好きで、 たまたまある国にそれを探しに行った。 ところが、 そこに住む人々はとても辛い目にあっていた。戦火と旱魃のせいで食べ物も飲み水もろくになく、 土地は荒れていた。 病気になっても治してくれる者が誰もいない。 皆ばたばたと倒れ、死んでいく。 この人たちを見捨てて逃げる訳にはいかないと、 男は心を決めた。 彼は、 医者だった。

 男はその地に無料の診療所を開いた。 飲み水を確保するため、 1500本の井戸を掘り、自らショベルカーにまたがって全長13キロの灌漑用水路を掘り抜く総指揮者となった。 人々は、 彼ドクター・サーブを 「神の贈り物」 と呼ぶ。

 これは、 おとぎ話ではなく実話である。 当の日本人医師、 中村哲さんは、 福岡の出身で、今も現地アフガニスタンとここ福岡を行ったり来たりの生活を続けておられる。

 医療と水と大地と、 そして諸々の国際団体・機関・組織による虚構の 「人道支援・国際貢献」 をも相手に、 獅子奮迅の活躍。 20年を超える、この中村さんの戦いを支えるのは、 家族、 友人、 現地の仲間、 そして福岡を拠点とするNGO (非政府組織)ペシャワール会ボランティアの地道な活動である。 彼らを支援する意味でも、 是非中村さんの本を買って読んでほしい。

 完成した用水路の最大水量は一日50万トン。 約6千ヘクタールの耕地を潤し、 12万5千人分の食料を生み出す。 かつては乾燥、ひび割れていたアフガニスタンの大地に、 いま緑が甦り、 水に驚喜する子供たちの歓声が聞かれるようになった。 この用水路建設の最中、中村さんは愛息と永別の時を迎えられた。 その子の姿を幻視する命の水の道は、 中村さんにより 「マルワリード (真珠)」 と名付けられた。真珠は涙の結晶という。 この本は、 一人の男の熱い涙の物語である。
*中村哲さん関係の本 (全て、 石風社)
『ペシャワールにて』 (中村哲・著)、 『医は国境を越えて』 (中村哲・著、 [アジア太平洋賞 「特別賞」 受賞])、 『医者 井戸を掘る』 (中村哲・著、 [日本ジャーナリスト会議賞受賞])、 『丸腰のボランティア』 (中村哲・編+ペシャワール会日本人ワーカー・著) 等、 多数。

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『楽郊紀聞』
山田洋嗣 (日本文学)
中川延良 『楽郊紀聞』 (東洋文庫307・308 『楽郊紀聞―対馬夜話』)
 楽郊とは楽土、 楽園のいいで、ここでそう呼ばれるのは対馬である。 著者は江戸後期の対馬藩の藩士。我が地対馬を楽郊として生きた延良が生涯の聞き覚えていた人々の話をまとめたのがこの本で、 二千にのぼる逸話が収められて無類の面白さがある。書きとめたのは、 人間とはこういうものだという、 覚悟のある透明な目と耳である。

 一つ一つの話はもちろん面白い。 だが、 それがこれだけ集まるとある大きな力を持つ。 話自体は実に片々たる日常の聞書であっても、そうであるからこそ、 その中の日常が、 「江戸」 や 「武士」 や 「対馬」 を 「こういうものだったのだ」 と分からせるのである。分かるというのは頭で理解するということではない。 この本は、 読者を江戸時代の対馬の中に生活させてくれる。 そこで読者自身が自分で体験し、自分の目で見て分かるのである。

