Novis 2010
Novis 2010 目次
- 人文学部新入生の皆さんへ ・・・・・ 則松彰文(人文学部長)
Ⅰ. 読むこと、見ること、聴くことの勧め
- 映画の字幕 ・・・・・ 間ふさ子(中国近現代文学)
- イメージ・リテラシーを高めよう ・・・・・ 浦上雅司(西洋美術史)
- シネ=マンガ ・・・・・ 遠藤文彦(フランス文学)
- おすすめの本 ・・・・・ 大嶋仁(比較文学)
- 英語教師を志す皆さんへ ・・・・・ 大津敦史(英語教育学)
- 先人を知ろう ・・・・・ 甲斐勝二(中国文学)
- 江戸時代を見なおそう ・・・・・ 梶原良則(日本史)
- たかがクジラのことでそんなにホエールなよ! ・・・・・ 片多順 (文化人類学)
- 「よい子」 ってどんな子? ・・・・・ 勝山吉章 (教育史)
- 中国の歴史(全12巻) ・・・・・ 紙屋正和 (東洋史)
- 学問の領域に捉われない読書の勧め ・・・・・ 鴨川武文 (地理学)
- 写真の青空 ・・・・・ 桑原隆行 (フランス文学)
- 「類語の辞典」 (上下) (講談社学術文庫) ・・・・・ 小林信行 (哲学)
- Tips for Learning English ・・・・・ Stephen Howe (英語学)
- 『坊ちゃん』 を読み直す ・・・・・ 高木雅史 (教育史)
- 「しあわせ」 ってどんなこと? ・・・・・ 高田熱美 (教育学)
- 視野を広げて考えてみよう ・・・・・ 高妻紳二郎 (教育行政学)
- アゴタ・クリストフの 『悪童日記』 ・・・・・ 高名康文 (フランス文学)
- 中国社会に関するものをすこし ・・・・・ 田村和彦 (文化人類学)
- 読んで楽しく、 作っておいしい料理の本 ・・・・・ 辻部大介 (フランス文学)
- ベルク 『日本の風景・西欧の景観』 ・・・・・ 冨重純子 (ドイツ文学)
- お気に入りの本 ・・・・・ 永井太郎 (日本文学)
- 大学生活における悩みとどう向きあうか ・・・・・ 平兮元章 (社会学)
- 犬がどのように考えているか、をどのように考えるか ・・・・・ 平田暢 (社会学)
- 私のヒーロー・プロレスラー力道山 ・・・・・ 広瀬貞三 (朝鮮史)
- 名著たち ・・・・・ 藤本恭比古 (フランス文学)
- 〈人間学〉のススメ ・・・・・ 馬本誠也 (イギリス文学)
- カネにならないものの価値 ・・・・・ 道行啓爾 (イギリス文学)
- 『きみが読む物語』 ・・・・・ 毛利潔 (フランス文学)
- 歴史と文学との垣根をとり払おう ・・・・・ 森茂暁 (日本史)
- 心を鍛える ・・・・・ 山内正一 (イギリス文学)
- 異国の風に吹かれてみよう ・・・・・ 則松彰文 (日本史)
- 汽車旅の勧め ・・・・・ 山縣浩 (日本語史)
- 花咲か爺さんを悼むの記 ・・・・・ 山田英二 (英語学)
- 岡村敬二 『江戸の蔵書家たち』 (講談社選書メチエ71) ・・・・・ 山田洋嗣 (日本文学)
- 推薦図書 ―五感を研ぎ澄ませて― ・・・・・ 山中博心 (ドイツ文学)
- 考える力のために ―パスカル 『パンセ』 のすすめ― ・・・・・ 輪田裕 (フランス文学)
Ⅱ. 探索の勧め
- 「少年よ大志を抱け」 と言えなくなった世の中になってしまったのかなあ ・・・・・ 青木文夫(スペイン語)
- お祭り見学の勧め ・・・・・ 白川琢磨 (文化人類学)
- 博物館へのいざない ・・・・・ 武末純一 (考古学)
Ⅲ. 書くことの勧め
- 「レポート」が書ける人になろう ・・・・・ 上枝美典 (西洋哲学史)
Novis 2010 本文
- 人文学部新入生の皆さんへ
則松彰文 (人文学部長) - 今日わたしたちが生きている、 この世界に対しては様々な評価が与えられています。 近代化社会、工業化社会、 物質文明社会。 近年では、 情報化社会やグローバル化社会といった評価をしばしば眼にします。 これらは、 いずれも現代社会のもつ象徴的一面を見事に表しています。
例えば、情報化社会について考えてみましょう。 ここ数年におけるパソコン、 インターネットの世界的普及によって、 情報の絶対量が格段に増加したのみならず、 その伝達スピード・伝達範囲が決定的に増進・拡大しました。 しかし、 多量の情報を受け取る私たちの側、 とくに私たちの知識量や視野は、 以前に比べ明らかに減退しています。 換言すれば、 情報量の増加とともに、 私たちは情報に流され先入観や予断を持ち、 客観的で冷静な判断が難しくなってきていると言えるのではないでしょうか。
ここで問われるのが、 「教養」 です。 教養とは、 単なる知識量を示す言葉ではありません。 深い知識に裏打ちされた人間の品位ある言動を表す言葉なのです。 そのような教養は、 幅広い知識、 豊かな経験と感性、 そして深い思索の中で徐々に育まれるものでしょう。
この小冊子は、 新入生諸君に対する、 人文学部の諸先生方からのアドバイス集です。 先人の声に、 皆さんしばし耳を傾けてはみませんか?
Ⅰ. 読むこと、見ること、聴くことの勧め
- 映画の字幕
間ふさ子 (中国近現代文学) - 外国語映画を見るときになくてはならないものが字幕です。 映画では目からの情報だけでなく、 言葉や音楽など耳からの情報も大きな役割を果たしていますが、 言葉が外国語だと何を言っているのかわかりませんよね。 それを解決する主な方法は吹き替えか字幕ですが、 日本では字幕が主流のようです。 字幕翻訳監修業という職業の草分けである清水俊二さんの 『映画字幕 (スーパー) 五十年』 や 『映画字幕 (スーパー) の作り方教えます』 を読むと、 日本における字幕スーパーの歩みを知ることができます。
字幕と聞いてすぐに思い浮かぶのが、 この清水俊二さんや戸田奈津子さんなど字幕翻訳者の存在です。 語学を志す人で字幕翻訳者になりたいと思わなかった人は少ないのではないでしょうか。 自分の作った字幕がなければ観客たちは作品を十分に鑑賞できないのです。 しかも一行わずか10文字で台詞のエッセンスを表現しなければなりません。 責任は重大ですが、 やりがいもあるというものでしょう。
しかし、 翻訳者だけでは字幕は出来ません。 字幕を作るにはタイトルカードに字を書く、 フィルムに字を打ちこむなど、 技術者の熟練の技が不可欠です。 字幕がどのように作られるのかを教えてくれるのが、 神島きみ 『字幕仕掛人一代記 神島きみ自伝』 です。 この本を読むと映画が工業技術に支えられた芸術であることがよくわかります。
現在では、 デジタル映像であれば、 素人でも専用のソフトを使って字幕制作にトライすることができます。 東アジア地域言語学科では、 字幕制作ソフトを使って1950年代、 60年代の中国映画・韓国映画の秀作に日本語字幕をつけるという作業を、 数年前から授業や課外活動で行っています。 これまでにみなさんの先輩たちが、 中国映画 『白毛女』 ('50) 、 『家』 ('56) 、 『五朶金花』 ('59) 、 韓国映画 『青春双曲線』 ('56) などに字幕をつけました。
戸田奈津子 『字幕の中に人生』、 太田直子 『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』 など、 字幕翻訳のエピソードを綴った本は何冊かあり、 いずれも興味深いものですが、 読むだけではなく、 みなさんもぜひ字幕制作にチャレンジして、 プロの翻訳者たちが縷々語る字幕翻訳の神髄 ―限られた言葉で限りないイメージの世界へ観客を誘う醍醐味― の片鱗に触れてみませんか。
清水俊二 『映画字幕 (スーパー) 五十年』 早川文庫、 1987年
清水俊二 『映画字幕 (スーパー) の作り方教えます』 文春文庫、 1988年
神島きみ 『字幕仕掛人一代記 神島きみ自伝』 パンドラ、 1995年
戸田奈津子 『字幕の中に人生』 白水Uブックス、 1997年
太田直子 『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』 光文社新書、 2007年
- イメージ・リテラシーを高めよう
浦上雅司 (西洋美術史) -
高階秀爾 監修 『まんが西洋美術史』 (美術出版社)
辻 惟雄 監修 『まんが西洋美術史』 (美術出版社)
E・H・ゴンブリッチ 『美術の物語』 (ファイドン社)
D・アラス 『モナリザの秘密 ―絵画を巡る25章』 (白水社)
夏目房之介 『マンガはなせ面白いのか』 (NHK出版)
ダナ・アーノルド 『一冊でわかる美術史』 (岩波書店)
「美術鑑賞の作法」 というと、 いささか堅苦しく取り付きにくいかもしれませんが、 イメージが氾濫する現在、 「イメージ・リテラシー (イメージの見方)」 について考えてみるのは決して無駄ではありません。
皆さんの中で、 テレビを見ずに一日を過ごす人は少数派でしょうし、 図版や写真が含まれていない本も今ではあまり見かけません。 小説は読まないけれどマンガは読む、 という人もいるでしょう。 街角で見かけるポスターやチラシはもちろん、 グラビア雑誌などでは、 もはやイメージが主体で文字が補助的なものとなっています。
そのような現代において、 仕事や勉強で 「コンピューター・リテラシー」 が必要不可欠となっているように、 「イメージ・リテラシー」 も大切です。 マンガや映画、 ポスターや絵画など、 様々なイメージの中から、 自分の感性に任せて気に入った作品を見つけるのは、 感受性を高めるという意味で、 もちろん、 素晴らしいことですが、 そのイメージがどのような文化的背景で制作され、 どのような意義を持っていたのか興味を持って考えてみれば、 あなたの 「感性」 はもちろん 「イメージ・リテラシー」 もいっそう豊かになります。
優れた文学者の多くが、 過去の作品を見事に読みこなしているのと同様に、 優れた美術家も、 制作者として際だっているだけでなく、 鑑賞家としても一流でした。 ラファエッロやミケランジェロはイタリア・ルネサンスを代表する美術家ですが、 彼らは先達の芸術によく学んで自らの芸術を作り上げました。
現代美術においても、 過去の遺産は、 アーティストたちに強い刺激を与え続けています。 絵画や彫刻といった伝統的な美術ではなく、 皆さんにとって身近な領域のことを考えてみても、 映画やマンガに見られる 「リメイク」 や 「パロディ」 は過去の遺産を現代に活かすこころみです。 映画 《バットマン》 や浦沢直樹のマンガ 《プルート》 など、 近年でもそうした例は沢山あります。
皆さんにとって、 普段まとまった文章を書く機会は限られているかも知れませんが、 小説やマンガなど読んだことのない人はまずいないでしょう。 この場合、 「制作」 よりも 「適切な鑑賞の仕方」 を心得ているほうが大事です。 視覚芸術についても同様で、 油絵を描いたことのない人でも、 展覧会でそうした作品を目にする機会はありますし、 映画が好きで何本でも見る人でも、 実際に映画を作ってみる人はごく少数でしょう。 「文学作品の上手な読み手」 を志すのと同じような気持ちで、 「イメージの上手な目利き」 になることを目指してみてはどうでしょう。
伝統的な美術史の領域で、 その手がかりになりそうな本を幾つか挙げてみました。 活字が苦手な人には冒頭の二冊をとりあえず勧めます。 「イメージによってイメージを語る」 という、 ある意味で画期的な試みの著作です。
ゴンブリッチとアラスの本はどちらもイメージ解読の名手が、 西洋美術の名品の見方について、 一般の人々向けに書いた本です。 美術に少しでも興味のある人に推薦します。
また、 夏目房之介の本によってマンガの表現法について多少とも知っておけば、 新鮮な気持ちでマンガを読めるでしょう。
最後の一冊はより専門的に現代の美術史について概観するのに適切な本です。
もちろん、 本を読んで 「理論」 を学ぶだけでなく、 美術館や博物館に行って鑑賞を 「実践」 することも忘れないでもらいたいと思います。 福岡市内だけでも、 福岡市美術館、 県立美術館、 市博物館、 福岡アジア美術館がありますし、 近郊には国立博物館、 石橋美術館、 北九州市立美術館などあり、 年間を通して、 さまざまに興味深い展覧会を行っています。 太宰府にある国立博物館ならば、 福岡大学の学生であれば、 学生証の提示によって、 いつでも割引料金で入館できます。 それ以外の美術館・博物館も学生料金の設定があります。
最近ではどの美術館も鑑賞をたすけるいろいろな工夫をしていますから、 大学生の間にぜひ、 出来るだけ多くの美術館・博物館を訪れてみてください。
- シネ・マ・ンガ 2006―2007
遠藤文彦 (フランス文学) -
『ストロベリーショートケイクス』 魚喃キリコ作・矢崎仁司監督 (06・9)
『天然コケッコー』くらもちふさこ作・山下敦弘監督 (07・8)
『自虐の詩』業田良家作・堤幸彦監督 (07・10)
学生諸君にマンガを云々するなど釈迦に説法も甚だしい。 そこにシネマを持ち込んでも事態にさほど変化はないだろう。 それでも日本における最近のマンガとシネマの数あるナイスコラボレーションから最新の三作品を紹介したい。 そうしてみたいと思わせる作品だから。 (数字は公開年月)
『ストロベリーショートケイクス』 は魚喃キリコ作品としては 『Blue』 (安藤尋監督 03・3) に続く映画化第二弾。 『Blue』 は二人の女子高生が染め上げるシンプルでピュアな色彩空間からなるが、 それが 『ストロベリー』 では二十代の女性四人が織り成す重層的空間へと展開される。 バイナリーワールドの単なる並列でないロマネスクな時空への飛躍がそこにある。 原作にない細部 ― 紛失した 「絵」、 なにげに放り込まれた 「トマト」 ― も効果的。
『天然コケッコー』 は 『ジョゼと虎と魚たち』 (犬童一心監督 03・12) 『メゾン・ド・ヒミコ』 (同05・8) の渡辺あやが 「完璧な」 原作を相手に脚本担当。 演出は『リンダ リンダ リンダ』 (05・7) の山下敦弘。 あの文化祭映画にも魅せられたが 『天コケ』 が映す技巧の果ての 「天然」 の妙、 その澄明な演出には文字通り感服。 なるほどこれは原作者に 「奇跡」 と言わしめた作品だ。 作家主義の閉塞を自然体で突き破るあの 「めがね男子」 の逆説的天才ぶりにシャポー。 彼とは 『リアリズムの宿』 (つげ義春作04・4) 以来のくるりのエンディングも味がある。
『自虐の詩』 のイサオ&幸江は 『罪と罰』 のラスコーリニコフ&ソーニャ 『死の棘』 の敏男&美保 etc と連綿と続く自虐カップルの系譜に属す。 かくして元来自虐は至純の愛に由来し自虐者とは幸福者 (幸江) の謂いであったことをこの作品は想起させる。 となりのおばちゃんにもあさひ屋のマスターにも自虐ぶりが伝染してゆくさまは壮観。 シネマの方は懲りすぎの感が否めない。 とにかくマンガ (傑作!) の超絶的次元には達していない。 自虐ものの秀作ならちょっと古いが 『さよならみどりちゃん』 (南Q太作・古厩智之監督 05・8) を挙げておこう。
さて、 現在福岡市内には一般商業映画館が八館 (プラスα=特殊なやつ) と、 福岡市総合図書館映像ホール 「シネラ」 があります。 いまどきは家でビデオやDVD観賞というのが一般的でしょうが、 学生時代の四年をかけて全館制覇をこころみるのも一興では……。
- おすすめの本
大嶋仁 (比較文学) - 新入生の皆さん、 人文学部にようこそ。 新入生の皆さんに、 おすすめしたい本と言えば、 まず皆さんが一冊の本に何を求めるかによります。 読み終えて生きる元気が湧いてきた、 と感じられるものとしては、 何より福沢諭吉の 『福翁自伝』 でしょう。 落ち込んでいる人、 孤独を悩んでいる人には、 フランツ・カフカの 『短編集』 か 『変身』 をおすすめします。 暗い内容のようでいて、 なぜか根源から力が湧くでしょう。 また、 人に対して優しい気持になりたい、 細かい文章の味をかみしめたいと思ったら、 井伏鱒二の短編ですね。 『山椒魚』 などのタイトルの付いた一冊を選べばよいのです。
こんなところでしょうか。 ここに挙げたどの本も文庫本で手に入ります。
- 英語教師を志す皆さんへ
大津敦史 (英語教育学) -
大津由紀雄 編著 『危機に立つ日本の英語教育』 (慶應義塾大学出版会 2009年)
新入生の皆さん、 ご入学おめでとうございます!これから四年後、 社会人としての人生をほぼ決定すると思われる大切なこの四年間、 どうか無駄にせず、 完全燃焼させてください。 もちろん燃え尽きてしまってはいけませんので、 自律と自己管理にもしっかり心がけて下さい。
さて、 皆さんの中には、 卒業後、 英語教師になりたいと思っていらっしゃる方も少なくないでしょう。 毎年、 英語学科のみならずドイツ語学科やフランス語学科からも教職希望者がたくさんいますので、 今回はそのような方たちのために、 右記の本を選んでみました。 まず、 編著者である大津由紀雄氏ですが、 慶應義塾大学言語文化研究所の教授で、 専門は言語の認知科学です。 「認知科学って何?」 と思われる方は、 ぜひインターネットを利用して調べてみてください。 最近では、 大津氏は日本の英語教育、 特に小学校での英語教育の是非について様々な提言をされています。 私と同じ姓ですが、 残念ながら親類関係ではございません。
この本の著者には、 大津氏以外に、 日本を代表する12名の研究者が名前を連ねています。 元々この本は、 2008年9月15日に慶應義塾大学三田キャンパスで開催された公開シンポジウム 「「『英語が使える日本人』 の育成のための戦略構想」 を超えて」 および同年12月21日に同大学日吉キャンパスで開催された言語・英語教育講演会 「言語リテラシー教育のポリティクス」 がもとになっています。 2008年は、 2002年と2003年にそれぞれ文部科学省によって策定された 「『英語が使える日本人』 の育成のための戦略構想」 と 「『英語が使える日本人』 の育成のための行動計画」 の目標達成年度に当たります。 この 「構想」 や 「行動計画」 がこれまで学校英語教育に与えてきた影響は測り知れません。 しかしながら、 「英語が使える人材」 を希求する経済界 (財界) 主導のこのような語学行政は、 教育現場に無理難題を押し付けた結果、 その教育現場は疲労困憊 (ひろうこんぱい) し、 英語教育の質の低下を引き起こしています。
このような時期に、 今一度日本の英語教育、 学校英語教育の現状と課題とその解決策を整理・模索してみることは非常に有効だと思います。 そのような反省を通して、 これから英語教師を目指す皆さんの時代 (次代) には、 もっと豊かで心地よい教育環境が整備されることを祈って止みません。
- 先人を知ろう
甲斐勝二 (中国学) - 勝海舟 《海舟語録》 江藤淳・松浦玲編 講談社学術文庫
勝海舟、 世界でも希有な江戸という大都市を無血に明け渡した立役者。 西郷隆盛を友とし、 坂本龍馬を門下に置く。 篤姫とも仲が良く、 姉と偽って江戸を歩き回った事もある。 江戸開城の折には混乱を防ぐため、 渡世人の世界にまで自ら赴き頼み回る気配りを語る。 良く世界を見ている。 明治31年まで生きて、 伊藤博文の政策への批判も多くある。
岩波文庫に 《海舟座談》 があるが、 講談社学術文庫の方が注もちゃんとしていて、 勝の発言録としては信用できそうだ。
この本をおもしろいと思うのは、 勝の人情の機微に渡る観察や、 人物批評の痛快さ鋭さ、 また社会や人への気配りから、 曾(かつて)あった日本の政治家の姿やその手法を知ることができると共に (善し悪し置くとしてこれはつい最近の政治家まで続いている)、 「機」 を見るといった個人ではどうにもならない社会の動きへの視点もまた示されているところだ。
内容は読んでいただくとして、 中国学を専攻する紹介者にとって、 「ふむふむ」 と思う文を二つ紹介する。 まずは日清戦争後の李鴻章の態度についての発言。
李鴻章の今度の処置などは、 巧みなのか、 馬鹿なのか少しもその結果がわからないのには、 大いに驚いていますよ。 大馬鹿でなければ、 大変、 上手なのでせう。 これまでの長い経験では、 大抵、 日本人の目に大馬鹿と見えるのがエライようです (15頁)次に 「支那 (ママ) 人」 についての発言。
ナニ、 支那が外国人に取られるというのカエ。 誰が取るエ。 支那人は、 他に取られる人民ではないよ。 香港でも御覧なナ、 実権は、 みな支那人が持っているジャアないか。 鶏卵でも豆腐の豆でも、 南京米でも、 みな支那人から貰っているジャアないか。 それで支那人は野蛮だと言うやつがあるカエ。 ナニが、 文明ダエ (158頁)勝は西洋列強の植民地化に対してアジアの諸国が連合し、 日本は海軍で海を守る役割も考えたこともあるようだ。 征韓論も馬鹿な話だと片付ける。 勝の考えた方向で日本が動けば、 あるいは今とは違っていたかも知れない。 どうしてあんな方向に進んでしまったのだろう。
- 江戸時代を見なおそう
梶原良則 (日本史) - 新入生の皆さんは、 江戸時代についてどのようなイメージを持っておられるでしょうか。 近年の歴史学研究は、 江戸時代の通説的イメージに修正を迫りつつあります。 ここでは、 新入生にも読みやすい代表的な本を紹介しましょう。
① 磯田道史 『武士の家計簿』 (新潮新書、 2003年) は、 江戸時代の中下級武士の生活を家計簿から復元し、 従来の武士のイメージを一新させました。
② 高木侃 『三くだり半―江戸の離婚と女性たち』 (平凡社ライブラリー、 1999年) ・ 『三くだり半と縁切寺―江戸の離婚を読みなおす』 (講談社現代新書、 1992年) は、 夫が妻を一方的に離縁できるという夫優位の夫婦関係の通念をくつがえしました。
③ 宇田川武久 『真説 鉄砲伝来』 (平凡社新書、 2006年) は、 1543年種子島に漂着したポルトガル人によって鉄砲が伝えられたという通説に疑問を呈しています。
このほかにも、 知的好奇心を刺激してくれる多くの本が皆さんを待っています。 図書館を有効に活用しましょう
- たかがクジラのことでそんなにホエールなよ!
