福岡大学人文学部
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Novis 2011

Novis 2011 目次

Novis 2011 本文

人文学部新入生の皆さんへ
則松彰文 (人文学部長)
 今日わたしたちが生きている、この世界に対しては様々な評価が与えられています。近代化社会、工業化社会、物質文明社会。近年では、情報化社会やグローバル化社会といった評価をしばしば眼にします。これらは、いずれも現代社会のもつ象徴的一面を見事に表しています。

 例えば、情報化社会について考えてみましょう。ここ数年におけるパソコン、インターネットの世界的普及によって、情報の絶対量が格段に増加したのみならず、その伝達スピード・伝達範囲が決定的に増進・拡大しました。しかし、多量の情報を受け取る私たちの側、とくに私たちの知識量や視野は、以前に比べ明らかに減退しています。換言すれば、情報量の増加とともに、私たちは情報に流され先入観や予断を持ち、客観的で冷静な判断が難しくなってきていると言えるのではないでしょうか。

 ここで問われるのが、「教養」です。教養とは、単なる知識量を示す言葉ではありません。深い知識に裏打ちされた人間の品位ある言動を表す言葉なのです。そのような教養は、幅広い知識、豊かな経験と感性、そして深い思索の中で徐々に育まれるものでしょう。

 この小冊子は、新入生諸君に対する、人文学部の諸先生方からのアドバイス集です。先人の声に、皆さんしばし耳を傾けてはみませんか?

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映画の字幕
間ふさ子 (中国近現代文学)
 外国語映画を見るときになくてはならないものが字幕です。映画では目からの情報だけでなく、言葉や音楽など耳からの情報も大きな役割を果たしていますが、言葉が外国語だと何を言っているのかわかりませんよね。それを解決する主な方法は吹き替えか字幕ですが、日本では字幕が主流のようです。字幕翻訳監修業という職業の草分けである清水俊二さんの 『映画字幕(スーパー)50年』 『映画字幕(スーパー)の作り方教えます』 を読むと、日本における字幕スーパーの歩みを知ることができます。

 字幕と聞いてすぐに思い浮かぶのが、この清水俊二さんや戸田奈津子さんなど字幕翻訳者の存在です。語学を志す人で字幕翻訳者になりたいと思わなかった人は少ないのではないでしょうか。自分の作った字幕がなければ観客たちは作品を十分に鑑賞できないのです。しかも1行わずか10文字で台詞のエッセンスを表現しなければなりません。責任は重大ですが、やりがいもあるというものでしょう。

 しかし、翻訳者だけでは字幕は出来ません。字幕を作るにはタイトルカードに字を書く、フィルムに字を打ちこむなど、技術者の熟練の技が不可欠です。字幕がどのように作られるのかを教えてくれるのが、神島きみ 『字幕仕掛人一代記 神島きみ自伝』 です。この本を読むと映画が工業技術に支えられた芸術であることがよくわかります。

 現在では、デジタル映像であれば、素人でも専用のソフトを使って字幕制作にトライすることができます。東アジア地域言語学科では、字幕制作ソフトを利用した語学の授業を行うほか、有志で1950年代、60年代の中国映画・韓国映画の秀作に日本語字幕をつけ、市民のみなさんに鑑賞していただくという活動を行っています。これまでにみなさんの先輩たちが、中国映画 『白毛女』 ('50)、 『家』 ('56)、 『五朶金花』 ('59)、 『李双双』 ('62)、韓国映画 『青春双曲線』 ('50)、 『三等課長』 ('61)などに字幕をつけました。今年も九月の発表会に向けて準備を進めています。

 戸田奈津子 『字幕の中に人生』 、太田直子 『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』 など、字幕翻訳のエピソードを綴った本は何冊かあり、いずれも興味深いものですが、読むだけではなく、みなさんもぜひ字幕制作にチャレンジして、プロの翻訳者たちが縷々語る字幕翻訳の神髄-限られた言葉で限りないイメージの世界へ観客を誘う醍醐味-の片鱗に触れてみませんか。

  清水俊二 『映画字幕(スーパー)50年』 早川文庫、1987年
  清水俊二 『映画字幕(スーパー)の作り方教えます』 文春文庫、1988年
  神島きみ 『字幕仕掛人一代記 神島きみ自伝』 パンドラ、1995年
  戸田奈津子 『字幕の中に人生』 白水Uブックス、1997年
  太田直子 『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』 光文社新書、2007年

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シャキーラは裏切らない ラテン音楽の魅力
青木文夫 (スペイン語)
 学生時代の音楽仲間と集うことがたまにある。高校時代はギターとボーカルだったが、大学に入るとギターの上手いやつがわんさかいて、キーボードに転向。都内某所に夕方から朝までスタジオを借りて、飲みながら自由気ままにセッションをする。W君が Never been to Spain の出だしを歌い始めると、EからAのコードに自然に手が行く。次にI君が Stairway to heaven の前奏を弾き始める。僕が大好きだった Alice Cooper の School's out では School's out for summer. School's out forever. School's been blown to pieces のところは大合唱!Mississippi Queen ではT君が Felix Pappalardi ばりのベースで頑張り、そして Light my fire では僕の出番。Ray Manzarek のフレーズを何とか弾きこなす。もちろん Jim Morrison との二役だ。

 ここまで読んで、全部分かるのは相当のおじさん! 多分新入生諸君には何のことだかというところだろう。でも、音楽好きの君なら、数十年後には僕と同じように、若い世代には全然分からないような、こんな感じの話題で友人たちと盛り上がるはずだ。

 そう、音楽は永遠の心の友達なんだ。

 今は便利な時代で、眼の前の i-pod touch には暇な友人がDVDに焼き直してくれた60年代から70年代の手持ちのLPレコード約300枚分の2500曲くらいが入っていて、いつでも好きなのを聞くことができる。でも、80年代以降のものになると、Skid Row(何故持っているのか自分でもよく分からないが)以外はほとんどないのである。

 1972年にスペイン語専攻で上智大学へ入学したものの、当時のスペインはまだフランコの独裁政権下にあり、もちろんインターネットもない時代なので、彼の地やラテンアメリカから聞こえてくる音楽はほんのごく限られたものであったし、スペイン人の神父さんたちが教えてくれるのはボレロやバラードのような演歌みたいなものばかりだったので、もっぱら音楽として聴いていたのは上のようなポップ・ロックであった。

 ところが80年代に入って、1975年に独裁政権から立憲君主制に移行したスペインがあっという間に民主主義の国になり、出入りも自由になると、今まで知らなかった素晴らしい音楽がそこにあることが分かったのである。

 君たちもラテン音楽と言えば、サルサやレゲトンなどのリズムの曲(例えば Daddy Yankee のガソリナ(La Gasolina)は大ヒットしたので聞いたことがあるのでは?)なんかが思い浮かぶのではなだろうか。

 自宅の自室でこの文を書いているのだが、右の棚にはその頃から買い集めたCD・ビデオ・DVDが山積みされている。その中のいくつかはまさに衝撃を受ける出会いを与えてくれた。80年代スペインポップの頂点にあった Mecano、とても同い年とは思えない Rosendo(昨年のアルバムも素晴らしかった)、まさに衝撃だった Estopa のデビュー、そして昨年は Lara(Pinilla)との出会い、ときりがない。そんな中で、恐らく君達の多くが知っているラテン音楽のアーティストと言えば、昨年のワールドカップ南アフリカのテーマソング Waka waka も歌っていたシャキーラ(Shakira)ではないだろうか。

 僕も大好きである。そして、敢えて言うが、「シャキーラは決して裏切らない」。

 シャキーラを一度も見たり聞いたりしたことがない人は、先ず MTV Unplugged Live(1999年発売:CDとDVDがある)をじっくりと聴いて欲しい。このアルバムはそのすぐ前に出た2枚目のアルバム ?Donde estan los ladrones? の曲を中心に構成され、そのライブの模様は、全米で初めてスペイン語で歌われた曲だけの MTV LIVE として放映された。また、アルバムのほうも全曲スペイン語で歌われているのに、中南米以外のアメリカ合衆国や欧州の各国でも Gold Disk を獲得して、約700万枚というベストセラーになったのである。