 私はこのごろよく文化の総体ということを考える。 新入生諸君は今まで、 江戸時代はこういうものなのだとか、 武士とはこのような人々なのだとか、様々なことを教わってきたであろう。 だが、 それは抽出された解釈であり枠組みであって、 いわばわれわれが測量し、 描いた地図である。その枠の中につまっていたのは実はこういうものだったのである。 地図を読むのはもちろん一つの楽しみであろう。 しかし、 私には、厳原の町を歩きながら、 人々が行き交い、 立ち止まって話したりするのを見たり、 あの独特な石塀の下を猫が通ったりするのを、江戸時代の光の中で眺める幸福をこの本が与えてくれたのが嬉しかった。
 「われわれが他の人間あるいは人間の集合体に対する時、あるいは更に根元的に他の生物に対する時、われわれの自由は無疵ではあり得ない。そこには何等かの衝突があって疵は疼き始める。一個の人間を愛することが自己の喜びであっても、その対者がその愛を拒否する時、われわれは悲しまないでありませうか。自分と同様に他人にも神聖な自由がある。自分の幸福を以て他人の幸福を傷つけないといふことはここにおいて悲しい倫理であり、われわれの胸奥に住む信ずるに足る神でありました。」(57頁)

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『俳句の海へ 言葉の海へ』
山中博心 (ドイツ文学)
寺井谷子 『俳句の海へ 言葉の海へ』 (NHK出版)
 食品の偽装表示、 データの改竄、しっかりした自分の舌を持たないと何が口から入っているのか、 空恐ろしくなる昨今です。 言葉もまた言葉の体をなさないもの、 実態を伴わぬ空語、絵文字等々言葉のインフレ時代です。

 起承転結という心地よい文の流れは生命のリズムです。 余りにも人工的になりすぎて自然の中にいることを忘れてしまいがちですが、帰るべき原点としての生活と結びついた言葉の世界を思い出すべき時のように思えてなりません。 そのようなとき 「季節」 「旬」 「機」が忘れていたものを思い出させてくれます。

 言葉を削ぎ落とし削ぎ落としして生まれた十七文字の中に味わいと意味の膨らみを醸し出してくれる俳句は、今日本人に切に求められている言語感覚です。 著者の寺井谷子さんは 「約束」 「定型」 「季語」 「添削」 「推敲」といった鍵語で自然との繋がり、 人と人との絆の大切さを綴っておられます。

年末年始、 この本に頷いている頃、 テレビで京都の老舗料亭が取り上げられていました。 料理の修業には形を 「守る」、 「破る」、 「離れる」という三つの段階を踏む、 と言う主人の言葉が私の中で 『俳句の海へ 言葉の海へ』 と重なり合い、 心のもやもやが晴れたのでした。

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考える力のために―パスカル『パンセ』のすすめ―
輪田裕 (フランス文学)
 世はIT時代。情報を手にいれるための道具はますます便利になって、音楽も、かつてのカセットテープのためのウォークマンなど全く比較にならないほど、音質も容量もすぐれた機器が出現しています。昔の話ですが、LPレコードで音楽を楽しんでいた私には、針が飛ばないように身動きにも気をつけながら耳を澄ましていたころのほうが、今よりも音楽を聴いたという実感があったような気がします。語学も、いまや電子辞書でらくらく単語をひくことができます。でも便利になって語学は上達したのでしょうか。確かに同じ労力をはらっていれば、かつて以上に上達しているに違いないのですが。

 さて、ここに紹介するパスカルの『パンセ』は文庫本に収まるほどの量にすぎません。それも断片の寄せ集めなので最初から最後まで通して読むことが求められるものではありません。一つの断片は、短いものなら数秒で、長いものでも15分もあれば読み終わる長さです。その断片のどこから読んでもいいし、どこで終わってもいい。仮に意味を取り違えてしまっても、誤解も一つの読み方なのだと思わせてくれる一冊です。では、気楽な随筆なのかといえばそうではない。簡単に分かってしまうものは少ない。何度も読み返すこと、行ったり来たりすること、さまようこと、そうしているうちに少しずつ理解できてくる。はっとする言葉に出会ったり、反発を感じたり、つまり「こころ」に何かがひびくとき、それがパスカルの声が直接聞こえたときです。