片多順 (文化人類学) - 秋道智彌著 『クジラは誰のものか』 (ちくま新書)
シー・シェパードという反捕鯨団体が今年 (2010年) の初めに、 日本の調査捕鯨船を妨害するために、 体当たりしたり劇薬を投げつけたりした事件を覚えていますか。
かれらはエコ・テロリストといわれ、 地球環境を守るという名目を掲げ、 そのためにはどんな過激なことでもするという暴力的な団体で、 世界の世論から爪弾きされています。
クジラを捕るか捕らないか、 鯨肉を食べるか食べないか、 は単にクジラという一哺乳動物だけの問題に留まらず、 いまや国際政治にも影響し、 グローバルな環境問題にも直結する問題として捉えられています。
たかがクジラのことで目くじら立てて、 そんなにギャーギャーホエールなよ、 などとはいえない状況なのです。
そんな中で今回は文化人類学者として、 捕鯨と人間の関わりについてきわめて広い視野で論じた本書をお薦めします。 200ページ余りの本書を読んで、 地球全体のコモンズ (共有財産) としてのクジラに是非関心を持っていただきたいと思います。
現在、 捕鯨には次の四種類があります。
「商業捕鯨」 (クジラを捕ってその肉や油脂を売って利益をあげる)
「先住民生存捕鯨」 (自分たちの生活物資を得るために昔から細々と実施してきた自給自足的な捕鯨)
「調査捕鯨」 (クジラの数や生態を調べるために行う)
「文化捕鯨」 (伝統文化としての捕鯨や、 それにつながる儀礼や祭り・信仰などを維持していくために行う)
これらの内、 日本が過去に行ってきたもの、 現在も実施しているもの、 そして将来目指しているものは、 それぞれどの捕鯨だと皆さんは思われますか。
- 「よい子」 ってどんな子?
勝山吉章 (教育史) - 灰谷健次郎著 『兎の目』 (理論社)
「よい子」 ってどんな子? 親や教師の言うことを素直に何でも聞く子どもは、 確かによい子に違いない。 では、 親や教師の言うことを聞かない、 親や教師の権威を認めない子どもは 「悪い子」 なのだろうか。 いつも親や教師のご機嫌を伺い、 「よい子」 であり続けることに疲れた子どもは、 もうよい子ではなくなるのだろうか。
『兎の目』 の主人公 「鉄三」 は、 そのような問いを投げかける。
偏差値教育、 管理主義的教育に慣らされてきた者にとって、 「鉄三」 は落ちこぼれに映るだろう。 しかし、 人間本性に照らし合わせて考えた時、 管理化された現代社会に馴染んでいる私たちこそが、 大切な人間性を失っているとは言えないだろうか。
本書を既に読んだ学生も多いと思うが、 大学時代に再度読んでもらいたい書物である。
- 中国の歴史(全12巻)
紙屋正和 (東洋史) - 講談社版『中国の歴史』(全12巻)(講談社)
1970年代に、 『中国の歴史』 (全10巻)、 『図説中国の歴史』 (全12巻)、 『新書東洋史』 (全11巻、 うち中国史は5巻) と、 中国史の概説書のシリーズをあいついで刊行した講談社が、 『新書東洋史』 以外は入手困難になった2004年から2005年にかけて、 ほぼ30年ぶりに刊行した中国史の概説書がこのシリーズである。 この間に中国史・中国自体、 あるいはそれらをとりまく環境は大きくかわった。
古い時代については、 考古学の大きな発見があいついでいる。 稲作の起源は、 遺跡が発掘されるたびに千年単位で古くさかのぼり、 今や一万二千年前の栽培稲が発見されたというニュースが流れているほどである。 また以前は、 中国の古代文明といえば黄河文明と相場がきまっていたが、 現在は長江流域において黄河文明に勝るとも劣らない高度な長江文明があったことが明らかになっている。 戦国・秦・漢・魏晋南北朝時代については、 当時の法令・行政文書や思想・文学などの著作を書きしるした簡牘 (かんとく) (竹のふだと木のふだ) 類や人の目をうばう遺跡が多く発見され、 これまで文献史料で知ることのできなかった事実が明らかにされつつある。 新しい時代については、 放っておいても新事実が積みかさなってくるのであるが、 以前に未発表であった公文書が公表され、 さらに中国・中国経済自体が大きくかわりつつある。 政治は社会主義のままであるが、 経済はもう完全な資本主義に、 少し大げさにいえば日本よりも極端な資本主義になり、 現在の成長がつづいていけば世界経済を牛耳るようになるかもしれないといわれている。 こうした変化をふまえて、 今回の 『中国の歴史』 (全12巻) が企画されたのである。 ただし、 このように大きくかわりつつある 「古い時代」 と 「新しい時代」 とに挟まれた中間の時代の場合、 大発見があったわけでもなく、 新しい文献が見つかったわけでもないため、 執筆者はこまったらしいが、 旧来通りの中央からの視線でえがくのではなく、 地方の現場から世界を見なおすといった機軸によって新鮮味をだそうとしたという。
全体的にかなり高度な内容になっているが、 全部を紹介するわけにいかないので、 私の専門に近い古代史関係についてのみ内容を簡単に紹介し、 のこりは執筆者と書名だけを列記するにとどめる。
宮本一夫著 『神話から歴史へ ― 神話時代・夏王朝』 (01) は、 中国の地に人類が居住しはじめてから、 殷周社会が成立する前まで、 いわば中国の先史時代をとりあつかう。 現在の中国の経済発展は巨大な開発をともない、 発掘もさかんに行なわれている。 その結果、 先史時代の文明は黄河流域だけではなく、 現在は中国の各地で発見されている。 宮本氏はこうした発掘成果をもとに、 物質文化における地域間比較だけでなく、 社会構造上の地域間比較をも試みることによって、 先史時代における段階的な社会構造の変化に注目し、 殷周社会にいたる道のりを多元的に説明する。 これまで 「中国の歴史」 というとき、 先史時代についても文献史学の研究者が執筆することが多かったが、 これは考古学の専門家の手になる概説書である。
平勢 (ひらせ) 隆郎著 『都市国家から中華へ ― 殷周・春秋戦国』 (02) は、 新石器時代から戦国時代までを対象とする。 本巻は、 著者自身がみとめるように 「一般に提供されている中国史とは、 若干異なった視点」 で書かれている。 すなわち中国史を、 蘇秉琦著・張名声訳 『新探 中国文明の起源』 (言叢社) が提唱した 「新石器時代以来の文化地域」 を基礎において分析し、 まぼろしの夏王朝、 殷王朝・周王朝、 そして戦国時代の領域国家のいずれもが新石器時代以来の文化地域を母体として成立したという。 こうした歴史を背負う戦国時代の諸国家は、 自国の立場から、 先行する夏・殷・周の王朝を論じ、 そのうちの一部が史書として現在にのこされている。 しかしそれらの史書は、 それができあがった時代に規制され、 ときには無かった内容を付けくわえている。 そこで、 本巻は、 何が後世に付加された虚構の産物なのか、 またどの記述が事実を伝えているのかを検討する形で書かれている。 安易な気持ちで、 急いで読もうとすると、 絶対に理解できない。
鶴間和幸著 『ファーストエンペラーの遺産 ― 秦漢帝国』 (03) は、 秦・始皇帝による天下統一から前漢・新をへて後漢が滅亡するまでの四百四十年間をとりあつかう。 この時代は、 簡牘類や多くの目を見はる遺跡・遺物の発見があいつぎ、 歴史像が大きくかわりつつある時代である。 鶴間氏は秦の歴史、 始皇帝像の再評価を試み、 また秦・漢時代を地域の視点から見なおそうと試みてきた研究者である。 そうした自分自身の研究を反映させ、 あわせて新発見の出土資料を既存の文献史料とつきあわせて本巻を書いている。 とくに新出土資料についてはよく調べて多くの情報を提供しており、 専門家としても参考にすべきところが多かった。
金文京著 『三国志の世界 ― 後漢・三国時代』 (04) は、 後漢後半期に外戚・宦官が政治を乱しはじめた時期から西晋の統一によって三国時代がおわる時までの約百三十年をとりあつかう。 この書名にある 「三国志」 とは、 『魏志』 倭人伝などをふくむ歴史書の 『三国志』 ではなく、 小説の 『三国志演義』 であり、 執筆者は歴史家ではなく、 中国文学者である。 本巻は、 ゲーム・アニメ・漫画によってつくられた 『三国志』 ブームを意識したもので、 よくいえばこのシリーズに新鮮味をだすための、 悪くいえば読者に迎合するための企画といえよう。 内容は、 この時代の歴史の動きを淡々とおいかけ、 ところどころで 『三国志演義』 がどのように脚色されているかを明らかにしている。 本巻は歴史の概説書として読みごたえがあるが、 『三国志演義』 ファンにも歓迎されるであろう。
川本芳昭著 『中華の崩壊と拡大 ― 魏晋南北朝』 (05) は、 西晋が中国を再統一したものの、 また分裂してから隋が久々に中国を統一するまでの約三百年をとりあつかっている。 基本的には分裂の時代といえるこの時期の歴史を、 胡漢、 すなわち遊牧民族と漢民族の対立と融合をキーワードにして、 隋・唐時代に新しい漢民族・中国文化が登場すること、 また中原 (黄河中流域) の混乱などによって、 未開発地がまだ多くのこされていた長江流域に厖大な人口が移動・移住し、 その地の開発が急速に進展することを明らかにし、 あわせて中国の周辺において朝鮮半島の三国や倭のような国家がうまれてくることにも目をくばっている。
氣賀澤保規著 『絢爛たる世界帝国 ― 隋唐時代』 (06)
小島毅著 『中国思想と宗教の本流 ― 宋朝』 (07)
杉山正明著 『疾駆する草原の征服者 ― 遼・西夏・金・元』 (08)
上田信著 『海と帝国 ― 明清時代』 (09)
菊池秀明著 『ラストエンペラーと近代中国 ― 清末・中華民国』 (10)
天児慧著 『巨龍の胎動 ― 毛沢東vs鄧小平』 (11)
尾形勇など著 『日本にとって中国とは何か』 (12) は、 太古から現代までの中国の歴史をふりかえったあとで、 日中関係がギクシャクしている現在、 日本にとって中国とは何か、 逆に、 中国にとって日本とは何かについて、 このシリーズの編集委員四人と中国人二人が総論的に論じたものである。 日本と中国は同じ漢字文化圏、 儒教文化圏であるから何もいわなくても分かりあえると認識することが、 大きな誤解であることを知らなければならない今この時、 一読すべき本であろう。 以下、 執筆者と論題だけを紹介する。
尾形勇 「大自然に立ち向かって ― 環境・開発・人口の中国史」
鶴間和幸 「中国文明論 ― その多様性と多元性」
上田信 「中国人の歴史意識」
葛剣雄 「世界史の中の中国 ― 中国と世界」
王勇 「中国史の中の日本」
礪波護 「日本にとって中国とは何か」
概説書は新しければ新しい顔をして我々の前にあらわれてくる。 新しければよいというものではないが、 少なくとも情報は新しいものがふくまれている。 読書には、 自分の知らないことをまなぶという 「学ぶ姿勢」 と同時に、 何かおかしい、 納得できないことを書いていないかをさぐるという 「批判の姿勢」 も必要である。。
- 学問の領域に捉われない読書の勧め
鴨川武文 (地理学) - 木内信蔵(1968)『地域概論―その理論と応用』(東京大学出版会)
日高敏隆(1998)『チョウはなぜ飛ぶか』高校生に贈る生物学3(岩波書店)
武野要子(2000)『博多―町人が育てた国際都市―』(岩波新書)
木内信蔵の 『地域概論』 は39年前に刊行されました。 39年前の本というと、 「なんて古い本なんだろう」 と思うかもしれませんが、 地理学や地理学が研究対象とする地域について体系的に論じられています。 私は共通教育科目の地理学を担当していますが、 この本は、 地理学の講義を学生の皆さんに行うにあたっての、 私にとっての参考書ともいうべき座右の書です。
日高敏隆の 『チョウはなぜ飛ぶか』 は生物学の本ですが、 この本は次の2点において興味深い本です。
第1点は、 「チョウはなぜ飛ぶか」 というタイトルですが、 内容は、 一言でいうと、 チョウは自分自身が飛ぶ道筋をしっかりと認識して飛んでいるということです。 つまり勝手気ままに飛んでいるのではないのです。 全く土地鑑のない場所に出かけた時に頼りになるのは地図です。 地図を見てわれわれ人間は行きたいところに行くことができます。 チョウは地図を持ってはいませんが、 自分が行きたいと思うところへ行くことができ、 またそのような本能を持っているのです。
第2点は、 研究というものはどのように行われているのか? 研究者は試行錯誤・紆余曲折を繰り返しながら研究成果を出している、 研究者とはどのようなタイプの人たちなのか、 科学的なものの考え方とは何か、 などについていきいきと書かれているという点です。 学生の皆さんが志している学問の枠に捉われることなく、 多くの本を手にして教養を高め、 知識を習得してほしいと思います。
武野要子福岡大学名誉教授の 『博多』 には、 博多の町の成り立ちや、 政治的に、 また経済的に博多に関わりのあった武士や豪商のエピソード、 今に伝わる博多の伝統や住民の生活史など興味深い話題が数多くあります。 また、 聖福寺や承天寺、 櫛田神社、 鴻臚館、 防塁など博多にゆかりのあるものの記述もあり、 この本を携えて福博の町を散策してみたらいかがでしょう。
- 写真の青空
桑原隆行 (フランス語) -
アンディ・シェパード 『ムーヴメント・イン・カラー』 (CD)
ジャック・ベッケル監督 『画家と庭師とカンパーニュ』 (DVD)
業田良家 『詩人ケン』 (マガジンハウス)
有川浩 『図書館戦争』 (アスキー・メディアワークス)
アンディ・シェパード 『ムーヴメント・イン・カラー』
WOWOWの音楽番組 「ジャズ・ファイル」 を時々録画して観る。 ジャズ・シーンを彩ったミュージシャンたちの貴重な映像を、 芳醇なウィスキーのようにゆっくり愉しむことができる。 解説役のピーター・バラカンさんの要領を得た、 示唆に富んだ話し方が好きだ。 このサックス奏者アンディ・シェパードのCDも、 バラカンさんの 「最近のお勧め」 で知った。 ぼくは、 あるフランスの小説を翻訳しながら聴いている。 興味の幅が広がって、 さらに多くのミュージシャンの雰囲気とスタイルを知りたくなったら、 村上春樹 『ポートレート・イン・ジャズ』 (新潮文庫) を読んでみるといい。
ぼくの好きなアルト・サックスとソプラノ・サックスはこのところケースに仕舞いこまれたままだ。 しばらく触れていない。 息を吹き込まれたサックスが恋する女性の肌のように徐々に熱を帯びて、 ハートを震わせる音を出してくれるのが好きだったのに。 また始めてみますか、 恋を始めるように。
ジャック・ベッケル監督 『画家と庭師とカンパーニュ』
亡くなった映画監督エリック・ロメールの作品を取り上げようかなとも思ったけれど、 止めた。 そのうち、 特集が組まれることが予想される。 フランス映画の専門家、 映画評論家の人たちが色々語ってくれることだろう。 ぼくの出る幕じゃない。 もちろん、 あなた (ぼくはバリ島の海で遊ぶあなたの上に青空が広がっている写真を眺めている) とワインでも飲みながら、 気軽に映画の話をするのならいつでも歓喜、 歓迎、 乾杯。 感謝、 感涙だ。
さて、 ベッケル監督のこの映画(ゼミで撮ったプリクラを貼ったぼくの映画メモ帳によれば、 2009年の6月6日に観た記述がある)、 画家の役はダニエル・オトゥーユ、 庭師役はジャン=ピエール・ダルッサンが演じている。 私たち観客は、 人間賛歌、 生と死、 友情、 美しい思い出など、 つまりはフランス映画の上質な雰囲気、 魅力的な特質を味わうことができる。 ベッケル監督の 『クリクリのいた夏』 も、 ぼくの好きな映画の一つだ。
業田良家 『詩人ケン』
ランボーという名前の、 サングラスの赤ん坊を持つ詩人、 会社面接で 「牛馬のごとく働く」 と自分を売り込む奴隷くん、 片思いの道を極めようとする姉妹などに好奇心を刺激されるようなら、 読んでみてはどうだろう。 業田良家 (ごうだよしいえ) は、 その 『自虐の詩』 が映画化された漫画家だ。 これまた映画化された 『空気人形』 を読むのもいいかもしれない。
有川浩 『図書館戦争』
図書特殊部隊唯一の女性隊員笠原郁の仕事における失敗、 奮闘、 活躍、 成長、 恋におけるずっこけ、 意識、 進展の物語。 同室の柴崎麻子は有能でクールな美人。 すべてに優秀だけれど高所だけが苦手であることを隠している同級生の手塚光。 特に郁に 「鬼教官」 と恐れられる堂上篤、 実は彼は…。 他にも興味を引かれる登場人物がぞろぞろ顔を見せる。 物語は 『図書館内乱』、 『図書館危機』、 『図書館革命』 とシリーズ化されている。 また、 アニメにもなっている。 ぼくの研究室は戦ってまでも守るべき貴重な本などないけれど、 脈絡なく様々な本やDVDが大量に置かれてあるミニ図書館の感を呈している。 そういえば、 ピーター・グリーナウェイの映画 『コックと泥棒、 その妻と愛人』 では、 恋人たちが多数の本に見られながら、 床の本の山の上で愛し合っていた。 本は愛のベッドにも、 愛の目撃者にもなるのだ。
有川浩(ありかわひろ)の作品では、 自衛官たちの恋愛を描いた 『クジラの彼』 や 『ラブコメ今昔』 も面白い。
- 「類語の辞典」 (上下) (講談社学術文庫)
小林信行 (哲学) - この種の辞典は、 一般的な国語辞書や電子辞書のように、 手元において必要があればすぐに引いてみるというものではない。 むしろ、 つれづれなるままに本棚から取り出して眺めるように読んでいるとだんだんおもしろさがわいてくるような、 暇人のための書物と言えそうだ。 つまり、 読書対象となる辞典である。 とは言え、 一般的に辞書や辞典に期待されている実用性という点でもなんら劣るところはない。
具体的に見てみよう。 たとえば 「感謝」 という語を引いてみる。 すると 「れいす」 を見よ、 と記されている (この辞典は明治42年発行の日本類語大辞典の復刻版で、 言い回しには多少とまどいを覚えることもあるが、 それなりの味わいも深い)。 そこで 「れいす」 を見ると、 「礼」 (原文は旧字体)とあり、 敬意を表すために拝礼をする、 色代、 会釈、 辞儀、 と説明されている。 (色代は、 現代では死語に属するであろう。 挨拶するという意味らしい。)
今日的な感覚からすると、 感謝についての類語としてこれらは適切だろうか。 感謝します、 ありがとうと言ってお辞儀をすることくらいは納得できるが、 説明がどこかずれているような印象がある。 それは、 われわれが感謝を 「気持ち」 の問題としてとらえているからではなかろうか。 口には出せないがお世話になったあなたには本当に感謝しています、 といった人間の 「気持ち」 の中にありがたいという感謝やお礼がある、 と理解しているのではないか。 ところが、 右の説明はもっと素朴なものだ。 つまり、 感謝とは受けた恩に対するお礼であり、 礼とはすなわち頭を下げたり、 土下座をしてでも相手に敬意を示すという 「行為」 であり 「態度」 のことなのだ。 口先のことばや目には見えない気持なんかではなく、 とにかく相手に対して身を低くすることが礼であり、 感謝である、 と説明されているように想われる。
これは中国古典の世界を受け継いだ説明ではあろうが、 類語辞典としての役目は十分に果たしてくれている。 何気なく (「なにげに」 ではない) この辞典を取り出して眺めつづけていくうちに、 いつのまにか語彙不足の自分を嘆くことが少なくなっているだろう。
- Tips for Learning English
Stephen Howe (英語学) -
