福岡大学人文学部
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Novis 2009

Novis 2009 目次

Novis 2009 本文

人文学部新入生の皆さんへ
則松彰文 (人文学部長)
 今日わたしたちが生きている、 この世界に対しては様々な形容が与えられています。 近代化社会、 工業化社会、 物質文明社会。 近年では、 情報化社会やグローバル化社会といった言葉をしばしば眼にします。 これらの言葉は、 いずれも現代社会のもつ象徴的一面を見事に表しています。
 例えば、 情報化社会について考えてみましょう。 ここ数年におけるパソコン、 インターネットの世界的普及によって、 情報の絶対量が格段に増加したのみならず、 その伝達スピード・伝達範囲が決定的に増進・拡大しました。 しかし、 多量の情報を受け取る私たちの側、 とくに私たちの知識量や視野は、 以前に比べ明らかに減退しています。 換言すれば、 情報量の増加とともに、 私たちは情報に流され先入観や予断を持ち、 客観的で冷静な判断が難しくなってきていると言えるのではないでしょうか。
 ここで問われるのが、 「教養」 です。 教養とは、 単なる知識量を示す言葉ではありません。 深い知識に裏打ちされた人間の品位ある言動を表す言葉なのです。 そのような教養は、 幅広い知識、 豊かな経験と感性、 そして深い思索の中で徐々に育まれるものでしょう。
 この小冊子は、 新入生諸君に対する、 人文学部の諸先生方からのアドバイス集です。 先人の声に、 皆さんしばし耳を傾けてはみませんか?

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I.読むこと、見ること、聴くことの勧め

Ⅰ. 読むこと、見ること、聴くことの勧め
魔法にかけられて
青木文夫 (スペイン語)
 過日、 大学時代の友人からメールで、 映画の題名に 「魔法にかけられて」 というのがあるのだが、 どうも耳障りだとの意見。 彼によると 「魔法をかけられて」 が正しいと言うのだ。

 そのメールへの返信の出だしは 「お前若いなあ」 だった。

 君たちはどうですか。 結論から言うと、 どちらも正しいと言えるのだが、 「を」 または 「両方」 が良いと思った人ほど若い世代で 「ら抜き」 言葉も良いという人が多くなる世代である。

 「だれかに魔法をかける」 と 「だれかを魔法にかける」 からそれぞれを受身文にすると、 「だれかに魔法がかけられる」 と 「だれかが魔法にかけられる」 が出てくる。 次に 「この魚が食べられる」 と 「この魚が食べれる」 の 「ら抜き言葉」 表現が大丈夫な世代にとっては、 「この魚を食べられる」 とか 「この魚を食べれる」 という 「が」 を 「を」 に変換する表現も良くなることが多い。 筆者は 「この魚を食べれる」 は認めない世代なのだが、 君たちはどうだろうか。 この例のように、 「が」 を 「を」 に換えても良い人にとっては、 「だれかに魔法がかけられる」 の 「が」 を 「を」 にして、 「だれかに魔法をかけられて」 が良くなるのである。 というわけで 「魔法をかけられて」 が良いと思うようになるのである。

 この説明が適切かどうかや、 別の説明もあることはこの際無視します。

 友人への返信の 「お前若いなあ」 はそういった理由からであった。 しかし、 友人からのさらなる返信には 「この魚を食べれる」 は俺にもダメだぞと書いてあって、 言葉は難しいなあという無難な締め括りで終わっていた。

 ある人はこういう現象を以って、 言葉が乱れているとか日本語がおかしくなっていると言うが、 それはお門違いである。 自分が変化している言葉の流れについていけなくなっているだけであり、 時の流れとともに変化する言葉の動的な性格を無視した発言である。 今、 まさにその場面で使われている言葉は、 その意味を周りで共有できるのであれば、 正しい言葉である。

 20年以上前、 九州最初の赴任地であった佐世保で、 「はばみがかんば」 という発話が外国語に聞こえた筆者にも 「歯を磨かなくては」 という意味のその表現に今では何の違和感も持たなくなっているのである。 でも、 心の隅で 「俺は名古屋人なんだ」 と呟いているのだが。

書道部機関紙 「荒鷲」 に収載した文章に少し手を加えました。

参考文献 「不思議発見!日本語文法」 名古屋大学日本語研究会GA6編

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イメージ・リテラシーを高めよう
浦上雅司 (西洋美術史)
高階秀爾 監修 『まんが西洋美術史』 (美術出版社)
辻 惟雄 監修 『まんが西洋美術史』 (美術出版社)
E・H・ゴンブリッチ 『美術の物語』 (ファイドン社)
D・アラス 『モナリザの秘密 ―絵画を巡る25章』 (白水社)
夏目房之介 『マンガはなせ面白いのか』 (NHK出版)
ダナ・アーノルド 『一冊でわかる美術史』 (岩波書店)

 「美術作品の鑑賞」 というといささか堅苦しく取り付きにくいかもしれないが、 「イメージ・リテラシー (イメージの見方) を身につけよう」 というと受け入れやすいだろうか。

 21世紀になって 「視覚イメージ」 はかつてなかったほど氾濫している。

 テレビを見ずに一日を過ごす人は少数派だろうし、 図版や写真が含まれていない本もあまり見かけなくなった。 小説は読まないけれどまんがは読む、 という人もいるだろう。 ポスターやチラシも文字情報だけだと敬遠されるようになった。 携帯電話にもカメラ機能やワンセグテレビ機能が搭載され、 ユーチューブなど、 インターネットの世界にもイメージが溢れている。

 こうしたことも含めて 「イメージ」 一般を歴史的に考察するのが現代の 「美術史」 であり、 その対象は 「高級芸術」 である絵画や彫刻だけでなく、 映画や写真はもちろん、 刺青やピンナップ、 工芸デザインまでありとあらゆる 「視覚文化」 に及んでいる (これは現代において美術そのものが多角化していることの反映でもある)。

 そもそも 「美術史」 という学問領域には、 大学に入学して始めて気づく人が大部分であり、 気づかずに卒業してしまう学生も多い。 中学や高校の歴史教科書では、 美術だけでなく、 音楽史の出来事などはごく簡単な記述しかない。 そうした事項は 「美術」 や 「音楽」 などそれぞれの領域で扱ってもらいたいということなのだろう。

 だが、 小学校の 「図画工作」、 中学校や高校の 「美術」 はいずれも 「実技」 が主体で 「鑑賞」 はほとんど行われない (「音楽」 や 「書道」 も同様である)。 福岡とその近郊には福岡アジア美術館や太宰府の九州国立博物館、 久留米の石橋美術館など多くの美術館があり、 優れた展覧会も開催されているのだけれど、 小学校や中学校、 高校から団体で見学に行くことなどまず行われない (これには、 学校を出たところで起こるトラブルを避けたいという事情もあるのだろう)。

 確かに 「創作」 によって美術的感性や想像力を伸ばすことはとても大切である。 視覚芸術に関して、 たとえば、 天神で見かけるショーウインドーのインスタレーションや売り場の飾り付け、 街頭のポスターや歩く人々のファッションなど、 創造的で刺激的な感性の現れを見ることはたいへん喜ばしく有り難い。

 しかしながら、 何もないところから新しいものが突然に生まれるだろうか。 「温故知新」 という言葉があるが、 受け入れるか拒否するかはともかく、 過去の遺産との対話つまり 「鑑賞」 がなければ新しいものは生まれないのではないだろうか。

 このことは、 「国語」 科教育について考えてみればよくわかる。 小学校から高校にいたるまで、 国語の時間には、 作文や感想文を書かせる 「実技教育」 が行われるが、 それと平行して小説や詩など、 過去から現在にいたる優れた文学作品の鑑賞教育もなされている。

 現在活躍している小説家、 例えば、 村上春樹や池沢夏樹などは、 優れた読み手 (上手な鑑賞家) でもあって、 彼らの書評はそれだけでも一読に値する。 村上春樹はチャンドラーなどの翻訳も手がけているが優れた翻訳は熟読の成果である。 池沢夏樹は個人で選んだ世界文学全集を監修しているが、 これも彼の読書=鑑賞の上に生まれたものである (ちなみに、 個人的には、 この全集にブルガーコフの 『巨匠とマルゲリータ』 と、 ヴォルフの『カッサンドラ』 が入っていることが嬉しい)。

 視覚芸術についても同様である。

 ルネサンス期イタリアで活躍したラファエッロやミケランジェロは古代彫刻に学んで独創的な作品を作ったし、 20世紀を代表する画家の一人、 ピカソは17世紀スペインの巨匠ヴェラスケスの作品や19世紀フランスの巨匠マネの作品を深く研究した。 マルセル・デュシャンやアンディ・ウォーホールにとって、 レオナルド・ダ・ヴィンチの《モナリザ》は重要な発想の源泉であった。

 文学の世界におけると同様に、 優れた美術家は、 制作者として優れていただけでなく、 鑑賞家としても一流だったのだ。 視覚芸術の領域でも、 過去の傑作の数々は現代のアーティストに強い刺激を与え続けている。 映画における 「リメイク」 も過去の遺産を現代に活かすこころみである。 1980年代から 「カワイイ」 という価値観が世界的に広がりつつあるようだが、 これも20世紀モダニズムが持っていた禁欲的で力強さを強調した (潜在的に男性原理の) 美学を批判的に捉えたジェンダー論的な観点から生まれた、 新しい美的価値観の表れと捉えられるだろう。

 文学の領域において、 プロの書き手は別として、 多くの人々にとって普段、 文章を書く機会は限られている (せいぜい日記か、 最近だとメール程度かな)。 だが、 小説やマンガなど読んで楽しまない人はまずいないだろう。 この場合、 「制作」 よりも 「適切な鑑賞の仕方」 を心得ているほうが大事である。 この点においても、 同様のことが、 視覚芸術の分野にもあてはまる。 「文学作品の上手な読み手」 を志すのと同じような気持ちで、 「イメージの上手な目利き」 になることを目指してみてはどうだろうか。 その手がかりになりそうな本を挙げてみた。

 活字が苦手な人には冒頭の二冊をとりあえず勧めたい。 またゴンブリッチとアラスの本はどちらもイメージ解読の名手が一般の人々向けに書いた本である。 夏目房之介 (漱石の孫で漫画家) の本によってマンガの表現法について多少とも知っておけば、 新鮮な気持ちでマンガを読めるだろう。 最後の一冊はより専門的に現代の美術史について概観するのに適切な本である。

 もちろん、 本を読んで 「理論」 を学ぶだけでなく、 美術館に行って実際の作品を見て鑑賞を 「実践」 することも忘れないようにしたい。

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シネ・マ・ンガ 2006―2007
遠藤文彦 (フランス文学)
『ストロベリーショートケイクス』 魚喃キリコ作・矢崎仁司監督 (06・9)
『天然コケッコー』くらもちふさこ作・山下敦弘監督 (07・8)
『自虐の詩』業田良家作・堤幸彦監督 (07・10)

 学生諸君にマンガを云々するなど釈迦に説法も甚だしい。 そこにシネマを持ち込んでも事態にさほど変化はないだろう。 それでも日本における最近のマンガとシネマの数あるナイスコラボレーションから最新の三作品を紹介したい。 そうしてみたいと思わせる作品だから。 (数字は公開年月)

 『ストロベリーショートケイクス』 は魚喃キリコ作品としては 『Blue』 (安藤尋監督 03・3) に続く映画化第二弾。 『Blue』 は二人の女子高生が染め上げるシンプルでピュアな色彩空間からなるが、 それが 『ストロベリー』 では二十代の女性四人が織り成す重層的空間へと展開される。 バイナリーワールドの単なる並列でないロマネスクな時空への飛躍がそこにある。 原作にない細部―紛失した 「絵」、 なにげに放り込まれた 「トマト」―も効果的。

 『天然コケッコー』『ジョゼと虎と魚たち』 (犬童一心監督 03・12) 『メゾン・ド・ヒミコ』 (同05・8) の渡辺あやが 「完璧な」 原作を相手に脚本担当。 演出は 『リンダ リンダ リンダ』 (05・7) の山下敦弘。 あの文化祭映画にも魅せられたが 『天コケ』 が映す技巧の果ての 「天然」 の妙、 その澄明な演出には文字通り感服。 なるほどこれは原作者に 「奇跡」 と言わしめた作品だ。 作家主義の閉塞を自然体で突き破るあの 「めがね男子」 の逆説的天才ぶりにシャポー。 彼とは 『リアリズムの宿』 (つげ義春作04・4) 以来のくるりのエンディングも味がある。

 『自虐の詩』 のイサオ&幸江は 『罪と罰』 のラスコーリニコフ&ソーニャ 『死の棘』 の敏男&美保 etc と連綿と続く自虐カップルの系譜に属す。 かくして元来自虐は至純の愛に由来し自虐者とは幸福者 (幸 、 江) の謂いであったことをこの作品は想起させる。 となりのおばちゃんにもあさひ屋のマスターにも自虐ぶりが伝染してゆくさまは壮観。 シネマの方は懲りすぎの感が否めない。 とにかくマンガ (傑作!) の超絶的次元には達していない。 自虐ものの秀作ならちょっと古いが 『さよならみどりちゃん』 (南Q太作・古厩智之監督 05・8) を挙げておこう。

 さて、 現在福岡市内には一般商業映画館が八館 (プラスα=特殊なやつ) と、 福岡市総合図書館映像ホール 「シネラ」 があります。 いまどきは家でビデオやDVD観賞というのが一般的でしょうが、 学生時代の四年をかけて全館制覇をこころみるのも一興では……。

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おすすめの本
大嶋仁 (比較文学)
 新入生の皆さん、 人文部にようこそ。 新入生の皆さんに、 おすすめしたい本と言えば、 まず皆さんが一冊の本に何を求めるかによります。 読み終えて生きる元気が湧いてきた、 と感じられるものとしては、 何より福沢諭吉の 『福翁自伝』 でしょう。 落ち込んでいる人、 孤独を悩んでいる人には、 フランツ・カフカの 『短編集』『変身』 をおすすめします。 暗い内容のようでいて、 なぜか根源から力が湧くでしょう。 また、 人に対して優しい気持になりたい、 細かい文章の味をかみしめたいと思ったら、 井伏鱒二の短編ですね。 『山椒魚』 などのタイトルの付いた一冊を選べばよいのです。

 こんなところでしょうか。 ここに挙げたどの本も文庫本で手に入ります。

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批評的態度を学ぼう
甲斐勝二 (中国文学)
『オーウェル評論集』 岩波文庫 小野寺 健 編訳

 掲載される 「象を撃つ」 を読んだとき、 「奴隷の主人も奴隷だ」 といった魯迅の評論を思い出した。 魯迅の方が早いが、 概ね時代も重なり、 「知識人」 としての態度には共通性があるのだろう。 また、 「ナショナリズムについて」 では、 やがてサイードの 『オリエンタリズム』 へとつながる思想の流れがあるように思い、 インド人を縛り首にする 「絞首刑」 では 「悲情城市」 の映画で政治犯として殺害される台湾の青年の姿が浮かんだ。 イギリスのユダヤ人差別問題を取り上げて、 「なぜあきらかに非合理なこんな信念が世間の人々の心をとらえるのだろう」 とは考えず、 当然 「なぜユダヤ人差別問題はわたしの心をとらえるのだろう」 という問題から出発するべきだと説くのは確かにその通り。 かかる人材を生み出したイギリスの土壌の豊かさに感心する。

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若き日に読んで感銘を受けた本
片多順 (文化人類学)
倉田百三 『出家とその弟子』

 私自身が学生時代に先輩から 「読んでみたら」 といわれて読んだ本です。 何気なく読んでとても感動した記憶があるので、 皆さんにもお薦めしたいと思います。 これは著者の倉田百三が26歳のとき、 1917年に書いたものです。 大正から昭和の初期にかけて日本の若者たちが熱狂的に読んだものです。 内容は詳しくは述べませんが、 青春の葛藤、 悩み、 苦しみを描いています。