 考える力、などというといかにも論理的思考を意味しているように思うかもしれませんが、実は「さまようこと」なのではないか、と思います。あるいはそのように「さまよう力」といってもいいでしょう。さまようのは手引きとしてのマニュアルがないからです。わたしたちの生きる世界にはマニュアルはありません。たとえマニュアルがあったとしても、それはすでに「今」には通用しないものです。「今」を生きるためには、さまよいながら自分で作るマニュアルが必要です。つまり、自前のマニュアルです。

 『パンセ』を読み、自前のマニュアルを作ることができるように、さまよう力をつけませんか?

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Ⅱ. 探索の勧め
お祭り見学の勧め
白川琢磨 (文化人類学)
 主に福大に入学する皆さんは、九州か中国・四国出身の人が多いだろうから、「もう一度」お祭り見学の勧めと言うべきだろう。幼い頃から少なくとも何回かは近所の神社や寺のお祭り、あるいは民俗行事に参加した経験があるかもしれない。だが年を経て自然と足が遠ざかり、大学受験を控えてお祭りなどに行っている場合じゃないと思っていたかもしれない。しかし今、改めて行って欲しいのである。そこに集う人々が何を語り、何を楽しみにしているのか、またどのような神仏に何を祈り、何故に来るのか、じっくり耳を傾け、しっかりと経験して欲しい。そのようにして君らにはまず立派な「ネイティヴ」に成って欲しい。

 大学に入って「文化」を研究するのであれば、そうした君らの経験を再度「他者」の視線から捉え直すことになる。しかしそれはそれ程難しいことではない。近代人類学は、「異文化」に「他者」として参入することを業としてきた。だが人類学者という「他者の語り」におとなしく耳を傾ける「未開社会」などもう世界の何処にもありはしない。世界各地でネイティヴたちは、しっかりと自らの文化を語り始めたのだ。その力強い語りを前に、近代人類学という巨人はしばしその歩みを留めているのである。西欧の人類学者の殿(しんがり)に連なってきた日本の人類学にとって、その影響は深刻である。我々は一体何者なのか? 日本は西欧と同じく研究する側なのか、それとも異文化として研究される側なのか? 答えはその両方であろう。研究し、そして研究されるのである。ただし、前提がある。「ネイティブとして」である。日本のアフリカ研究の草分け、和崎洋一氏は、亡くなる前に「先生がもう一度生まれ変わって研究するとしたら何処でしょうか?」との問いに躊躇なく「日本」と答えたそうである。ポストモダンの時代に生きる我々は、大和崎が二つの人生に分けた課題を一時に果たさねばならない。そのためにはまず我々はネイティヴに成り、ネイティヴを磨かなくてはならない。

 昨年は一年かけて「鬼」というネイティヴの産物を追いかけてきた。写真家の清水健さんと共同で文藝春秋の平成一九年一月号にグラビア特集が掲載されているので関心のある人は見て欲しい。天念寺の修正鬼会を撮り終えた後、国東半島の宿で夜遅くまで語り合ったが、「いやーそれにしても九州は奥深い凄い所ですね」と感に堪えたように呟いた。ナショナルジオグラフィックの撮影で世界中を飛び廻り、今回の特集では全国を撮影して歩いた清水さんの言葉である。それに励まされて私は思わず書いてしまった。「九州は鬼の宝庫である。」実は鬼だけではない。ネイティヴを育成し醸成する豊かな土壌に恵まれているのである。祭や民俗芸能はそうした豊かな土着の集合表象に触れる絶好の機会である。