Compared to someone who knows no English, you already know a lot. You are reading this page, for example. Remember, you have a good head start: Japanese has more English words than any other language (apart from English, of course) - you already know hundreds and hundreds of English katakana words. Build on what you know and try to improve a little each day. Here are some tips:
1 . Use it or lose it
・To speak a language well, you must use it - as often as possible
・Learn outside class
・Don't think of your English class as the only time you learn English - try to improve your English all the time
・Practise speaking to yourself in English
・Try to think to yourself in English, for example on the train, when shopping or brushing your teeth - how would you say that in English?
・Practise speaking English with your friends
・Meet your friends for coffee and practise speaking English for fun
2 . Practice makes perfect
・Learning a language is like playing a musical instrument - you should practise a little each day
・If you never practised the piano, you would never learn to play. The same is true of language - if you want to get better, practise a little each day.
3 . Don't worry about making mistakes
・Making mistakes is an important part of learning - so don't worry
4 . Set yourself a target
・Set yourself a target to improve your English each semester. Improve a little each day, and you will improve a lot by the time you graduate.
5 . Make friends with the international students on campus
・Practise your English on the international students at university - they want to talk to you!
・Ask them about their country and tell them about Japan
6 . Watch TV and movies in English
Movies are an easy way to listen to natural spoken English - and they are available anywhere - watch as many as you can
・Switch to English sound when you watch an English programme or movie on TV. This may be difficult at first, but gradually you will understand more.
・Watch a movie several times - you will understand more each time
・As well as movies, try watching the news in English at cnn.com
7 . Read a book, magazine or newspaper in English
・Read a book in English - there are thousands to choose from!
・Read an English magazine
・If you like fashion, read an English fashion magazine; if you like sport, read a sports magazine in English. You will learn a lot of vocabulary about your interest.
・Read a newspaper
・The Japan Times is available everywhere and is easy to read
・Read the news in English online
・Try bbc.co.uk for English news
8 . Write a diary in English
・Like Samuel Pepys and Bridget Jones, write a diary about what you do each day, your thoughts and feelings, in English. This will improve your writing and help you express yourself better.
9 . Listen to English music and radio
・Listen to your favourite British or American bands - they can help you learn English!
・Listen to English music on the web at bbc.co.uk/radio1/
10. Plan a trip or study abroad
Brush up your English ready for a trip or study abroad
・It will be easy to meet people if you can speak a little English
・Practise the words and phrases you will need
・Use the opportunities offered by Fukuoka University to study in another country - you will have the time of your life
11. Finally, what about after university - what can English give you?
Knowing English can help you get the career you want. It gives you:
・Communication skills
・An international dimension
・Awareness of other cultures
・Opportunities for work and travel
- 『坊ちゃん』を読み直す
高木雅史 (教育史) - 夏目漱石『坊ちゃん』(夏目漱石全集、ちくま文庫[筑摩書房]ほか)
大学生になったみなさんに対して、 いまさら 『坊ちゃん』 を紹介するなんてとあきれる人が多いことだろう。 正義感に富んだ直情的で無鉄砲な青年教師である主人公が魅力的な、 広く読み継がれている作品であるから。 それにもかかわらずここで取り上げるのは、 登場人物への共感的理解を中心としたいわゆる 「読書感想文」 的な読み方ではなく、 教育問題の歴史に位置づけて読み直してみると、 どんな風に見えるかを考えてみたいからである。
今日、 学校内外でおこる暴力事件などを例に若者のモラルの低下が指摘され、 それは現代日本に特有な病理現象であると批評されることが多い。 「昔はよかったのに、 今の若いヤツは……」 と決めつけられて不愉快な思いをした人もいることだろう。
しかし 〈昔はよかった〉 とすると、 およそ百年前 (1906年刊行) の 『坊ちゃん』 に描かれた生徒たちの行動はどのように理解したらいいのだろうか。 〈旧制中学校と師範学校の生徒たちの紛争事件〉 〈坊ちゃんの日常生活をスパイし板書してひやかした天麩羅事件〉〈宿舎で坊ちゃんの寝床に大量のバッタを混入したバッタ事件〉 。 脚色や誇張があるにせよ、 〈紛争事件〉 の場面では数十人規模で投石や棒での殴り合いが行われるという大乱闘の様子が描かれている (ちなみに当時似たような紛争は全国あちこちで起こっていた)。 制止に入った坊ちゃんに対して生徒たちは教師であると承知の上で石をぶつけている。 〈天麩羅事件〉 〈バッタ事件〉 を見ても、 詰問されても生徒たちはふてぶてしい態度をとり続け、 反省するどころか悪質で陰湿な行為をエスカレートさせている。
この作品がフィクションであることを割り引いて考えても、 はたして百年前の若者は現在よりモラルが高く、 悪さをしても節度があり、 素直であったといえるだろうか。 仮に今日、 同じような事件を身近であるいはマスコミ等を通じて目にしたら、 私たちはどのように感じ反応するだろうか。〈昔はよかった〉という見方を問題にするあまり、 短絡的に 〈今の方がいいのだ〉 あるいは 〈昔も今もたいして変わっていないのだ〉 ということを言いたいのではない。 昔と今を比べてみて、 何が変わって、 何が変わっていないのだろう。 変わったのは、 若者のモラルや行動なのだろうか。 それとも彼らを見る大人社会のまなざしなのだろうか。
- 「しあわせ」 ってどんなこと?
高田熱美 (教育学) - 今枝由郎 『ブータンに魅せられて』 (岩波新書)
わたしの国、 日本には欲しい物はなんでもあります。 けれども、 しあわせだと思うことはあまりありません。 今日のように、 経済的格差が拡がり、 欲しいものが手に入るどころか、 貧困を強いられるところでは、 しあわせも安らぎも感じにくくなっています。
ところで、 みなさんは、 ブータンという国を知っていますか? そこへ、 行った方はさらに少ないと思います。
この本は、 ブータンの人びとの暮らし、 文化、 宗教などを語りながら、 本当のしあわせとはどんなことかを明らかにしたものです。 これを読みますと、 いまの私たちの状況が見えてきます。 そして、 なにほどかの安らぎをも得ることができます。
この本とあわせて、 『ブータン仏教から見た日本仏教』 (今枝由郎 NHKブックス)を読まれるとためになると思います。 一読をお勧めします。
- 視野を広げて考えてみよう
高妻紳二郎 (教育行政学) - 最初から引いてしまう質問です。 皆さんはなぜ大学に入学するのでしょうか?大学の目的とはいったいどのようなものでしょうか?少し難解ですが、 教育基本法、 学校教育法という法律にはこう書かれています。
「大学は、 学術の中心として、 高い教養と専門的能力を培うとともに、 深く真理を探究して新たな知見を創造し、 これらの成果を広く社会に提供することにより、 社会の発展に寄与するものとする。」 (教育基本法第7条)
「大学は、 学術の中心として、 広く知識を授けるとともに、 深く専門の学芸を教授研究し、 知的、 道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。」 (学校教育法第83条)
つまり、 大学に入った皆さんは、 高い教養と深い専門的能力を身につけて、 知的にも道徳的にも成長が期待されている、 ということです。 皆さんにはこれからどんな経験もできるという特権があります。 そしてそれぞれの経験が皆さんを成長させてくれるでしょうが、 グーッと引いて自己を客観視できる人、 言い換えれば視野を広く持てる人になって欲しいと思います。 ここに紹介するのは著者の20代の体験記ですが、 藤原正彦 『若き数学者のアメリカ』 (新潮文庫) は今なお色褪せない内容で一気に読むことができる本 (エッセイ) です。 この本が出版される前、 私は藤原氏の講演を聞く機会がありました。 私が通っていた中学校での講演会です。 内容は覚えていませんが 「べらべらよくしゃべる人」 という印象を覚えています。 後でこの本を読み、 「ああ、 そういう話だったのか。」 と合点がいきました。 海外に行った時の興奮や不安感は誰でも感じるものですが、 表面上の体験ではない自己変容のプロセスに臨場感があり、 自身に置き換えて今読み返しても共感できる記述に多くぶつかるので、 海外へ行ってみようと思っている皆さんには手にとって欲しい本のひとつです。 エッセイですので読み飛ばすにはもってこいです。
また、 岩波新書のなかでも多く読まれている本のひとつ、 池田潔 『自由と規律』 (岩波新書) をここで改めて推薦しようと思います。 1949年が初版ですから還暦を迎えた本となりますね。 イギリスのパブリック・スクールに学んだ著者の体験をもとに書かれた、 これも今なお色褪せない内容です。 今の日本の教育は 「ゆとり教育」 とか 「確かな学力」、 「生きる力」 といったスローガンが先行して内実が伴わないことが目立ち、 理念と現実が寄り添っていない状況にあります。 「もっとも規律があるところに自由があり、 最も自由なところに規律がある」 という精神はイギリスの伝統です。 いま、 大学に入って多くの 「自由」 を手に入れた皆さんであるからこそ、 じっくりと、 いや、 ちらっとでも 「自由」 の本質を考えてもらいたいと思います。
- アゴタ・クリストフの 『悪童日記』
高名康文 (フランス文学) - 東欧の国々は、 第二次世界大戦下ではナチス・ドイツの支配下に置かれて国土が荒廃し、 大戦後の冷戦時代はソビエト連邦の勢力下に置かれて、 共産党の独裁の下、 文化と思想において厳しい統制を受けました。 大国の勢力争いに巻き込まれて運命を翻弄されたのです。 今日のボスニア・ヘルツェゴビナにおける民族紛争に繋がる全体主義の負の歴史は、 二一世紀に生きる私たちが知っておかなければならないことですが、 こういうことを高校までの授業で習った人も、 聞いたことがない人も、 この小説を是非読んでみて下さい。
アゴタ・クリストフ 『悪童日記』 堀茂樹訳、 早川書房 (ハヤカワ epi 文庫)
作品の中には明確に示されていないのですが、 物語の舞台は、 第二次世界大戦下のハンガリーの、 オーストリア国境に近い〈小さな町〉です。 町外れの、 国境に一番近い家に住む祖母の下に、 〈大きな町〉から小学生ぐらいの双子の兄弟が母親に連れて来られて預けられます。 戦火の下食糧は不足し、 祖母は畑を耕し家畜を飼い、 自給自足の暮らしをしながら、 収穫したものを市場で売って日々をしのいでいるのですが、 兄弟もそれを手伝わないことには何も食べさせてもらえません。 人々の心は荒れており、 村の子供たちは、 疎開者の子供が歩いているのを見ると、 殴りかかってくるといった具合です。 生き延びるために彼らは、 労働を覚え、 襲って来る者たちを叩きのめすことを覚えなくてはなりません。 時には、 盗むことも、 強請ゆ すりをすることも、 生き物を殺すことも、 強い者を利用することも。 そのような日々を、 彼らは〈大きなノート〉(原題の "Le grand cahier" はこの意味) に綴っていきます。 学校のない非常時に生きる 「ぼくら」 の作文の集大成がこの作品であるという構造を、 この物語はとっています。
作品には、 戦争という非常時にあってむき出しになる人間の暴力 (ナチス・ドイツのユダヤ人狩り、 それを笑って見る人々、 絶滅強制収容所の死体の山)、 普遍的に存在するが、 そのような時だからこそ浮き彫りになる歪んだ欲望 (サディズム、 幼児性愛) といった重くて暗いテーマが次々と表れます。 生き延びるためには、 そのような現実に対して怯むことなく立ち向かわなければなりません。 そのために、 彼らが獲得したものの見方と態度が、 彼らの文章作法を記した次の一節に集約しています。
ぼくらは書きはじめる。 一つの主題を扱うのに、 持ち時間は二時間で、 用紙は二枚使える。
二時間後、 ぼくらは用紙を交換し、 辞典を参照して互いに相手の綴字の誤りを正し、 頁の余白に、 「良」 または 「不可」 と記す。 「不可」 ならその作文は火に投じ、 次回の演習でふたたび同じ主題に挑戦する。 「良」 なら、 その作文を〈大きなノート〉に清書する。
「良」 か 「不可」 かを判定する基準として、 ぼくらには、 きわめて単純なルールがある。 作文の内容は真実でなければならない、 というルールだ。 ぼくらが記述するのは、 あるがままの事物、 ぼくらが見たこと、 ぼくらが実行したこと、 でなければならない。
[中略]
「〈小さな町〉は美しい」 と書くことは禁じられている。 なぜなら、〈小さな町〉は、 ぼくらの目に美しく映り、 それでいてほかの誰かの目には醜く映るのかもしれないから。
同じように、 もしぼくらが 「従卒は親切だ」 と書けば、 それは一個の真実ではない。 というのは、 もしかすると従卒に、 ぼくらの知らない意地悪な面があるのかもしれないからだ。 だから、 ぼくらは単に、 「従卒はぼくらに毛布をくれる」 と書く。
[中略]
感情を定義する言葉は非常に漠然としている。 その種の言葉の使用は避け、 物象や人間や自分自身の描写、 つまり事実の忠実な描写だけにとどめたほうがよい。
(42、 43ページより引用)
彼らにとって、 重要なのは、 どのように感じるかということではなく、 見たものをありのままに把握し、 それに対してどのように行動するかということなのです。 現実を冷徹に見据えることによって養われた彼ら独自の行動規範は、 善悪の概念のようにできあいの価値基準には決してなびくことがないゆえに、 常に衝撃的であり、 刺激的です。 それゆえに、 日本語訳の題名は 「悪童」 日記なのですが、 知的過ぎるほどに知的な 「悪童」 たちによって書かれたことになっている飾り気のない文体の文章からは、 時として、 彼らが懸命に隠そうとしているごく当り前の人間的な感情―遠い母親を慕う気持ち、 虐げられた者を見て憤る心、 弱りゆく老人を労わる心―が迸り出ます。 この作品のそういうところに、 筆者は詩作品以上の詩を感じます。
作者は、 一九五六年の動乱を機にスイスに亡命したハンガリー出身の女性で、 この作品以後フランス語で作品を発表しています。 原著のフランス語は比較的読みやすいので、 フランス語を学ぶ人は、 基本文法を一通り終えたら、 是非読んでみて下さい。
Agota Kristof, Le grand cahier, Seuil, coll. Points.