 その中のシャキーラは、得意のベリーダンスの振りで Ojos asiを歌うものの、その身のこなしも素人ぽいぽっちゃりした可愛いシンガーソングライターという感じ。実際に殆どの曲は自分で作詞作曲している。

 ところが、その次の2001年に発売されたアルバム Laundry Service(Whenever, whenever という曲が大ヒットした)でびっくりし、その時はがっかりした。半分以上が英語の曲。ついにアメリカ合衆国で売り出す戦略に乗ってしまったのかと。そんな風に思っていたある日、日本でも視聴可能だったスペインの TVE で、その Laundry Service の曲を中心としたツアー(el tour de mangosta:マングースツアー)のライブを見る機会があった。黒髪を金髪に染め、おへそも見えるセクシーな衣装、体もかなり絞って、その身のこなしも相当洗練されたものであったが、英語で歌うシャキーラに違和感を感じ、この後どうなるのかなあと心配していた。しかし杞憂であった。2005年に発売されたスペイン語の曲でまとめた Fijacion oral Vol. 1と、大ヒットした Hips don't lie が入っている英語の曲でまとめた Oral fixation Vol. 2 という2枚のアルバムが彼女をラテンアメリカで最も成功したアーティストに押し上げたのである。同時に2006年から2007年のかけての World tour(Tour fijacion oral)では、Hips don't lie を含む数曲を除いて、アメリカ合衆国内でさえもスペイン語の歌を中心として構成されて演じられて、将来シャキーラの最高のライブと語り継がれることになるであろう。是非、君たちもそのDVDを見て欲しい(アメリカ、マイアミのライブなのに、ほとんどの観客がスペイン語で合唱しているよ)。

 その後も、昨年になって、またもや英語の曲中心のアルバム She wolfs が出たかと思うと、それに続いてスペイン語の曲中心(スペイン語版の Waka waka も入っている)のアルバム Sale el sol を出した。そして、最近になってわかってきたのは、一つ前のペアーのアルバムでも、今回のアルバムでもアメリカ合衆国内でさえ、英語版よりもスペイン語版のほうが売上枚数が多いことだ。本人も周りのスタッフもその意味がわかってきたのだろう。現在展開中のワールドツアーの名称はスペイン語版のアルバムからとった Tour sale el sol である。

 Antonio de la Rua との7年以上にもわたる同棲の末の破局。そのあとに発表された新境地のロマンチックな曲がまさに1曲目に入っている Sale el sol を聴いて、やっぱりシャキーラは裏切らないと。

公式 HP:http://www.shakira.com/
公式 Facebook:http://www.facebook.com/shakira.realface
公式 Twitter:http://twitter.com/shakira

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美術館に行く前に
浦上雅司 (西洋美術史)
E・H・ゴンブリッチ『美術の物語』(ファイドン社)
辻 惟雄『日本美術の歴史』(東京大学出版会)
D・アラス『モナリザの秘密 - 絵画を巡る25章』(白水社)

 「無人島に一人で住むことになったとき、一冊本を持って行くとすれば、どんな本を持っていきますか」という有名な質問があります。皆さんもそれぞれ考えてみれば、いろいろな答えがあるでしょう。『聖書』や『教行信証』のような宗教書を挙げる人もあれば、『ソクラテスの弁明』や『ニコマス倫理学』のような哲学書を選ぶ人もあるでしょう。もちろん何度繰り返し読んでも飽きない小説やマンガを選んでも構わないと思います。『ブリタニカ百科事典』なども興味深い選択かもしれませんね。

 さて、私の専門は、西洋美術史ですから、美術館に行く前に読んでおけば良い本を一冊挙げるとすると何になるだろうか、と考えてみました。

 わたしは、学生の皆さんに、できるだけ直接、美術作品に触れてもらいたいと、いつも思っています。美術作品を扱ったテレビ番組(『新日曜美術館』や『美の巨人たち』など)を見たり、スライドで作品を見ながら講義を受けたりするのもよいことですが、美術館に行って作品そのものに触れるのがとても大事だと確信しているのです。

 スライドやテレビ画面で見ると、居心地の良い室内にいて、寛いだ気分で、細部をジックリ眺めることができるというメリットはありますが、やはり本物の持つ迫力(これを哲学者のヴァルター・ベンヤミンは「アウラ」と呼びました)は、なかなか伝わってきません。皆さんにも分かりやすい例をあげれば、車やバイクの本物と、カタログ写真の違いと言えばよいでしょうか。カタログやテレビの自動車番組を見ても、本物を見て、できれば運転してみなくては本当の特徴はわからないでしょう。美術の授業も興味深いでしょうが、やはり本物を見ていろいろ考えるのとは異なります。

 そんなわけで、皆さんにはできるだけ、美術館などで実物、しかも可能であれば多くの人たちが優れた作品と認めている美術作品に触れてもらいたいと思うのですが、共通教育科目「芸術」を受講する学生諸君に尋ねても、美術館に行ったことがない、と答える人が多いのは、とても残念なことです。

 幸い、福岡には多くの美術館があります。福岡市美術館、福岡市博物館、福岡県立美術館、そして福岡アジア美術館など、身近にあって、常設展なら数百円で入場できますし、ちょっと足を伸ばせば、久留米の石橋美術館や、太宰府の九州国立博物館があります(ちなみに、福岡大学は九州国立博物館のキャンパス・メンバーズとなっており、皆さんは、学生証を提示すれば、この博物館の常設展はタダで観覧できます。特別展も割引になりますから、ぜひ、利用して下さい)

 大学時代にできるだけ多くの美術館・博物館を訪れ、美術について知見を深めてもらいたいと思うわけですが、先ほどの例をまたあげれば、車の性能を知るには、あらかじめカタログを読んでいろいろ比較してから試乗に出かけるに越したことはありません。同様に、美術館や展覧会に行くにしても事前にある程度の知識を持っていれば、よりよく楽しめます。ピカソ展とかゴッホ展のように、個別の作家を扱った展覧会であれば、大学図書館の二階にある『小学館世界美術全集』の該当巻などで予習するのが良いでしょう。

 しかしながら、美術の全体的な流れを大きく把握しておくのも、美術館訪問をより有意義にする役に立つと思います。そのような観点から、三冊の本を挙げてみました。

 ゴンブリッチの著作は西洋美術の全史として定評のある著作で、読み物としても優れています(ついでながら、ゴンブリッチの『若い読者のための世界史』(中央公論美術出版社)も内容的には少し古いけれど読みやすい世界通史です、日本語版は高価なのが残念ですが)。日本美術史であれば惟雄さんの著作が、最近の定番となっています。

 最後に挙げたのは、フランスの美術史の世界をリードしていたものの、残念ながら2003年に亡くなったダニエル・アラスが自分の体験を含めて絵画の歴史について様々な観点から語ったラジオ番組(!)に基づく本です。原題は『絵画の話(Histoires de peintures)』という素直なものですが、ルネサンスから現代にいたる絵画史のさまざまな話題が分かりやすく説かれているとおもいます。美術に興味のある人は読んでみて下さい(ちなみに、フランス語版は10ユーロもしません。フランス語も平易です)。

 どの本も大学の図書館にありますし、福岡市の図書館から借りることもできます。

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身体の魅惑
遠藤文彦 (フランス文学)
『バレエ・リュス その魅力のすべて』(芳賀直子著、国書刊行会)

 本書は1910年代から20年代にかけての20年間おもにパリを中心に活動した伝説のロシア人バレエ団「コンパニー・デ・バレエ・リュス」についての概説書である。概説書といってもとっつきにくい研究書というのではなくバレエ・リュスの結成から事実上の解散に至るまでのドラマチックな経緯をその創設に関わった人物や文字通りきら星のごときスターたちの生き様を軸にしてつづった興味深い物語として割にすいすいと読み進めることができる。バレエに馴染みのない人や興味のない人もバレエ・リュスの物語とそこに登場する人々には魅了されるにちがいない。そしてバレエ・リュスのレパートリーを実際に見てみたいときっと思うようになるはずだ。いまや世界の主だったバレエ団が取り入れているバレエ・リュスの演目のいくつかはDVDで観ることができる。ちなみにバレエ・リュスの実話を下敷きに撮られた『赤い靴』(1948年製作M・パウエル&E・プレスバーガー監督の総天然色(テクニカラー)映画)もまたDVDで容易に観ることができる。