 今年の暦も既に動き始めている。正月七日夜、久留米大善寺の大松明の灯と煙に咽びながら闇夜に紛れる鬼を追うことから始まり、十四日には志賀海神社で大宮司四良、別当五良ら若者八人が渾身の力を込めた歩射の力強い矢鳴りを聞いた。やがて節分、さらに「松会」、桜の開花の頃から駈仙(ミサキ)が活躍する勇壮な神楽が始まる。そして汗ばむ季節になると各地で「山笠」の声が聞こえ始める。出身地は元より、福岡に来たら近郊の祭に足を運んで欲しい(福岡民俗芸能ライブラリー http://www.fsg.pref.fukuoka.jp/e_mingei/index.asp)。必ず、何か得るものがあるはずである。文字に書いてあるものだけが価値があるという偏見を捨て、祭や芸能という生きた教材を是非経験して欲しいものである。

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博物館へのいざない
武末純一 (考古学)
 博物館へ行ったことがあるだろうか。人文学部の新入生ならば、すでに一つか二つはあるだろう。しかし大学生には大学生なりの見方がある。行ったことのない人はまず特別展を見に行くのが良い。

 私の専門は考古学、モノから歴史を考えていく学問である。以下は、博物館などでひらかれている考古学関係の特別展へのささやかな招待状である。

 特別展は、秋の文化シーズンにあちこちの博物館や資料館で開かれる。このごろは夏休みや春休みに開くところも増えてきた。内幕をいえば、特別展を開く → お金がかかる → その分だけ多くの入館者が欲しい(でないと来年の予算にもひびく)→ 学生が休みで大人も活発に動く夏や春に開こう、という発想がほとんどだが。でも特別展は楽しい。

 楽しさの一つは、それまで写真や図でしかみたことのなかった実物に会えること。せっかくの機会だから、上から、下から、横から、斜めから、じっくりと眺めて、どのように作られ、どんなふうに使われたかを想像しよう。もちろん、図録や横にそえられた解説文に答えがのっている場合もあるし、それを理解するのも大事だが、それよりも大切なのは、答をうのみにしないで自分で考えること、自分の疑問をもつこと。

 二つ目は、あちこちに発掘品が一か所に集められていることである。それぞれの保管場所に行って見せてもらうととんでもない金額になるから、一見高そうに見える特別展の料金も実は安いものである。

 それと、いつもは全く別のところにあるモノ同士がすぐ横に並ぶから、比較ができる。これはけっこう大事である。何回もいったりきたりして見比べ、「似た形だけどここが違うな。これは出たところが違うからかな、それとも作った時代が違うからかな」「へー、こんなに遠く離れて出ているのにそっくりじゃないの」など、自分だけの発見ができればしめたものだ。

 三つ目は、発掘の記録は報告書という形で本になるが、手に入りにくいし、入ったとしても一般の人が読み通して理解するのはけっこうシンドイ。でも博物館では、そうした成果をできるだけ噛みくだいて、どんな発見があったのか、何がわかったのか、どういう問題が出てきたのかを、実際にモノを示しながら説明してくれる。

 ちょっと変わった楽しみ方もある。学芸員になった気分で。この照明は展示品のどこを強調しているのか。自分だったらこういう角度でここをみせたい。このパネルはなぜこの大きさでここにかけられているのだろう。展示品をきわだたせるためにどんな形や色の台を使っているのか。なぜこの展示品とあの展示品の間がこの位空いているのか、などなどなど。

 そう、ここまでくれば、もう特別展だけじゃなくて常設展でも十分に楽しめることがわかってくる。まずは福岡県内あるいは故郷の博物館だ。

 昔の博物館は、展示品がケースの中に重々しく鎮座し、いかにも「見せてやる」といった感じが強かったが、いまでは〈さわる〉〈作る〉〈使う〉などの体験コーナーも整いつつある。充実したミュージアムショップや市民ライブラリー、しゃれたレストランもけっこう多い。講堂や入り口のホールで演奏会を開くところも出てきた。〈博物館は古くさい〉というイメージは消え始めている。