- 中国社会に関するものをすこし
田村和彦 (文化人類学) - 魯迅の作品と 『リン家の人々―台湾農村の家庭生活』(マージャレイ・ウルフ著、中生勝美訳、1998年、風響社) など
最近、 中国について様々な情報が流れ、 週刊誌の記事や書籍となって書店に積まれています。 日本と中国の長い関係を考えれば古典や歴史の本が多いのは不思議ではありませんが、 同時代のものに限れば、 政治や経済に関するものが多いように思われます。 他方で、 日常生活を送る場としての社会を真面目に紹介した本は多くはないのではないでしょうか。
そこで、 ここでは、 こうした領域について手がかりを与えてくれそうな、 いくつかの作品を推薦します。
一つ目は魯迅のもの。 皆さんももしかしたら 『故郷』 を教科書などで触れたことがあるかもしれないし、 なにをいまさらという声が聞こえないでもないのですが、 読んだことのある人も、 そうでない人もしばらくお付き合いを。
突然ですが、 皆さんは一年に数冊の日本語の本しか読めないという状況に出会ったことがありますか。 私事で恐縮ですが、 中国の農村に住み込んだときのわたしがそんな状況でした。 かなり悩んだ末に持ち込んだものが、 今昔物語と魯迅の文庫、 淡水魚類図鑑でした。 今でもなかなか良い選択だったと思います。 特に魯迅には随分助けられたのを憶えています。
私は文学の研究者ではありません。 にもかかわらず、 魯迅の作品を挙げる理由は、 激しい論調や手厳しい諷刺のなかに垣間見える鋭い社会観察は、 今日の中国社会を考える上でも有用ではないかと思うからです。 もちろん魯迅を読めば今の社会がわかるといっているわけではありません。 社会背景もずいぶんと異なるはずですし、 作品はあくまで作品でしょう。 けれども、 様々なヒントが含まれているという点で、 今日でも繰り返し読む価値のある作品が多いと思います(著者の死因について、 最近はご子息の活躍もあってか、 理解を超えた説明がかの国の若者を中心に支持されているのは悲しいことです)。
いろいろな人が訳しているので、 誰のものを選ぶかは好みで結構。 まず手始めに 『吶喊』 を手にとって見てください。
二冊目は 『リン家の人々』 という本。 これは、 1950年代末に台湾北部の村で生活した人類学者の妻(後に著者本人も人類学者になってしまいました。 「異文化体験」 というのはなかなか強烈で侮れません)が記したある大家族の記録です。 推薦理由は、 訳者の解説にあるように漢民族の家庭生活の肌触りを知るうえでは良書であるから、 です。 人や情報の往来は急増し、 中国について語る機会が増え、 私たちはなにか中国社会について理解を深めたような自覚を持ちやすい今日の状況がありますが、 果たしてどの程度理解している、 理解しようとしたことがあるでしょうか。 たとえば、 本書の扱う家庭や人間関係などは如何でしょう。 この本は、 反省と驚き、 知ることへの欲求をかきたててくれる事でしょう。 また、 最近、 中国大陸中心の議論が極端に増加していますが、 台湾、 香港といった地域から考える、 あるいはこれらを含めて考えることが不可欠なのではないかと私は思っています。 なので、 台湾を舞台とした、 面白いけれどもあまり話題にならない本を選びました。
さきに断っておきますが、 ここに挙げた本は、 ある事象についての知識を簡潔に記したものではありません。 もしそうした知識だけが必要であれば、 百科事典でも暗記したほうがましでしょう。 大学に来た以上、 自分で問いを立てて、 常識を疑い、 明確な論証を挙げて検討することが必要です。 こうした営みが楽しいかどうかは人によると思いますが、 大学とはそういうところだと私は思っていますので、 上の本を推薦してみました。 後は自分で面白そうなものを探してください。
最後に、 本ばかりでは味気ないという意見もあるかもしれないので、 映画をいくつか推薦しておきます。 ここでは、 わたし好みの監督から 『青い凧』 (田壮壮監督、 1993年)、 『女人、 四十。』 (アン・ホイ監督、 1995年)、 『麻花売りの女』 (周暁文監督、 1994年)、 『延安の娘』 (池谷薫監督、 2002年)の四本を選びました。 図書館や教室だけが学ぶ場というわけではありません。 前の三作品は本学の言語教育研究センターにもありますので、 在学中に是非足を運んでみてください。
- 読んで楽しく、 作っておいしい料理の本
辻部大介 (フランス文学) - 宮脇孝雄 『煮たり焼いたり炒めたり―真夜中のキッチンで』 (ハヤカワ文庫)
この春から一人暮しになり、 自炊をはじめたという人も多いことでしょう。 そういう人に、 またそうでない人にもおすすめの、 ちょっと変わった料理の本を紹介します。 これは、 英米小説の翻訳家である著者が、 所有する英語の料理本のコレクションから、 全部で50ほどのレシピを、 日本でも手に入りやすい食材を使ったものにアレンジしたうえで紹介したものです。 和・洋・中 の分類でいえばとうぜん 洋 のメニューが中心ですが、 カレーなどのいわゆるエスニック料理もあるし、 洋 の中味にしても、 「ロシア風」 ロールキャベツ、 「イタリア風」 ポークチョップ、 「ハンガリー風」 蒸し魚、 「デンマーク風」 アップルケーキ、 というふうにバラエティーに富んでいて、 読み手を未知の味覚の世界へといざないます (作ってみると、 どれもふつうにおいしいのですが)。
オーブンがないとか、 近所のスーパーに材料が見あたらないとか、 あるいはたんに手間がかかるからといった理由で、 じっさいに作るにはいたらないものも多いかもしれません。 それでも、 どんな味がするのか想像するだけで楽しいですし (「赤キャベツのジャム」 なんていうのもあります)、 なによりも、 レシピに添えられた料理談義やあれこれのエピソードが、 その語り口とあいまって、 上質の読書体験をもたらしてくれます。
それというのも、 著者が料理人である以前に日本語の文章のプロフェッショナルであるからで (ミステリの巨匠パトリシア・ハイスミスの短編をこの人の訳で読めるのは幸せなことです)、 じつはこの本じたい、 成り立ちが物語るとおり、 一個の翻訳作品といえるのかもしれません。 そもそも著者の料理への関心は、 小説に知らない食べ物が出てきたら、 それがどんなものなのかつきとめなくてはならないという職業上の必要とも結びついており、 言葉が指しているものを具体的に知ろうとするこのような姿勢は、 翻訳家ならずとも、 およそ外国語を学ぶ者にとってたいへん重要なものであると、 フランス語を教えながらつねづね思っています。
語学というものが、 料理にかぎらず、 いかに雑多なことがらに対する興味を求めるものであるかは、 同じ著者の、 本業である翻訳にかかわるエッセイ (『翻訳家の書斎 ― 想像力 が働く仕事場』 『翻訳の基本 ― 原文どおりに日本語に』 研究社出版、 『ペーパーバック探訪 ― 英米文化のエッセンス』 アルク) でも知ることができます。 こちらもぜひのぞいてみてください。
- ベルク 『日本の風景・西欧の景観』
冨重純子 (ドイツ文学) - 洲之内徹 『絵のなかの散歩』 (新潮社)
洲之内徹 『おいてけぼり』 (世界文化社)
年間の国際観光客到着数が世界で最も多いのはフランスで、 その数は8000万人に達しようとしている。 べらぼうな数である。 ところで、 フランスを訪れるドイツ人観光客を10とすると、 ドイツを訪れるフランス人観光客は1くらいの割合で、 ドイツ人は文化を求めてフランスを訪れ、 フランス人は自然を求めてドイツを訪れるというような話を聞いたことがある。 そんなこともあるかもしれないと思うような話ではある。 ちなみに、 数の比較について言えば、 そもそも大半のフランス人は国内でバカンスを過ごすので、 あまり国外に出ないのである。 もちろん、 ドイツに文化がないということはないので、 この話の肝は、 隣り合ったふたつの国に割り当てられた文化と自然の対照である。
人間によってかたちづくられたものと自然のものという対照は、 われわれのものの見方のなかにある基本的な対照のひとつであることはまちがいない。 もっともこの対照において、 「自然」、 あるいは 「自然」 に近いと見なされるものは、 実はほとんど不定形である。 それは、 あるときは信仰の対象であり、 あるときは破壊の対象である。 あるときは、 文化の優雅、 洗練をもたない田舎くささとして軽侮され、 あるときは、 文化の浅薄や硬直化に対立する根源的なもの、 自発的なものとして称揚される、 等々。 われわれにとって客観的な 「自然」 というものは存在しない。 われわれが見ているものは、 すべて意味づけられたものなのだ。 ふと目に入った景色を美しいと思うとき、 われわれは 「そこいらにころがっている」 自然を見ているのではなく、 それを美しいと見る伝統のなかにいる。 たとえば、 中国には長い 「山水」 の伝統があり、 山岳が風景として享受されてきたが、 ヨーロッパではそうではなかった。 ヨーロッパで山が美しい風景として 「発見」 されるのは、 近代以降のことである。
われわれは人間がかたちづくったものが、 だんだんと自然を侵食して拡がっていったと考えている。 言い換えれば自然が最初にあって、 文化は後から来たと考えている。 事実としてはそうなのであろう。 しかし、 われわれが見て理解しているものとしての 「自然」 はそうではない。 文化が山を美しい風景として出現させるのだ。 同様のことが、 「田園」 あるいは 「里」 と都市の関係についても言える。 客観的に見れば、 農業のほうが先行するのだが、 都市と区別される 「田園」 という表象を産んだのは、 都市からの視線である。
この非対称の劇ドラマを、 明快に、 しかし複雑さを端折ることなく提示してくれるのが、 オーギュスタン・ベルクの 『日本の風景・西欧の景観 そして造景の時代』 (篠田勝英訳、 講談社現代新書、 1990年) である。 環境の理解、 空間、 風景、 自然の見方が文化によってどれほど異なるか、 ヨーロッパと日本のそれがどのように成立し、 変化してきたか、 互いにどんな影響を与えたか、 さらに風景のこれからについて。 1942年生まれのフランス人日本学、 地理学・風土学者の本には、 人文学の意味深い 「今」 が凝縮されている。 もっとも、 ドイツとフランスの対比に言及しているわけではない。
- お気に入りの本
永井太郎 (日本文学) - 新入生向けの読書案内ということで、 何かの勉強になるとか、 大学生として読んでおくべきといった本を紹介しようかとも思ったのですが、 やめました。 これからあげるのは、 僕が読んで、 個人的に面白かったという、 お気に入りの作品です。 完全な趣味です。 傾向が少し偏っているので、 万人向けとはいきませんが、 良かったら本屋や図書館で手にとってみてください。
H・G・ウエルズ 『タイムマシン』 (創元推理文庫)
最近少し古いエンタテイメントにこっているのですが、 中でもウエルズの作品は今読んでも十分に面白いと思います。 「タイムマシン」 という言葉はもう常識ですが、 このアイデアをはじめて作品化したウエルズの小説を、 実際に読むことはなかなかありません。 読んでみると、 持っていたイメージとは違いがあって、 逆に新鮮に感じられます。 集中の 「塀についたドア」 や 「水晶の卵」 なども名作です。
ロバート・マキャモン 『少年時代』 上・下 (ヴィレッジブックス)
時代は飛んで、 いきなり現代作家です。 マキャモンは、 もとはスティーヴン・キングなどと同じホラー作家でしたが、 この本はホラーではありません。 一人の少年の一年の経験を描いた成長小説です。 しかし、 ただ成長小説というだけでなく、 ホラーやファンタジーやミステリーなどの要素が詰まった、 実に魅力的な小説です。 久しぶりにページをめくる手がもどかしいという経験をしました。
日影丈吉 「猫の泉」 (『日本怪奇小説傑作集2』 (創元推理文庫)、 『怪奇探偵小説名作選8日影丈吉集』 (ちくま文庫) などに所収)
日影丈吉という名はまず知らないと思います。 ミステリー作家であり、 幻想文学でも優れた作品を数多く残しました。 あげたのは彼の代表作の一つで、 南仏の谷間の町を舞台にした、 静かな怪異譚です。 他にも、 同傾向の幻想的な短編としては、 「かむなぎうた」 や 「吉備津の釜」 、 「吸血鬼」 などが有名です。
澁澤龍彦 『夢の宇宙誌』 (河出文庫)
西洋の怪しい知識を紹介したエッセイ集です。 本を開くと、 アンドロギュヌスやホムンクルスや自動人形といった楽しげな言葉が飛び交っています。 かつて澁澤龍彦の本は、 こうした話題についての定番だったのですが、 今でも読まれているのでしょうか。 そう思って、 あげてみました。 この本以外にも、 『黒魔術の手帖』 など、 澁澤龍彦の本はいくつも文庫で出ているので、 探してみて下さい。
- 大学生活における悩みとどう向きあうか
平兮元章 (社会学) - 姜尚中著 『悩む力』 (集英社新書044C、 2008年、 680円) の一読を勧めます。
「情報ネットワークや市場経済圏の拡大にともなう猛烈な変化に対して、 多くの人々がストレスを感じている。 格差は広がり、 自殺者も増加の一途を辿る中、 自己肯定もできず、 楽観的にもなれず、 スピリチュアルな世界にも逃げ込めない人たちは、 どう生きればいいのだろうか?本書では、 こうした苦しみを百年前に直視した夏目漱石とマックス・ウェーバーをヒントに、 最後まで 「悩み」 を手放すことなく真の強さを掴み取る生き方を提唱する。」 (本書、 導入部分より)
著者の姜氏は政治学専攻の東京大学の教員であるが、 社会問題にも多くの発言をしている。 二〇〇八年六月に起こった秋葉原事件についても自我論、 相互作用論の観点から、 混迷の社会において 「相互承認」 の重要さを説く有用な問題提起を行っている。
「悩みなき人生は貧しく不幸な生き方」 であり、 「悩みの果てに突き抜けたら横着になってほしい。 そこから新しい破壊力」 が生まれるという。 誰にでも具わっている 「悩む力」 にこそ、 生きる意味への意志が宿っていることを、 ウェーバー (社会学) と漱石 (文学) の苦悩を手がかりに証明しようとしている。 両者とも共通して 「文明が進むほどに、 人間が救いがたく孤立していく」 ことを示しており、 「悩む力」 を振り絞って近代という時代が差し出した問題に向き合ったのだという。
悩みの末に生まれてくる新しい破壊力がないと今の日本は変わらないし、 未来も明るくない、 という。
皆さんの考え方が少し変わるかもしれません。 是非一読を。
〈付録〉ここでは本を読むということだけに限ってものを言いますが、 教養を身につけるといっても、 具体的にどのような本を読めばいいのか分からないという人にとって格好のガイドブックがありますので、 紹介しておきます。 理系・文系を問わず、 幅広く紹介してあって、 面白く読めます。
小林康夫・山本泰 (編) 『教養のためのブックガイド』 東京大学出版会、 2005年。
- 犬がどのように考えているか、 をどのように考えるか
平田暢 (社会学) - スタンレー・コレン著 (2007年) 『犬も平気でうそをつく?』 文春文庫
この本をお薦めするのは、 私自身が犬好きで、 犬好きの人にとって面白く役に立つ、 ということもあるのですが、 それ以上に、 大学で勉強するときに重要な 「考え方」 について自然に馴染むことができる、 という理由からです。
日本語のタイトルはややひねりすぎです。 原タイトルは“How Dogs Think”なので、 こちらのタイトルで内容をイメージして下さい。
著者のスタンレー・コレンの専門は心理学で、 冬季オリンピックが開催されたバンクーバーにあるブリティッシュ・コロンビア大学の教授を務めています。 犬好きが嵩じて訓練士の資格をとり、 犬の訓練クラブのインストラクターもしているそうです。
私たち人間は、 他の人たちを観察したり、 対人関係の中でさまざまなことを学びます。 これを 「社会的学習」 といい、 私たちは言葉や規範、 あるいは歯の磨き方などもそうやって身につけていきます。
では、 そのような学習能力を犬も持っているのでしょうか。