 しかしできることならこれを機に本場のバレエを生で観てもらいたいものだ。そこでパリに行くことがあったらオペラ座(パリ国立オペラ・バレエ団本拠地)には是非立ち寄って欲しい。当日ふらりと出かけても大抵キャンセルで空きがでるし開演前に売り出される格安の席もある。脇からでやや見にくい場合もあるがたったの7ユーロ(800円前後)でバルコニーから舞台を間近に見下ろすことができる。見上げればバレエ・リュスとも縁のあるシャガールの天井画が壮麗なシャンデリアに映える。でもオペラ座は7ユーロで見られてもフランスに行くのにお金がかかるじゃないかともっともな意見を返してよこしそうな諸君には日本の身体芸術歌舞伎の殿堂博多座に行くことを薦めたい。これは春(2月)と夏(6月)定期的に歌舞伎公演が行われる町福岡で学んでいる皆さんの特権である。しかしこちらもまともに観ようと思ったら金銭的に学生にはちょっと敷居が高いかもしれない。ならば歌舞伎には一幕見(ひとまくみ)という観方があるので紹介しておこう。昼の部夜の部それぞれいくつか演じられる演目の一つ(あるいはそのうちの一幕)だけを見る方式で三階席からだが開場前にちょっと並べば1000円前後で入場できる。映画よりずっと安くて生の海老蔵や本物の獅童が見られるのだ。テレビやDVDの映像ばかりでリアリティ喪失気味の人にはとくにお奨め。大学四年間のうちに一度は足を運んでもらいたい。

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おすすめの本
大嶋仁 (比較文学)
  新入生の皆さん、 人文学部にようこそ。 新入生の皆さんに、 おすすめしたい本と言えば、 まず皆さんが一冊の本に何を求めるかによります。 読み終えて生きる元気が湧いてきた、 と感じられるものとしては、 何より福沢諭吉の 『福翁自伝』 でしょう。 落ち込んでいる人、 孤独を悩んでいる人には、 フランツ・カフカの 『短編集』 『変身』 をおすすめします。 暗い内容のようでいて、 なぜか根源から力が湧くでしょう。 また、 人に対して優しい気持になりたい、 細かい文章の味をかみしめたいと思ったら、 井伏鱒二の短編ですね。 『山椒魚』 などのタイトルの付いた一冊を選べばよいのです。

  こんなところでしょうか。 ここに挙げたどの本も文庫本で手に入ります。

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英語教師を志す皆さんへ
大津敦史 (英語教育学)
  大津由紀雄 編著『危機に立つ日本の英語教育』(慶應義塾大学出版会 2009年)

 新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます!これから4年後、社会人としての人生をほぼ決定すると思われる大切なこの4年間、どうか無駄にせず、完全燃焼させてください。もちろん燃え尽きてしまってはいけませんので、自律と自己管理にもしっかり心がけて下さい。

 さて、皆さんの中には、卒業後、英語教師になりたいと思っていらっしゃる方も少なくないでしょう。毎年、英語学科のみならずドイツ語学科やフランス語学科からも教職希望者がたくさんいますので、今回はそのような方たちのために、右記の本を選んでみました。

 まず、編著者である大津由紀雄氏ですが、慶應義塾大学言語文化研究所の教授で、専門は言語の認知科学です。「認知科学って何?」と思われる方は、ぜひインターネットを利用して調べてみてください。最近では、大津氏は日本の英語教育、特に小学校での英語教育の是非について様々な提言をされています。私と同じ姓ですが、残念ながら親類関係ではございません。

 この本の著者には、大津氏以外に、日本を代表する12名の研究者が名前を連ねています。元々この本は、2008年9月15日に慶應義塾大学三田キャンパスで開催された公開シンポジウム「「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」を超えて」および同年12月21日に同大学日吉キャンパスで開催された言語・英語教育講演会「言語リテラシー教育のポリティクス」がもとになっています。2008年は、2002年と2003年にそれぞれ文部科学省によって策定された「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」と「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」の目標達成年度に当たります。この「構想」や「行動計画」がこれまで学校英語教育に与えてきた影響は測り知れません。しかしながら、「英語が使える人材」を希求する経済界(財界)主導のこのような語学行政は、教育現場に無理難題を押し付けた結果、その教育現場は疲労困憊(ひろうこんぱい)し、英語教育の質の低下を引き起こしています。

 このような時期に、今一度日本の英語教育、学校英語教育の現状と課題とその解決策を整理・模索してみることは非常に有効だと思います。そのような反省を通して、これから英語教師を目指す皆さんの時代(次代)には、もっと豊かで心地よい教育環境が整備されることを祈って止みません。

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先人を知ろう
甲斐勝二 (中国学)
勝海舟 《海舟語録》 江藤淳・松浦玲編 講談社学術文庫

 勝海舟、 世界でも希有な江戸という大都市を無血に明け渡した立役者。 西郷隆盛を友とし、 坂本龍馬を門下に置く。 篤姫とも仲が良く、 姉と偽って江戸を歩き回った事もある。 江戸開城の折には混乱を防ぐため、 渡世人の世界にまで自ら赴き頼み回る気配りを語る。 良く世界を見ている。 明治31年まで生きて、 伊藤博文の政策への批判も多くある。

岩波文庫に 《海舟座談》 があるが、 講談社学術文庫の方が注もちゃんとしていて、 勝の発言録としては信用できそうだ。

  この本をおもしろいと思うのは、 勝の人情の機微に渡る観察や、 人物批評の痛快さ鋭さ、 また社会や人への気配りから、 曾(かつて)あった日本の政治家の姿やその手法を知ることができると共に (善し悪し置くとしてこれはつい最近の政治家まで続いている)、 「機」 を見るといった個人ではどうにもならない社会の動きへの視点もまた示されているところだ。

  内容は読んでいただくとして、 中国学を専攻する紹介者にとって、 「ふむふむ」 と思う文を二つ紹介する。 まずは日清戦争後の李鴻章の態度についての発言。

李鴻章の今度の処置などは、 巧みなのか、 馬鹿なのか少しもその結果がわからないのには、 大いに驚いていますよ。 大馬鹿でなければ、 大変、 上手なのでせう。 これまでの長い経験では、 大抵、 日本人の目に大馬鹿と見えるのがエライようです (15頁)
  次に 「支那 (ママ) 人」 についての発言。  

ナニ、 支那が外国人に取られるというのカエ。 誰が取るエ。 支那人は、 他に取られる人民ではないよ。 香港でも御覧なナ、 実権は、 みな支那人が持っているジャアないか。 鶏卵でも豆腐の豆でも、 南京米でも、 みな支那人から貰っているジャアないか。 それで支那人は野蛮だと言うやつがあるカエ。 ナニが、 文明ダエ (158頁)
  勝は西洋列強の植民地化に対してアジアの諸国が連合し、 日本は海軍で海を守る役割も考えたこともあるようだ。 征韓論も馬鹿な話だと片付ける。 勝の考えた方向で日本が動けば、 あるいは今とは違っていたかも知れない。 どうしてあんな方向に進んでしまったのだろう。

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江戸時代を見なおそう
梶原良則 (日本史)
 新入生の皆さんは、 江戸時代についてどのようなイメージを持っておられるでしょうか。 近年の歴史学研究は、 江戸時代の通説的イメージに修正を迫りつつあります。 ここでは、 新入生にも読みやすい代表的な本を紹介しましょう。

① 磯田道史 『武士の家計簿』 (新潮新書、 2003年) は、 江戸時代の中下級武士の生活を家計簿から復元し、 従来の武士のイメージを一新させました。

② 高木侃 『三くだり半―江戸の離婚と女性たち』 (平凡社ライブラリー、 1999年) ・ 『三くだり半と縁切寺―江戸の離婚を読みなおす』 (講談社現代新書、 1992年) は、 夫が妻を一方的に離縁できるという夫優位の夫婦関係の通念をくつがえしました。

③ 宇田川武久 『真説 鉄砲伝来』 (平凡社新書、 2006年) は、 1543年種子島に漂着したポルトガル人によって鉄砲が伝えられたという通説に疑問を呈しています。