 自分の知の世界を広げるために博物館をのぞき、どれでもいいから、自分の心にとまった展示品をスケッチする。そんなすてきな時間を作ってみたらどうだろう。

 なお老婆心から蛇足を一つ。ゆめゆめ月曜日のデートの場所に博物館や美術館は指定しないように。日本では月曜日は休館日なのだから。

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Ⅲ. 書くことの勧め
「レポート」が書ける人になろう
上枝美典 (西洋哲学史)
 ここだけの話、レポートが書ける日本人はとても少ないのです。ほとんどの人は、感想文しか書けません。しかし、感想文とレポートの違いは、とても大切です。これがわかっているかいないかで、人間の質が違うといっても言い過ぎではありません。ちょっと言い過ぎかも知れませんが。しかし、そのくらい大切な違いであると私は言いたい。

 はっきり言って、大学で勉強するということは、「感想文しか書けない人」から「レポートが書ける人」にレベルアップすることなのです。知らなかったでしょう? しかし、知らなかったからといって、恥じることはありません。なぜなら、この違いを教えるシステムが、日本ではまだちゃんとできていないからなのです。つまり、日本で通常の教育を受けて、高校を卒業しただけの人は、まだこの違いを習っていないのです。なんとなく、大学に進学してよかったな、という気分になってきたでしょう?

 では、感想文とレポートとの違いは何でしょうか。もったいぶらずに早く教えてくれ、というあなたの顔が目に浮かぶようです。ですが、それは秘密です。というのは冗談ですが、秘密にしたいほど、それは単純なことなのです。ひとことで言って、「感想文」は、自分が感じたことや考えたことを、そのまま書いたものです。あれっ? それって、いいんじゃないの? という声が聞こえてくるようですね。たしかに、そういう感想文を書かせることに、ある一定の教育効果があることはたしかでしょう。そういうのは、「作文」と呼ばれていて、日本の教育界ではいろいろとややこしいことがあるみたいです。しかし、断言しますが、大学で身につけるべきことは、「よい作文」を書く力ではなくて、「ふつうのレポート」を書く技術です。「技術」と言うと、なにか職業訓練所みたいですが、よい作文を書けるか書けないかは、ある程度、「文才」と呼ばれる文学的才能で決まりますが、「ふつうのレポート」は、書き方さえわかったら、だれでも書けるのです。なんといっても、「ふつう」でいいんですから。

 なにか話があっちこっちに飛んでいっこうに要点を得ない。おまえはレポートの書き方がわかっているのか、という叱責の声が聞こえてきそうですから、そろそろ本題に入ります。「作文」や「感想文」でない「レポート」とは、
  1. あたえられた問い、あるいは自分で立てた問いに対して、
  2. 一つの明確な答えを主張し、
  3. その主張を論理的に裏付けるための事実的・理論的な根拠を提示して主張を論証する

という三つの要素がそろっている文章のことです。おっと急いで付け加えますが、この定義は、私があたえたものではありません。次の本からの抜粋です。
 私がここに書いていることは、ほとんどが、この本からの受け売りです。責任転嫁をするわけではないですが。ともかく、レポートや論文の書き方を教える本はたくさんありますが、まず一番はじめに読むべき本はこれです。どのようにすれば、この三つの要素がきっちりそろった文章を書くことができるのか、懇切丁寧に教えてくれています。

 この本を読んで、「うひゃあ。みんなこんなことを考えて論文を書いていたんだ。まずい」と焦った人は、巻末にある「おすすめの図書など」を見て頑張って追いつきましょう。たとえば次の本などは、安いのにとてもいい本です。どういう経緯で、自分が「レポート」の書き方を学ぶことができなかったのか、よくわかります。
木下是雄(1981)『理科系の作文技術』(中公新書)定価:本体700円+税
 「理科系の」というタイトルは、気にする必要はありません。むしろ文系・理系を問わず読むべき本です。あなたが文章を書こうとするときに、「ひとの心を打つ」「自分の気持ちをすなおに表現」「起承転結をしっかり」「天声人語の文章のように」とかいう言葉が頭に浮かんでくるのであれば、大急ぎでこれらの本を読んで、「文章を書く」「頭を使う」ということについての認識を改めてください。でないと、あとで大変なことになりますよ。