おそらく持っていると想像はできますが、 本当に知りたいのであれば確かめねばなりません。 そのための手続きは、 「犬には社会的学習能力がある」という考え―この考えのことを仮説といいます―が正しいとすると、 特定の状況でどのようなことが発生するか推測をし、 実際にそのような状況で観察を行って推測が正しいか否か確かめる―確かめることを検証といいます―ということになります。 「犬には自意識がある」 や 「犬には超能力がある」 という仮説を立てた場合も同様です。
コレンの専門である心理学や私の専門である社会学では、 仮説を検証するというアプローチをよくとります。 実験はその典型ですが、 社会調査なども同じような手続きに沿って行われます。 大学の勉強では、 知識だけではなく、 このような手続き、 あるいは考え方を身につけることが強く求められます。 『犬も平気でうそをつく?』 という本は、 犬の能力や感情、 意識についてさまざまなことを教えてくれますが、 数多くの事例や実験、 調査がうまくはさまれていて、 仮説を検証するプロセスの面白さ、 その有効性がごく自然にわかってきます。
犬には社会的学習能力があるか否か、 それをどうやって確かめたかは、 本書を読んでのお楽しみ。
以下に、 スタンレー・コレンの犬に関する他の著作も挙げておきます。 いずれも文春文庫です。 飼い主の性格に合う犬種は何か、 どうすれば犬に意思をうまく伝えられるか、 どのようにして犬は狼からつくられてきたのか、 などなど、 盛りだくさんで楽しめます (最後は結局犬が好きな人のための紹介になってしまった…)。
『デキのいい犬、 わるい犬』 (The Intelligence of Dogs)
『相性のいい犬、 わるい犬』 (Why We Love the Dogs We Do)
『犬語の話し方』 (How To Speak Dog)
『理想の犬 (スーパードッグ) の育て方』 (Why Does My Dog Act That Way? )
- 私のヒーロー・プロレスラー力道
広瀬貞三 (朝鮮史) - (1) 牛島秀彦 『力道山物語 ― 深層海流の男』 (徳間文庫、 1983年)
長崎県大村市出身の日本人 「百田光浩」 と称した力道山が、 実は朝鮮人の金信洛であることを初めて活字にした。 力道山は16歳の時に日本に渡り、 大相撲に入る。 関脇まで務めるが後に廃業し、 プロレスラーに転身。 プロレスを日本に定着させる一方、 大野伴睦などの保守政治家、 児玉誉士夫などの右翼、 鄭建永の東声会、 田岡一雄の山口組などの暴力団、 正力松太郎の日本テレビと太いパイプを持ち、 プロレスラーから実業家に転身した。
(2) 門茂男 『力道山の真実』 (角川文庫、 1985年)
内外タイムズ記者の門茂男は、 1954年プロレスラー力道山の登場と同時にプロレス取材を開始する。 この後、 彼は力道山を身近で見続け、 後に東京スポーツ記者、 コミッショナー事務局、 コミッショナー代行、 ジャパンプロレスユニオン事務局長を任する。 「柔道の鬼」 木村政彦との決戦の背後に、 「引き分け」 の合意があったと大スクープした。 門は、 「外見は豪快に見えても細心、 粗野に見えてもいとも周到な力道山だった」 と評する。
(3) ロバート・ホワイティング著松井みどり訳 『東京アンダーワールド』 (角川文庫、 2002年)
アメリカ人の筆者は、 『菊とバット』 等を書いた日本通。 六本木のイタリア・レトランの 「ニコラス」 のオーナーであるアメリカ人ニコラ・ザベッティは、 「東京のマフィア・ボス」 として知られた。 この店には右翼の児玉誉士夫、 暴力団の鄭建永など、 「ヤミ社会」 の住人が通う。 ニコラは店の常連だった親友を、 「力道山はいいやつだよ。 世界一いい友だちさ。 ただ、 酒入ると人が変る。 問題は、 しらふの時がほとんどないことさ」 と語る。
(4) 百田光雄 『父・力道山』 (小学館文庫、 2003年)
二人の子ども (浩雄、 光雄) から見た、 父親・プロレスラー力道山の姿を描く。 父が刺殺された1963年、 弟の光雄は15歳だった。 豪邸では16頭の犬を飼い、 プールで泳ぎ、 3台のキャデラックを購入する。 家庭での力道山は、 二人にとって良き父親だった。 彼は 「父は外見に似ず、 根は細心で神経質な寂しがりやだった」、 「レスラーとしての迫力、 それに政治力、 人間心理に対する深い洞察などあらゆる面で一流であった」 と結論づける。
(5) 森達也 『悪役レスラーは笑う ― 「卑劣なジャップ」 グレート東郷』 (岩波新書、 2005年)
稀代の悪役レスラー・グレート東郷が主人公。 塩で相手の目を潰し、 下駄で殴りつけ、 流血の中でもクビを上下させ、 ニタニタ笑う。 力道山から常に 「東郷さん」 と敬意を持って呼ばれ、 アメリカから個性的な外国人レスラーを日本に送り込む。 守銭奴とみなされ、 力道山の死亡後は日本プロレス界から絶縁される。 日系と称したグレート東郷は、 一説には中国系とも、 朝鮮系ともいわれる。 彼と力道山を結び付けたものは何だったのだろうか。
(6) 李淳 『もう一つの力道山』 (小学館文庫、 1998年)
朝鮮人・金信洛としての力道山を詳細に描いた本。 力道山は北部朝鮮出身のため、 日本国籍を取得後も、 韓国と北朝鮮の政治的対立の渦中で苦悩する。 1961年新潟港に来た万景峰号内で密かに兄と娘に会い、 金日成に高級車を送る。 一方、 1963年に韓国を密かに訪問し、 板門店から故郷に咆哮する。 「日本人」 レスラーの看板の下、 酒に酔うと深夜こっそり同郷の友人が経営する焼肉店を訪れ、 故郷を語り合い、 「アリラン」 を歌った。
- 名著たち
藤本恭比古 (フランス文学) - ただ単に私が薦めたいという理由からだけではなく、 多くの読者が読むことを欲しているからこそ、 何度も版元を変えては生き続けているような書物を取り上げてみたい。
1 松原秀一・松原秀治著 『フランス語らしく書く ― 仏作文の考え方』 (白水社)
もともと第三書房から 『仏作文の考え方』 というタイトルで刊行されていたハード・カバーの小型の本だった。 学生時代、 古書店でたまたま発見した。 短い和文仏訳 (テーム) でフランス語を学ぶことが、 まず新鮮だった。 それまで読んでいたいずれも似たり寄ったりの文法解説の参考書とは切り口が違っていた。 それでいて、 この名著は 「作文」 の本のくせに、 文法説明が明快で網羅的だった。 そして第二部で、 われわれを高度なレベルにまで導いてくれることが分かった。 残念ながら、 私はそこまではたどり着けなかったけれども。
2 スタンダール作、 野崎歓訳 『赤と黒』 (光文社古典新訳文庫)
この作品は、 フランス文学の必読書ベスト、 というランク付けならば、 常に上位に入るのではないか。 これまでに、 岩波文庫、 新潮文庫、 講談社文庫をはじめとして、 何種類も名訳はあるけれども、 この新訳は解説が実に親切である。 作品の時代背景をわかりやすい言葉で、 丁寧に教えてくれる。 訳文はフレッシュで読みやすい。
- 〈人間学〉のススメ
馬本誠也 (英文学) -
1. 内村鑑三 『後世への最大遺物』 (『世界教養全集9』 平凡社刊行、 1962)
物質主義や自己中心主義が横行している今の時代に、 このような書物を紹介すること自体、 アナクロニズムの誹りを免れないかもしれない。
だが、 この本を読み、 私は久しぶりに本当の日本人に触れた思いがした。 「生きる」 ことの意味やこの世に生きる使命感を彼ほど純粋な力強いことばで語れる人は、 そう多くないはずだ。 ここに示されているいくつかの生き方は、 おそらく真摯に自分の行き方を模索している青年の魂に深く訴えてくるのではないだろうか。
わたしは、 すべての学生にこの書物を推薦しようとは思わない。 こころの奥底から聞こえてくる〈内なる声〉に耳を澄ますことのできる人であれば誰でもいい。 「わたし」 とは、 いったい何者であるのか。 自然界における人間の位置づけをどう考えるのか。 「社会」 と 「個人」 はどのように関わり合っていけばいいのか。 およそ人文学部に身を置く学生であれば、 内村鑑三のような高い志しをもった日本人の声に謙虚に耳を傾けて欲しい。 〈文化〉の意味や、 外国語を学ぶ楽しさとすばらしさが、 すべてこのなかで語られている。
この書物は、 すでに過去数年にわたって紹介してきているが、 今日の日本の時勢、 日本を取り巻く世界情勢を考えると、 どうしても今の若い人たちに贈りたい書物の一冊である。 内村は、 その中で、 こう言っている。 「われわれは、 何をこの世に遺して逝こうか。 金か。 事業か。 思想か。 これいずれも遺すに価値のあるものである。 しかし、 これは何人にも遺すことのできるものではない。 ……何人にも遺すことのできる本当の最大遺物は何であるか。 それは勇ましい高尚なる生涯である」
※ ここに紹介した内村鑑三 『後世への最大の遺物』 は、 図書館で検索すれば必ずあると思いますが、 書店での入手は難しいでしょう。 自分で所有したい場合には、 インターネットの 「日本の古本屋」 を検索すれば、 必ずどこかの古本屋が出しています。
2. 吉田健一 『英国の文学』 (岩波文庫)
ずいぶん昔のことであるが、 大学の文学部に入学して、 さてこれから何を勉強していこうかと、 漫然と思案していたとき、 たまたま書店の本棚で見つけたのがこの書物であった。 英国、 および英国人の風土や文学をこれほど見事に語った書物は、 そう多くないと思う。 わたしがイギリス文学を専攻したのも、 この書物に触れ、 その感動を少しでも追体験したいという気持ちに駆られたからであった。 爾来、 この書物はわたしの本棚から消えたことが無い。 折に触れ、 その一部の詩や名文を味読している。 たとえば、 シェイクスピアの十四行詩をつぎのような名文に訳出している。
君を夏の一日に譬えようか。
君は更に美しくて、 更に優しい。
心ない風は五月の蕾を散らし、
又、 夏の期限が余りにも短いのを何とすればいいのか。
太陽の熱気は時には堪え難くて、
その黄金の面を遮る雲もある。
そしてどんなに美しいものでもいつも美しくはなくて、
偶然の出来事や自然の変化に傷つけられる。
併し君の夏が過ぎることはなくて、
君の美しさが褪せることもない。
この数行によって君は永遠に生きて、
死はその暗い世界を君がさ迷っていると得意げに言うことは出来ない。
人間が地上にあって盲にならない間、
この数行は読まれて、 君に命を与える。
このソネットの解説を始めとするシェイクスピアや幾多の文人を語る重厚な文体については、 多言を弄する必要はないと思う。 まず、 手にとって読んでみることだ。
3. BBC活用法
昨年わたしは、 この欄でジャパンタイムズ編の 『ライブ・フロム・ロンドン』 (ジャパンタイムズ社)を紹介した。 これは、 ナマのイギリス英語を現地で録音したものをそのままCD付きの実用書にしたものである。 これでわたしは、 行き帰りの通勤電車やバスのなかでだいぶ楽しませてもらった。 不思議な感覚だ。 目を閉じてウォークマンを聴いているだけで、 こころは すでにロンドンに飛んでいる。 このCDを聴いて思うことは、 イギリス人だって時には言い間違えたり、 文法的に正しくない英語を発していることがある、 ということだ。 まして、 わたしたちは外国人だ。 英語を話すことを躊躇したり、 尻込みしたりすることはない。 実用英語を身につけようとするならば、 まず笑顔で話しかけてみることだ。 今は昔と違ってネイティブスピーカーの授業を受けようと思えば、 いつでも機会は提供されている。 福岡大学は、 ネイティブスピーカーの数だけでも全国有数のスタッフを擁している。 学生諸君がこの教育環境の利点を積極的に利用されることを勧めたい。
しかし、 本場の英語を日常的な場でもっとシャワーを浴びるように聞きたいと願う学習者に勧めたいのが、 インターネットを利用した 「BBC活用法」 である。 グーグル検索でも何でもいいから、〈BBC 活用法〉と入力して検索すれば、 その利用の仕方について具体的に教示してある。 これで、 学生諸君は日本に居ながらにして英国本国のラジオ放送五局を現在流されているかたちでそのまま聴けることになる。 なかでも特に学生諸君に勧めたいのがひとつある。 『英語学習者向け : BBC Learning English』 のコーナーだ。 ここをクリックすれば、 テキストや単語の解説まで用意されているので、 時事英語を勉強するには最適な教材だと言えよう。。
- カネにならないものの価値
道行啓爾 (イギリス文学) - 佐藤弘著 『宇根豊 聞き書き 農は天地有情』 (西日本新聞社)
「金銭の欲は、 すべての悪の根」 (『聖書』 「テモテへの手紙一」 六章十節) とあるように、 お金には負の側面があります。
人間が発明したもののなかで、 至極ありがたい反面、 いちばん厄介なものは 「お金」 でしょう。 思えばカネにまつわる芳しくない話題がいつも世をにぎわせています。 悪徳商法や偽装、 詐欺、 脅し、 等々忌まわしい悪事が横行し、 社会は狂ってしまっています。 人の命にかかわることなのに、 金儲けのためなら、 食べられない品まで流通させてしまう。 目下世界が直面している大不況も、 その発端は金融界の破綻であった。 つまり過剰な金銭欲にかられて理不尽なことに走ってしまったのです。 「金が金を生む」 という考えに足元をすくわれてしまった結果です。
現代社会が陥っている困難な状況 ― 紛争、 食料、 環境、 エネルギー、 失業、 貧富格差等の問題 ― から脱却するにはお金儲けをよしとする 「常識」 ははたして通用するのでしょうか。 いつまでも金中心の世の常識にしがみついていると、 金と心中してしまうことになってしまいます。
そうならないためにも、 カネにならないものに価値を見出す新たな思想に耳を傾けてほしいのです。 田舎の思想家 と胸をはって自認する宇根豊は、 「冷静になって考えると、 人生を支えているものの大半は、 カネにならないものです。 間違いなく、 カネで買えないものが未来に残ります」 と言い切っています。 金銭主義に傾斜した価値観を問い直し、 カネで評価できないものにこそ、 おおきなめぐみが隠されていることをわたしたちに伝えようとしています。
ここにお薦めする本では、 偉大な思想家宇根豊の足跡とユニークな思想が語られています。 その思想の一端を別著から引いてみますと、 「従来の農学は、 近代化が進んでいるかどうか、 つまり生産性が向上しているかどうかで技術や経営を分析し、 優劣をつけてきた。 それに対して、 天地有情の農学は 「非近代化尺度」 を提案する。 …労働時間が長くても、 労働がきつくても、 収量が少なくても、 収益が減っても、 働く喜びが増え、 自然に対するまなざしが深まるなら、 価値があるとする尺度である」 (宇根豊 『天地有情の農学』 (コモンズ) とあります。
「カネになるものだけが生産ではない」 ― このことばを、 あなたはどう受けとめますか?
追記 ― 実はこの宇根豊という人にわれわれ全国民はこの上もない恩恵をうけています。 そのことを佐藤弘は《あとがき》でこう記しています。 「赤ん坊のへその緒からダイオキシンが見つかる現代。 もし、 宇根豊という農業改良普及員の出現が十年遅れていたら、 農薬汚染による日本人の健康被害は今以上に広がっていただろう。 減農薬運動によって、 国民の命を救った男が、 この九州にいることを多くの人に知ってもらい…。」 これは宇根豊の 『減農薬のイネつくり』 他、 多くの著作と働きかけによって、 全国で農薬使用が以前に比べかなり削減され、 その結果、 環境汚染が軽減され、 人間をふくむ生きとし生けるものすべてが被ったであろう甚大な被害が回避された事情に触れたものなのです。
- 『きみが読む物語』
毛利潔 (フランス文学) - 最近 (2005年2月) の週刊誌に 「おじさんだって泣きたい映画! 『きみに読む物語』 (2004米) 」 という記事がありました。 それに倣って、 今回のタイトルを 『きみが読む物語』 としました。
では、 どんな物語なのか?
世界には無数の物語があって、 そのどれかを、 明確に、 ひとつの 《物語》 として、 意識して読むことができれば、 それが誰にとっても、 それが自分の物語になることははっきりしています。
しかし、 どんな物語なのか・・・?