 このほかにも、 知的好奇心を刺激してくれる多くの本が皆さんを待っています。 図書館を有効に活用しましょう

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「よい子」ってどんな子?
勝山吉章 (教育史)
灰谷健次郎著 『兎の目』 (理論社)

 「よい子」ってどんな子? 親や教師の言うことを素直に何でも聞く子どもは、確かによい子に違いない。では、親や教師の言うことを聞かない、親や教師の権威を認めない子どもは「悪い子」なのだろうか。いつも親や教師のご機嫌を伺い、「よい子」であり続けることに疲れた子どもは、もうよい子ではなくなるのだろうか。

 『兎の目』の主人公「鉄三」は、そのような問いを投げかける。

 偏差値教育、管理主義的教育に慣らされてきた者にとって、「鉄三」は落ちこぼれに映るだろう。しかし、人間本性に照らし合わせて考えた時、管理化された現代社会に馴染んでいる私たちこそが、大切な人間性を失っているとは言えないだろうか。

 本書を既に読んだ学生も多いと思うが、大学時代に再度読んでもらいたい書物である。

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中国の歴史(全12巻)
紙屋正和 (東洋史)
講談社版『中国の歴史』(全12巻)(講談社)

 1970年代に、 『中国の歴史』 (全10巻)、 『図説中国の歴史』 (全12巻)、 『新書東洋史』 (全11巻、 うち中国史は5巻) と、 中国史の概説書のシリーズをあいついで刊行した講談社が、 『新書東洋史』 以外は入手困難になった2004年から2005年にかけて、 ほぼ30年ぶりに刊行した中国史の概説書がこのシリーズである。 この間に中国史・中国自体、 あるいはそれらをとりまく環境は大きくかわった。

 古い時代については、 考古学の大きな発見があいついでいる。 稲作の起源は、 遺跡が発掘されるたびに千年単位で古くさかのぼり、 今や一万二千年前の栽培稲が発見されたというニュースが流れているほどである。 また以前は、 中国の古代文明といえば黄河文明と相場がきまっていたが、 現在は長江流域において黄河文明に勝るとも劣らない高度な長江文明があったことが明らかになっている。 戦国・秦・漢・魏晋南北朝時代については、 当時の法令・行政文書や思想・文学などの著作を書きしるした簡牘 (かんとく) (竹のふだと木のふだ) 類や人の目をうばう遺跡が多く発見され、 これまで文献史料で知ることのできなかった事実が明らかにされつつある。 新しい時代については、 放っておいても新事実が積みかさなってくるのであるが、 以前に未発表であった公文書が公表され、 さらに中国・中国経済自体が大きくかわりつつある。 政治は社会主義のままであるが、 経済はもう完全な資本主義に、 少し大げさにいえば日本よりも極端な資本主義になり、 現在の成長がつづいていけば世界経済を牛耳るようになるかもしれないといわれている。 こうした変化をふまえて、 今回の 『中国の歴史』 (全12巻) が企画されたのである。 ただし、 このように大きくかわりつつある 「古い時代」 と 「新しい時代」 とに挟まれた中間の時代の場合、 大発見があったわけでもなく、 新しい文献が見つかったわけでもないため、 執筆者はこまったらしいが、 旧来通りの中央からの視線でえがくのではなく、 地方の現場から世界を見なおすといった機軸によって新鮮味をだそうとしたという。

 全体的にかなり高度な内容になっているが、 全部を紹介するわけにいかないので、 私の専門に近い古代史関係についてのみ内容を簡単に紹介し、 のこりは執筆者と書名だけを列記するにとどめる。

 宮本一夫著 『神話から歴史へ ― 神話時代・夏王朝』 (01) は、 中国の地に人類が居住しはじめてから、 殷周社会が成立する前まで、 いわば中国の先史時代をとりあつかう。 現在の中国の経済発展は巨大な開発をともない、 発掘もさかんに行なわれている。 その結果、 先史時代の文明は黄河流域だけではなく、 現在は中国の各地で発見されている。 宮本氏はこうした発掘成果をもとに、 物質文化における地域間比較だけでなく、 社会構造上の地域間比較をも試みることによって、 先史時代における段階的な社会構造の変化に注目し、 殷周社会にいたる道のりを多元的に説明する。 これまで 「中国の歴史」 というとき、 先史時代についても文献史学の研究者が執筆することが多かったが、 これは考古学の専門家の手になる概説書である。

 平勢 (ひらせ) 隆郎著 『都市国家から中華へ ― 殷周・春秋戦国』 (02) は、 新石器時代から戦国時代までを対象とする。 本巻は、 著者自身がみとめるように 「一般に提供されている中国史とは、 若干異なった視点」 で書かれている。 すなわち中国史を、 蘇秉琦著・張名声訳 『新探 中国文明の起源』 (言叢社) が提唱した 「新石器時代以来の文化地域」 を基礎において分析し、 まぼろしの夏王朝、 殷王朝・周王朝、 そして戦国時代の領域国家のいずれもが新石器時代以来の文化地域を母体として成立したという。 こうした歴史を背負う戦国時代の諸国家は、 自国の立場から、 先行する夏・殷・周の王朝を論じ、 そのうちの一部が史書として現在にのこされている。 しかしそれらの史書は、 それができあがった時代に規制され、 ときには無かった内容を付けくわえている。 そこで、 本巻は、 何が後世に付加された虚構の産物なのか、 またどの記述が事実を伝えているのかを検討する形で書かれている。 安易な気持ちで、 急いで読もうとすると、 絶対に理解できない。

 鶴間和幸著 『ファーストエンペラーの遺産 ― 秦漢帝国』 (03) は、 秦・始皇帝による天下統一から前漢・新をへて後漢が滅亡するまでの四百四十年間をとりあつかう。 この時代は、 簡牘類や多くの目を見はる遺跡・遺物の発見があいつぎ、 歴史像が大きくかわりつつある時代である。 鶴間氏は秦の歴史、 始皇帝像の再評価を試み、 また秦・漢時代を地域の視点から見なおそうと試みてきた研究者である。 そうした自分自身の研究を反映させ、 あわせて新発見の出土資料を既存の文献史料とつきあわせて本巻を書いている。 とくに新出土資料についてはよく調べて多くの情報を提供しており、 専門家としても参考にすべきところが多かった。

 金文京著 『三国志の世界 ― 後漢・三国時代』 (04) は、 後漢後半期に外戚・宦官が政治を乱しはじめた時期から西晋の統一によって三国時代がおわる時までの約百三十年をとりあつかう。 この書名にある 「三国志」 とは、 『魏志』 倭人伝などをふくむ歴史書の 『三国志』 ではなく、 小説の 『三国志演義』 であり、 執筆者は歴史家ではなく、 中国文学者である。 本巻は、 ゲーム・アニメ・漫画によってつくられた 『三国志』 ブームを意識したもので、 よくいえばこのシリーズに新鮮味をだすための、 悪くいえば読者に迎合するための企画といえよう。 内容は、 この時代の歴史の動きを淡々とおいかけ、 ところどころで 『三国志演義』 がどのように脚色されているかを明らかにしている。 本巻は歴史の概説書として読みごたえがあるが、 『三国志演義』 ファンにも歓迎されるであろう。

 川本芳昭著 『中華の崩壊と拡大 ― 魏晋南北朝』 (05) は、 西晋が中国を再統一したものの、 また分裂してから隋が久々に中国を統一するまでの約三百年をとりあつかっている。 基本的には分裂の時代といえるこの時期の歴史を、 胡漢、 すなわち遊牧民族と漢民族の対立と融合をキーワードにして、 隋・唐時代に新しい漢民族・中国文化が登場すること、 また中原 (黄河中流域) の混乱などによって、 未開発地がまだ多くのこされていた長江流域に厖大な人口が移動・移住し、 その地の開発が急速に進展することを明らかにし、 あわせて中国の周辺において朝鮮半島の三国や倭のような国家がうまれてくることにも目をくばっている。

  氣賀澤保規著 『絢爛たる世界帝国 ― 隋唐時代』 (06)
  小島毅著 『中国思想と宗教の本流 ― 宋朝』 (07)
  杉山正明著 『疾駆する草原の征服者 ― 遼・西夏・金・元』 (08)
  上田信著 『海と帝国 ― 明清時代』 (09)
  菊池秀明著 『ラストエンペラーと近代中国 ― 清末・中華民国』 (10)
  天児慧著 『巨龍の胎動 ― 毛沢東vs鄧小平』 (11)