 新潮、 岩波、 角川、 講談社など、 どの文庫本にも含まれており、 安く簡単に手に入るものですので、 どうぞ手にとって見てください。

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「よい子」 ってどんな子?
勝山吉章 (教育史)
灰谷健次郎著 『兎の目』 (理論社)

 「よい子」 ってどんな子? 親や教師の言うことを素直に何でも聞く子どもは、 確かによい子に違いない。 では、 親や教師の言うことを聞かない、 親や教師の権威を認めない子どもは 「悪い子」 なのだろうか。 いつも親や教師のご機嫌を伺い、 「よい子」 であり続けることに疲れた子どもは、 もうよい子ではなくなるのだろうか。

 『兎の目』 の主人公 「鉄三」 は、 そのような問いを投げかける。

 偏差値教育、 管理主義的教育に慣らされてきた者にとって、 「鉄三」 は落ちこぼれに映るだろう。 しかし、 人間本性に照らし合わせて考えた時、 管理化された現代社会に馴染んでいる私たちこそが、 大切な人間性を失っているとは言えないだろうか。

 本書を既に読んだ学生も多いと思うが、 大学時代に再度読んでもらいたい書物である。

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中国の歴史(全12巻)
紙屋正和 (東洋史)
講談社版『中国の歴史』(全12巻)(講談社)

 1970年代に、 『中国の歴史』 (全10巻)、 『図説中国の歴史』 (全12巻)、 『新書東洋史』 (全11巻、 うち中国史は5巻) と、 中国史の概説書のシリーズをあいついで刊行した講談社が、 『新書東洋史』 以外は入手困難になった2004年から2005年にかけて、 ほぼ30年ぶりに刊行した中国史の概説書がこのシリーズである。 この間に中国史・中国自体、 あるいはそれらをとりまく環境は大きくかわった。

 古い時代については、 考古学の大きな発見があいついでいる。 稲作の起源は、 遺跡が発掘されるたびに千年単位で古くさかのぼり、 今や一万二千年前の栽培稲が発見されたというニュースが流れているほどである。 また以前は、 中国の古代文明といえば黄河文明と相場がきまっていたが、 現在は長江流域において黄河文明に勝るとも劣らない高度な長江文明があったことが明らかになっている。 戦国・秦・漢・魏晋南北朝時代については、 当時の法令・行政文書や思想・文学などの著作を書きしるした簡牘(かんとく)(竹のふだと木のふだ) 類や人の目をうばう遺跡が多く発見され、 これまで文献史料で知ることのできなかった事実が明らかにされつつある。 新しい時代については、 放っておいても新事実が積みかさなってくるのであるが、 以前に未発表であった公文書が公表され、 さらに中国・中国経済自体が大きくかわりつつある。 政治は社会主義のままであるが、 経済はもう完全な資本主義に、 少し大げさにいえば日本よりも極端な資本主義になり、 現在の成長がつづいていけば世界経済を牛耳るようになるかもしれないといわれている。 こうした変化をふまえて、 今回の『中国の歴史』 (全12巻) が企画されたのである。 ただし、 このように大きくかわりつつある 「古い時代」 と 「新しい時代」 とに挟まれた中間の時代の場合、 大発見があったわけでもなく、 新しい文献が見つかったわけでもないため、 執筆者はこまったらしいが、 旧来通りの中央からの視線でえがくのではなく、 地方の現場から世界を見なおすといった機軸によって新鮮味をだそうとしたという。

 全体的にかなり高度な内容になっているが、 全部を紹介するわけにいかないので、 私の専門に近い古代史関係についてのみ内容を簡単に紹介し、 のこりは執筆者と書名だけを列記するにとどめる。

 宮本一夫著 『神話から歴史へ―神話時代・夏王朝』 (01) は、 中国の地に人類が居住しはじめてから、 殷周社会が成立する前まで、 いわば中国の先史時代をとりあつかう。 現在の中国の経済発展は巨大な開発をともない、 発掘もさかんに行なわれている。 その結果、 先史時代の文明は黄河流域だけではなく、 現在は中国の各地で発見されている。 宮本氏はこうした発掘成果をもとに、 物質文化における地域間比較だけでなく、 社会構造上の地域間比較をも試みることによって、 先史時代における段階的な社会構造の変化に注目し、 殷周社会にいたる道のりを多元的に説明する。 これまで 「中国の歴史」 というとき、 先史時代についても文献史学の研究者が執筆することが多かったが、 これは考古学の専門家の手になる概説書である。

 平勢隆郎著 『都市国家から中華へ―殷周・春秋戦国』 (02) は、 新石器時代から戦国時代までを対象とする。 本巻は、 著者自身がみとめるように 「一般に提供されている中国史とは、 若干異なった視点」 で書かれている。 すなわち中国史を、 蘇秉琦氏著・張名声訳 『新探 中国文明の起源』 (言叢社) が提唱した 「新石器時代以来の文化地域」 を基礎において分析し、 まぼろしの夏王朝、 殷王朝・周王朝、 そして戦国時代の領域国家のいずれもが新石器時代以来の文化地域を母体として成立したという。 こうした歴史を背負う戦国時代の諸国家は、 自国の立場から、 先行する夏・殷・周の王朝を論じ、 そのうちの一部が史書として現在にのこされている。 しかしそれらの史書は、 それができあがった時代に規制され、 ときには無かった内容を付けくわえている。 そこで、 本巻は、 何が後世に付加された虚構の産物なのか、 またどの記述が事実を伝えているのかを検討する形で書かれている。 安易な気持ちで、 急いで読もうとすると、 絶対に理解できない。

 鶴間和幸著 『ファーストエンペラーの遺産―秦漢帝国』 (03) は、 秦・始皇帝による天下統一から前漢・新をへて後漢が滅亡するまでの四百四十年間をとりあつかう。 この時代は、 簡牘類や多くの目を見はる遺跡・遺物の発見があいつぎ、 歴史像が大きくかわりつつある時代である。 鶴間氏は秦の歴史、 始皇帝像の再評価を試み、 また秦・漢時代を地域の視点から見なおそうと試みてきた研究者である。 そうした自分自身のの研究を反映させ、 あわせて新発見の出土資料を既存の文献史料とつきあわせて本巻を書いている。 とくに新出土資料についてはよく調べて多くの情報を提供しており、 専門家としても参考にすべきところが多かった。

 金文京著 『三国志の世界―後漢・三国時代』 (04) は、 後漢後半期に外戚・宦官が政治を乱しはじめた時期から西晋の統一によって三国時代がおわる時までの約百三十年をとりあつかう。 この書名にある 「三国志」 とは、 『魏志』 倭人伝などをふくむ歴史書の 『三国志』 ではなく、 小説の 『三国志演義』 であり、 執筆者は歴史家ではなく、 中国文学者である。 本巻は、 ゲーム・アニメ・漫画によってつくられた 『三国志』 ブームを意識したもので、 よくいえばこのシリーズに新鮮味をだすための、 悪くいえば読者に迎合するための企画といえよう。 内容は、 この時代の歴史の動きを淡々とおいかけ、 ところどころで 『三国志演義』 がどのように脚色されているかを明らかにしている。 本巻は歴史の概説書として読みごたえがあるが、 『三国志演義』 ファンにも歓迎されるであろう。

 川本芳昭著 『中華の崩壊と拡大―魏晋南北朝』 (05) は、 西晋が中国を再統一したものの、 また分裂してから隋が久々に中国を統一するまでの約三百年をとりあつかっている。 基本的には分裂の時代といえるこの時期の歴史を、 胡漢、 すなわち遊牧民族と漢民族の対立と融合をキーワードにして、 隋・唐時代に新しい漢民族・中国文化が登場すること、 また中原 (黄河中流域) の混乱などによって、 未開発地がまだ多くのこされていた長江流域に厖大な人口が移動・移住し、 その地の開発が急速に進展することを明らかにし、 あわせて中国の周辺において朝鮮半島の三国や倭のような国家がうまれてくることにも目をくばっている。

  氣賀澤保規著 『絢爛たる世界帝国―隋唐時代』 (06)
  小島 毅著 『中国思想と宗教の本流―宋朝』 (07)
  杉山正明著 『疾苦する草原の征服者―遼・西夏・金・元』 (08)
  上田 信著 『海と帝国―明清時代』 (09)
  菊池秀明著 『ラストエンペラーと近代中国―清末・中華民国』 (10)
  天児 慧著 『巨龍の胎動―毛沢東vs 鄧小平』 (11)

 尾形勇など著 『日本にとって中国とは何か』 (12)
は、 太古から現代までの中国の歴史をふりかえったあとで、 日中関係がギクシャクしている現在、 日本にとって中国とは何か、 逆に、 中国にとって日本とは何かについて、 このシリーズの編集委員四人と中国人二人が総論的に論じたものである。 日本と中国は同じ漢字文化圏、 儒教文化圏であるから何もいわなくても分かりあえると認識することが、 大きな誤解であることを知らなければならない今この時、 一読すべき本であろう。 以下、 執筆者と論題だけを紹介する。

  尾形 勇 「大自然に立ち向かって―環境・開発・人口の中国史」
  鶴間和幸 「中国文明論―その多様性と多元性」
  上田 信 「中国人の歴史意識」
  葛 剣雄 「世界史の中の中国―中国と世界」
  王  勇 「中国史の中の日本」
  礪波 護 「日本にとって中国とは何か」

 概説書は新しければ新しい顔をして我々の前にあらわれてくる。 新しければよいというものではないが、 少なくとも情報は新しいものがふくまれている。 読書には、 自分の知らないことをまなぶという 「学ぶ姿勢」 と同時に、 何かおかしい、 納得できないことを書いていないかをさぐるという 「批判の姿勢」 も必要である。

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学問の領域に捉われない読書の勧め
鴨川武文 (地理学)
木内信蔵(1968)『地域概論―その理論と応用』(東京大学出版会)
日高敏隆(1998)『チョウはなぜ飛ぶか』高校生に贈る生物学3(岩波書店)
武野要子(2000)『博多―町人が育てた国際都市―』(岩波新書)

 木内信蔵の 『地域概論』 は39年前に刊行されました。 39年前の本というと、 「なんて古い本なんだろう」 と思うかもしれませんが、 地理学や地理学が研究対象とする地域について体系的に論じられています。 私は共通教育科目の地理学を担当していますが、 この本は、 地理学の講義を学生の皆さんに行うにあたっての、 私にとっての参考書ともいうべき座右の書です。

 日高敏隆の 『チョウはなぜ飛ぶか』 は生物学の本ですが、 この本は次の2点において興味深い本です。

 第1点は、 「チョウはなぜ飛ぶか」 というタイトルですが、 内容は、 一言でいうと、 チョウは自分自身が飛ぶ道筋をしっかりと認識して飛んでいるということです。 つまり勝手気ままに飛んでいるのではないのです。 全く土地鑑のない場所に出かけた時に頼りになるのは地図です。 地図を見てわれわれ人間は行きたいところに行くことができます。 チョウは地図を持ってはいませんが、 自分が行きたいと思うところへ行くことができ、 またそのような本能を持っているのです。

 第2点は、 研究というものはどのように行われているのか? 研究者は試行錯誤・紆余曲折を繰り返しながら研究成果を出している、 研究者とはどのようなタイプの人たちなのか、 科学的なものの考え方とは何か、 などについていきいきと書かれているという点です。 学生の皆さんが志している学問の枠に捉われることなく、 多くの本を手にして教養を高め、 知識を習得してほしいと思います。

 武野要子福岡大学名誉教授の 『博多』 には、 博多の町の成り立ちや、 政治的に、 また経済的に博多に関わりのあった武士や豪商のエピソード、 今に伝わる博多の伝統や住民の生活史など興味深い話題が数多くあります。 また、 聖福寺や承天寺、 櫛田神社、 鴻臚館、 防塁など博多にゆかりのあるものの記述もあり、 この本を携えて福博の町を散策してみたらいかがでしょう。

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月のバー
桑原隆行 (フランス語)
稲垣潤一 『男と女』 (CD)
ファティ・アキン監督 『太陽に恋して』 (DVD)
大島弓子 『ダリアの帯』 (白泉社文庫)
垣根涼介 『君たちに明日はない』 (新潮文庫)

 稲垣潤一 『男と女』
 「男と女」、 これ以上に蠱惑的(こわくてき)なタイトルがあるだろうか。 中には、 若き日のトランティニャンが出ていたフランス映画 『男と女』 を思いだす人もいるかもしれない。 稲垣潤一の声が女性歌手の声と接近し、 重なり、 触れ合う。 追いかけ追われ、 誘い誘われる二つの声が耳に愛の囁き、 口説きのように注がれる。 山本潤子と歌う 「秋の気配」、 松浦亜弥と組んだ 「あなたに逢いたくて」、 大貫妙子と一緒の 「サイレント・イヴ」、 熱情をクールに突き放して隠すかのような歌い方の中森明菜と繰り広げる 「ドラマティック・レイン」 等々、 全11曲。 「ひとつのフレーズを耳にしただけで、 僕らはそれをスタン・ゲッツのサウンドであるとすぐに認知することができた。」 (村上春樹 『意味がなければスイングはない』) 特有のメロディー、 固有の音や物語性、 表現の喜びや愛。 つまりは、 このように聴く者に演奏者が誰であるかを即座に識別させてしまうものを、 村上春樹は 「シグネチャー」 と呼んでいる。
 人間の声はそれだけで、 その人を表わし示す特徴的なシグネチャーだ。 好きなあなたの声はぼくには特別の署名、 聴覚に刻印される甘美な徴、 ピアノ曲のように耳じ朶たを撫でて行く誘惑だ。 今夜もあなたを月のバーに連れていく。 そして稲垣潤一の歌のように二人、 「ジンで朝まで」 (『246:3AM』)。

 ファティ・アキン監督 『太陽に恋して』
 映画メモによれば、 このロード・ムーヴィを観たのは2008年の3月1日、 土曜日。 その年に、 ぼくがDVDで観た映画全体の中で27本目の映画にあたる。
 一人の男が太陽のような女性と出会うと占いで予言される。 運命の糸で結ばれたその女に逢うために、 彼はハンブルクからイスタンブールまで車を走らせる。 そして、 ついに橋の袂の広場で見つけたその女性は…。 この映画が気に入ったら、 同じアキン監督の 『愛より強く』 も観てほしい。 ドイツ育ちのトルコ人とトルコを離れたことのないトルコ人の考え方生き方の違いとズレ、 その一方で消えることのない血のつながりと民族性の強さ。 または、 『太陽に恋して』 の男を演じた俳優モーリッツ・ブライブトロイが気になるなら、 彼が出ている 『ラン・ローラ・ラン』『エス』『素粒子』『アグネスと彼の兄弟』 を観てはどうだろう。 あるいは、 あなたが太陽という言葉に敏感に反応してしまうタイプなら、 『太陽に誘われて』 というスウェーデン映画も―ぼくは結構好きだ―お勧めだ。
 待ち合わせはワクワクさせ、 心躍らせる。 いつか映画のようにイスタンブールの橋の袂であなたと抱擁を交わす夢に浸ろうか。 まずは、 天神のいつもの場所で待ち合わせて映画館、 その後は月のバーの闇に二人で身を潜めることにしよう。