たしかに、 この世界は様々な出来事に満ち溢れ、 ほとんどすべてが謎に埋め尽くされた世界のようです。 しかし、 本当のところ、 この世界はただ、 古今の哲学が語るように、 静かに風だけが吹いているだけの世界かも知れない、 と考えることができるかも知れません。 このような風景を描写できる小説が、 もし、 あるとすれば、 たぶんそれが、 「究極の小説」 だと言うことができます。 これまで、 そのような小説を書くことのできた小説家は一人もいないからです。 ただ、 それに近い世界に接近できた作家は何人かはいることは確かです。
その一人がトルーマン・カポーティ。
1 『ティファニーで朝食を』 2 『草の竪琴』 3 『遠い声 遠い部屋』
(1、 2は映画化されています)
カポーティとは、 では、 どんな作家なのか? それは、 いずれ分かります。 ただ、 私としては、 カポーティに関しては、 一つしか言うべきことはありません。 それは、 彼がこの世界に一番近い作家だ、 ということです。
たとえば、 『ティファニーで朝食を』 の中で、 ヒロインが作家志望の青年の小説の習作をコメントして、 「あんたの物語には (中略) ただ、 木の葉のそよぎがあるだけ」 というようなことを言う部分があります。 つまり、 この作品には、 木の葉のそよぐ風の描写しかない、 という訳です。
こんな風に、 何にも事件が起こらない、 ただ、 風が吹くだけ・・・こんな世界が本当に面白いのだろうか、 ただ、 うざったいだけかも知れない、 と考える新入生の方には、 とりあえず、 村上春樹さんの小説をお勧めします。 (ただし、 『羊の歌』 までの初期群の作品に限ります)。 とりわけ、 デビュー作の、 その名もズバリ、 『風の歌を聴け』 です。
おそらく、 はじめは、 何も分からないかも知れません。 しかし、 私たちが理解しなければならないことは、 ひょっとしたら、 そのような世界があるのかも知れない、 という、 普段は見えない世界を意識することではないか、 と思っています。
村上春樹を通して、 カポーティが何となく分かった、 となれば、 後は皆さんの自由です。
いきなり、 オカルトとかポルノの世界に入っても構いません。 キーワードはちゃんと掴んでいるからです。
- 歴史と文学との垣根をとり払おう
森茂暁 (日本史) -
福田秀一・岩佐美代子・川添昭二他校注 新日本古典文学大系『中世日記紀行集』(岩波書店)
創造的な人生を送るには、 柔軟な頭脳と大胆な発想とがまず必要でしょう。 身近なことでは、 たとえば卒業論文のテーマ探しや執筆のさい、 このことは決定的に重要です。 常日頃から固定的な物の考え方をしないで、 自分の頭で物事をのびのびと考えてみましょう。 ここでは、 文学の史料は歴史の史料として充分に活用できるということを述べます。
例えば、 鎌倉初期成立の 『平家物語』 、 鎌倉末期成立の 『徒然草 (つれづれぐさ) 』 、 南北朝末期成立の 『太平記』 などは、 高等学校の段階まではいずれも文学作品として扱われ、 古典の時間に読まれます。 しかし、 このような作品は同時代の歴史を知るための史料として極めて有用で、 価値の高いものです。 今度は歴史の史料として再読しましょう。 むろん原文で。 この場合肝心なのは、一部分ではなく全部を読み通おすことです。 きっと感動が湧きおこります。 古典のもつ不思議な力です。
さて、 冒頭にあげた書物はそれに類するものです。 日本中世の紀行文 (旅行記) が多く収められています。 中世日本人の旅行意欲をかきたてたのは (すべてが単なる旅行ではありませんが)、 十四世紀の南北朝の動乱を通した人々の地理的視野の広がりだと筆者は考えていますが、 この動乱を契機に国内を旅する人が増えてきます。 そのようななかで、 紀行文が書かれるわけです。 それらは主として国文学のジャンルで研究の素材となってきましたが、 歴史の方ではほとんど無関心です。
このような紀行文が、 どのような意味で歴史研究に有用かというと、 たとえば、 阿仏尼 (あぶつに) の 「十六夜日記 (いざよいにっき) 」 は、 十三世紀後半 (鎌倉時代) の所領訴訟関係史料としてはもとより、 東海道 (京都と鎌倉をつなぐ基幹道路) の交通史の史料としても使えますし、 また、 連歌師宗祗 (そうぎ) の 「筑紫道記 (つくしみちのき) 」 は、 十五世紀後半 (室町時代) の筑前・豊前国 (福岡県)、 特に博多の人々の生活や周辺の景観をくっきりと描き出しています。 一例をあげますと、 筥崎宮 (はこざきぐう) を訪れた宗祗(そうぎ)は博多湾をへだてて、 夕日のなかの可也 (かや) 山 (福岡県糸島郡志摩町) をながめ、 「富士に似たる山」 と感慨深げに書き留めています。 同記は、 大内氏研究のための史料としても貴重です。
同書では丁寧な脚注や解説が施されていますので、 容易に読み進むことができます。 さあ、 実際この本を手にとって、 読んでみましょう。
- 心を鍛える
山内正一 (イギリス文学) -
宇野 千代 『天風先生座談』 (廣済堂文庫) 2008年近藤 信行編 『山の旅』 明治・大正編、 大正・昭和編 (岩波文庫) 2003年田中 澄江 『山はいのちをのばす』 (青春文庫) 2000年明治生まれの女流作家おふたりの、 心と身体の健康をめぐるエッセイを紹介したいと思います。 宇野さん (1897―1996年) も田中さん (1908―2000年) も90歳を超す長寿を全うし、 晩年まで健筆をふるわれた、 人生の達人と呼べる方々です。 宇野さんの本は、 知る人ぞ知るあの中村天風の講話を彼女が編集したもので、 初版は1987年に上梓されました。 両書とも、 心身を賢く管理して人生をいかに豊かに生きるか、 というテーマについて貴重なヒントを与えてくれます。 これから本格的な自己形成を目指す大学生にとって、 貴重な指針を与えてくれるものと信じ、 ここに紹介することにしました。
田中さんの本には 「老いを迎え討つかしこい山の歩き方」 という副題が付いていますが、 老いない人間はいないわけですから、 若い学生の皆さんにとっても心身を鍛錬するうえで有意義な本であることに変わりはありません。 執筆開始時、 田中さんは89歳。 「体力と精神力の強化が、 私が山歩きをすすめる理由」 (147頁) と断言する彼女は、 「苦しい登りの道で出会って、 息もたえだえの身をどんなに花に励まされたことでしょう」 (78頁) と言える心根の持ち主でもあります。 49歳で北アルプスを縦走したあとで大腿骨骨折の手術を二度し、 リハビリの甲斐あって58歳で再び北アルプスを歩けるようになったという、 田中さんの山への深い思いは次の文章に良くあらわれています ― 「私はキリスト教徒ですけれど、 神道にも関心があります。 (中略) 私は自分が山を歩くのは、 山を通して神が大自然の気を吸わせてくださるのだと感謝している」 (45頁)。 「山は病院」 「山は保養所」 という彼女の言葉 (92頁) の奥行きは深いのです。
『山の旅』 は、 明治・大正・昭和と三代にわたるわが国の 「山の文学」 の精髄を集めたものです。 「自然と対峙するのではなく、 自然のなかに溶けこんで一つになる」 (大正・昭和編、 451頁) という、 山と日本人の触れ合いのありようを確認できる良質の文章の宝庫です。 田中さんのエッセイと併読することを勧めます。
宇野さんの本は、 独特の心身統一法を創出した巨人、 中村天風の健康哲学の解説・案内書になっています。 「優柔不断に、 ただ、 あるがままに生きているんじゃァ、 長生きは出来ないんだよ。 生活の条件の中の肉体の、 一番大事なことは、 終始一貫、 いかなる場合があっても、 訓練的に積極化して行く。 これで、 心身統一の根本条件が具体化したんです」 (81頁) という天風の言葉は、 「心を鍛えたければ、 まず肉体を鍛えなさい」 と語っているように聞こえます。 しかし、 別所で天風はこうも述べているのです ― 「健全な肉体は健全な精神によって作られるのであって、 健全な肉体によって精神が作られるのではない。 (中略) 心は心の方から直さないかぎりは強くなれない」 (107一108頁)。 要は、 肉体の鍛錬が先か心のそれが先かではなく、 心身一如の境地を目指す両者の鍛錬こそ真の健康の源なのではないでしょうか。 そこにこそ人生を生きることの妙味が生まれる。 このことを、 田中さんと宇野さんは (そして天風さんも) 教えてくれているようです。 皆さん自身の目で読んで、 この点を確かめていただきたいのです。
- 異国の風に吹かれてみよう
則松彰文 (日本史) -
小学校・中学校・高校と、 公立・私立を問わず、 多くの学校が修学旅行に出かける。 もちろん、 行く先は千差万別で、 この小冊子を手にしておられる人文学部の新入生諸君も様々な経験をお持ちのことであろう。 私の三人の子供たちも、 一人はニュージーランドのファームステイ、 一人は北海道スキー合宿、 いま一人は、 国内外の複数の候補地から自由に選択するというものであった。 修学旅行で海外へ渡航した経験をお持ちの方もおられようが、 実際のところ、 これは甚だ少数派である。
概して、 福岡大学の学生さんは、 こと海外旅行に関しては消極的ないし臆病である。 私が担当する共通教育の 「東洋史」 を受講する多くの学生諸君に尋ねても、 「是非一度、 在学中に海外に行ってみたいです」 との希望表明はするものの、 実際、 卒業までにそれを果たす者は、 思いのほか少数に止まっている。 一昨年の夏、 歴史学科東洋史四年ゼミの学生諸君とタイへ、 今年の春には同じくベトナムへ研修旅行に出かけた折にも、 まず最初にやるべきことはパスポート作り、 初めての海外という者が大半であった。
私が学生時代を過ごした1970年代、 海外は、 たとえそれが旅行であっても遥か遠い存在であった。 大学三年生の時に同じゼミの女の子が、 まだ改革開放が始まる前の、 「文革」 終了直後の中国へ研修旅行に行ったのだが、 一週間の滞在費用が25万円と、 当時としては異常な高額で、 私など参加を考えることすら能わぬ身分だった。 もっとも、 今なら全く同じ旅程で十万円もしないのだろうが。
その時代からすると、 中国に限らず、 状況は一変した。 一昨年は異様なオイルの高騰で、 正規旅行代金に数万円単位のサーチャージが上乗せされていた時期もあったが、 今ではそれも終息している。 また、 一昨年秋からの世界的不況の影響から日本人の海外旅行は自粛傾向にあるため、 旅行各社とも、 かなり安値の各種海外ツアーを企画している。 学生諸君は、 このチャンスを逃す手はなかろう。 韓国釜山プサンなら、 博多港からビートルに乗って日帰り可能。 福岡空港から台湾や上海までのフライトなら、 札幌に行くよりもかなり早く着く。 ヨーロッパやアメリカ、 オセアニアだと、 さすがに十時間前後の空の旅だが、 それでも半日後には到着可能な距離である。
臆病風に吹かれたままでは、 依然、 海外はいつまでたっても夢のまた夢・・・。21世紀の今日、 やれグローバル化社会だ、 やれ国際化だと声高に叫ばれてはいるが、 自ら直接異国を体験しなければ、 その何たるかなど真の認識を持つことは容易ではないだろう。 日常生活において全くといっていい位に 「国境」 というものを意識しない日本に暮らし、 その南の九州という島の福岡という街に埋もれたままでは、 せっかくの若い脳も新鮮な感覚も錆びついてしまうというもの。 バイトで稼いだ大事なお金をブランド品の購入や酒代に費やすばかりでなく、 まことに貴重な自分への投資に回してみてはいかがだろう。 旅行社が企画する安全・割安のパックツアーに身を委ね、 学生時代の出来るだけ早い時期に、 遠近の 「異国の風」 に吹かれてみてはいかがだろうか?
- 汽車旅の勧め
山縣浩 (日本語史) - 近年交通手段が多様化し、 相対的に鉄道の地位が低下してきたことは周知のことであろう。 このため、 鉄道を目的地に至るための手段としてでなく、 列車に乗ることを目的とする余裕が生まれ、 そのような行為が注目されるようになってきた。 鉄道会社によって様々な乗り放題の企画切符が販売されるようになったこともそれに拍車をかけている。
この文章は、 列車に乗ることを移動のため、 即ち、 目的地に至るための手段でなく、 乗ること自体を目的とする 「汽車旅」 を勧めようとするものである。 列車に乗って、 行ったことのない土地をゆっくり巡り、 新たに発見すること、 感じることがあれば、 それはきっと若いみなさんの人生にとって大きな糧になると信じる。 また 「用事」 もなく列車に乗るからこそ生まれる楽しさもある。
内田百閒 (ひゃっけん) 『新潮文庫・第一阿房 あ ほう列車』 新潮社 (初版・1952年) ―― 『新潮文庫・第二阿房列車』 新潮社 (初版・1953年) ―― 『新潮文庫・第三阿房列車』 新潮社 (初版・1956年) 宮脇俊三 『角川文庫・時刻表二万キロ』 角川書店 (初版・1978年) ―― 『新潮文庫・最長片道切符の旅』 新潮社 (初版・1979年) ―― 『角川文庫・増補版時刻表昭和史』 角川書店 (初版・1980年)
列車に乗る楽しさを教えてくれる古典的な入門書が、 百閒氏・宮脇氏の諸作品である。
高度経済成長期前の1951年に雑誌掲載された百閒氏の 「特別阿房列車」 冒頭の二・三文 「用事がなければどこへも行ってはいけないと云うわけはない。 なんにも用事がないけれど、 汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う。」 (『第一阿房列車』 7頁) は、 汽車旅の精神を表している。 ただ、 一連のシリーズの面白さは、 旅の先々での出会いによる人間観察の妙にある。
なお、 百閒氏は九州に何度もやってきたが、 八代の松浜軒が段々お目当てになってきている。 このため、 福岡・博多に立ち寄ることはあるが、 当時の博多駅や街の様子はあまり描かれていない。
鉄道紀行を文学として確立し、 また列車に乗ることの本当の楽しさを教えてくれるのが宮脇氏の諸作品である。 それらの中でも先ず手にしてもらいたい作品を掲げた。
『時刻表二万キロ』 は、 宮脇氏が出版社に勤めながら、 週末などを利用して国鉄の全線を乗り尽くした記録である。 当時の国鉄の総延長が約二万キロであるため、 この書名となった。 赤字ローカル線廃止以前のことであるので、 氏は筑豊の添田線・上山田線・漆生線・宮田線などにも乗車している。
その偉業を成し遂げた後、 出版社を退社し、 本格的な取材に基づいて書かれたのが、 『最長片道切符の旅』 である。 「自由は、 あり過ぎると扱いに困る。」 (同書九頁) の一文で始まる本書は、 「制約」 を求めた結果、 「同じ駅を二度通らなければどんなに遠回りであっても片道切符になる」 「一筆ひとふで書き切符」 (同書12頁) で最も長い経路を算出し、 最短で2,764・2キロのところを13,319・4キロもの大回りをして、 広尾駅 (今はなき北海道の広尾線) から枕崎駅まで乗車した、 壮大な汽車旅をまとめたものである。 約20年前に読んだ際には、 あまりの馬鹿馬鹿しさに呆れると同時に、 そのエネルギーを羨ましく思った (なお、近刊の 『「最長片道切符の旅」 取材ノート』 (新潮社・2008年) を併せて読むと、 本書の面白さは倍増する。 また、 この 『取材ノート』 に付された後掲の原武史氏の注も絶妙である)。
『時刻表昭和史』 は宮脇氏の別の面を物語る名著である。 特に第13章 「米坂線一〇九列車 ― 昭和二〇年」 は様々な人によって取り上げられている。
政治思想史を専門とする原武史氏は 「この本の圧巻」 として宮脇氏が 「ただの鉄道マニアではなかったことを思い知らされる」 (『講談社現代新書・鉄道ひとつばなし』 講談社95頁) 文章とする。 また作家の関川夏央氏は宮脇氏と同じく米坂線の今泉駅 (山形県長井市) に佇たたずみ、 玉音放送を聞いて 「時は止っていたが汽車は走っていた。」 (『時刻表昭和史』 249頁) という宮脇氏の一文を受け、 「終戦の夏を思わせる風景は何もなかった。 …いまも時は止まっているが、 その質が違う。」 (『汽車旅放浪記』 新潮社132頁) と結ぶ。 そして、 英文学者の小池滋氏は 「昭和20年8月15日を描いた短篇の傑作のひとつ」 (303頁) として鉄道を扱った名作アンソロジー 『鉄道愛 [日本篇]』 (晶文社) に納める。
右の諸作品によって旅情がかき立てられたら、 実践である。 汽車旅を楽しいものとするための五箇条を記す。
汽車旅は単に列車に乗っていればよいというものではない。 車中で、 友達とおしゃべりに興じたり、 携帯電話を眺めたりしていては無意味である。
① 一人であること。
② 携帯電話は持参しないこと。 たとえ持参しても非常事態への備えのためである。 必ず電源を切り、 鞄やリュックサックの下の方に入れておく。
③ 晴天時を避け、 曇り・雨・雪の日に乗車すること。
④ 大判の時刻表を持参すること。
⑤ 一日に列車が往復十二本以下の路線に努めて乗車すること。
汽車旅の楽しみは、 車窓からの眺めと車内での乗客観察にある。 それを妨げないための条件が①~③である。
近年は⑤のような地方ローカル線でも汽車旅ブームのためか、 時期・曜日によっては座席が一通り埋まってしまうことがある。 このため、 晴天時にはブラインドを閉めるの、 閉めないのでトラブルが生じる。 不愉快な思いをさせられる。 それを避けるため、 日の射さない日を選ぶか、 北側の座席を占めることを勧める。 しかし、 列車は絶えず方向を変え、 また日が僅かでも射すと、 すぐにブラインドを閉めたがるエセ旅人がいる。
汽車旅に際して、 私は携帯がなくて困ったことがない (元々持たないので困りようがないが)。 しかし、 時刻表がないため、 不安に思ったことは少なくない。 万が一のことが生じた場合、 例えば、 雨や雪が度を超したために発生する列車の遅れ・運行打ち切りなどに対しては、 携帯電話より、 情報満載の、 特に大判の時刻表が頼りとなる。 それに時刻表は絶対に充電切れしない。
最後に地方ローカル線での様々な出会いを記す。
一般にローカル線は自然に恵まれたところを走る。 近年は多額の税金が投入されて、 どこに行っても道路が整備され、 鉄路と平行する。 しかし、 地域によっては鉄路しか敷設されていないところがある。 そして、 列車だけからしか眺めることのできない絶景が少なくない。 また難所では列車は時速10キロ・20キロで走るため、 ゆっくり絶景が楽しめる。