 尾形勇など著 『日本にとって中国とは何か』 (12) は、 太古から現代までの中国の歴史をふりかえったあとで、 日中関係がギクシャクしている現在、 日本にとって中国とは何か、 逆に、 中国にとって日本とは何かについて、 このシリーズの編集委員四人と中国人二人が総論的に論じたものである。 日本と中国は同じ漢字文化圏、 儒教文化圏であるから何もいわなくても分かりあえると認識することが、 大きな誤解であることを知らなければならない今この時、 一読すべき本であろう。 以下、 執筆者と論題だけを紹介する。

  尾形勇 「大自然に立ち向かって ― 環境・開発・人口の中国史」
  鶴間和幸 「中国文明論 ― その多様性と多元性」
  上田信 「中国人の歴史意識」
  葛剣雄 「世界史の中の中国 ― 中国と世界」
  王勇 「中国史の中の日本」
  礪波護 「日本にとって中国とは何か」

 概説書は新しければ新しい顔をして我々の前にあらわれてくる。 新しければよいというものではないが、 少なくとも情報は新しいものがふくまれている。 読書には、 自分の知らないことをまなぶという 「学ぶ姿勢」 と同時に、 何かおかしい、 納得できないことを書いていないかをさぐるという 「批判の姿勢」 も必要である。。

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学問の領域に捉われない読書の勧め
鴨川武文 (地理学)
木内信蔵(1968)『地域概論―その理論と応用』(東京大学出版会)
日高敏隆(1998)『チョウはなぜ飛ぶか』高校生に贈る生物学3(岩波書店)
武野要子(2000)『博多―町人が育てた国際都市―』(岩波新書)

 木内信蔵の 『地域概論』 は39年前に刊行されました。 39年前の本というと、 「なんて古い本なんだろう」 と思うかもしれませんが、 地理学や地理学が研究対象とする地域について体系的に論じられています。 私は共通教育科目の地理学を担当していますが、 この本は、 地理学の講義を学生の皆さんに行うにあたっての、 私にとっての参考書ともいうべき座右の書です。

 日高敏隆の 『チョウはなぜ飛ぶか』 は生物学の本ですが、 この本は次の2点において興味深い本です。

  第1点は、 「チョウはなぜ飛ぶか」 というタイトルですが、 内容は、 一言でいうと、 チョウは自分自身が飛ぶ道筋をしっかりと認識して飛んでいるということです。 つまり勝手気ままに飛んでいるのではないのです。 全く土地鑑のない場所に出かけた時に頼りになるのは地図です。 地図を見てわれわれ人間は行きたいところに行くことができます。 チョウは地図を持ってはいませんが、 自分が行きたいと思うところへ行くことができ、 またそのような本能を持っているのです。

 第2点は、 研究というものはどのように行われているのか? 研究者は試行錯誤・紆余曲折を繰り返しながら研究成果を出している、 研究者とはどのようなタイプの人たちなのか、 科学的なものの考え方とは何か、 などについていきいきと書かれているという点です。 学生の皆さんが志している学問の枠に捉われることなく、 多くの本を手にして教養を高め、 知識を習得してほしいと思います。

 武野要子福岡大学名誉教授の 『博多』 には、 博多の町の成り立ちや、 政治的に、 また経済的に博多に関わりのあった武士や豪商のエピソード、 今に伝わる博多の伝統や住民の生活史など興味深い話題が数多くあります。 また、 聖福寺や承天寺、 櫛田神社、 鴻臚館、 防塁など博多にゆかりのあるものの記述もあり、 この本を携えて福博の町を散策してみたらいかがでしょう。

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邂逅と回想の五月
桑原隆行 (フランス文学)
斉藤和義『ARE YOU READY ?』
ルイ・マル監督『五月のミル』
高橋留美子『境界の RINNE』(小学館)
井上ひさし『一週間』(新潮社)

斉藤和義『ARE YOU READY ?』
 伊坂幸太郎の原作を基にした映画『ゴールデン・スランバー』の音楽を斉藤和義は担当しているし、伊坂幸太郎の話や情報にその名前がよく引用されているので、存在は知っていたし気になっていた。だが、頻繁(ひんぱん)にそのCDを聴くようになったのは比較的最近のことだ。視線を交わした瞬間に恋に落ちたり、何気ない言葉や表情ですぐに好きになったりすることがあるように、斉藤和義の歌は最初に聴いた時から好きになった。歌詞がロックの曲調と相俟ってストレートにハートを打つ。ぼくは今からあなたに、「ずっと好きだった」と伝え、媚薬を注ぐように耳元で「名前を呼んで」みようとしているのだが、誘惑される用意はできているかい? 『I Love Me』『紅盤』『黒盤』『白盤』も聴くといい。「愛に来て」、「恋と愛がある国で」、「天使の遺言」、「好きな人の手」、「やわらかな日」等々、曲名が誘惑的だ。

ルイ・マル監督『五月のミル』
 ぼくの好きな俳優ミシェル・ピコリとミウ=ミウが出演しているとなれば、この映画を紹介しないわけにはいかない。ミルの母親が亡くなり、離れて暮らしていた家族の面々が南フランスの田舎町の屋敷に駆けつける。ゆっくり死の悲しみに浸る間もなく欲や嫉妬に捉えられながらも、一同は五月の空気の中で生を謳歌し、欲望に身を任せる。この映画をきっかけにして、ベルトラン・タヴェルニエ監督『田舎の日曜日』、オリヴィエ・アサイヤス監督『夏時間の庭』を観るのにつながる、さらにはこの映画がオマージュにもなっている二人の監督ジャン・ルノワールとルイス・ブニュエルの映画を観ることにつながる。それが五月のように望ましく美しい時間・道筋・行程というものだ。
 それにしても、五月(ごがつ)という響きは耳に心地良い。幸運に巡り合いそうな気分にさせる。実際、ぼくが二年前の五月にパリで幸運にも見つけた素敵なショートカットの女性がカバー写真になっている小説を翻訳したのが、今年の五月に幸運にも出版される。この場をかりて前もって宣伝する形になるけれど、こういうのを便乗(びんじょう)とも言う。ルイ・マル監督の映画は他に、『恋人たち』『ルシアンの青春』『プリティ・ベビー』『アトランティック・シティ』『さよなら子供たち』などもお勧めだ。

高橋留美子『境界の RINNE』
 この世に未練を残したままさ迷う霊たちを成仏させてやるのを稼業にしている六道りんね、幽霊を見ることができる女の子真宮桜、この二人の高校生の物語。輪廻(りんね)、悪霊、死後の世界などは息苦しく、真正面から見たり考えたりしたくない、深刻になりがちなテーマだ。けれど、こうしたテーマも高橋留美子の漫画世界(ファンの間ではルーミック・ワールドと呼ばれている)では軽快にギャグを満載して扱われ描かれている。例えば、地獄は現代の地下鉄のような自動改札を通って入るし、入場パスは Jigoka(ジゴカ)というカードになっている。成仏できずにプールの水の中を漂う歌姫・歌川ミソラ(六道くんがドレミと呼び間違えると、彼女はキッとなって「ミソラですっ」と訂正する)のヨーデルは、「ゆうれー ゆうれー ゆうれーほー」と聞こえる。
 ずいぶん前の作品になるけれど、『うる星やつら』は iPad で今読んでいる。iPad は小説のように言葉を読むのに用いるよりは、漫画や画集や写真を楽しむ方がより重宝するし有効な気がする、少なくともぼくの経験では。電子書籍と紙の本についてどう考えたらいいか興味があるなら、池澤夏樹編『本は、これから』(岩波新書)をぱらぱら拾い読みするのもいいかもしれない。