 大島弓子 『ダリアの帯』
 研究室の本があまりに乱雑・無秩序な様相を呈していたので、 3千日ぶりぐらいで意を決し奮起一番、 整理整頓に取りかかった。 混沌の奥から、 忘れていた漫画が続々出てきた。 失われていた過去の自分を再発見するみたいで懐かしかった。 本棚はノスタルジーの宝庫だ。 大島弓子の近所にはジョージ秋山がいたし、 『ダリアの帯』『ブッダ』『カムイ外伝』 の下敷きになっていた。 大島弓子の漫画を、 ぼくは小説を読むように読んでいると感じる。 「先日 学校から帰ると母が死んでいた」 と始まる 「乱切りにんじん」 の唐突さ。 「ダリアの帯」 での何十年をも一気に飛ばしてしまう時間処理。 「水枕羽枕」 の言葉の羅列がもたらす非経済的で無意味な面白さ。 どれもが好きだ。 特徴的な美しい黒の領域、 日常と非日常、 常識と非常識、 怖さと可笑しさのアッケラカンとした共存、 人間関係のズレと埋まらない距離が受入れるべき当然の現実としてを提示されていること。 どれもが好きだ。 乱雑の中から発見された大島弓子の漫画は他にもあった。 『バナナブレッドのプディング』『夏のおわりのト単調』『さようなら女達』『つるばらつるばら』 等々。 タイトルが惹き付ける。 読んで夏の午後を優雅に過ごすことにしよう。
 二人のゆったりした時間を楽しむのなら、 月のバーのお決まりのカウンター席に腰かけて、 ベリーニで乾杯だ。 二杯目はブッシュ・ミルズにする予定だけど、 ぼくは。 グラスを持つのは片手で足りる。 もう一つの手はあなたの腿の上に。 ほろ酔いの唇から出てくるあなたの物語を聞くのが好きだ。

 垣根涼介 『君たちに明日はない』
 退職を迫る、 転職を勧める解雇代行会社の社員村上真介の物語。 迷う相手に決断を促すのが、 「明日はない」 という決め台詞なのだ。 殺伐とした情け容赦のない展開を想像してはいけない。 そうではないのだ。 恋話もあるし、 まずは読んでみたらどうだろう。 続編 『借金取りの王子』 も読みたくなるはずだ。 垣根涼介の本で他には、 ブラジル移民の歴史を下敷きにしたその子孫の復讐劇 『ワイルド・ソウル』 を読んだ。 『真夏の島に咲く花は』 も読んだ。 何しろ、 この小説の舞台はタヒチだからね、 タヒチ願望が強いぼくの嗅覚が見逃すはずがないのさ。 あとは、 ブラジルやタヒチが掻き立てる連想のままに運ばれていく。 ブラジル映画 『スエリーの青空』『私の小さな楽園』『カランジル』 など、 その太陽と欲望と怒りで熱せられたかのような濃密な空気に感染感応する。 スタン・ゲッツのテナー・サックスが奏でるボサノヴァの優雅でクールな怠惰に酔う。
 坂東真砂子 『南洋の島語り タヒチからの手紙』 を気分任せに拾い読みしては時々、 カレンダー 「ザ・パラダイス」 を眺める。 さて、 あなたが南洋の果実を思わせる色のカクテル 「パラダイス」 を飲み終えたら、 今夜は早めに切り上げよう。 明日がある。 月のバーを出たあとは、 秘密の部屋に直行だ。 至福の夜と熱い快楽が待っている。

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「類語の辞典」 (上下) (講談社学術文庫)
小林信行 (哲学)
 この種の辞典は、 一般的な国語辞書や電子辞書のように、 手元において必要があればすぐに引いてみるというものではない。 むしろ、 つれづれなるままに本棚から取り出して眺めるように読んでいるとだんだんおもしろさがわいてくるような、 暇人のための書物と言えそうだ。 つまり、 読書対象となる辞典である。 とは言え、 一般的に辞書や辞典に期待されている実用性という点でもなんら劣るところはない。
 具体的に見てみよう。 たとえば 「感謝」 という語を引いてみる。 すると 「れいす」 を見よ、 と記されている (この辞典は明治四十二年発行の日本類語大辞典の復刻版で、 言い回しには多少とまどいを覚えることもあるが、 それなりの味わいも深い)。 そこで 「れいす」 を見ると、 「礼」 (原文は旧字体)とあり、 敬意を表すために拝礼をする、 色代、 会釈、 辞儀、 と説明されている。 (色代は、 現代では死語に属するであろう。 挨拶するという意味らしい。)
 今日的な感覚からすると、 感謝についての類語としてこれらは適切だろうか。 感謝します、 ありがとうと言ってお辞儀をすることくらいは納得できるが、 説明がどこかずれているような印象がある。 それは、 われわれが感謝を 「気持ち」 の問題としてとらえているからではなかろうか。 口には出せないがお世話になったあなたには本当に感謝しています、 といった人間の 「気持ち」 の中にありがたいという感謝やお礼がある、 と理解しているのではないか。 ところが、 右の説明はもっと素朴なものだ。 つまり、 感謝とは受けた恩に対するお礼であり、 礼とはすなわち頭を下げたり、 土下座をしてでも相手に敬意を示すという 「行為」 であり 「態度」 のことなのだ。 口先のことばや目には見えない気持なんかではなく、 とにかく相手に対して身を低くすることが礼であり、 感謝である、 と説明されているように想われる。
 これは中国古典の世界を受け継いだ説明ではあろうが、 類語辞典としての役目は十分に果たしてくれている。 何気なく (「なにげに」 ではない) この辞典を取り出して眺めつづけていくうちに、 いつのまにか語彙不足の自分を嘆くことが少なくなっているだろう。

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『九鬼周造随筆集』
国語学 佐野宏 (国語学)
 このような小文を書いてどれほどの学生に受け入れられるかは知らない。 しかし、 読書案内として入学したばかりの諸君らに勧めるべき本として 『九鬼周造随筆集』 (岩波文庫・青146-2) を挙げる。 その中においては、 特に 「書斎漫筆」 を是非一読されたい。 そこにはいくつかの本が紹介されている。そのうちのいずれでもかまわないから読んでみるとよい。 私がちょうど諸君らの年に、 恩師から九鬼周造の 『偶然性の問題』 を読むように言われた。私の恩師は森重敏という国語学者である。 先生は田辺元という哲学者と親しかった。 先生の国語学演習の受講者は私以外では女性の先輩一人であった。私はまだ演習を科目登録できない学年だったから、 森重先生の講義は聴講していただけであったが、先輩が卒業すると受講者なしになるからというのでそのまま居着いてしまった。確かに演習の内容は萬葉集・古事記・日本書紀・風土記といった古代語・古代文学を中心とした音韻論、 文法論、 文体論、 語彙論であったが、たいていはそこから出発して哲学の話になった。 萬葉歌についていえば、 人の悲しみとは何か、 愛しみとは何か、 死とは何か、 命とは何か、というように展開してゆくのである。 その時々に先生が解説される哲学関係の本について、具体的な演習準備とは別に読んできて次の週にレポートを提出することが求められた。肝心の演習の準備だけでレポートがどうしても書けないときは読んだ内容を私が概説し、 それに対しての口頭試問があった。よくわからぬままに毎週そんなことをしていたが、 たまたま神話の定義に際して、 可能・不可能、 現実・非現実、 偶然・必然が問題となって、九鬼の全集を読んでいた。 そのうちに彼に随筆集のあることを知り、 前掲の箇所を読んで、 その最後に出てくるエピクテートスの 『遺訓』 を読んでみた。その週に若い私は不躾にも先生のようになるにはどうしたら良いかと聴いた。 先生の答えは簡潔であった。 それはここには書かない。 しかし、それから今に至るまで変わらず、 ただそのときに教えられた道を歩いている。 九鬼も引用しているが、 『遺訓』 (『人生談義』 (下)鹿野治助訳・岩波文庫263頁) には、 次のようにある (なお同書68―71頁も参照されたい)。

 常に哲学者であることをもって満足せよ。 おんみが誰かに哲学者と思われることを欲するなら、 まずおんみ自身にそう思わせるがよい。それで十分である。

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Tips for Learning English
Stephen Howe (英語学)
 Compared to someone who knows no English, you already know a lot. You are reading this page, for example. Remember, you have a good head start: you studied English for about six years at high school, and Japanese has more English wordsthan any other language (apart from English, of course) - you already know hundreds and hundreds of English katakana words. Build on what you know and try to improve a little each day.

Here are some tips for learning English:

 1 . Use your English!
   ・To speak a language well, you must use it - as often as possible
   ・Practise speaking to yourself in English
   ・Try to think - or even speak - to yourself in English, for example when taking the train, shopping or brushing your teeth - how would you say thatin English?
   ・Practise speaking English with your friends
   ・Meet your friends for coffee and practise speaking English for fun
 2 . Practice makes perfect
   ・Don't worry about making mistakes, just speak, speak and speak
   ・Learning a language is like playing the piano - you should practise a little each day
   ・If you never practised the piano, you would never learn to play. The sameis true of language - if you want to get better, practise a little each day.
 3.  Set yourself a target
   ・Set yourself a target to improve your English each year
   ・Improve a little each day, and you will improve a lot by the time you graduate
 4.  Learn outside class
   ・Don't think of your English class as the only time you learn English - try to improve your English all the time
 5.  Make friends with international students on campus
   ・Practise your English on the international students at Fukudai - they want to talk to you!
   ・Ask them about their country and tell them about Japan
 6.  Watch TV and movies in English
   Movies are a great and easy way to listen to natural spoken English - and they are available anywhere - watch as many as you can
   ・Switch to English sound when you watch an English programme or movieon TV. This may be difficult at first, but gradually you will find yourself understanding more and more.
   ・As well as movies, try watching the news in English at www.cnn.com
 7.  Read a book, magazine or newspaper in English
   ・Read a book in English - there are thousands to choose from!
   ・Read an English magazine
   ・If you like fashion, read an English fashion magazine; if you like sport,read a sports magazine in English. You will learn a lot of vocabulary about your interest.
   ・Read a newspaper
   ・The Japan Times is available everywhere and is easy to read
   ・Read the news in English online
   ・Try www.bbc.co.uk for English news
 8.  Write a diary in English
   ・Like Samuel Pepys and Bridget Jones, write a diary about what you do each day, your thoughts and feelings, in English. This will improve your writing and help you express yourself better.
 9.  Listen to English music and radio
   ・Listen to your favourite British or American bands - they can help you learn English!
   ・Listen to English music on the web at www.bbc.co.uk/radio1/
 10. Plan a trip or study abroad
   Start improving your English ready for a trip or study
   ・It will be easy to meet people if you can speak a little English
   ・Practise the words and phrases you will need
   ・Use the opportunities offered by Fukuoka University to study abroad - you will have the time of your life
 11. And, almost last but not least, have fun
   ・Have fun using your English - the more you enjoy it, the more you will learn
 12. Finally, what about after university, what does English give you?
   Knowing English or another foreign language can help youget the career you want.
   Knowing a foreign language gives you:
   ・Opportunities - for work and travel
   ・An international dimension
   ・Awareness of other cultures
   ・Communication skills

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『坊ちゃん』を読み直す
高木雅史 (教育史)
夏目漱石『坊ちゃん』(夏目漱石全集、ちくま文庫[筑摩書房]ほか)

 大学生になったみなさんに対して、 いまさら 『坊ちゃん』 を紹介するなんてとあきれる人が多いことだろう。 正義感に富んだ直情的で無鉄砲な青年教師である主人公が魅力的な、 広く読み継がれている作品であるから。 それにもかかわらずここで取り上げるのは、 登場人物への共感的理解を中心としたいわゆる 「読書感想文」 的な読み方ではなく、 教育問題の歴史に位置づけて読み直してみると、 どんな風に見えるかを考えてみたいからである。

 今日、 学校内外でおこる暴力事件などを例に若者のモラルの低下が指摘され、 それは現代日本に特有な病理現象であると批評されることが多い。 「昔はよかったのに、 今の若いヤツは……」 と決めつけられて不愉快な思いをした人もいることだろう。

 しかし〈昔はよかった〉とすると、 およそ百年前 (1906年刊行) の 『坊ちゃん』 に描かれた生徒たちの行動はどのように理解したらいいのだろうか。 〈旧制中学校と師範学校の生徒たちの紛争事件〉〈坊ちゃんの日常生活をスパイし板書してひやかした天麩羅事件〉〈寄宿舎で坊ちゃんの寝床に大量のバッタを混入したバッタ事件〉。 脚色や誇張があるにせよ、〈紛争事件〉の場面では数十人規模で投石や棒での殴り合いが行われるという大乱闘の様子が描かれている (ちなみに当時似たような紛争は全国あちこちで起こっていた)。 制止に入った坊ちゃんに対して生徒たちは教師であると承知の上で石をぶつけている。〈天麩羅事件〉〈バッタ事件〉を見ても、 詰問されても生徒たちはふてぶてしい態度をとり続け、 反省するどころか悪質で陰湿な行為をエスカレートさせている。

 この作品がフィクションであることを割り引いて考えても、 はたして百年前の若者は現在よりモラルが高く、 悪さをしても節度があり、 素直であったといえるだろうか。 仮に今日、 同じような事件を身近であるいはマスコミ等を通じて目にしたら、 私たちはどのように感じ反応するだろうか。〈昔はよかった〉という見方を問題にするあまり、 短絡的に〈今の方がいいのだ〉あるいは〈昔も今もたいして変わっていないのだ〉ということを言いたいのではない。 昔と今を比べてみて、 何が変わって、 何が変わっていないのだろう。 変わったのは、 若者のモラルや行動なのだろうか。 それとも彼らを見る大人社会のまなざしなのだろうか。

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「しあわせ」 ってどんなこと?
高田熱美 (教育学)
今枝由郎 『ブータンに魅せられて』 (岩波新書)

 わたしの国、 日本には欲しい物はなんでもあります。 けれども、 しあわせだと思うことはあまりありません。 今日のように、 経済的格差が拡がり、 欲しいものが手に入るどころか、 貧困を強いられるところでは、 しあわせも安らぎも感じにくくなっています。

 ところで、 みなさんは、 ブータンという国を知っていますか? そこへ、 行った方はさらに少ないと思います。

 この本は、 ブータンの人びとの暮らし、 文化、 宗教などを語りながら、 本当のしあわせとはどんなことかを明らかにしたものです。 これを読みますと、 いまの私たちの状況が見えてきます。 そして、 なにほどかの安らぎをも得ることができます。

 この本とあわせて、 『ブータン仏教から見た日本仏教』 (今枝由郎 NHKブックス)を読まれるとためになると思います。 一読をお勧めします。

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視野を広げて考えてみよう
高妻紳二郎 (教育行政学)
 最初から引いてしまう質問です。 皆さんはなぜ大学に入学するのでしょうか?大学の目的とはいったいどのようなものでしょうか?少し難解ですが、 教育基本法、 学校教育法という法律にはこう書かれています。

 「大学は、 学術の中心として、 高い教養と専門的能力を培うとともに、 深く真理を探究して新たな知見を創造し、 これらの成果を広く社会に提供することにより、 社会の発展に寄与するものとする。」 (教育基本法第7条)

 「大学は、 学術の中心として、 広く知識を授けるとともに、 深く専門の学芸を教授研究し、 知的、 道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。」 (学校教育法第83条)

 つまり、 大学に入った皆さんは、 高い教養と深い専門的能力を身につけて、 知的にも道徳的にも成長が期待されている、 ということです。 皆さんにはこれからどんな経験もできるという特権があります。 そしてそれぞれの経験が皆さんを成長させてくれるでしょうが、 グーッと引いて自己を客観視できる人、 言い換えれば視野を広く持てる人になって欲しいと思います。 ここに紹介するのは著者の20代の体験記ですが、 藤原正彦 『若き数学者のアメリカ』 (新潮文庫) は今なお色褪せない内容で一気に読むことができる本 (エッセイ) です。 この本が出版される前、 私は藤原氏の講演を聞く機会がありました。 私が通っていた中学校での講演会です。 内容は覚えていませんが 「べらべらよくしゃべる人」 という印象を覚えています。 後でこの本を読み、 「ああ、 そういう話だったのか。」 と合点がいきました。 海外に行った時の興奮や不安感は誰でも感じるものですが、 表面上の体験ではない自己変容のプロセスに臨場感があり、 自身に置き換えて今読み返しても共感できる記述に多くぶつかるので、 海外へ行ってみようと思っている皆さんには手にとって欲しい本のひとつです。 エッセイですので読み飛ばすにはもってこいです。