約670キロにも及ぶ山陰本線は、 殆どの区間日本海に沿って走るが、 海が望める箇所は意外と少ない。 兵庫県の竹野駅・居組駅間は、 確かに鎧駅や餘部 (あまるべ) 鉄橋など、 有名どころはあるが、 線ではない。 島根県の出雲と石見の境、 田儀駅・久手駅間では、 絶壁の端を走り、 日本海を見下ろす。 しかし、 海は遠い。 一番は、 益田駅・東萩駅間の山口県内であろう。 鉄路が海にせり出す。 飛沫の掛かりそうな間近、 また崖の中ほどなどで鉄路が海に寄りそう。
また島根県の宍道駅から広島県の備後落合駅に至る木次線は、 奥出雲に分け入る。 その中で圧巻は、 三段スイッチバックの出雲坂根駅からである。 スイッチバックで行ったり来たりして駅を出ると、 八岐大蛇 (やまたのおろち) がとぐろを巻いた姿をイメージさせる二重ループ式の奥出雲おろちループ橋を谷の向こうに、 また眼前にしながら、 一両の気動車は山肌に張り付いた鉄路をゆるゆる登っていく。
また思わぬ光景をローカル線は見せてくれる。
人家は多く道路を意識して建てられている。 このため、 鉄路に対しては無防備である。 目を凝らすと、 地域の生活や人々が目に飛び込んでくる。 家の中が丸見えで、 すっかり陽気のよくなった頃であるのに居間に炬燵 (こたつ) がしつらえてあったりする。 道路に背を向け、 安心して用を足しているおじさんを列車の真下に見ることもない訳ではない。
また近年は山間の路線で朽ちた人家や廃校、 荒れ果てた田畑や倒木の夥しい山林を見かけることが多い。 「さようなら○○小学校!」 などと、 半紙に一字一字書かれ、 ガラスの内側に貼られた文字列を捉えることもある。 しかし、 そんな路線でも、 山と川に挟まれた狭い土地に建つ一軒家で、 物干しに掛けられた子供服を目にすると、 何かほっとする。
地元の人たちの会話が聞こえてくることもある。
晩秋の芸備線、 新見駅・備後落合駅間である。 お年寄りが病院通いの必要性からやむなく倉敷に住んでいるが、 冬に備えて以前住んでいた備後西城の家の様子を見に行くという話を聞いた。 たまたま乗り合わせたおばあさんどうしであったが、 都会暮らしはねえ…など、 一人の方が降りるまで話は続いた。
南アルプスを見上げ、 天竜川に沿って走る飯田線では、 小さな花束を持った、 卒業式帰りと思われる女子高校生たちと一緒になった。 明日進学か就職かのため、 東京に発つ話をしていた。 同じように親元を離れるとき、 私が抱いた不安と期待を思い出した。
高校一年生の間、 私は蒸気機関車の牽引する古びた客車に乗って、 季節ごとに姿を変える椹野 (ふしの) 川や東西の鳳翩 (ほうべん) 山、 盆地に広がる田畑を眺めながら、 通学した。 二年生からは気動車になったが、 今思えば、 毎日が汽車旅であった。
それから数十年経った今日、 学会や出張などで新幹線や飛行機を利用することが多くなった。 その帰路に時間の余裕があれば、 汽車旅を敢行することがある。 しかし、 日常的には改まってすることになる。 確かに時刻表と首っ引きで計画を練ることは楽しい。 その際、 一日に数本の列車しか走らない路線の起点に効率よく辿り着くため、 新幹線や夜行バスを利用することもある。 そして、 列車に乗り込めば、 沢山の楽しみに出会えるが、 堅いシートに長時間座り続けるのはいささか辛くなってきた。
大学生の頃にいろんな乗り放題切符があったなら…と思う。 その頃であれば、 もう少し鋭い感受性で、 見るもの、 聴くものを受け入れ、 もう少しまともな大人になれていたかもしれないと考える。
- 花咲か爺さんを悼むの記
山田英二 (英語学) - 「砂漠の団子(だんご)」 というと、 皆さんはどういうイメージを抱きますか? 砂漠で美味しいお団子を食べる宴会、 とか? はたして、 一体それはどのようなものになるでしょう。
毎年、 世界中の広大な大地が、 土壌浸食により砂漠化しています。 ケニアなどの国の状況は特に深刻です。 このまま砂漠化が進み、 地球の表土が更に僅か三%以上失われると、 人類は生きながらえることは出来ないと言われています。 これに対して、 私たちに何かできることはないのでしょうか。 実は、 この問題の大部分は現代的な集約農業方法に起因しています。 ここで 「自然農法」 というキーワードが出てきます。
この自然農法で世界的に有名な (国連で演説までしたという) 福岡正信さんは、 砂漠を自然に再生できる種を植えるというユニークな試みを提唱した人です。 彼が用いたのが、 「粘土団子」 なのです。 それは、 小さな粘土玉にバランスよく、 注意深く選んだ、 百種類以上にも及ぶさまざまな種子を埋め込んだもので、 鳥や、 小動物や、 虫から種を守ります。 また、 粘土に埋め込むせいで、 種が風で飛ばされることも、 過乾燥することもなく、 大雨が降っても流されてしまうこともありません。 この粘土玉は80%が粘土、 20%が腐葉土のため、 滋養豊かな温床となります。 朝露が粘土玉の下部に集まり、 その水分により、 種子は発芽できるのです。
この粘土玉はソマリアやギリシャにある不毛な砂漠地で、 実際に緑を再生するのに活躍してきました。 そして今後、 この特別な粘土玉は軽飛行機などを利用し、 世界のあちらこちらの砂上に更に撒かれる運命にあります。
現代の花咲か爺さんとも言うべき、 粘土玉アイディアを生み出した福岡正信さんは、 一昨年 (2008年) の夏に95歳で亡くなられました。 仙人の如き風貌からして、 もっと長生きして下さると思っていたのですが、 残念です。 愛媛県伊代市で、 若い時からずっと大地と共に生きてきた人で、 その実に独特な自然農法哲学は、 皆さんの目を驚きで見張らせるに違いありません。 彼は 「35年間耕さず、 草もとらず、 肥料もやらず、 消毒もせず」 に田んぼを作り、 米と麦とを毎年連作してきました。 (「だめじゃん、 そんなの!」 と今あなたは思いませんでしたか? 実は、 私も始めはそう思いました。) そして、 その結果は?
ご本人曰く、 「一反あたり、 10~13俵、 おそらく日本一の収穫量であろう。」
どんな魔法のやり方かというと、 ただ、 稲刈り前の田んぼにクローバーの種と麦をまく。 稲を刈り取ったら、 籾もみをまいて稲刈り後の長いわらもそのまままき散らすだけ、 というのです。 しかしこの 「人間は、 何もしなくていい農法」 の実践者の頭の中には 「人間革命というのは、 わら一本からでも起こせる」 という大胆不敵な思索があったのです。 それが、 砂漠に今も発芽の時を待つ、 無数の粘土玉に結実しました。
さあ、 もうこの花咲か爺さんには会えませんが、 彼の書いた本をどれでもいいから手に取ってぱらぱらと捲ってみませんか。 世界の砂漠でお団子、 という地球的宴会気分が味わえるかもしれませんよ。
推薦図書 『(自然農法) わら一本の革命』 『自然に還る』 『「自然」 を生きる』 など (いずれも春秋社) 「現代の老子」 こと福岡正信著
- 岡村敬二 『江戸の蔵書家たち』 (講談社選書メチエ71)
山田洋嗣 (日本文学) - 昨年、 江戸後期の和学者、 小山田与清のことを調べていて大変面白かった。 本当はここで与清の 「擁書楼日記」 をすすめたいのだが、 いささか特殊にすぎるかと思いなおしてこの本にする。
江戸時代になると書物の流通が広くさかんになり、 出版も多くなって、 自然大勢の読書家や蔵書家、 また著作や出版に志す者、 分類や目録を作る者、 あるいは索引を編もうとする者が出てくる。 岡村敬二のこの本はその人々の群像とそのなさんとしたところをいきいきと描き出してみごとである。 また、 それがこの時代の文化のうねりを描くことにもなっている。
ことに面白いのは、 冒頭の小山田与清とその蔵書に群がる人々の様子である。 与清は蔵書のために蔵三つを建て、 五万巻を収めたというが、 彼らを動かすのは、 すべての書物を集めたい、 すべての書物を読みたい、 すべてを分類したい、 という静かな狂気である。 そのために彼らは集いまた離れつつ、 本を求め、 購い、 貸借を、 輪読を、 抜書を倦まずにくり返すのである。
私は、 実は小山田与清という人間をあまり好きになれないし、 その著作が面白いとも思わない。 「行為」 が面白くて、 「結果」 が面白くないのは彼の特徴である。 しかし、 この様子を書くのに岡村が主な資料として使った 「擁書楼日記」 は、 その様子が日々記録されていて、 実に面白いのである。
なお、 こちらを読みたいと思う人がいるかもしれないから書いておくと、 「擁書楼日記」 は明治45年に出された 『近世文芸叢書』 の第12巻に入っている。 ただし、 活字化するにあたっての間違いが所々にあるから注意しなければならない。 気になる人は、 早稲田大学図書館のウェブ・ページに与清自身の自筆本の写真版が公開されているから、 それを見るといいと思う。
- 推薦図書 ― 五感を研ぎ澄ませて ―
山中博心 (ドイツ文学) - 今、 情報が氾濫し、 何に基づいて判断していいかが分からなくなっています。 文字を通して学んできたことが大半であるため、 自信を持ってこれだと確信できるものが少ないのではないでしょうか。 物事を分析的に説明するような文章には慣れていても、 何気ない劇の中の短い台詞や、 心模様を表す表現には疎くなっています。 知性だけではなく感性を磨く必要があります。
感性、 感覚と言えば最近 「オノマトペ」 に関する書物がたくさん出版されています。 その中でも 『日本語オノマトペ辞典』 を出されている小野正弘さんの 『オノマトペがあるから日本語は楽しい』 (平凡社新書) はいろいろな側面からオノマトペについて書かれていて、 楽しめます。 日本の詩人・作家の中でオノマトペを多用する宮沢賢治、 吉本ばななに共通して見られる現象は、 生き物や他者に対する共感や感情移入です。 対象と自己の間の垣根を超えようとする心の在り方は極めて日本的と言えそうです。 ちなみに日本語のオノマトペの数は英語の3倍らしいです。 それには日本人の身体観が大きく関わっているのではないでしょうか。
もう一冊は西垣 通さんの 『ネットとリアルのあいだ』 (ちくまプリマー新書) です。 人間は 「言語的自己」 と 「身体的自己」 の複合体であり、 「考える」 デジタル的左脳と 「感じる」 アナログ的右脳をどのように橋渡しするかが、 21世紀の社会の豊かさを決定する、 と西垣さんは考えておられます。 それは、 あまりにも言語的な 「個の世界」 が肥大化してしまい、 身体的なものを基礎とする 「共同体」 が忘れられている今の時代への警鐘と言えます。 情報工学の先駆者であり、 大家である著者は理系と文系を総合的に考えることを唱導されています。 西垣さん自身が小説も書かれており、 説得力があります。
上記2冊の本を読んで大学で学ぶための基礎体力を作って下さい。
- 考える力のために―パスカル『パンセ』のすすめ―
輪田裕 (フランス文学) - 世はIT時代。 情報を手にいれるための道具はますます便利になって、 音楽も、 かつてのカセットテープのためのウォークマンなど全く比較にならないほど、 音質も容量もすぐれた機器が出現しています。 昔の話ですが、 LPレコードで音楽を楽しんでいた私には、 針が飛ばないように身動きにも気をつけながら耳を澄ましていたころのほうが、 今よりも音楽を聴いたという実感があったような気がします。 語学も、 いまや電子辞書でらくらく単語をひくことができます。 でも便利になって語学は上達したのでしょうか。 確かに同じ労力をはらっていれば、 かつて以上に上達しているに違いないのですが。
さて、 ここに紹介するパスカルの 『パンセ』 は文庫本に収まるほどの量にすぎません。 それも断片の寄せ集めなので最初から最後まで通して読むことが求められるものではありません。 一つの断片は、 短いものなら数秒で、 長いものでも15分もあれば読み終わる長さです。 その断片のどこから読んでもいいし、 どこで終わってもいい。 仮に意味を取り違えてしまっても、 誤解も一つの読み方なのだと思わせてくれる一冊です。 では、 気楽な随筆なのかといえばそうではない。 簡単に分かってしまうものは少ない。 何度も読み返すこと、 行ったり来たりすること、 さまようこと、 そうしているうちに少しずつ理解できてくる。 はっとする言葉に出会ったり、 反発を感じたり、 つまり 「こころ」 に何かがひびくとき、 それがパスカルの声が直接聞こえたときです。
考える力、 などというといかにも論理的思考を意味しているように思うかもしれませんが、 実は 「さまようこと」 なのではないか、 と思います。 あるいはそのように 「さまよう力」 といってもいいでしょう。 さまようのは手引きとしてのマニュアルがないからです。 わたしたちの生きる世界にはマニュアルはありません。 たとえマニュアルがあったとしても、 それはすでに 「今」 には通用しないものです。 「今」 を生きるためには、 さまよいながら自分で作るマニュアルが必要です。 つまり、 自前のマニュアルです。
『パンセ』 を読み、 自前のマニュアルを作ることができるように、 さまよう力をつけませんか?
Ⅱ. 探索の勧め
- 「少年よ大志を抱け」 と言えなくなった世の中になってしまったのかなあ
青木文夫(スペイン語) - 座右の銘とか金科玉条とかいった大袈裟なものではないけど、 若い頃からの人生の拠り所にしていた銘として、 「よく遊び、 よく学べ」 と 「宵越しの金は持たない」 ともう一つ 「少年よ大志を抱け」 というのが我が三大基本理念であった。
最初の銘は理想であって、 「よく遊び、 よく遊べ」 になることはしばしばで、 間違っても 「よく学び、 よく学べ」 になることはなかったが、 二番目のは、 バブルが崩壊する平成に入るまでは実によく守ったと言うべき銘であった。
過日、 中山競馬場でのある最終レース。 狙いの連複は二番人気の八倍強の配当 (当時は今と違い枠連複という連番の買い方のみ)。 手持ちの五万円も残り二万ちょっと。 帰りの交通費と焼け酒代を残して二万円で一点買い。 このあとのコース。 見事的中の場合は、 即タクシーで錦糸町へ。 友人三名を引き連れ、 焼肉と寿司屋で大散財。 外れの場合は、 下総中山駅までおけら街道をとぼとぼ歩き、 途中でん助賭博の香具師なんかを見て、 駅近くの焼き鳥屋で安いハイボールをやりながら、 犬でも猫でもいいからもう一レース走らせろと悪態をついての憂さ晴らし。
でも、 翌日は博士課程のゼミで束縛理論 (当時の生成文法の中心理論) の論文と真剣に睨めっこ。 スペイン語の文法を理論的な枠組みで精密に記述したいという野心を抱きつつ、 その頃からライフワークかなと思っていたし、 その進捗状況はともかく、 今でもまだ壮年の大志だと思っている。
いい加減かもしれないが、 この三大理念は僕の人生を支えてきたのである。
しかしながら、 「宵越しの金は持たない」 ではなく 「持てない」 になってしまったし、 「よく遊び」 はネットで数百円程度の馬券を買うくらいになってしまったし、 そして……
もう十年以上も前のことだが、 部長を務める書道部の新入生歓迎会か卒業生の送別会で次のような話しをしたことがある。 「自分の夢があるのなら、 それを実現することに邁進して、 そのあとのことは考えるな」 様々なケースがあるが、 その一例。 A子さんは、 どうしても外国で長期に生活してみたい。 そんな時、 僕は躊躇なく 「行っておいで。 帰ってからの生活はどうにでもなる」 と、 あれこれノウハウを指南。 公務員だったA子さんは八年ほどで貯めたお金で、 希望通りあるヨーロッパの国に一年以上にわたり留学。 帰国して挨拶に来た顔は満足感でいっぱい。 また行きたいと夢を語って、 とりあえずは派遣会社に登録して、 ある携帯電話の営業部門で働き始め、 お金を貯め始めた。
その頃の僕の論理はこうだった。 世界中で、 いわゆる働きたくても仕事がないため路上生活を余儀なくされる人たちはいっぱいいるけど、 いくつかの先進国の中で、 日本はそんなことが起きない国。 仕事さえ選ばなければ (この点でダメになっていくなら仕方ない)、 生きていくことができる数少ない国。 そんな国は世界にせいぜい数カ国程度しかないし、 あのアメリカだって入らないんだ。 そんな日本に生まれた幸せに感謝して、 若いうちにやりたいことがあれば、 先のことなんか考えずに、 自分の夢に向かっていくしかない。 A子さんのように、 仕事を辞めても、 次に何かある社会なんだと。
ところが、 それから時は経ち、 ある東京に住む友人から便りが。 彼は船舶に関する資格を活かして小さな海運関係の会社で船舶取引のプロとして活躍していたが、 いわゆる不況でリストラに遭い、 ハローワークに通う日々。 ところが、 本当に仕事がない。 失業給付もついに切れて、 職業訓練などのさまざまな支援によるわずかばかりの助成金によって資格をとるも、 それを活かせる求人などどこにもない。 今は、 ある清掃業務の会社のアルバイトをしながら、 細々と妻と (もちろん奥さんも働いている) 中学生の息子と、 まだ残っている住宅ローンを抱え、 必死に家庭を守っている。 でも、 やがて彼に待っているのは、 ひょっとしたら生活保護という制度しかないのかなあと考えると、 ぞっとしながらもときどき安否を気遣ってメールしているこのごろである。
これは一例にしかすぎないが、 どうも、 みんなもわかっているように、 こんな状況がより深刻になってきているようだ。 この論の結論はない。 しかし、 A子さんに行っておいでと言えるような世の中ではなくなっているんだなあと思うと、 寂しい気持ちになる。
でも、 僕は敢て、 「やりたいことをやれ」 と叫び続ける。
参考資料 「少年よ大志を抱け」 全文。
参考文献:『生活保護VSワーキングプア』 (PHP新書) 他多数
“Boys be ambitious!”について
(以下は、 北海道大学図書館報 『楡蔭』 №29より、 WEB上に掲載された秋月俊幸氏の記事を転載
http://www.lib.hokudai.ac.jp/collection/ClarkBibList/ambs.html)
この数年 「Boys be ambitious に続く言葉について知りたい」 という問合わせが多くなった。 調べてみると、 高校や中学の教科書の中にも次のような言葉をのせたものがあるようである。
“Boys be ambitious! Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.”