井上ひさし『一週間』
 戦時中、ロシア軍の捕虜になった小松修吉の一週間の物語。その一週間を、読者は500ページ以上のこの小説を通して、まるで予想のつかない何年間もを一気に、それでいて濃密に享受したような不思議な時間感覚を味わうことになる。小説家が巧みに施した時間の扱い、韜晦(とうかい)に継ぐ韜晦にワクワクと自然に意識を委ねて運ばれて行くのが読書の醍醐味というものだ。
 捕虜という言葉から、ぼくが同じ捕虜の物語が所々で語られている村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』を連想するとしても何の不思議もない。それにしても時間感覚というのは妙なものだ。まるでねじまき鳥がねじを巻いて時間を急速に早めたかのように、一週間は10秒、一ヶ月は10分、一年は1時間で過ぎて行ってしまったかのように思える。一週間前の出来事が何年も前のことに思えたり、逆に10年前の出来事がつい最近のことに思えたりする場合もある。ねじまき鳥に時間を巻き戻してもらい、熱い恋の時代に戻りたいと思ったりもするけれど甲斐無いこと。それよりは今から目の前のあなたに恋を囁く方が欲望に忠実で実際的で、効果を期待できる振舞いではあるまいか。

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視野を広げて考えてみよう
高妻紳二郎 (教育行政学)
 最初から引いてしまう質問です。皆さんはなぜ大学に入学するのでしょうか?大学の目的とはいったいどのようなものでしょうか?少し難解ですが、教育基本法、学校教育法という法律にはこう書かれています。

 「大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。」(教育基本法第七条)

 「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。」(学校教育法第八三条)

 つまり、大学に入った皆さんは、高い教養と深い専門的能力を身につけて、知的にも道徳的にも成長が期待されている、ということです。皆さんにはこれからどんな経験もできるという特権があります。そしてそれぞれの経験が皆さんを成長させてくれるでしょうが、グーッと引いて自己を客観視できる人、言い換えれば視野を広く持てる人になって欲しいと思います。ここに紹介するのは著者の20代の体験記ですが、藤原正彦『若き数学者のアメリカ』(新潮文庫)は今なお色褪せない内容で一気に読むことができる本 (エッセイ)です。この本が出版される前、私は藤原氏の講演を聞く機会がありました。私が通っていた中学校での講演会です。内容は覚えていませんが「べらべらよくしゃべる人」という印象を覚えています。後でこの本を読み、「ああ、そういう話だったのか。」と合点がいきました。海外に行った時の興奮や不安感は誰でも感じるものですが、表面上の体験ではない自己変容のプロセスに臨場感があり、自身に置き換えて今読み返しても共感できる記述に多くぶつかるので、海外へ行ってみようと思っている皆さんには手にとって欲しい本のひとつです。エッセイですので読み飛ばすにはもってこいです。

 また、岩波新書のなかでも多く読まれている本のひとつ、池田潔『自由と規律』(岩波新書)をここで改めて推薦しようと思います。1949年が初版ですから還暦を迎えた本となりますね。イギリスのパブリック・スクールに学んだ著者の体験をもとに書かれた、これも今なお色褪せない内容です。今の日本の教育は「ゆとり教育」とか「確かな学力」、「生きる力」といったスローガンが先行して内実が伴わないことが目立ち、理念と現実が寄り添っていない状況にあります。「もっとも規律があるところに自由があり、最も自由なところに規律がある」という精神はイギリスの伝統です。いま、大学に入って多くの「自由」を手に入れた皆さんであるからこそ、じっくりと、いや、ちらっとでも「自由」の本質を考えてもらいたいと思います。

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「類語の辞典」 (上下) (講談社学術文庫)
小林信行 (哲学)
 この種の辞典は、一般的な国語辞書や電子辞書のように、手元において必要があればすぐに引いてみるというものではない。むしろ、つれづれなるままに本棚から取り出して眺めるように読んでいるとだんだんおもしろさがわいてくるような、暇人のための書物と言えそうだ。つまり、読書対象となる辞典である。とは言え、一般的に辞書や辞典に期待されている実用性という点でもなんら劣るところはない。

 具体的に見てみよう。たとえば「感謝」という語を引いてみる。すると「れいす」を見よ、と記されている(この辞典は明治42年発行の日本類語大辞典の復刻版で、言い回しには多少とまどいを覚えることもあるが、それなりの味わいも深い)。そこで「れいす」を見ると、「礼」(原文は旧字体)とあり、敬意を表すために拝礼をする、色代、会釈、辞儀、と説明されている。(色代は、現代では死語に属するであろう。挨拶するという意味らしい。)

 今日的な感覚からすると、感謝についての類語としてこれらは適切だろうか。感謝します、ありがとうと言ってお辞儀をすることくらいは納得できるが、説明がどこかずれているような印象がある。それは、われわれが感謝を「気持ち」の問題としてとらえているからではなかろうか。口には出せないがお世話になったあなたには本当に感謝しています、といった人間の「気持ち」の中にありがたいという感謝やお礼がある、と理解しているのではないか。ところが、右の説明はもっと素朴なものだ。つまり、感謝とは受けた恩に対するお礼であり、礼とはすなわち頭を下げたり、土下座をしてでも相手に敬意を示すという「行為」であり「態度」のことなのだ。口先のことばや目には見えない気持なんかではなく、とにかく相手に対して身を低くすることが礼であり、感謝である、と説明されているように想われる。

 これは中国古典の世界を受け継いだ説明ではあろうが、類語辞典としての役目は十分に果たしてくれている。何気なく(「なにげに」ではない)この辞典を取り出して眺めつづけていくうちに、いつのまにか語彙不足の自分を嘆くことが少なくなっているだろう。

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お祭り見学の勧め
白川琢磨 (文化人類学)
 主に福大に入学する皆さんは、九州か中国・四国出身の人が多いだろうから、「もう一度」お祭り見学の勧めと言うべきだろう。幼い頃から少なくとも何回かは近所の神社や寺のお祭り、あるいは民俗行事に参加した経験があるかもしれない。だが年を経て自然と足が遠ざかり、大学受験を控えてお祭りなどに行っている場合じゃないと思っていたかもしれない。しかし今、改めて行って欲しいのである。そこに集う人々が何を語り、何を楽しみにしているのか、またどのような神仏に何を祈り、何故に来るのか、じっくり耳を傾け、しっかりと経験して欲しい。そのようにして君らにはまず立派な「ネイティヴ」に成って欲しい。

 大学に入って「文化」を研究するのであれば、そうした君らの経験を再度「他者」の視線から捉え直すことになる。しかしそれはそれ程難しいことではない。近代人類学は、「異文化」に「他者」として参入することを業としてきた。だが人類学者という「他者の語り」におとなしく耳を傾ける「未開社会」などもう世界の何処にもありはしない。世界各地でネイティヴたちは、しっかりと自らの文化を語り始めたのだ。その力強い語りを前に、近代人類学という巨人はしばしその歩みを留めているのである。西欧の人類学者の殿(しんがり)に連なってきた日本の人類学にとって、その影響は深刻である。我々は一体何者なのか? 日本は西欧と同じく研究する側なのか、それとも異文化として研究される側なのか? 答えはその両方であろう。研究し、そして研究されるのである。ただし、前提がある。「ネイティブとして」である。日本のアフリカ研究の草分け、和崎洋一氏は、亡くなる前に「先生がもう一度生まれ変わって研究するとしたら何処でしょうか?」との問いに躊躇なく「日本」と答えたそうである。ポストモダンの時代に生きる我々は、大和崎が二つの人生に分けた課題を一時に果たさねばならない。そのためにはまず我々はネイティブに成り、ネイティヴを磨かなくてはならない。

 昨年は一年かけて「鬼」というネイティブの産物を追いかけてきた。写真家の清水健さんと共同で文藝春秋の平成19年1月号にグラビア特集が掲載されているので関心のある人は見て欲しい。天念寺の修正鬼会を撮り終えた後、国東半島の宿で夜遅くまで語り合ったが、「いやーそれにしても九州は奥深い凄い所ですね」と感に堪えたように呟いた。ナショナルジオグラフィックの撮影で世界中を飛び廻り、今回の特集では全国を撮影して歩いた清水さんの言葉である。それに励まされて私は思わず書いてしまった。「九州は鬼の宝庫である。」実は鬼だけではない。ネイティブを育成し醸成する豊かな土壌に恵まれているのである。祭や民俗芸能はそうした豊かな土着の集合表象に触れる絶好の機会である。