 また、 岩波新書のなかでも多く読まれている本のひとつ、 池田潔 『自由と規律』 (岩波新書) をここで改めて推薦しようと思います。 1949年が初版ですから還暦を迎えた本となりますね。 イギリスのパブリック・スクールに学んだ著者の体験をもとに書かれた、 これも今なお色褪せない内容です。 今の日本の教育は 「ゆとり教育」 とか 「確かな学力」、 「生きる力」 といったスローガンが先行して内実が伴わないことが目立ち、 理念と現実が寄り添っていない状況にあります。 「もっとも規律があるところに自由があり、 最も自由なところに規律がある」 という精神はイギリスの伝統です。 いま、 大学に入って多くの 「自由」 を手に入れた皆さんであるからこそ、 じっくりと、 いや、 ちらっとでも 「自由」 の本質を考えてもらいたいと思います。

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アゴタ・クリストフの 『悪童日記』
高名康文 (フランス文学)
 東欧の国々は、 第二次世界大戦下ではナチス・ドイツの支配下に置かれて国土が荒廃し、 大戦後の冷戦時代はソビエト連邦の勢力下に置かれて、 共産党の独裁の下、 文化と思想において厳しい統制を受けました。 大国の勢力争いに巻き込まれて運命を翻弄されたのです。 今日のボスニア・ヘルツェゴビナにおける民族紛争に繋がる全体主義の負の歴史は、 二一世紀に生きる私たちが知っておかなければならないことですが、 こういうことを高校までの授業で習った人も、 聞いたことがない人も、 この小説を是非読んでみて下さい。

  アゴタ・クリストフ 『悪童日記』 堀茂樹訳、 早川書房 (ハヤカワ epi 文庫)

 作品の中には明確に示されていないのですが、 物語の舞台は、 第二次世界大戦下のハンガリーの、 オーストリア国境に近い〈小さな町〉です。 町外れの、 国境に一番近い家に住む祖母の下に、 〈大きな町〉から小学生ぐらいの双子の兄弟が母親に連れて来られて預けられます。 戦火の下食糧は不足し、 祖母は畑を耕し家畜を飼い、 自給自足の暮らしをしながら、 収穫したものを市場で売って日々をしのいでいるのですが、 兄弟もそれを手伝わないことには何も食べさせてもらえません。 人々の心は荒れており、 村の子供たちは、 疎開者の子供が歩いているのを見ると、 殴りかかってくるといった具合です。 生き延びるために彼らは、 労働を覚え、 襲って来る者たちを叩きのめすことを覚えなくてはなりません。 時には、 盗むことも、 強請(ゆす)りをすることも、 生き物を殺すことも、 強い者を利用することも。 そのような日々を、 彼らは〈大きなノート〉(原題の "Le grand cahier" はこの意味) に綴っていきます。 学校のない非常時に生きる 「ぼくら」 の作文の集大成がこの作品であるという構造を、 この物語はとっています。

 作品には、 戦争という非常時にあってむき出しになる人間の暴力 (ナチス・ドイツのユダヤ人狩り、 それを笑って見る人々、 絶滅強制収容所の死体の山)、 普遍的に存在するが、 そのような時だからこそ浮き彫りになる歪んだ欲望 (サディズム、 幼児性愛) といった重くて暗いテーマが次々と表れます。 生き延びるためには、 そのような現実に対して怯むことなく立ち向かわなければなりません。 そのために、 彼らが獲得したものの見方と態度が、 彼らの文章作法を記した次の一節に集約しています。
   ぼくらは書きはじめる。 一つの主題を扱うのに、 持ち時間は二時間で、 用紙は二枚使える。
   二時間後、 ぼくらは用紙を交換し、 辞典を参照して互いに相手の綴字の誤りを正し、 頁の余白に、 「良」 または 「不可」 と記す。 「不可」 ならその作文は火に投じ、 次回の演習でふたたび同じ主題に挑戦する。 「良」 なら、 その作文を〈大きなノート〉に清書する。
   「良」 か 「不可」 かを判定する基準として、 ぼくらには、 きわめて単純なルールがある。 作文の内容は真実でなければならない、 というルールだ。 ぼくらが記述するのは、 あるがままの事物、 ぼくらが見たこと、 ぼくらが実行したこと、 でなければならない。
    [中略]
   「〈小さな町〉は美しい」 と書くことは禁じられている。 なぜなら、〈小さな町〉は、 ぼくらの目に美しく映り、 それでいてほかの誰かの目には醜く映るのかもしれないから。
   同じように、 もしぼくらが 「従卒は親切だ」 と書けば、 それは一個の真実ではない。 というのは、 もしかすると従卒に、 ぼくらの知らない意地悪な面があるのかもしれないからだ。 だから、 ぼくらは単に、 「従卒はぼくらに毛布をくれる」 と書く。
    [中略]
   感情を定義する言葉は非常に漠然としている。 その種の言葉の使用は避け、 物象や人間や自分自身の描写、 つまり事実の忠実な描写だけにとどめたほうがよい。
  (42、 43ページより引用)

 彼らにとって、 重要なのは、 どのように感じるかということではなく、 見たものをありのままに把握し、 それに対してどのように行動するかということなのです。 現実を冷徹に見据えることによって養われた彼ら独自の行動規範は、 善悪の概念のようにできあいの価値基準には決してなびくことがないゆえに、 常に衝撃的であり、 刺激的です。 それゆえに、 日本語訳の題名は 「悪童」 日記なのですが、 知的過ぎるほどに知的な 「悪童」 たちによって書かれたことになっている飾り気のない文体の文章からは、 時として、 彼らが懸命に隠そうとしているごく当り前の人間的な感情―遠い母親を慕う気持ち、 虐げられた者を見て憤る心、 弱りゆく老人を労わる心―が迸り出ます。 この作品のそういうところに、 筆者は詩作品以上の詩を感じます。

 作者は、 一九五六年の動乱を機にスイスに亡命したハンガリー出身の女性で、 この作品以後フランス語で作品を発表しています。 原著のフランス語は比較的読みやすいので、 フランス語を学ぶ人は、 基本文法を一通り終えたら、 是非読んでみて下さい。

Agota Kristof, Le grand cahier, Seuil, coll. Points.

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中国社会に関するものをすこし
田村和彦 (文化人類学)
魯迅の作品と
『リン家の人々―台湾農村の家庭生活』(マージャレイ・ウルフ著、中生勝美訳、1998年、風響社) など


 最近、 中国について様々な情報が流れ、 週刊誌の記事や書籍となって書店に積まれています。 日本と中国の長い関係を考えれば古典や歴史の本が多いのは不思議ではありませんが、 同時代のものに限れば、 政治や経済に関するものが多いように思われます。 他方で、 日常生活を送る場としての社会を真面目に紹介した本は多くはないのではないでしょうか。

 そこで、 ここでは、 こうした領域について手がかりを与えてくれそうな、 いくつかの作品を推薦します。
 一つ目は魯迅のもの。 皆さんももしかしたら 『故郷』 を教科書などで触れたことがあるかもしれないし、 なにをいまさらという声が聞こえないでもないのですが、 読んだことのある人も、 そうでない人もしばらくお付き合いを。

 突然ですが、 皆さんは一年に数冊の日本語の本しか読めないという状況に出会ったことがありますか。 私事で恐縮ですが、 中国の農村に住み込んだときのわたしがそんな状況でした。 かなり悩んだ末に持ち込んだものが、 今昔物語と魯迅の文庫、 淡水魚類図鑑でした。 今でもなかなか良い選択だったと思います。 特に魯迅には随分助けられたのを憶えています。

 私は文学の研究者ではありません。 にもかかわらず、 魯迅の作品を挙げる理由は、 激しい論調や手厳しい諷刺のなかに垣間見える鋭い社会観察は、 今日の中国社会を考える上でも有用ではないかと思うからです。 もちろん魯迅を読めば今の社会がわかるといっているわけではありません。 社会背景もずいぶんと異なるはずですし、 作品はあくまで作品でしょう。 けれども、 様々なヒントが含まれているという点で、 今日でも繰り返し読む価値のある作品が多いと思います(著者の死因について、 最近はご子息の活躍もあってか、 理解を超えた説明がかの国の若者を中心に支持されているのは悲しいことです)。

 いろいろな人が訳しているので、 誰のものを選ぶかは好みで結構。 まず手始めに 『吶喊』 を手にとって見てください。

 二冊目は 『リン家の人々』 という本。 これは、 1950年代末に台湾北部の村で生活した人類学者の妻(後に著者本人も人類学者になってしまいました。 「異文化体験」 というのはなかなか強烈で侮れません)が記したある大家族の記録です。 推薦理由は、 訳者の解説にあるように漢民族の家庭生活の肌触りを知るうえでは良書であるから、 です。 人や情報の往来は急増し、 中国について語る機会が増え、 私たちはなにか中国社会について理解を深めたような自覚を持ちやすい今日の状況がありますが、 果たしてどの程度理解している、 理解しようとしたことがあるでしょうか。 たとえば、 本書の扱う家庭や人間関係などは如何でしょう。 この本は、 反省と驚き、 知ることへの欲求をかきたててくれる事でしょう。 また、 最近、 中国大陸中心の議論が極端に増加していますが、 台湾、 香港といった地域から考える、 あるいはこれらを含めて考えることが不可欠なのではないかと私は思っています。 なので、 台湾を舞台とした、 面白いけれどもあまり話題にならない本を選びました。

 さきに断っておきますが、 ここに挙げた本は、 ある事象についての知識を簡潔に記したものではありません。 もしそうした知識だけが必要であれば、 百科事典でも暗記したほうがましでしょう。 大学に来た以上、 自分で問いを立てて、 常識を疑い、 明確な論証を挙げて検討することが必要です。 こうした営みが楽しいかどうかは人によると思いますが、 大学とはそういうところだと私は思っていますので、 上の本を推薦してみました。 後は自分で面白そうなものを探してください。

 最後に、 本ばかりでは味気ないという意見もあるかもしれないので、 映画をいくつか推薦しておきます。 ここでは、 わたし好みの監督から 『青い凧』 (田壮壮監督、 1993年)、 『女人、 四十。』 (アン・ホイ監督、 1995年)、 『麻花売りの女』 (周暁文監督、 1994年)、 『延安の娘』 (池谷薫監督、 2002年)の四本を選びました。 図書館や教室だけが学ぶ場というわけではありません。 前の三作品は本学の言語教育研究センターにもありますので、 在学中に是非足を運んでみてください。

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読んで楽しく、 作っておいしい料理の本
辻部大介 (フランス文学)
宮脇孝雄 『煮たり焼いたり炒めたり―真夜中のキッチンで』 (ハヤカワ文庫)

 この春から一人暮しになり、 自炊をはじめたという人も多いことでしょう。 そういう人に、 またそうでない人にもおすすめの、 ちょっと変わった料理の本を紹介します。 これは、 英米小説の翻訳家である著者が、 所有する英語の料理本のコレクションから、 全部で50ほどのレシピを、 日本でも手に入りやすい食材を使ったものにアレンジしたうえで紹介したものです。 和・洋・中 の分類でいえばとうぜん 洋 のメニューが中心ですが、 カレーなどのいわゆるエスニック料理もあるし、 洋 の中味にしても、 「ロシア風」 ロールキャベツ、 「イタリア風」 ポークチョップ、 「ハンガリー風」 蒸し魚、 「デンマーク風」 アップルケーキ、 というふうにバラエティーに富んでいて、 読み手を未知の味覚の世界へといざないます (作ってみると、 どれもふつうにおいしいのですが)。

 オーブンがないとか、 近所のスーパーに材料が見あたらないとか、 あるいはたんに手間がかかるからといった理由で、 じっさいに作るにはいたらないものも多いかもしれません。 それでも、 どんな味がするのか想像するだけで楽しいですし (「赤キャベツのジャム」 なんていうのもあります)、 なによりも、 レシピに添えられた料理談義やあれこれのエピソードが、 その語り口とあいまって、 上質の読書体験をもたらしてくれます。

 それというのも、 著者が料理人である以前に日本語の文章のプロフェッショナルであるからで (ミステリの巨匠パトリシア・ハイスミスの短編をこの人の訳で読めるのは幸せなことです)、 じつはこの本じたい、 成り立ちが物語るとおり、 一個の翻訳作品といえるのかもしれません。 そもそも著者の料理への関心は、 小説に知らない食べ物が出てきたら、 それがどんなものなのかつきとめなくてはならないという職業上の必要とも結びついており、 言葉が指しているものを具体的に知ろうとするこのような姿勢は、 翻訳家ならずとも、 およそ外国語を学ぶ者にとってたいへん重要なものであると、 フランス語を教えながらつねづね思っています。

 語学というものが、 料理にかぎらず、 いかに雑多なことがらに対する興味を求めるものであるかは、 同じ著者の、 本業である翻訳にかかわるエッセイ (『翻訳家の書斎―想像力 が働く仕事場』 『翻訳の基本―原文どおりに日本語に』 研究社出版、 『ペーパーバック探訪―英米文化のエッセンス』 アルク) でも知ることができます。 こちらもぜひのぞいてみてください。

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「見る」
冨重純子 (ドイツ文学)
洲之内徹 『絵のなかの散歩』 (新潮社)
洲之内徹 『おいてけぼり』 (世界文化社)

 地下鉄福大前駅から長いエスカレーターを上って外に出ると、 目の前に油山がある。 いつも、 あ、 油山があると思う。 乗り物の窮屈と、 これから始まる授業の窮屈の間の、 一瞬の解放だからだろう。 遠くに見える日も近くに見える日もある。

 それにしても、 見ているようで、 何も見ていないことが多いなあと思う。 中川一政は新鮮ということは抽象であると言った。 絵はすべて抽象である。 写実とは見たままを描くことではなく、 思ったままを描くことだ。 これは絵のことだけではなくて、 ことばもまた、 そうだろう。 「心に感動がなければ、 物を見ないにひとしい。」 洲之内徹の文章は、 「見る」 とはどのようなことかを感じさせてくれる。

 『絵のなかの散歩』 は、 画商なのだが、 絵を売りたくない画商だった洲之内徹の書いた文章を集めた本だ。 絵を見る。 「買えなければ盗んでも」 欲しいと思う。 まずその所有者に、 場合によっては画家その人に、 手放すことを承諾させなければならない。 相手もなかなかうんとは言わない。 たいてい自分には金がないのだが、 相手が金を必要としているときもある。 機会をとらえる。 待つ。 奇襲作戦が効を奏することもある。 好きで好きで手に入れて、 あるいは縁あって手元に残った絵とその画家の話。

 たとえば、 長谷川二郎という 「仕事の遅い」 画家の話など、 一度読んだらとうてい忘れることはできない。 この人はどうしても実物を前にしないと絵がかけなくて、 たとえば、 一本の新緑の木を描くにも、 夏に緑が濃くなるとその年はもうそこで終わりで、 次の年を待たなければならない。 数年立つうちに、 木が切られでもしたら、 そこで中絶である。 待っている方もたまらない。 ほぼ完成した猫の絵があって、 あとは髭だけとなっている。 ところが、 その猫がその絵に描かれたような姿勢で寝るのは春と秋だけで、 その時期を待たないとかけない。 そのうち、 猫が死んでしまう。 完成は絶望かと思われるが、 デッサンがあるという。 髭をかきました、 と連絡があり、 著者が絵を取りに行くと、 どういうわけか、 片方だけしか描かれていない。 しかし、 下手な質問をしてまた何年も待つことになってはたいへんなので、 そのまま受け取ってくる。

 「惚れた女」 を男が見るように絵を見るという。 他の人が見ないようなことを見る。 そして、 資料を探したり、 絵が描かれた場所を確かめに行ったり、 画家を知っていた人を訪ねて行ったり、 見えなかったつがなりが見えてきて、 ふと、 そのような絵になるほかなかったものとしての画家の世界が見えてくる。 絵の批評や調べたことの報告ではない。 すみからすみまで、 著者が心を向けて見たものが記されている。