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LaTeX による美文書作成の勧め
永田善久 (ドイツ語)
奥村晴彦著『[改訂第四版] LaTeX2e 美文書作成入門(CD-ROM 付)』(技術評論社)
 この書籍は、レポート・論文・本などを印刷したり電子化したりするためのフリーソフト LaTeX (ラテフまたはラテックと読みます、ラテックスではありません)についてできるだけ易しく解説した、日本における定番の入門書です。LaTeX は、米国スタンフォード大学の数学者クヌース教授が開発した TeX(テフまたはテックと読みます)をベースに拡張されたもので、次のような特徴を持っています。
・「フリー(オープンソース)」ソフトだから、誰でも無償で入手でき、自由に中身を覗いたり改良したりできる
・多言語の自動ハイフネーション、自動ペアカーニング、リガチャ、孤立行処理など、高度な組版技術が組み込まれている
・超高精度で、約0.000005 ㎜ 単位で文字位置を決定できる
・文書のレイアウトは全面的にプログラムに委ねられるので、文書作成に際しては文書の「論理構造」のみに集中すればよく、従って、文書作成の能率を飛躍的に高めることができる
・Windows, Macintosh , UNIX をはじめ、どのような種類のコンピュータでも使える
・標準化が行き届いており、どのコンピュータで処理しても、出力に寸分の違いも生じない
・パソコン用プリンタ、PostScript プリンタ、イメージセッタ、電算写植機まで、あらゆる出力装置に対応している
・特に数式処理や多言語処理に定評があり、多くの学会や学術出版社が LaTeX による投稿を受け付けている
・索引自動作成ソフト MakeIndex や文献データベース管理ソフト BIBTeX など、LaTeX と組み合わせて使う多くの高機能なフリーソフトが標準で同梱されている
・出力を PostScript や PDF 形式に変換することのできる充実したフリーの関連ソフトも同時に配布されることから、従来の印刷物作成はもちろん、電子出版・プレゼンテーション用途にまでオールラウンドに使用できる
・さらに、無数の機能拡張パッケージを自由に利用できる
・LaTeX の文書は「テキストファイル」であり、通常のテキストエディタで読み書きできるため、文書の再利用・再加工・データベース化が容易である
・ライセンス料が不要なので、他のシステムに組み込むことも可能で、例えば、XML ベースの文書印刷や、Web 上での PDF 自動作成サービスなどにも幅広く応用できる
・ユニコード(UTF-8)対応版もある
本書は、従って、次のような人たちにお薦めします。
・大学に入ったからには「洗練され、垢抜けた文書作成システム」を持ちたいと考える人
・そのまま書籍の版下となるような、高品質の整形文書を作成したい人
・数式を沢山用いるようなテクニカルな文書を作成したい人
・多言語混在文書を、その正書法・組版慣習にいたるまで、正確かつ簡便に処理したい人
・カラー画像・アニメーション・動画ファイル・音声ファイル・ハイパーリンクなどを組み込んだ、表現力豊かなプレゼンテーション用 PDF ファイルを作成したい人
・高度な組版から PDF 作成まで、Adobe-Japan1-5 に含まれる「2万を超える文字」を使いこなしたい人
・情報ネットワーク時代における「文書の互換性・再利用・再加工」ということを真剣に考える人
・「フリー」という簡潔な言葉の中に含まれる「自由」という高尚な精神的態度から「無償」という現実的意義までを深く理解できる人
・コンピュータを能動的に使いこなしたいと思う人
・「ライオン」の好きな人

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Novis 2008
― 新入生のための人文学案内 ―

印 刷 平成20年3月25日
発 行 平成20年4月1日
発行者 福岡大学人文学部
印刷所 城島印刷株式会社