 今年の暦も既に動き始めている。正月7日夜、久留米大善寺の大松明の灯と煙に咽びながら闇夜に紛れる鬼を追うことから始まり、14日には志賀海神社で大宮司四良、別当五良ら若者八人が渾身の力を込めた歩射の力強い矢鳴りを聞いた。やがて節分、さらに「松会」、桜の開花の頃から駈仙(ミサキ)が活躍する勇壮な神楽が始まる。そして汗ばむ季節になると各地で「山笠」の声が聞こえ始める。出身地は元より、福岡に来たら近郊の祭に足を運んで欲しい(福岡民俗芸能ライブラリー http : //www.fsg.pref.fukuoka.jp/e_mingei/index.asp)。必ず、何か得るものがあるはずである。文字に書いてあるものだけが価値があるという偏見を捨て、祭や芸能という生きた教材を是非経験して欲しいものである。

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博物館へのいざない
武末純一 (考古学)
 博物館へ行ったことがあるだろうか。人文学部の新入生ならば、すでに一つか二つはあるだろう。しかし大学生には大学生なりの見方がある。行ったことのない人はまず特別展を見に行くのが良い。

 私の専門は考古学、モノから歴史を考えていく学問である。以下は、博物館などでひらかれている考古学関係の特別展へのささやかな招待状である。

 特別展は、秋の文化シーズンにあちこちの博物館や資料館で開かれる。このごろは夏休みや春休みに開くところも増えてきた。内幕をいえば、特別展を開く → お金がかかる → その分だけ多くの入館者が欲しい(でないと来年の予算にもひびく)→ 学生が休みで大人も活発に動く夏や春に開こう、という発想がほとんどだが。でも特別展は楽しい。

 楽しさの一つは、それまで写真や図でしかみたことのなかった実物に会えること。せっかくの機会だから、上から、下から、横から、斜めから、じっくりと眺めて、どのように作られ、どんなふうに使われたかを想像しよう。もちろん、図録や横にそえられた解説文に答えがのっている場合もあるし、それを理解するのも大事だが、それよりも大切なのは、答をうのみにしないで自分で考えること、自分の疑問をもつこと。

 二つ目は、あちこちの発掘品が一か所に集められていることである。それぞれの保管場所に行って見せてもらうととんでもない金額になるから、一見高そうに見える特別展の料金も実は安いものである。

 それと、いつもは全く別のところにあるモノ同士がすぐ横に並ぶから、比較ができる。これはけっこう大事である。何回もいったりきたりして見比べ、「似た形だけどここが違うな。これは出たところが違うからかな、それとも作った時代が違うからかな」「へー、こんなに遠く離れて出ているのにそっくりじゃないの」など、自分だけの発見ができればしめたものだ。

 三つ目は、発掘の記録は報告書という形で本になるが、手に入りにくいし、入ったとしても一般の人が読み通して理解するのはけっこうシンドイ。でも博物館では、そうした成果をできるだけ噛みくだいて、どんな発見があったのか、何がわかったのか、どういう問題が出てきたのかを、実際にモノを示しながら説明してくれる。

 ちょっと変わった楽しみ方もある。学芸員になった気分で。この照明は展示品のどこを強調 しているのか。自分だったらこういう角度でここをみせたい。このパネルはなぜこの大きさでここにかけられているのだろう。展示品をきわだたせるためにどんな形や色の台を使っているのか。なぜこの展示品とあの展示品の間がこの位空いているのか、などなどなど。

 そう、ここまでくれば、もう特別展だけじゃなくて常設展でも十分に楽しめることがわかってくる。まずは福岡県内あるいは故郷の博物館だ。

 昔の博物館は、展示品がケースの中に重々しく鎮座し、いかにも「見せてやる」といった感じが強かったが、いまでは〈さわる〉〈作る〉〈使う〉などの体験コーナーも整いつつある。充実したミュージアムショップや市民ライブラリー、しゃれたレストランもけっこう多い。講堂や入り口のホールで演奏会を開くところも出てきた。〈博物館は古くさい〉というイメージは消え始めている。

 自分の知の世界を広げるために博物館をのぞき、どれでもいいから、自分の心にとまった展示品をスケッチする。そんなすてきな時間を作ってみたらどうだろう。

 なお老婆心から蛇足を一つ。ゆめゆめ月曜日のデートの場所に博物館や美術館は指定しないように。日本では月曜日は休館日なのだから。

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中国社会に関するものをすこし
田村和彦 (文化人類学)
魯迅の作品と 『リン家の人々―台湾農村の家庭生活』(マージャレイ・ウルフ著、中生勝美訳、1998年、風響社) など

  最近、 中国について様々な情報が流れ、 週刊誌の記事や書籍となって書店に積まれています。 日本と中国の長い関係を考えれば古典や歴史の本が多いのは不思議ではありませんが、 同時代のものに限れば、 政治や経済に関するものが多いように思われます。 他方で、 日常生活を送る場としての社会を真面目に紹介した本は多くはないのではないでしょうか。

  そこで、 ここでは、 こうした領域について手がかりを与えてくれそうな、 いくつかの作品を推薦します。

 一つ目は魯迅のもの。 皆さんももしかしたら 『故郷』 を教科書などで触れたことがあるかもしれないし、 なにをいまさらという声が聞こえないでもないのですが、 読んだことのある人も、 そうでない人もしばらくお付き合いを。

  突然ですが、 皆さんは一年に数冊の日本語の本しか読めないという状況に出会ったことがありますか。 私事で恐縮ですが、 中国の農村に住み込んだときのわたしがそんな状況でした。 かなり悩んだ末に持ち込んだものが、 今昔物語と魯迅の文庫、 淡水魚類図鑑でした。 今でもなかなか良い選択だったと思います。 特に魯迅には随分助けられたのを憶えています。

  私は文学の研究者ではありません。 にもかかわらず、 魯迅の作品を挙げる理由は、 激しい論調や手厳しい諷刺のなかに垣間見える鋭い社会観察は、 今日の中国社会を考える上でも有用ではないかと思うからです。 もちろん魯迅を読めば今の社会がわかるといっているわけではありません。 社会背景もずいぶんと異なるはずですし、 作品はあくまで作品でしょう。 けれども、 様々なヒントが含まれているという点で、 今日でも繰り返し読む価値のある作品が多いと思います(著者の死因について、 最近はご子息の活躍もあってか、 理解を超えた説明がかの国の若者を中心に支持されているのは悲しいことです)。

  いろいろな人が訳しているので、 誰のものを選ぶかは好みで結構。 まず手始めに 『吶喊』 を手にとって見てください。

  二冊目は 『リン家の人々』 という本。 これは、 1950年代末に台湾北部の村で生活した人類学者の妻(後に著者本人も人類学者になってしまいました。 「異文化体験」 というのはなかなか強烈で侮れません)が記したある大家族の記録です。 推薦理由は、 訳者の解説にあるように漢民族の家庭生活の肌触りを知るうえでは良書であるから、 です。 人や情報の往来は急増し、 中国について語る機会が増え、 私たちはなにか中国社会について理解を深めたような自覚を持ちやすい今日の状況がありますが、 果たしてどの程度理解している、 理解しようとしたことがあるでしょうか。 たとえば、 本書の扱う家庭や人間関係などは如何でしょう。 この本は、 反省と驚き、 知ることへの欲求をかきたててくれる事でしょう。 また、 最近、 中国大陸中心の議論が極端に増加していますが、 台湾、 香港といった地域から考える、 あるいはこれらを含めて考えることが不可欠なのではないかと私は思っています。 なので、 台湾を舞台とした、 面白いけれどもあまり話題にならない本を選びました。

  さきに断っておきますが、 ここに挙げた本は、 ある事象についての知識を簡潔に記したものではありません。 もしそうした知識だけが必要であれば、 百科事典でも暗記したほうがましでしょう。 大学に来た以上、 自分で問いを立てて、 常識を疑い、 明確な論証を挙げて検討することが必要です。 こうした営みが楽しいかどうかは人によると思いますが、 大学とはそういうところだと私は思っていますので、 上の本を推薦してみました。 後は自分で面白そうなものを探してください。

  最後に、 本ばかりでは味気ないという意見もあるかもしれないので、 映画をいくつか推薦しておきます。 ここでは、 わたし好みの監督から 『青い凧』 (田壮壮監督、 1993年)、 『女人、 四十。』 (アン・ホイ監督、 1995年)、 『麻花売りの女』 (周暁文監督、 1994年)、 『延安の娘』 (池谷薫監督、 2002年)の四本を選びました。 図書館や教室だけが学ぶ場というわけではありません。 前の三作品は本学の言語教育研究センターにもありますので、 在学中に是非足を運んでみてください。