 『絵のなかの散歩』 は新潮文庫に入って、 文庫というのがまたいいなあと思っていたのだが、 今は絶版のようで、 それで 『おいてけぼり』 も挙げておく。 こちらは書き手の姿勢はまったく変わらないが、 もっと短い文章を集めたもので、 図版もより多い。

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お気に入りの本
永井太郎 (日本文学)
 新入生向けの読書案内ということで、 何かの勉強になるとか、 大学生として読んでおくべきといった本を紹介しようかとも思ったのですが、 やめました。 これからあげるのは、 僕が読んで、 個人的に面白かったという、 お気に入りの作品です。 完全な趣味です。 傾向が少し偏っているので、 万人向けとはいきませんが、 良かったら本屋や図書館で手にとってみてください。

H・G・ウエルズ 『タイムマシン』 (創元推理文庫)
 最近少し古いエンタテイメントにこっているのですが、 中でもウエルズの作品は今読んでも十分に面白いと思います。 「タイムマシン」 という言葉はもう常識ですが、 このアイデアをはじめて作品化したウエルズの小説を、 実際に読むことはなかなかありません。 読んでみると、 持っていたイメージとは違いがあって、 逆に新鮮に感じられます。 集中の 「塀についたドア」「水晶の卵」 なども名作です。

ロバート・マキャモン 『少年時代』 上・下 (ヴィレッジブックス)
 時代は飛んで、 いきなり現代作家です。 マキャモンは、 もとはスティーヴン・キングなどと同じホラー作家でしたが、 この本はホラーではありません。 一人の少年の一年の経験を描いた成長小説です。 しかし、 ただ成長小説というだけでなく、 ホラーやファンタジーやミステリーなどの要素が詰まった、 実に魅力的な小説です。 久しぶりにページをめくる手がもどかしいという経験をしました。

日影丈吉 「猫の泉」 (『日本怪奇小説傑作集2』 (創元推理文庫)、 『怪奇探偵小説名作選8日影丈吉集』 (ちくま文庫) などに所収)
 日影丈吉という名はまず知らないと思います。 ミステリー作家であり、 幻想文学でも優れた作品を数多く残しました。 あげたのは彼の代表作の一つで、 南仏の谷間の町を舞台にした、 静かな怪異譚です。 他にも、 同傾向の幻想的な短編としては、 「かむなぎうた」「吉備津の釜」「吸血鬼」 などが有名です。

澁澤龍彦 『夢の宇宙誌』 (河出文庫)
 西洋の怪しい知識を紹介したエッセイ集です。 本を開くと、 アンドロギュヌスやホムンクルスや自動人形といった楽しげな言葉が飛び交っています。 かつて澁澤龍彦の本は、 こうした話題についての定番だったのですが、 今でも読まれているのでしょうか。 そう思って、 あげてみました。 この本以外にも、 『黒魔術の手帖』 など、 澁澤龍彦の本はいくつも文庫で出ているので、 探してみて下さい。

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大学生活における悩みとどう向きあうか
平兮元章 (社会学)
 姜尚中著 『悩む力』 (集英社新書044C、 2008年、 680円) の一読を勧めます。

 「情報ネットワークや市場経済圏の拡大にともなう猛烈な変化に対して、 多くの人々がストレスを感じている。 格差は広がり、 自殺者も増加の一途を辿る中、 自己肯定もできず、 楽観的にもなれず、 スピリチュアルな世界にも逃げ込めない人たちは、 どう生きればいいのだろうか?本書では、 こうした苦しみを百年前に直視した夏目漱石とマックス・ウェーバーをヒントに、 最後まで 「悩み」 を手放すことなく真の強さを掴み取る生き方を提唱する。」 (本書、 導入部分より)

 著者の姜氏は政治学専攻の東京大学の教員であるが、 社会問題にも多くの発言をしている。 昨年起こった秋葉原事件においても自我論、 相互作用論の観点から、 混迷の社会において 「相互承認」 の重要さを説く有用な問題提起を行っている。

 「悩みなき人生は貧しく不幸な生き方」 であり、 「悩みの果てに突き抜けたら横着になってほしい。 そこから新しい破壊力」 が生まれるという。 誰にでも具わっている 「悩む力」 にこそ、 生きる意味への意志が宿っていることを、 ウェーバー (社会学) と漱石 (文学) の苦悩を手がかりに証明しようとしている。 両者とも共通して 「文明が進むほどに、 人間が救いがたく孤立していく」 ことを示しており、 「悩む力」 を振り絞って近代という時代が差し出した問題に向き合ったのだという。

 悩みの末に生まれてくる新しい破壊力がないと今の日本は変わらないし、 未来も明るくない、 という。

 皆さんの考え方が少し変わるかもしれません。 是非一読を。

〈付録〉ここでは本を読むということだけに限ってものを言いますが、 教養を身につけるといっても、 具体的にどのような本を読めばいいのか分からないという人にとって格好のガイドブックがありますので、 紹介しておきます。 理系・文系を問わず、 幅広く紹介してあって、 面白く読めます。

  小林康夫・山本泰 (編) 『教養のためのブックガイド』 東京大学出版会 2005年

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原子爆弾の惨状をみつめる
広瀬貞三 (朝鮮史)
(1) 庄治直美編著 『ヒロシマは昔話か   原水爆の写真と記録』 (新潮文庫、 1984年)
 アメリカが投下した原爆による死者は、 広島が約6万人、 長崎が約3万人。 想像もできない熱線と熱風が一瞬にして、 無辜の命を奪う。 真っ黒な炭のようになった死体、 無残な火傷、 横たわる負傷者、 慟哭する人々、 焼き尽された街並など。 「事実」 を直視することはつらいが、 しっかり脳裏に焼きつけておくべきことがある。 この本に載せられている写真一枚、 一枚は人類共通の 「負の遺産」 として、 いくども私に 「平和」 の大切さを訴える。

(2) 井上ひさし 『父と暮らせば』 (新潮文庫、 2001年)
 作家井上ひさしの戯曲。 広島の原爆で死んだ父親の幽霊と、 生き残った娘との対話で舞台は進む。 父は娘の将来を思いやり、 娘は父の死の原因を胸底に秘めながらも、 何気ない広島弁の会話が続く。 シナリオとしても良質である。 照明の輝き、 役者の動き、 効果音、 光りと闇など、 めまぐるしく展開する舞台が目に浮かぶようだ。 読んでいるうちに、 笑いとともに原爆がもたらす悲劇と怒りが父と娘の会話に凝縮され、 涙がボタボタ流れてくる。

(3) 永井隆 『この子を残して』 (中央出版社、 1976年)
 長崎大学で放射能を研究していた医師永井隆は、 同病院で被爆する。 爆心地近くで、 病身ながらも、 懸命に負傷者の治療に当り、 原爆病で倒れる。 妻を亡くし、 二人の子どもを前にして、 死と直面する。 幼い茅野と誠一は、 病床にふす父親を見守る。 永井は、 「この子を残して、 この世をやがて私は去らねばならぬのか! (中略) 一月でも、 一日でも、 一時間でも長く生きていて、 この子の孤児となる時をさきに延ばさねばなら」 ない、 と決意する。

(4) 朝日新聞広島支局 『原爆ドーム』 (朝日文庫、 1998年)
 現在原爆の惨状を唯一とどめるのが、 広島の原爆ドームである。 1996年には世界遺産に登録された。 本来の名称は広島県物産陳列館 (後に産業奨励館) であり、 チェコ人の建築家ヤン・レツルが設計し、 1915年に建てられた。 いくたびも解体の危機に遭いながら、 保存の必要性を求める人々の運動により今日に至った。 ドームを修復する人々、 保存運動を行う人々、 世界遺産登録に邁進する人々を追い、 ドームの現在的な意味を問う。

(5)  関千枝子 『広島第二県女二年西組   原爆で死んだ級友たち』 (ちくま文庫、 1988年)
 広島市内で 「建物疎開作業」 中、 広島県女二年西組一組は被爆した。 教師三名、 生徒39名の内、 生徒一名を除いて全員死亡。 この日病欠等で生き残った生徒は6名。 この一人が13歳の関千枝子である。 彼女は翌日、 学校で瀕死の友人たちと再会する。 後年、 関は8年間をかけて、 友人の被爆当日の足取りを克明にたどる。 人間とは思えない無残な姿に変り果てた友人の生を正確に記録することで、 原爆の被害がいかに悲惨であるかを物語る。

(6)  原民喜 『夏の花・心願の国』 (新潮文庫、 1973年)
 詩人原民喜は、 広島で被爆する。 それまでは抒情的な詩人であったが、 1947年から原爆をテーマにした 「夏の花」、 「廃墟から」、 「心願の国」 を書き続ける。 最も醜悪な原爆の惨状を、 美しい繊細な日本語でつづる。 直後の状況を、 「ギラギラノ破片ヤ 灰白色ノ燃エガラガ ヒロビロトシタ パノラマノヨウニ アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム」 と記録した。 力尽きたかのように、 1951年に自殺。 享年46。

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名著たち
藤本恭比古 (フランス文学)
 昨年の入試監督中のことだった。 日本史Bの問題で、 秀吉が 「関東の北条氏政には大軍を送って降伏させ」 という件くだりが、 たまたま目に入った。 その時、 数年前に物故した異色の作家、 山田風太郎の忍法帖シリーズの中に、 この北条攻めの合戦で、 一命を賭して北条の姫君をお守りし、 ひとりまたひとりと散っていった異形の忍びたちを描いた一巻があったことが思い出された。 『風来忍法帖』 だったか。 タイトルは、 はっきりしない。 もし受験生が受験勉強中にこんな本を手に取ったとしたら、 あまりに面白すぎて合格は覚束ないかもしれないと心配になる。 とはいえ、 合格の暁には、 この史実には忠実でありながらも奇想天外なファンタジーを読めば、 受験の知識が楽しくふくらんでゆくのではないか、 などと、 とりとめのないこと考えていた。
 しかしながら、 山田風太郎の、 かなりエロティックな幻想歴史小説を若い人たちにとくに奨めようとは思わない。 ただ、 風太郎作品に現れる姫君たちは、 現在放映中の某局大河ドラマの 「篤姫」 も顔色を失うほど、 利発で天衣無縫であり、 じつに魅力的である。 彼の作品集が版元を変えながら、 何度も蘇るのは、 その目の覚めるような面白さのためだろう。 そういうわけで、 ただ単に私が薦めたいという理由からだけではなく、 多くの読者が読むことを欲しているからこそ、 何度も版元を変えては生き続けているような書物を、 この新入生の読書案内に取り上げてみたいと思った次第。

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〈人間学〉のススメ
馬本誠也 (英文学)
1. 内村鑑三 『後世への最大遺物』 (『世界教養全集9』 平凡社刊行、 1962)
 物質主義や自己中心主義が横行している今の時代に、 このような書物を紹介すること自体、 アナクロニズムの誹りを免れないかもしれない。

 だが、 この本を読み、 私は久しぶりに本当の日本人に触れた思いがした。 「生きる」 ことの意味やこの世に生きる使命感を彼ほど純粋な力強いことばで語れる人は、 そう多くないはずだ。 ここに示されているいくつかの生き方は、 おそらく真摯に自分の行き方を模索している青年の魂に深く訴えてくるのではないだろうか。

 わたしは、 すべての学生にこの書物を推薦しようとは思わない。 こころの奥底から聞こえてくる〈内なる声〉に耳を澄ますことのできる人であれば誰でもいい。 「わたし」 とは、 いったい何者であるのか。 自然界における人間の位置づけをどう考えるのか。 「社会」 と 「個人」 はどのように関わり合っていけばいいのか。 およそ人文学部に身を置く学生であれば、 内村鑑三のような高い志しをもった日本人の声に謙虚に耳を傾けて欲しい。 〈文化〉の意味や、 外国語を学ぶ楽しさとすばらしさが、 すべてこのなかで語られている。

 この書物は、 すでに過去数年にわたって紹介してきているが、 今日の日本の時勢、 日本を取り巻く世界情勢を考えると、 どうしても今の若い人たちに贈りたい書物の一冊である。 内村は、 その中で、 こう言っている。 「われわれは、 何をこの世に遺して逝こうか。 金か。 事業か。 思想か。 これいずれも遺すに価値のあるものである。 しかし、 これは何人にも遺すことのできるものではない。 ……何人にも遺すことのできる本当の最大遺物は何であるか。 それは勇ましい高尚なる生涯である」
※ ここに紹介した内村鑑三 『後世への最大の遺物』 は、 図書館で検索すれば必ずあると思いますが、 書店での入手は難しいでしょう。 自分で所有したい場合には、 インターネットの 「日本の古本屋」 を検索すれば、 必ずどこかの古本屋が出しています。

2. 吉田健一 『英国の文学』 (岩波文庫)
 ずいぶん昔のことであるが、 大学の文学部に入学して、 さてこれから何を勉強していこうかと、 漫然と思案していたとき、 たまたま書店の本棚で見つけたのがこの書物であった。 英国、 および英国人の風土や文学をこれほど見事に語った書物は、 そう多くないと思う。 わたしがイギリス文学を専攻したのも、 この書物に触れ、 その感動を少しでも追体験したいという気持ちに駆られたからであった。 爾来、 この書物はわたしの本棚から消えたことが無い。 折に触れ、 その一部の詩や名文を味読している。 たとえば、 シェイクスピアの十四行詩をつぎのような名文に訳出している

  君を夏の一日に譬えようか。
  君は更に美しくて、 更に優しい。
  心ない風は五月の蕾を散らし、
  又、 夏の期限が余りにも短いのを何とすればいいのか。
  太陽の熱気は時には堪え難くて、
  その黄金の面を遮る雲もある。
  そしてどんなに美しいものでもいつも美しくはなくて、
  偶然の出来事や自然の変化に傷つけられる。
  併し君の夏が過ぎることはなくて、
  君の美しさが褪せることもない。
  この数行によって君は永遠に生きて、
  死はその暗い世界を君がさ迷っていると得意げに言うことは出来ない。
    人間が地上にあって盲にならない間、
    この数行は読まれて、 君に命を与える。

 このソネットの解説を始めとするシェイクスピアや幾多の文人を語る重厚な文体については、 多言を弄する必要はないと思う。 まず、 手にとって読んでみることだ。

3. BBC活用法
 昨年わたしは、 この欄でジャパンタイムズ編の 『ライブ・フロム・ロンドン』 (ジャパンタイムズ社) を紹介した。 これは、 ナマのイギリス英語を現地で録音したものをそのままCD付きの実用書にしたものである。 これでわたしは、 行き帰りの通勤電車やバスのなかでだいぶ楽しませてもらった。 不思議な感覚だ。 目を閉じてウォークマンを聴いているだけで、 こころは すでにロンドンに飛んでいる。 このCDを聴いて思うことは、 イギリス人だって時には言い間違えたり、 文法的に正しくない英語を発していることがある、 ということだ。 まして、 わたしたちは外国人だ。 英語を話すことを躊躇したり、 尻込みしたりすることはない。 実用英語を身につけようとするならば、 まず笑顔で話しかけてみることだ。 今は昔と違ってネイティブスピーカーの授業を受けようと思えば、 いつでも機会は提供されている。 福岡大学は、 ネイティブスピーカーの数だけでも全国有数のスタッフを擁している。 学生諸君がこの教育環境の利点を積極的に利用されることを勧めたい。

 しかし、 本場の英語を日常的な場でもっとシャワーを浴びるように聞きたいと願う学習者に勧めたいのが、 インターネットを利用した 「BBC活用法」 である。 グーグル検索でも何でもいいから、〈BBC 活用法〉と入力して検索すれば、 その利用の仕方について具体的に教示してある。 これで、 学生諸君は日本に居ながらにして英国本国のラジオ放送五局を現在流されているかたちでそのまま聴けることになる。 なかでも特に学生諸君に勧めたいのがひとつある。 『英語学習者向け : BBC Learning English』 のコーナーだ。 ここをクリックすれば、 テキストや単語の解説まで用意されているので、 時事英語を勉強するには最適な教材だと言えよう。