この言葉がこのように広まったのは、 昭和39・3・16の朝日新聞 「天声人語」 欄によるものと思われる。 「天声人語」 はその出典として稲富栄次郎著 「明治初期教育思想の研究」 (昭19)をあげ、 さらに次のような訳文を添えている。 「青年よ大志をもて。 それは金銭や我欲のためにではなく、 また人呼んで名声という空しいもののためであってはならない。 人間として当然そなえていなければならぬあらゆることを成しとげるために大志をもて」
ここではクラーク博士の 「大志」 の内容は、 富や名誉を否定して内面の価値を重んじる倫理的なものとなっている。 これは“Boys be ambitious in God”として、 神への指向を強調した人々の解釈と通ずるものである。
しかし、 この言葉がクラーク博士のものであることを認めるには、 いくつかの無理がありそうである。 まず、“Boys be ambitious!”は帰国に際し島松まで見送った学生たちに向って馬上から最後に一声のべられたもので (第一期生大島正健博士の著書による)、 その時の状況からみてこれは 「さようなら」 に代る別れの言葉であったと思われる。 この言葉でさえ多くの学生たちが聞きとったことは疑わしい程である。 次にクラーク博士は決して富や名誉を卑しんでいなかったことである。 例えば農学校の開校式の演説でも、 学生たちに向って 「相応の資産と不朽の名声と且又最高の栄誉と責任を有する地位」 に到達することをよびかけている。 即ち日本が因襲的な身分社会から脱却した現在では、 努力によっては国家の有為な人材となることを妨げるものは何もないことをのべ、 学生たちの青年らしい野心 (lofty ambition) を期待したのである。 このためにとくに勤勉と節制の必要を説いているが、 ここには 「神の恩寵」 を確信して世俗的な職業に励むピューリタンの精神がよくあらわれている。
それでは前記の長い英文を書き加えたのが誰であったかということになると、 今のところ全く不明である※。 「天声人語」 が引用した稲富氏の著書には典拠を欠いているが、 これは恐らくは岩波の 「教育学辞典」 (昭11) の 「クラーク」 の項 (海後宗臣) であると思われる。 さらに海後氏は同文館の 「教育大辞書」 増訂改版 (大正7) の 「クラーク」 の項 (小林光助) によったものであろう。 ただ小林氏は例の英文を引用するに当り、 これがBBAの 「意図する内容」 であると書いているのに、 海後氏はこの英文全体をクラーク博士自身の離別の言葉とのべている。 その後の混同のもとはこの辺にありそうである。
終りに、 BBAが札幌農学校時代にどのように伝えられたかについて簡単にふれておきたい。 不思議なことであるが、 現在はこのように広く知られているこの言葉も、 明治の中頃までは農学校においてさえ余り知られていなかったのではないかと思われる。 例えば後にはこの言葉について講演などもした第二期生の内村鑑三でさえ、 学生時代にこの言葉を知っていたかどうか不明である。 即ち内村はクラーク博士死去の翌月 (明治19・4・22)、 アメリカの新聞“The Christian Union”に“The missionary work of William S. Clark" という一文を投稿し、 この中で島松の別離のことをのべているのに、 BBAには触れていない。 このことは必ずしも彼がこの言葉を知らなかったことを意味するものではないが、 少なくともこの言葉がそれ程重きをおかれていなかったことの証左となろう。
BBAが記録の上で最初にあらわれたのは、 現在知られる限りでは、 明治27予科生徒安東幾三郎一 (のち日伯拓植取締役) が農学校の学芸会機関誌 「恵林」 に掲載した 「ウイリアム・エス・クラーク」 なる文章中である。 その13号に安東は書いている。 「暫くにして彼悠々として再び馬に跨り、 学生を顧みて叫んで日く、 『小供等よ、 此老人の如く大望にあれ』 (Boys, be ambitious like this old man) と。 一鞭を加へ塵埃を蹴て去りぬ」 このlike this old manは意味深重であるが、 別れの言葉としては一寸芝居がかっている。 それに50歳を少し過ぎたばかりのクラーク博士が自分のことを old man と考えていたかどうか。 それはともかく語呂の点からみても、 まだこの言葉は学生間に充分に定着していなかったことを物語るように思われる。
次いで明治31年には学芸会が 「札幌農学校」 という本を編集しており (裳華房刊)、 その巻頭に“Boys, be ambitious”を掲げ、 本文中に日く、 「忽ち高く一鞭を掲げて、 其影を失ふと云ふ。 実に巻首載する所の Boys be ambitious の語は彼れが最後の遺訓にして……」 この本は美文調の風格ある文章で書かれていて、 好評を博し3版を重ねた。 農学校の出版物にBBAがあらわれるようになったのは、 この本以後のことである。 いずれにしても、 この言葉は長い間埋れたのち、 札幌農学校が確固たる基盤を獲得し、 学生たちの間に自信と誇りが培われた頃に思い起され、 特別の意味を与えられるようになったようである。 (秋月俊幸)
※農科大学予科英語教師のローランド師による。
- お祭り見学の勧め
白川琢磨 (文化人類学) - 主に福大に入学する皆さんは、 九州か中国・四国出身の人が多いだろうから、 「もう一度」 お祭り見学の勧めと言うべきだろう。 幼い頃から少なくとも何回かは近所の神社や寺のお祭り、 あるいは民俗行事に参加した経験があるかもしれない。 だが年を経て自然と足が遠ざかり、 大学受験を控えてお祭りなどに行っている場合じゃないと思っていたかもしれない。 しかし今、 改めて行って欲しいのである。 そこに集う人々が何を語り、 何を楽しみにしているのか、 またどのような神仏に何を祈り、 何故に来るのか、 じっくり耳を傾け、 しっかりと経験して欲しい。 そのようにして君らにはまず立派な 「ネイティヴ」 に成って欲しい。
大学に入って 「文化」 を研究するのであれば、 そうした君らの経験を再度 「他者」 の視線から捉え直すことになる。 しかしそれはそれ程難しいことではない。 近代人類学は、 「異文化」 に 「他者」 として参入することを業としてきた。 だが人類学者という 「他者の語り」 におとなしく耳を傾ける 「未開社会」 などもう世界の何処にもありはしない。 世界各地でネイティヴたちは、 しっかりと自らの文化を語り始めたのだ。 その力強い語りを前に、 近代人類学という巨人はしばしその歩みを留めているのである。 西欧の人類学者の殿 (しんがり) に連なってきた日本の人類学にとって、 その影響は深刻である。 我々は一体何者なのか? 日本は西欧と同じく研究する側なのか、 それとも異文化として研究される側なのか? 答えはその両方であろう。 研究し、 そして研究されるのである。 ただし、 前提がある。 「ネイティブとして」 である。 日本のアフリカ研究の草分け、 和崎洋一氏は、 亡くなる前に 「先生がもう一度生まれ変わって研究するとしたら何処でしょうか?」 との問いに躊躇なく 「日本」 と答えたそうである。 ポストモダンの時代に生きる我々は、 大和崎が二つの人生に分けた課題を一時に果たさねばならない。 そのためにはまず我々はネイティブに成り、 ネイティヴを磨かなくてはならない。
昨年は一年かけて 「鬼」 というネイティブの産物を追いかけてきた。 写真家の清水健さんと共同で文藝春秋の平成19年1月号にグラビア特集が掲載されているので関心のある人は見て欲しい。 天念寺の修正鬼会を撮り終えた後、 国東半島の宿で夜遅くまで語り合ったが、 「いやーそれにしても九州は奥深い凄い所ですね」 と感に堪えたように呟いた。 ナショナルジオグラフィックの撮影で世界中を飛び廻り、 今回の特集では全国を撮影して歩いた清水さんの言葉である。 それに励まされて私は思わず書いてしまった。 「九州は鬼の宝庫である。」 実は鬼だけではない。 ネイティブを育成し醸成する豊かな土壌に恵まれているのである。 祭や民俗芸能はそうした豊かな土着の集合表象に触れる絶好の機会である。
今年の暦も既に動き始めている。 正月7日夜、 久留米大善寺の大松明の灯と煙に咽びながら闇夜に紛れる鬼を追うことから始まり、 14日には志賀海神社で大宮司四良、 別当五良ら若者八人が渾身の力を込めた歩射の力強い矢鳴りを聞いた。 やがて節分、 さらに 「松会」、 桜の開花の頃から駈仙 (ミサキ) が活躍する勇壮な神楽が始まる。 そして汗ばむ季節になると各地で 「山笠」 の声が聞こえ始める。 出身地は元より、 福岡に来たら近郊の祭に足を運んで欲しい (福岡民俗芸能ライブラリー http : //www.fsg.pref.fukuoka.jp/e_mingei/index.asp)。 必ず、 何か得るものがあるはずである。 文字に書いてあるものだけが価値があるという偏見を捨て、 祭や芸能という生きた教材を是非経験して欲しいものである。
- 博物館へのいざない
武末純一 (考古学) - 博物館へ行ったことがあるだろうか。 人文学部の新入生ならば、 すでに一つか二つはあるだろう。 しかし大学生には大学生なりの見方がある。 行ったことのない人はまず特別展を見に行くのが良い。
私の専門は考古学、 モノから歴史を考えていく学問である。 以下は、 博物館などでひらかれている考古学関係の特別展へのささやかな招待状である。
特別展は、 秋の文化シーズンにあちこちの博物館や資料館で開かれる。 このごろは夏休みや春休みに開くところも増えてきた。 内幕をいえば、 特別展を開く → お金がかかる → その分だけ多くの入館者が欲しい (でないと来年の予算にもひびく) → 学生が休みで大人も活発に動く夏や春に開こう、 という発想がほとんどだが。 でも特別展は楽しい。
楽しさの一つは、 それまで写真や図でしかみたことのなかった実物に会えること。 せっかくの機会だから、 上から、 下から、 横から、 斜めから、 じっくりと眺めて、 どのように作られ、 どんなふうに使われたかを想像しよう。 もちろん、 図録や横にそえられた解説文に答えがのっている場合もあるし、 それを理解するのも大事だが、 それよりも大切なのは、 答をうのみにしないで自分で考えること、 自分の疑問をもつこと。
二つ目は、 あちこちの発掘品が一か所に集められていることである。 それぞれの保管場所に行って見せてもらうととんでもない金額になるから、 一見高そうに見える特別展の料金も実は安いものである。
それと、 いつもは全く別のところにあるモノ同士がすぐ横に並ぶから、 比較ができる。 これはけっこう大事である。 何回もいったりきたりして見比べ、 「似た形だけどここが違うな。 これは出たところが違うからかな、 それとも作った時代が違うからかな」 「へー、 こんなに遠く離れて出ているのにそっくりじゃないの」 など、 自分だけの発見ができればしめたものだ。
三つ目は、 発掘の記録は報告書という形で本になるが、 手に入りにくいし、 入ったとしても一般の人が読み通して理解するのはけっこうシンドイ。 でも博物館では、 そうした成果をできるだけ噛みくだいて、 どんな発見があったのか、 何がわかったのか、 どういう問題が出てきたのかを、 実際にモノを示しながら説明してくれる。
ちょっと変わった楽しみ方もある。 学芸員になった気分で。 この照明は展示品のどこを強調 しているのか。 自分だったらこういう角度でここをみせたい。 このパネルはなぜこの大きさでここにかけられているのだろう。 展示品をきわだたせるためにどんな形や色の台を使っているのか。 なぜこの展示品とあの展示品の間がこの位空いているのか、 などなどなど。
そう、 ここまでくれば、 もう特別展だけじゃなくて常設展でも十分に楽しめることがわかってくる。 まずは福岡県内あるいは故郷の博物館だ。
昔の博物館は、 展示品がケースの中に重々しく鎮座し、 いかにも 「見せてやる」 といった感じが強かったが、 いまでは 〈さわる〉 〈作る〉 〈使う〉 などの体験コーナーも整いつつある。 充実したミュージアムショップや市民ライブラリー、 しゃれたレストランもけっこう多い。 講堂や入り口のホールで演奏会を開くところも出てきた。 〈博物館は古くさい〉 というイメージは消え始めている。
自分の知の世界を広げるために博物館をのぞき、 どれでもいいから、 自分の心にとまった展示品をスケッチする。 そんなすてきな時間を作ってみたらどうだろう。
なお老婆心から蛇足を一つ。 ゆめゆめ月曜日のデートの場所に博物館や美術館は指定しないように。 日本では月曜日は休館日なのだから。
Ⅲ. 書くことの勧め
- 「レポート」が書ける人になろう
上枝美典 (西洋哲学史) - ここだけの話、 レポートが書ける日本人はとても少ないのです。 ほとんどの人は、 感想文しか書けません。 しかし、 感想文とレポートの違いは、 とても大切です。 これがわかっているかいないかで、 人間の質が違うといっても言い過ぎではありません。 ちょっと言い過ぎかも知れませんが。 しかし、 そのくらい大切な違いであると私は言いたい。
はっきり言って、 大学で勉強するということは、 「感想文しか書けない人」 から 「レポートが書ける人」 にレベルアップすることなのです。 知らなかったでしょう? しかし、 知らなかったからといって、 恥じることはありません。 なぜなら、 この違いを教えるシステムが、 日本ではまだちゃんとできていないからなのです。 つまり、 日本で通常の教育を受けて、 高校を卒業しただけの人は、 まだこの違いを習っていないのです。 なんとなく、 大学に進学してよかったな、 という気分になってきたでしょう?
では、 感想文とレポートとの違いは何でしょうか。 もったいぶらずに早く教えてくれ、 というあなたの顔が目に浮かぶようです。 ですが、 それは秘密です。 というのは冗談ですが、 秘密にしたいほど、 それは単純なことなのです。 ひとことで言って、 「感想文」 は、 自分が感じたことや考えたことを、 そのまま書いたものです。 あれっ? それって、 いいんじゃないの? という声が聞こえてくるようですね。 たしかに、 そういう感想文を書かせることに、 ある一定の教育効果があることはたしかでしょう。 そういうのは、 「作文」 と呼ばれていて、 日本の教育界ではいろいろとややこしいことがあるみたいです。 しかし、 断言しますが、 大学で身につけるべきことは、 「よい作文」 を書く力ではなくて、 「ふつうのレポート」 を書く技術です。 「技術」 と言うと、 なにか職業訓練所みたいですが、 よい作文を書けるか書けないかは、 ある程度、 「文才」 と呼ばれる文学的才能で決まりますが、 「ふつうのレポート」 は、 書き方さえわかったら、 だれでも書けるのです。 なんといっても、 「ふつう」 でいいんですから。
なにか話があっちこっちに飛んでいっこうに要点を得ない。 おまえはレポートの書き方がわかっているのか、 という叱責の声が聞こえてきそうですから、 そろそろ本題に入ります。 「作文」 や 「感想文」 でない 「レポート」 とは、
1. あたえられた問い、 あるいは自分で立てた問いに対して、
2. 一つの明確な答えを主張し、
3. その主張を論理的に裏付けるための事実的・理論的な根拠を提示して主張を論証する
という三つの要素がそろっている文章のことです。 おっと急いで付け加えますが、 この定義は、 私があたえたものではありません。 次の本からの抜粋です。
戸田山和久 (2002) 『論文の教室:レポートから卒論まで』
(NHKブックス) 定価:本体 1120円+税
私がここに書いていることは、 ほとんどが、 この本からの受け売りです。 責任転嫁をするわけではないですが。 ともかく、 レポートや論文の書き方を教える本はたくさんありますが、 まず一番はじめに読むべき本はこれです。 どのようにすれば、 この三つの要素がきっちりそろった文章を書くことができるのか、 懇切丁寧に教えてくれています。
この本を読んで、 「うひゃあ。 みんなこんなことを考えて論文を書いていたんだ。 まずい」 と焦った人は、 巻末にある 「おすすめの図書など」 を見て頑張って追いつきましょう。 たとえば次の本などは、 安いのにとてもいい本です。 どういう経緯で、 自分が 「レポート」 の書き方を学ぶことができなかったのか、 よくわかります。
木下是雄 (1981) 『理科系の作文技術』 (中公新書) 定価:本体700円+税
「理科系の」 というタイトルは、 気にする必要はありません。 むしろ文系・理系を問わず読むべき本です。 あなたが文章を書こうとするときに、 「ひとの心を打つ」 「自分の気持ちをすなおに表現」 「起承転結をしっかり」 「天声人語の文章のように」 とかいう言葉が頭に浮かんでくるのであれば、 大急ぎでこれらの本を読んで、 「文章を書く」 「頭を使う」 ということについての認識を改めてください。 でないと、 あとで大変なことになりますよ。
Novis 2010
― 新入生のための人文学案内 ―
印 刷 | 平成22年3月25日 |
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発 行 | 平成22年4月1日 |
発行者 | 福岡大学人文学部 |
印刷所 | 城島印刷株式会社 |