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カネにならないものの価値
道行啓爾 (イギリス文学)
佐藤弘著 『宇根豊 聞き書き 農は天地有情』 (西日本新聞社)

 「金銭の欲は、 すべての悪の根」 (『聖書』 「テモテへの手紙一」 六章十節) とあるように、 お金には負の側面があります。

 人間が発明したもののなかで、 至極ありがたい反面、 いちばん厄介なものは 「お金」 でしょう。 思えばカネにまつわる芳しくない話題がいつも世をにぎわせています。 悪徳商法や偽装、 詐欺、 脅し、 等々忌まわしい悪事が横行し、 社会は狂ってしまっています。 人の命にかかわることなのに、 金儲けのためなら、 食べられない品まで流通させてしまう。 目下世界が直面している大不況も、 その発端は金融界の破綻であった。 つまり過剰な金銭欲にかられて理不尽なことに走ってしまったのです。 「金が金を生む」 という考えに足元をすくわれてしまった結果です。

 現代社会が陥っている困難な状況   紛争、 食料、 環境、 エネルギー、 失業、 貧富格差等の問題   から脱却するにはお金儲けをよしとする 「常識」 ははたして通用するのでしょうか。 いつまでも金中心の世の常識にしがみついていると、 金と心中してしまうことになってしまいます。

 そうならないためにも、 カネにならないものに価値を見出す新たな思想に耳を傾けてほしいのです。 田舎の思想家 と胸をはって自認する宇根豊は、 「冷静になって考えると、 人生を支えているものの大半は、 カネにならないものです。 間違いなく、 カネで買えないものが未来に残ります」 と言い切っています。 金銭主義に傾斜した価値観を問い直し、 カネで評価できないものにこそ、 おおきなめぐみが隠されていることをわたしたちに伝えようとしています。

 ここにお薦めする本では、 偉大な思想家宇根豊の足跡とユニークな思想が語られています。 その思想の一端を別著から引いてみますと、 「従来の農学は、 近代化が進んでいるかどうか、 つまり生産性が向上しているかどうかで技術や経営を分析し、 優劣をつけてきた。 それに対して、 天地有情の農学は 「非近代化尺度」 を提案する。 …労働時間が長くても、 労働がきつくても、 収量が少なくても、 収益が減っても、 働く喜びが増え、 自然に対するまなざしが深まるなら、 価値があるとする尺度である」 (宇根豊 『天地有情の農学』 (コモンズ) とあります。

  「カネになるものだけが生産ではない」   このことばを、 あなたはどう受けとめますか?
追記 ― 実はこの宇根豊という人にわれわれ全国民はこの上もない恩恵をうけています。 そのことを佐藤弘は《あとがき》でこう記しています。 「赤ん坊のへその緒からダイオキシンが見つかる現代。 もし、 宇根豊という農業改良普及員の出現が十年遅れていたら、 農薬汚染による日本人の健康被害は今以上に広がっていただろう。 減農薬運動によって、 国民の命を救った男が、 この九州にいることを多くの人に知ってもらい…。」  これは宇根豊の 『減農薬のイネつくり』 他、 多くの著作と働きかけによって、 全国で農薬使用が以前に比べかなり削減され、 その結果、 環境汚染が軽減され、 人間をふくむ生きとし生けるものすべてが被ったであろう甚大な被害が回避された事情に触れたものなのです。

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『きみが読む物語』
毛利潔 (フランス文学)
 最近(2005年2月)の週刊誌に 「おじさんだって泣きたい映画! 『きみに読む物語』 (2004米)」 という記事がありました。 それに倣って、 今回のタイトルを 『きみが読む物語』 としました。

 では、 どんな物語なのか?

世界には無数の物語があって、 そのどれかを、 明確に、 ひとつの《物語》として、 意識して読むことができれば、 それが誰にとっても、 それが自分の物語になることははっきりしています。

 しかし、 どんな物語なのか・・・?

 たしかに、 この世界は様々な出来事に満ち溢れ、 ほとんどすべてが謎に埋め尽くされた世界のようです。 しかし、 本当のところ、 この世界はただ、 古今の哲学が語るように、 静かに風だけが吹いているだけの世界かも知れない、 と考えることができるかも知れません。 このような風景を描写できる小説が、 もし、 あるとすれば、 たぶんそれが、 「究極の小説」 だと言うことができます。 これまで、 そのような小説を書くことのできた小説家は一人もいないからです。 ただ、 それに近い世界に接近できた作家は何人かはいることは確かです。

 その一人がトルーマン・カポーティ。

1 『ティファニーで朝食を』
2 『草の竪琴』
3 『遠い声 遠い部屋』


  (1、 2は映画化されています)

 カポーティとは、 では、 どんな作家なのか? それは、 いずれ分かります。 ただ、 私としては、 カポーティに関しては、 一つしか言うべきことはありません。 それは、 彼がこの世界に一番近い作家だ、 ということです。

 たとえば、 『ティファニーで朝食を』 の中で、 ヒロインが作家志望の青年の小説の習作をコメントして、 「あんたの物語には (中略) ただ、 木の葉のそよぎがあるだけ」 というようなことを言う部分があります。 つまり、 この作品には、 木の葉のそよぐ風の描写しかない、 という訳です。

 こんな風に、 何にも事件が起こらない、 ただ、 風が吹くだけ・・・こんな世界が本当に面白いのだろうか、 ただ、 うざったいだけかも知れない、 と考える新入生の方には、 とりあえず、 村上春樹さんの小説をお勧めします。 (ただし、 『羊の歌』 までの初期群の作品に限ります)。 とりわけ、 デビュー作の、 その名もズバリ、 『風の歌を聴け』 です。

 おそらく、 はじめは、 何も分からないかも知れません。 しかし、 私たちが理解しなければならないことは、 ひょっとしたら、 そのような世界があるのかも知れない、 という、 普段は見えない世界を意識することではないか、 と思っています。

 村上春樹を通して、 カポーティが何となく分かった、 となれば、 後は皆さんの自由です。

いきなり、 オカルトとかポルノの世界に入っても構いません。 キーワードはちゃんと掴んでいるからです。

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歴史と文学との垣根をとり払おう
森茂暁 (日本史)
福田秀一・岩佐美代子・川添昭二他校注
新日本古典文学大系『中世日記紀行集』(岩波書店)

 創造的な人生を送るには、 柔軟な頭脳と大胆な発想とがまず必要でしょう。 身近なことでは、 たとえば卒業論文のテーマ探しや執筆のさい、 このことは決定的に重要です。 常日頃から固定的な物の考え方をしないで、 自分の頭で物事をのびのびと考えてみましょう。 ここでは、 文学の史料は歴史の史料として充分に活用できるということを述べます。

 例えば、 鎌倉初期成立の 『平家物語』、 鎌倉末期成立の『徒然草(つれづれぐさ)』、 南北朝末期成立の 『太平記』などは、 高等学校の段階まではいずれも文学作品として扱われ、 古典の時間に読まれます。 しかし、 このような作品は同時代の歴史を知るための史料として極めて有用で、 価値の高いものです。 今度は歴史の史料として再読しましょう。 むろん原文で。 この場合肝心なのは、一部分ではなく全部を読み通おすことです。 きっと感動が湧きおこります。 古典のもつ不思議な力です。

 さて、 冒頭にあげた書物はそれに類するものです。 日本中世の紀行文 (旅行記) が多く収められています。 中世日本人の旅行意欲をかきたてたのは (すべてが単なる旅行ではありませんが)、 十四世紀の南北朝の動乱を通した人々の地理的視野の広がりだと筆者は考えていますが、 この動乱を契機に国内を旅する人が増えてきます。 そのようななかで、 紀行文が書かれるわけです。 それらは主として国文学のジャンルで研究の素材となってきましたが、 歴史の方ではほとんど無関心です。

 このような紀行文が、 どのような意味で歴史研究に有用かというと、 たとえば、 阿仏尼(あぶつに)の 「十六夜日記(いざよいにっき)」 は、 十三世紀後半 (鎌倉時代) の所領訴訟関係史料としてはもとより、 東海道 (京都と鎌倉をつなぐ基幹道路) の交通史の史料としても使えますし、 また、 連歌師宗祗(そうぎ)の 「筑紫道記(つくしみちのき)」 は、 十五世紀後半 (室町時代) の筑前・豊前国 (福岡県)、 特に博多の人々の生活や周辺の景観をくっきりと描き出しています。 一例をあげますと、 筥崎宮(はこざきぐう)を訪れた宗祗(そうぎ)は博多湾をへだてて、 夕日のなかの可也 (かや) 山 (福岡県糸島郡志摩町) をながめ、 「富士に似たる山」 と感慨深げに書き留めています。 同記は、 大内氏研究のための史料としても貴重です。

 同書では丁寧な脚注や解説が施されていますので、 容易に読み進むことができます。 さあ、 実際この本を手にとって、 読んでみましょう。

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心を鍛える
山内正一 (イギリス文学)
宇野 千代 『天風先生座談』 (廣済堂文庫) 2008年
近藤 信行編 『山の旅』 明治・大正編、 大正・昭和編 (岩波文庫) 2003年
田中 澄江 『山はいのちをのばす』 (青春文庫) 2000年
 明治生まれの女流作家おふたりの、 心と身体の健康をめぐるエッセイを紹介したいと思います。 宇野さん (1897―1996年) も田中さん (1908―2000年) も90歳を超す長寿を全うし、 晩年まで健筆をふるわれた、 人生の達人と呼べる方々です。 宇野さんの本は、 知る人ぞ知るあの中村天風の講話を彼女が編集したもので、 初版は1987年に上梓されました。 両書とも、 心身を賢く管理して人生をいかに豊かに生きるか、 というテーマについて貴重なヒントを与えてくれます。 これから本格的な自己形成を目指す大学生にとって、 貴重な指針を与えてくれるものと信じ、 ここに紹介することにしました。

 田中さんの本には 「老いを迎え討つかしこい山の歩き方」 という副題が付いていますが、 老いない人間はいないわけですから、 若い学生の皆さんにとっても心身を鍛練するうえで有意義な本であることに変わりはありません。 執筆開始時、 田中さんは89歳。 「体力と精神力の強化が、 私が山歩きをすすめる理由」 (147頁) と断言する彼女は、 「苦しい登りの道で出会って、 息もたえだえの身をどんなに花に励まされたことでしょう」 (78頁) と言える心根の持ち主でもあります。 49歳で北アルプスを縦走したあとで大腿骨骨折の手術を二度し、 リハビリの甲斐あって58歳で再び北アルプスを歩けるようになったという、 田中さんの山への深い思いは次の文章に良くあらわれています―「私はキリスト教徒ですけれど、 神道にも関心があります。 (中略) 私は自分が山を歩くのは、 山を通して神が大自然の気を吸わせてくださるのだと感謝している」 (45頁)。 「山は病院」 「山は保養所」 という彼女の言葉 (92頁) の奥行きは深いのです。

 『山の旅』 は、 明治・大正・昭和と三代にわたるわが国の 「山の文学」 の精髄を集めたものです。 「自然と対峙するのではなく、 自然のなかに溶けこんで一つになる」 (大正・昭和編、 451頁) という、 山と日本人の触れ合いのありようを確認できる良質の文章の宝庫です。 田中さんのエッセイと併読することを勧めます

 宇野さんの本は、 独特の心身統一法を創出した巨人、 中村天風の健康哲学の解説・案内書になっています。 「優柔不断に、 ただ、 あるがままに生きているんじゃァ、 長生きは出来ないんだよ。 生活の条件の中の肉体の、 一番大事なことは、 終始一貫、 いかなる場合があっても、 訓練的に積極化して行く。 これで、 心身統一の根本条件が具体化したんです」 (81頁) という天風の言葉は、 「心を鍛えたければ、 まず肉体を鍛えなさい」 と語っているように聞こえます。 しかし、 別所で天風はこうも述べているのです―「健全な肉体は健全な精神によって作られるのであって、 健全な肉体によって精神が作られるのではない。 (中略) 心は心の方から直さないかぎりは強くなれない」 (107―108頁)。 要は、 肉体の鍛錬が先か心のそれが先かではなく、 心身一如の境地を目指す両者の鍛錬こそ真の健康の源なのではないでしょうか。 そこにこそ人生を生きることの妙味が生まれる。 このことを、 田中さんと宇野さんは (そして天風さんも) 教えてくれているようです。 皆さん自身の目で読んで、 この点を確かめていただきたいのです。

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海外に出かけよう!!
則松彰文 (日本史)
 小学校・中学校・高校と、 公立・私立を問わず、 多くの学校が修学旅行に出かける。 もちろん、 行く先は千差万別で、 この小冊子を手にしておられる人文学部の新入生諸君も様々な経験をお持ちのことであろう。 私の三人の子供たちも、 一人はニュージーランドのファームステイ、 一人は北海道スキー合宿、 いま一人は、 国内外の複数の候補地から自由に選択するというものであった。 修学旅行で海外へ渡航した経験をお持ちの方もおられようが、 実際のところ、 これは甚だ少数派である。

 概して、 福岡大学の学生さんは、 こと海外旅行に関しては消極的ないし臆病である。 私が担当する共通教育科目の 「東洋史」 を受講する学生諸君に尋ねても、 多くが 「是非一度、 在学中に海外に行ってみたいです」 との希望表明はするものの、 実際、 卒業までにそれを果たす者は、 思いのほか少数に止まっている。 昨夏、 歴史学科の東洋史ゼミ四年生たちとタイへ、 一昨年の春には同じくシンガポールへ研修旅行に出かけた折にも、 まず最初にやるべきことはパスポート作りという者が大半であった。

 私が学生時代を過ごした1970年代、 海外は、 たとえそれが旅行であっても遥か遠い存在であった。 大学三年生の時に同じゼミの女の子が、 まだ改革開放が始まる前の、 文革終了直後の中国へ研修旅行に行ったのだが、 一週間の滞在費用が25万円と、 当時としては異常な高額で、 私など参加を考えることすら能わぬ身分だった。 もっとも、 今なら全く同じ旅程で十万円もしないのだろうが。

 その時代からすると、 中国に限らず、 状況は一変した。 周知のとおり、 昨年は一時異様なオイルの高騰で、 正規旅行代金に数万円単位のサーチャージが上乗せされていたが、 今ではほぼ終息し、 年があらたまって各旅行社とも昨年のマイナスを取り返すべく、 かなり 「お得な」 ツアーを乱発しているように見受けられる。

 学生諸君は、 このチャンスを逃す手はなかろう。 韓国釜プ山サンなら、 博多港からビートルに乗って日帰り可能。 台湾や上海など、 福岡から札幌に行くよりもかなり早く着く。 ヨーロッパやアメリカ、 オセアニアだと、 さすがに十時間前後の空の旅だが、 それでも半日後には到着可能な距離である。

 臆病風に吹かれたままでは、 依然、 海外はいつまでたっても夢のまた夢…。 21世紀の今日、 やれグローバル化社会だ、 やれ国際化だと声高に叫ばれてはいるが、 自ら直接異国を体験しなければ、 その何たるかなど真の認識を持つことは容易ではないだろう。 日常生活において全くといっていい位に国境というものを意識しない日本に暮らし、 その南の九州という島の福岡という街に埋もれたままでは、 せっかくの若い脳も新鮮な感覚も錆びついてしまうというもの。 バイトで稼いだ大事なお金をブランド品の購入や酒代に費やすばかりでなく、 まことに貴重な自分への投資に回してみてはいかがだろう。 安全、 割安の旅行代理店企画のパックツアーに身を委ね、 学生時代の出来るだけ早い時期に、 遠近の 「異国の風」 に吹かれてみてはいかがだろうか?

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汽車旅の勧め
山縣浩 (日本語史)
 近年交通手段が多様化し、 相対的に鉄道の地位が低下してきたことは周知のことであろう。 このため、 鉄道を目的地に至るための手段としてでなく、 列車に乗ることを目的とする余裕が生まれ、 そのような行為が注目されるようになってきた。 鉄道会社によって様々な乗り放題の企画切符が販売されるようになったこともそれに拍車をかけている。

 この文章は、 列車に乗ることを移動のため、 即ち、 目的地に至るための手段でなく、 乗ること自体を目的とする 「汽車旅」 を勧めようとするものである。 列車に乗って、 行ったことのない土地をゆっくり巡り、 新たに発見すること、 感じることがあれば、 それはきっと若いみなさんの人生にとって大きな糧になると信じる。 また 「用事」 もなく列車に乗るからこそ生まれる楽しさもある。
 内田百閒(ひゃっけん)『新潮文庫・第一阿房(あほう)列車』 新潮社 (初版・1952年)
   ―― 『新潮文庫・第二阿房列車』 新潮社 (初版・1953年)
   ―― 『新潮文庫・第三阿房列車』 新潮社 (初版・1956年)
 宮脇俊三『角川文庫・時刻表二万キロ』 角川書店 (初版・1978年)
   ―― 『新潮文庫・最長片道切符の旅』 新潮社 (初版・1979年)
   ―― 『角川文庫・増補版時刻表昭和史』 角川書店 (初版・1980年)
 列車に乗る楽しさを教えてくれる古典的な入門書が、 百閒氏・宮脇氏の諸作品である。

 高度経済成長期前の1951年に雑誌掲載された百閒氏の 「特別阿房列車」 冒頭の二・三文 「用事がなければどこへも行ってはいけないと云うわけはない。 なんにも用事がないけれど、 汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う。」 (『第一阿房列車』 7頁) は、 汽車旅の精神を表している。 ただ、 一連のシリーズの面白さは、 旅の先々での出会いによる人間観察の妙にある。

 なお、 百閒氏は九州に何度もやってきたが、 八代の松浜軒が段々お目当てになってきている。 このため、 福岡・博多に立ち寄ることはあるが、 当時の博多駅や街の様子はあまり描かれていない。

 鉄道紀行を文学として確立し、 また列車に乗ることの本当の楽しさを教えてくれるのが宮脇氏の諸作品である。 それらの中でも先ず手にしてもらいたい作品を掲げた。

 『時刻表二万キロ』 は、 宮脇氏が出版社に勤めながら、 週末などを利用して国鉄の全線を乗り尽くした記録である。 当時の国鉄の総延長が約二万キロであるため、 この書名となった。 赤字ローカル線廃止以前のことであるので、 氏は筑豊の添田線・上山田線・漆生線・宮田線などにも乗車している。

 その偉業を成し遂げた後、 出版社を退社し、 本格的な取材に基づいて書かれたのが、 『最長片道切符の旅』 である。 「自由は、 あり過ぎると扱いに困る。」 (同書9頁) の一文で始まる本書は、 「制約」 を求めた結果、 「同じ駅を二度通らなければどんなに遠回りであっても片道切符になる」 「一筆(ひとふで)書き切符」 (同書12頁) で最も長い経路を算出し、 最短で2,764・2キロのところを13,319・4キロもの大回りをして、 広尾駅 (今はなき北海道の広尾線) から枕崎駅まで乗車した、 壮大な汽車旅をまとめたものである。 約20年前に読んだ際には、 あまりの馬鹿馬鹿しさに呆れると同時に、 そのエネルギーを羨ましく思った (なお、近刊の 『「最長片道切符の旅」 取材ノート』 (新潮社・2008年) を併せて読むと、 本書の面白さは倍増する。 また、 この 『取材ノート』 に付された後掲の原武史氏の注も絶妙である)。

 『時刻表昭和史』 は宮脇氏の別の面を物語る名著である。 特に第13章 「米坂線一〇九列車―昭和二〇年」 は様々な人によって取り上げられている。

 政治思想史を専門とする原武史氏は 「この本の圧巻」 として宮脇氏が 「ただの鉄道マニアではなかったことを思い知らされる」 (『講談社現代新書・鉄道ひとつばなし』 講談社九五頁) 文章とする。 また作家の関川夏央氏は宮脇氏と同じく米坂線の今泉駅 (山形県長井市) に佇たたずみ、 玉音放送を聞いて 「時は止っていたが汽車は走っていた。」 (『時刻表昭和史』 249頁) という宮脇氏の一文を受け、 「終戦の夏を思わせる風景は何もなかった。 …いまも時は止まっているが、 その質が違う。」 (『汽車旅放浪記』 新潮社132頁) と結ぶ。 そして、 英文学者の小池滋氏は 「昭和20年8月15日を描いた短篇の傑作のひとつ」 (303頁) として鉄道を扱った名作アンソロジー 『鉄道愛 [日本篇]』 (晶文社) に納める。

 右の諸作品によって旅情がかき立てられたら、 実践である。 汽車旅を楽しいものとするための五箇条を記す。

 汽車旅は単に列車に乗っていればよいというものではない。 車中で、 友達とおしゃべりに興じたり、 携帯電話を眺めたりしていては無意味である。

 ① 一人であること。
 ② 携帯電話は持参しないこと。 たとえ持参しても非常事態への備えのためである。 必ず電源を切り、 鞄やリュックサックの下の方に入れておく。
 ③ 晴天時を避け、 曇り・雨・雪の日に乗車すること。
 ④ 大判の時刻表を持参すること。
 ⑤ 一日に列車が往復十二本以下の路線に努めて乗車すること。

 汽車旅の楽しみは、 車窓からの眺めと車内での乗客観察にある。 それを妨げないための条件が①~③である。

 近年は⑤のような地方ローカル線でも汽車旅ブームのためか、 時期・曜日によっては座席が一通り埋まってしまうことがある。 このため、 晴天時にはブラインドを閉めるの、 閉めないのでトラブルが生じる。 不愉快な思いをさせられる。 それを避けるため、 日の射さない日を選ぶか、 北側の座席を占めることを勧める。 しかし、 列車は絶えず方向を変え、 また日が僅かでも射すと、 すぐにブラインドを閉めたがるエセ旅人がいる。

 汽車旅に際して、 私は携帯がなくて困ったことがない (元々持たないので困りようがないが)。 しかし、 時刻表がないため、 不安に思ったことは少なくない。 万が一のことが生じた場合、 例えば、 雨や雪が度を超したために発生する列車の遅れ・運行打ち切りなどに対しては、 携帯電話より、 情報満載の、 特に大判の時刻表が頼りとなる。 それに時刻表は絶対に充電切れしない。

 最後に地方ローカル線での様々な出会いを記す。

 一般にローカル線は自然に恵まれたところを走る。 近年は多額の税金が投入されて、 どこに行っても道路が整備され、 鉄路と平行する。 しかし、 地域によっては鉄路しか敷設されていないところがある。 そして、 列車だけからしか眺めることのできない絶景が少なくない。 また難所では列車は時速10キロ・20キロで走るため、 ゆっくり絶景が楽しめる。

 約六七〇キロにも及ぶ山陰本線は、 殆どの区間日本海に沿って走るが、 海が望める箇所は意外と少ない。 兵庫県の竹野駅・居組駅間は、 確かに鎧駅や餘部(あまるべ)鉄橋など、 有名どころはあるが、 線ではない。 むしろ、 益田駅・東萩駅間の山口県内では鉄路が海にせり出す。 飛沫の掛かりそうな間近、 また崖の中ほどなどで鉄路が海に寄りそう。

 また島根県の宍道駅から広島県の備後落合駅に至る木次線は、 奥出雲に分け入る。 その中で圧巻と言えるのは、 三段スイッチバックの出雲坂根駅からである。 スイッチバックで行ったり来たりして駅を出ると、 八岐大蛇(やまたのおろち)がとぐろを巻いた姿をイメージさせる二重ループ式の奥出雲おろちループ橋を谷の向こうに、 また眼前にしながら、 一両の気動車は山肌に張り付いた鉄路をゆるゆる登っていく。

 また思わぬ光景をローカル線は見せてくれる。

 人家は多く道路を意識して建てられている。 このため、 鉄路に対しては無防備である。 目を凝らすと、 地域の生活や人々が目に飛び込んでくる。 家の中が丸見えで、 すっかり陽気のよくなった頃であるのに居間に炬燵 (こたつ)がしつらえてあったりする。 道路に背を向け、 安心して用を足しているおじさんを列車の真下に見ることもない訳ではない。

 また近年は山間の路線で朽ちた人家や廃校、 荒れ果てた田畑や倒木の夥しい山林を見かけることが多い。 「さようなら○○小学校!」 などと、 半紙に一字一字書かれ、 ガラスの内側に貼られた文字列を捉えることもある。 しかし、 そんな路線でも、 山と川に挟まれた狭い土地に建つ一軒家で、 物干しに掛けられた子供服を目にすると、 何かほっとする。

 地元の人たちの会話が聞こえてくることもある。

 晩秋の芸備線、 新見駅・備後落合駅間である。 お年寄りが病院通いの必要性からやむなく倉敷に住んでいるが、 冬に備えて以前住んでいた備後西城の家の様子を見に行くという話を聞いた。 たまたま乗り合わせたおばあさんどうしであったが、 都会暮らしはねえ…など、 一人の方が降りるまで話は続いた。

 南アルプスを見上げ、 天竜川に沿って走る飯田線では、 小さな花束を持った、 卒業式帰りと思われる女子高校生たちと一緒になった。 明日進学か就職かのため、 東京に発つ話をしていた。 同じように親元を離れるとき、 私が抱いた不安と期待を思い出した。

 高校一年生の間、 私は蒸気機関車の牽引する古びた客車に乗って、 季節ごとに姿を変える椹野(ふしの)川や東西の鳳翩(ほうべん)山、 盆地に広がる田畑を眺めながら、 通学した。 二年生からは気動車になったが、 今思えば、 毎日が汽車旅であった。

 それから数十年経った今日、 学会や出張などで新幹線や飛行機を利用することが多くなった。 その帰路に時間の余裕があれば、 汽車旅を敢行することがある。 しかし、 日常的には改まってすることになる。 確かに時刻表と首っ引きで計画を練ることは楽しい。 その際、 一日に数本の列車しか走らない路線の起点に効率よく辿り着くため、 新幹線や夜行バスを利用することもある。 そして、 列車に乗り込めば、 沢山の楽しみに出会えるが、 堅いシートに長時間座り続けるのはいささか辛くなってきた。

 大学生の頃にいろんな乗り放題切符があったなら…と思う。 その頃であれば、 もう少し鋭い感受性で、 見るもの、 聴くものを受け入れ、 もう少しまともな大人になれていたかもしれないと考える。

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花咲か爺さんを悼むの記
山田英二 (英語学)
 「砂漠の団子(だんご)」 というと、 皆さんはどういうイメージを抱きますか? 砂漠で美味しいお団子を食べる宴会、 とか? はたして、 一体それはどのようなものになるでしょう。

 毎年、 世界中の広大な大地が、 土壌浸食により砂漠化しています。 ケニアなどの国の状況は特に深刻です。 このまま砂漠化が進み、 地球の表土が更に僅か三%以上失われると、 人類は生きながらえることは出来ないと言われています。 これに対して、 私たちに何かできることはないのでしょうか。 実は、 この問題の大部分は現代的な集約農業方法に起因しています。 ここで 「自然農法」 というキーワードが出てきます。

 この自然農法で世界的に有名な (国連で演説までしたという) 福岡正信さんは、 砂漠を自然に再生できる種を植えるというユニークな試みを提唱した人です。 彼が用いたのが、 「粘土団子」 なのです。 それは、 小さな粘土玉にバランスよく、 注意深く選んだ、 百種類以上にも及ぶさまざまな種子を埋め込んだもので、 鳥や、 小動物や、 虫から種を守ります。 また、 粘土に埋め込むせいで、 種が風で飛ばされることも、 過乾燥することもなく、 大雨が降っても流されてしまうこともありません。 この粘土玉は80%が粘土、 20%が腐葉土のため、 滋養豊かな温床となります。 朝露が粘土玉の下部に集まり、 その水分により、 種子は発芽できるのです。

 この粘土玉はソマリアやギリシャにある不毛な砂漠地で、 実際に緑を再生するのに活躍してきました。 そして今後、 この特別な粘土玉は軽飛行機などを利用し、 世界のあちらこちらの砂上に更に撒かれる運命にあります。

 現代の花咲か爺さんとも言うべき、 粘土玉アイディアを生み出した福岡正信さんは、 去年 (2008年) の夏に95歳で亡くなられました。 仙人の如き風貌からして、 もっと長生きして下さると思っていたのですが、 残念です。 愛媛県伊代市で、 若い時からずっと大地と共に生きてきた人で、 その実に独特な自然農法哲学は、 皆さんの目を驚きで見張らせるに違いありません。 彼は 「35年間耕さず、 草もとらず、 肥料もやらず、 消毒もせず」 に田んぼを作り、 米と麦とを毎年連作してきました。 (「だめじゃん、 そんなの!」 と今あなたは思いませんでしたか? 実は、 私も始めはそう思いました。) そして、 その結果は?

 ご本人曰く、 「一反あたり、 10~13俵、 おそらく日本一の収穫量であろう。」

 どんな魔法のやり方かというと、 ただ、 稲刈り前の田んぼにクローバーの種と麦をまく。 稲を刈り取ったら、 籾もみをまいて稲刈り後の長いわらもそのまままき散らすだけ、 というのです。 しかしこの 「人間は、 何もしなくていい農法」 の実践者の頭の中には 「人間革命というのは、 わら一本からでも起こせる」 という大胆不敵な思索があったのです。 それが、 砂漠に今も発芽の時を待つ、 無数の粘土玉に結実しました。

 さあ、 もうこの花咲か爺さんには会えませんが、 彼の書いた本をどれでもいいから手に取ってぱらぱらと捲ってみませんか。 世界の砂漠でお団子、 という地球的宴会気分が味わえるかもしれませんよ。

推薦図書 『(自然農法) わら一本の革命』 『自然に還る』 『「自然」 を生きる』 など (いずれも春秋社) 「現代の老子」 こと福岡正信著

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岡村敬二 『江戸の蔵書家たち』 (講談社選書メチエ71)
山田洋嗣 (日本文学)
 昨年、 江戸後期の和学者、 小山田与清のことを調べていて大変面白かった。 本当はここで与清の 「擁書楼日記」 をすすめたいのだが、 いささか特殊にすぎるかと思いなおしてこの本にする。

 江戸時代になると書物の流通が広くさかんになり、 出版も多くなって、 自然大勢の読書家や蔵書家、 また著作や出版に志す者、 分類や目録を作る者、 あるいは索引を編もうとする者が出てくる。 岡村敬二のこの本はその人々の群像とそのなさんとしたところをいきいきと描き出してみごとである。 また、 それがこの時代の文化のうねりを描くことにもなっている。

 ことに面白いのは、 冒頭の小山田与清とその蔵書に群がる人々の様子である。 与清は蔵書のために蔵三つを建て、 五万巻を収めたというが、 彼らを動かすのは、 すべての書物を集めたい、 すべての書物を読みたい、 すべてを分類したい、 という静かな狂気である。 そのために彼らは集いまた離れつつ、 本を求め、 購い、 貸借を、 輪読を、 抜書を倦まずにくり返すのである。

 私は、 実は小山田与清という人間をあまり好きになれないし、 その著作が面白いとも思わない。 「行為」 が面白くて、 「結果」 が面白くないのは彼の特徴である。 しかし、 この様子を書くのに岡村が主な資料として使った 「擁書楼日記」 は、 その様子が日々記録されていて、 実に面白いのである。

 なお、 こちらを読みたいと思う人がいるかもしれないから書いておくと、 「擁書楼日記」 は明治45年に出された 『近世文芸叢書』 の第12巻に入っている。 ただし、 活字化するにあたっての間違いが所々にあるから注意しなければならない。 気になる人は、 早稲田大学図書館のウェブ・ページに与清自身の自筆本の写真版が公開されているから、 それを見るといいと思う。

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『カフカ・セレクション』 1~3巻 (ちくま文庫)
山中博心 (ドイツ文学)
 カフカは1883年プラハに生まれた20世紀ドイツ文学を代表する物語作家です。 上から読んでもカフカ、 下から読んでもカフカですが、 彼の作品は読み方によってまったく異なった読みが可能です。 それは心理学実験で使われる 「ルービンの壷」 や有名なエッシャーの騙し絵に似ています。 つまり最初の思い込みによって視点が固定され自由が奪われるわけです。 「そのため」 語り手が誰の眼から語っているかが大きな問題になってきます。 語り手の罠にはまってしまうと迷路のような世界で身動きが取れなくなり、 カフカの世界は 「非現実的」 だとか 「超現実的」 だとか決めつけてしまいがちです。 しかしカフカの世界は極めて 「現実的」 という意見も一方にあります。 そうした読み手の意見の対立は作品の中の登場人物の対立に重なります。 それ故そこでの問答が論理の空転であるかと思えば、 突然論理が切断されて終わる事も多々あります。 これって現実に生きている生活の中でしばしば出くわす事ではないですか。 その意味では 「チョー美味」 や 「チョー可愛い」 と同じようにカフカの作品は 「チョー現実的」 だと思われます。 四年間の成績が 「可」 「不可」 が多くならないためにもカフカを読んで下さい。 多様なものの見方が出来るようになること請け合いです。 特にお薦めしたいものは第一巻の 『あるたたかいの記』 の中の 「祈る男との会話の開始」、 第二巻の 『天井桟敷にて』、 そして何と言っても第三巻の 『変身』 です。

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考える力のために―パスカル『パンセ』のすすめ―
輪田裕 (フランス文学)
 世はIT時代。 情報を手にいれるための道具はますます便利になって、 音楽も、 かつてのカセットテープのためのウォークマンなど全く比較にならないほど、 音質も容量もすぐれた機器が出現しています。 昔の話ですが、 LPレコードで音楽を楽しんでいた私には、 針が飛ばないように身動きにも気をつけながら耳を澄ましていたころのほうが、 今よりも音楽を聴いたという実感があったような気がします。 語学も、 いまや電子辞書でらくらく単語をひくことができます。 でも便利になって語学は上達したのでしょうか。 確かに同じ労力をはらっていれば、 かつて以上に上達しているに違いないのですが。

 さて、 ここに紹介するパスカルの 『パンセ』 は文庫本に収まるほどの量にすぎません。 それも断片の寄せ集めなので最初から最後まで通して読むことが求められるものではありません。 一つの断片は、 短いものなら数秒で、 長いものでも15分もあれば読み終わる長さです。 その断片のどこから読んでもいいし、 どこで終わってもいい。 仮に意味を取り違えてしまっても、 誤解も一つの読み方なのだと思わせてくれる一冊です。 では、 気楽な随筆なのかといえばそうではない。 簡単に分かってしまうものは少ない。 何度も読み返すこと、 行ったり来たりすること、 さまようこと、 そうしているうちに少しずつ理解できてくる。 はっとする言葉に出会ったり、 反発を感じたり、 つまり 「こころ」 に何かがひびくとき、 それがパスカルの声が直接聞こえたときです。

 考える力、 などというといかにも論理的思考を意味しているように思うかもしれませんが、 実は 「さまようこと」 なのではないか、 と思います。 あるいはそのように 「さまよう力」 といってもいいでしょう。 さまようのは手引きとしてのマニュアルがないからです。 わたしたちの生きる世界にはマニュアルはありません。 たとえマニュアルがあったとしても、 それはすでに 「今」 には通用しないものです。 「今」 を生きるためには、 さまよいながら自分で作るマニュアルが必要です。 つまり、 自前のマニュアルです。

 『パンセ』 を読み、 自前のマニュアルを作ることができるように、 さまよう力をつけませんか?

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Ⅱ. 探索の勧め
お祭り見学の勧め
白川琢磨 (文化人類学)
 主に福大に入学する皆さんは、 九州か中国・四国出身の人が多いだろうから、 「もう一度」 お祭り見学の勧めと言うべきだろう。 幼い頃から少なくとも何回かは近所の神社や寺のお祭り、 あるいは民俗行事に参加した経験があるかもしれない。 だが年を経て自然と足が遠ざかり、 大学受験を控えてお祭りなどに行っている場合じゃないと思っていたかもしれない。 しかし今、 改めて行って欲しいのである。 そこに集う人々が何を語り、 何を楽しみにしているのか、 またどのような神仏に何を祈り、 何故に来るのか、 じっくり耳を傾け、 しっかりと経験して欲しい。 そのようにして君らにはまず立派な 「ネイティヴ」 に成って欲しい。

 大学に入って 「文化」 を研究するのであれば、 そうした君らの経験を再度 「他者」 の視線から捉え直すことになる。 しかしそれはそれ程難しいことではない。 近代人類学は、 「異文化」 に 「他者」 として参入することを業としてきた。 だが人類学者という 「他者の語り」 におとなしく耳を傾ける 「未開社会」 などもう世界の何処にもありはしない。 世界各地でネイティヴたちは、 しっかりと自らの文化を語り始めたのだ。 その力強い語りを前に、 近代人類学という巨人はしばしその歩みを留めているのである。 西欧の人類学者の殿 (しんがり) に連なってきた日本の人類学にとって、 その影響は深刻である。 我々は一体何者なのか? 日本は西欧と同じく研究する側なのか、 それとも異文化として研究される側なのか? 答えはその両方であろう。 研究し、 そして研究されるのである。 ただし、 前提がある。 「ネイティブとして」 である。 日本のアフリカ研究の草分け、 和崎洋一氏は、 亡くなる前に 「先生がもう一度生まれ変わって研究するとしたら何処でしょうか?」 との問いに躊躇なく 「日本」 と答えたそうである。 ポストモダンの時代に生きる我々は、 大和崎が二つの人生に分けた課題を一時に果たさねばならない。 そのためにはまず我々はネイティヴに成り、 ネイティヴを磨かなくてはならない。

 昨年は一年かけて 「鬼」 というネイティヴの産物を追いかけてきた。 写真家の清水健さんと共同で文藝春秋の平成19年1月号にグラビア特集が掲載されているので関心のある人は見て欲しい。 天念寺の修正鬼会を撮り終えた後、 国東半島の宿で夜遅くまで語り合ったが、 「いやーそれにしても九州は奥深い凄い所ですね」 と感に堪えたように呟いた。 ナショナルジオグラフィックの撮影で世界中を飛び廻り、 今回の特集では全国を撮影して歩いた清水さんの言葉である。 それに励まされて私は思わず書いてしまった。 「九州は鬼の宝庫である。」 実は鬼だけではない。 ネイティヴを育成し醸成する豊かな土壌に恵まれているのである。 祭や民俗芸能はそうした豊かな土着の集合表象に触れる絶好の機会である。

 今年の暦も既に動き始めている。 正月7日夜、 久留米大善寺の大松明の灯と煙に咽びながら闇夜に紛れる鬼を追うことから始まり、 14日には志賀海神社で大宮司四良、 別当五良ら若者8人が渾身の力を込めた歩射の力強い矢鳴りを聞いた。 やがて節分、 さらに 「松会」、 桜の開花の頃から駈仙 (ミサキ) が活躍する勇壮な神楽が始まる。 そして汗ばむ季節になると各地で 「山笠」 の声が聞こえ始める。 出身地は元より、 福岡に来たら近郊の祭に足を運んで欲しい (福岡民俗芸能ライブラリー http://www.fsg.pref.fukuoka.jp/e_mingei/index.asp)。 必ず、 何か得るものがあるはずである。 文字に書いてあるものだけが価値があるという偏見を捨て、 祭や芸能という生きた教材を是非経験して欲しいものである。

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博物館へのいざない
武末純一 (考古学)
 博物館へ行ったことがあるだろうか。 人文学部の新入生ならば、 すでに一つか二つはあるだろう。 しかし大学生には大学生なりの見方がある。 行ったことのない人はまず特別展を見に行くのが良い。

 私の専門は考古学、 モノから歴史を考えていく学問である。 以下は、 博物館などでひらかれている考古学関係の特別展へのささやかな招待状である。

 特別展は、 秋の文化シーズンにあちこちの博物館や資料館で開かれる。 このごろは夏休みや春休みに開くところも増えてきた。 内幕をいえば、 特別展を開く → お金がかかる → その分だけ多くの入館者が欲しい (でないと来年の予算にもひびく) → 学生が休みで大人も活発に動く夏や春に開こう、 という発想がほとんどだが。 でも特別展は楽しい。

 楽しさの一つは、 それまで写真や図でしかみたことのなかった実物に会えること。 せっかくの機会だから、 上から、 下から、 横から、 斜めから、 じっくりと眺めて、 どのように作られ、 どんなふうに使われたかを想像しよう。 もちろん、 図録や横にそえられた解説文に答えがのっている場合もあるし、 それを理解するのも大事だが、 それよりも大切なのは、 答をうのみにしないで自分で考えること、 自分の疑問をもつこと。

 二つ目は、 あちこちに発掘品が一か所に集められていることである。 それぞれの保管場所に行って見せてもらうととんでもない金額になるから、 一見高そうに見える特別展の料金も実は安いものである。

 それと、 いつもは全く別のところにあるモノ同士がすぐ横に並ぶから、 比較ができる。 これはけっこう大事である。 何回もいったりきたりして見比べ、 「似た形だけどここが違うな。 これは出たところが違うからかな、 それとも作った時代が違うからかな」 「へー、 こんなに遠く離れて出ているのにそっくりじゃないの」 など、 自分だけの発見ができればしめたものだ。

 三つ目は、 発掘の記録は報告書という形で本になるが、 手に入りにくいし、 入ったとしても一般の人が読み通して理解するのはけっこうシンドイ。 でも博物館では、 そうした成果をできるだけ噛みくだいて、 どんな発見があったのか、 何がわかったのか、 どういう問題が出てきたのかを、 実際にモノを示しながら説明してくれる。

 ちょっと変わった楽しみ方もある。 学芸員になった気分で。 この照明は展示品のどこを強調 しているのか。 自分だったらこういう角度でここをみせたい。 このパネルはなぜこの大きさでここにかけられているのだろう。 展示品をきわだたせるためにどんな形や色の台を使っているのか。 なぜこの展示品とあの展示品の間がこの位空いているのか、 などなどなど。

 そう、 ここまでくれば、 もう特別展だけじゃなくて常設展でも十分に楽しめることがわかってくる。 まずは福岡県内あるいは故郷の博物館だ。

 昔の博物館は、 展示品がケースの中に重々しく鎮座し、 いかにも 「見せてやる」 といった感じが強かったが、 いまでは〈さわる〉〈作る〉〈使う〉などの体験コーナーも整いつつある。 充実したミュージアムショップや市民ライブラリー、 しゃれたレストランもけっこう多い。 講堂や入り口のホールで演奏会を開くところも出てきた。 〈博物館は古くさい〉というイメージは消え始めている。

 自分の知の世界を広げるために博物館をのぞき、 どれでもいいから、 自分の心にとまった展示品をスケッチする。 そんなすてきな時間を作ってみたらどうだろう。

 なお老婆心から蛇足を一つ。 ゆめゆめ月曜日のデートの場所に博物館や美術館は指定しないように。 日本では月曜日は休館日なのだから。

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Ⅲ. 書くことの勧め
「レポート」が書ける人になろう
上枝美典 (西洋哲学史)
 ここだけの話、 レポートが書ける日本人はとても少ないのです。 ほとんどの人は、 感想文しか書けません。 しかし、 感想文とレポートの違いは、 とても大切です。 これがわかっているかいないかで、 人間の質が違うといっても言い過ぎではありません。 ちょっと言い過ぎかも知れませんが。 しかし、 そのくらい大切な違いであると私は言いたい。

 はっきり言って、 大学で勉強するということは、 「感想文しか書けない人」 から 「レポートが書ける人」 にレベルアップすることなのです。 知らなかったでしょう? しかし、 知らなかったからといって、 恥じることはありません。 なぜなら、 この違いを教えるシステムが、 日本ではまだちゃんとできていないからなのです。 つまり、 日本で通常の教育を受けて、 高校を卒業しただけの人は、 まだこの違いを習っていないのです。 なんとなく、 大学に進学してよかったな、 という気分になってきたでしょう?

 では、 感想文とレポートとの違いは何でしょうか。 もったいぶらずに早く教えてくれ、 というあなたの顔が目に浮かぶようです。 ですが、 それは秘密です。 というのは冗談ですが、 秘密にしたいほど、 それは単純なことなのです。 ひとことで言って、 「感想文」 は、 自分が感じたことや考えたことを、 そのまま書いたものです。 あれっ? それって、 いいんじゃないの? という声が聞こえてくるようですね。 たしかに、 そういう感想文を書かせることに、 ある一定の教育効果があることはたしかでしょう。 そういうのは、 「作文」 と呼ばれていて、 日本の教育界ではいろいろとややこしいことがあるみたいです。 しかし、 断言しますが、 大学で身につけるべきことは、 「よい作文」 を書く力ではなくて、 「ふつうのレポート」 を書く技術です。 「技術」 と言うと、 なにか職業訓練所みたいですが、 よい作文を書けるか書けないかは、 ある程度、 「文才」 と呼ばれる文学的才能で決まりますが、 「ふつうのレポート」 は、 書き方さえわかったら、 だれでも書けるのです。 なんといっても、 「ふつう」 でいいんですから。

 なにか話があっちこっちに飛んでいっこうに要点を得ない。 おまえはレポートの書き方がわかっているのか、 という叱責の声が聞こえてきそうですから、 そろそろ本題に入ります。 「作文」 や 「感想文」 でない 「レポート」 とは、

 1. あたえられた問い、 あるいは自分で立てた問いに対して、
 2. 一つの明確な答えを主張し、
 3. その主張を論理的に裏付けるための事実的・理論的な根拠を提示して主張を論証する

という三つの要素がそろっている文章のことです。 おっと急いで付け加えますが、 この定義は、 私があたえたものではありません。 次の本からの抜粋です。

戸田山和久 (2002) 『論文の教室:レポートから卒論まで』
(NHKブックス) 定価:本体 1120円+税


 私がここに書いていることは、 ほとんどが、 この本からの受け売りです。 責任転嫁をするわけではないですが。 ともかく、 レポートや論文の書き方を教える本はたくさんありますが、 まず一番はじめに読むべき本はこれです。 どのようにすれば、 この三つの要素がきっちりそろった文章を書くことができるのか、 懇切丁寧に教えてくれています。

 この本を読んで、 「うひゃあ。 みんなこんなことを考えて論文を書いていたんだ。 まずい」 と焦った人は、 巻末にある 「おすすめの図書など」 を見て頑張って追いつきましょう。 たとえば次の本などは、 安いのにとてもいい本です。 どういう経緯で、 自分が 「レポート」 の書き方を学ぶことができなかったのか、 よくわかります。

木下是雄 (1981) 『理科系の作文技術』 (中公新書) 定価:本体700円+税

「理科系の」 というタイトルは、 気にする必要はありません。 むしろ文系・理系を問わず読むべき本です。 あなたが文章を書こうとするときに、 「ひとの心を打つ」 「自分の気持ちをすなおに表現」 「起承転結をしっかり」 「天声人語の文章のように」 とかいう言葉が頭に浮かんでくるのであれば、 大急ぎでこれらの本を読んで、 「文章を書く」 「頭を使う」 ということについての認識を改めてください。 でないと、 あとで大変なことになりますよ。

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Novis 2009
― 新入生のための人文学案内 ―

印 刷 ・・・ 平成21年3月25日
発 行 ・・・ 平成21年4月1日
発行者 ・・・ 福岡大学人文学部
印刷所 ・・・ 城島印刷株式会社