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読んで楽しく、 作っておいしい料理の本
辻部大介 (フランス文学)
宮脇孝雄 『煮たり焼いたり炒めたり―真夜中のキッチンで』 (ハヤカワ文庫)

  この春から一人暮しになり、 自炊をはじめたという人も多いことでしょう。 そういう人に、 またそうでない人にもおすすめの、 ちょっと変わった料理の本を紹介します。 これは、 英米小説の翻訳家である著者が、 所有する英語の料理本のコレクションから、 全部で50ほどのレシピを、 日本でも手に入りやすい食材を使ったものにアレンジしたうえで紹介したものです。 和・洋・中 の分類でいえばとうぜん 洋 のメニューが中心ですが、 カレーなどのいわゆるエスニック料理もあるし、 洋 の中味にしても、 「ロシア風」 ロールキャベツ、 「イタリア風」 ポークチョップ、 「ハンガリー風」 蒸し魚、 「デンマーク風」 アップルケーキ、 というふうにバラエティーに富んでいて、 読み手を未知の味覚の世界へといざないます (作ってみると、 どれもふつうにおいしいのですが)。

  オーブンがないとか、 近所のスーパーに材料が見あたらないとか、 あるいはたんに手間がかかるからといった理由で、 じっさいに作るにはいたらないものも多いかもしれません。 それでも、 どんな味がするのか想像するだけで楽しいですし (「赤キャベツのジャム」 なんていうのもあります)、 なによりも、 レシピに添えられた料理談義やあれこれのエピソードが、 その語り口とあいまって、 上質の読書体験をもたらしてくれます。

  それというのも、 著者が料理人である以前に日本語の文章のプロフェッショナルであるからで (ミステリの巨匠パトリシア・ハイスミスの短編をこの人の訳で読めるのは幸せなことです)、 じつはこの本じたい、 成り立ちが物語るとおり、 一個の翻訳作品といえるのかもしれません。 そもそも著者の料理への関心は、 小説に知らない食べ物が出てきたら、 それがどんなものなのかつきとめなくてはならないという職業上の必要とも結びついており、 言葉が指しているものを具体的に知ろうとするこのような姿勢は、 翻訳家ならずとも、 およそ外国語を学ぶ者にとってたいへん重要なものであると、 フランス語を教えながらつねづね思っています。

  語学というものが、 料理にかぎらず、 いかに雑多なことがらに対する興味を求めるものであるかは、 同じ著者の、 本業である翻訳にかかわるエッセイ (『翻訳家の書斎 ― 想像力 が働く仕事場』 『翻訳の基本 ― 原文どおりに日本語に』 研究社出版、 『ペーパーバック探訪 ― 英米文化のエッセンス』 アルク) でも知ることができます。 こちらもぜひのぞいてみてください。

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ベルク 『日本の風景・西欧の景観』
冨重純子 (ドイツ文学)
 年間の国際観光客到着数が世界で最も多いのはフランスで、その数は8000万人に達しようとしている。べらぼうな数である。ところで、フランスを訪れるドイツ人観光客を10とすると、ドイツを訪れるフランス人観光客は1くらいの割合で、ドイツ人は文化を求めてフランスを訪れ、フランス人は自然を求めてドイツを訪れるというような話を聞いたことがある。そんなこともあるかもしれないと思うような話ではある。ちなみに、数の比較について言えば、そもそも大半のフランス人は国内でバカンスを過ごすので、あまり国外に出ないのである。もちろん、ドイツに文化がないということはないので、この話の肝は、隣り合ったふたつの国に割り当てられた文化と自然の対照である。

 人間によってかたちづくられたものと自然のものという対照は、われわれのものの見方のなかにある基本的な対照のひとつであることはまちがいない。もっともこの対照において、「自然」、あるいは「自然」に近いと見なされるものは、実はほとんど不定形である。それは、あるときは信仰の対象であり、あるときは破壊の対象である。あるときは、文化の優雅、洗練をもたない田舎くささとして軽侮され、あるときは、文化の浅薄や硬直化に対立する根源的なもの、自発的なものとして称揚される、等々。われわれにとって客観的な「自然」というものは存在しない。われわれが見ているものは、すべて意味づけられたものなのだ。ふと目に入った景色を美しいと思うとき、われわれは「そこいらにころがっている」自然を見ているのではなく、それを美しいと見る伝統のなかにいる。たとえば、中国には長い「山水」の伝統があり、山岳が風景として享受されてきたが、ヨーロッパではそうではなかった。ヨーロッパで山が美しい風景として「発見」されるのは、近代以降のことである。

 われわれは人間がかたちづくったものが、だんだんと自然を侵食して拡がっていったと考えている。言い換えれば自然が最初にあって、文化は後から来たと考えている。事実としてはそうなのであろう。しかし、われわれが見て理解しているものとしての「自然」はそうではない。文化が山を美しい風景として出現させるのだ。同様のことが、「田園」あるいは「里」と都市の関係についても言える。客観的に見れば、農業のほうが先行するのだが、都市と区別される「田園」という表象を産んだのは、都市からの視線である。

 この非対称の劇(ドラマ)を、明快に、しかし複雑さを端折ることなく提示してくれるのが、オーギュスタン・ベルクの 『日本の風景・西欧の景観 そして造景の時代』(篠田勝英訳、講談社現代新書、1990年)である。環境の理解、空間、風景、自然の見方が文化によってどれほど異なるか、ヨーロッパと日本のそれがどのように成立し、変化してきたか、互いにどんな影響を与えたか、さらに風景のこれからについて。1942年生まれのフランス人日本学、地理学・風土学者の本には、人文学の意味深い「今」が凝縮されている。もっとも、ドイツとフランスの対比に言及しているわけではない。

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お気に入りの本
永井太郎 (日本文学)
  新入生向けの読書案内ということで、 何かの勉強になるとか、 大学生として読んでおくべきといった本を紹介しようかとも思ったのですが、 やめました。 これからあげるのは、 僕が読んで、 個人的に面白かったという、 お気に入りの作品です。 完全な趣味です。 傾向が少し偏っているので、 万人向けとはいきませんが、 良かったら本屋や図書館で手にとってみてください。

H・G・ウエルズ 『タイムマシン』 (創元推理文庫)
  最近少し古いエンタテイメントにこっているのですが、 中でもウエルズの作品は今読んでも十分に面白いと思います。 「タイムマシン」 という言葉はもう常識ですが、 このアイデアをはじめて作品化したウエルズの小説を、 実際に読むことはなかなかありません。 読んでみると、 持っていたイメージとは違いがあって、 逆に新鮮に感じられます。 集中の 「塀についたドア」「水晶の卵」 なども名作です。

ロバート・マキャモン 『少年時代』 上・下 (ヴィレッジブックス)
  時代は飛んで、 いきなり現代作家です。 マキャモンは、 もとはスティーヴン・キングなどと同じホラー作家でしたが、 この本はホラーではありません。 一人の少年の一年の経験を描いた成長小説です。 しかし、 ただ成長小説というだけでなく、 ホラーやファンタジーやミステリーなどの要素が詰まった、 実に魅力的な小説です。 久しぶりにページをめくる手がもどかしいという経験をしました。

日影丈吉 「猫の泉」『日本怪奇小説傑作集2』 (創元推理文庫)、 『怪奇探偵小説名作選8日影丈吉集』 (ちくま文庫) などに所収)
  日影丈吉という名はまず知らないと思います。 ミステリー作家であり、 幻想文学でも優れた作品を数多く残しました。 あげたのは彼の代表作の一つで、 南仏の谷間の町を舞台にした、 静かな怪異譚です。 他にも、 同傾向の幻想的な短編としては、 「かむなぎうた」 「吉備津の釜」「吸血鬼」 などが有名です。

澁澤龍彦 『夢の宇宙誌』 (河出文庫)
 西洋の怪しい知識を紹介したエッセイ集です。 本を開くと、 アンドロギュヌスやホムンクルスや自動人形といった楽しげな言葉が飛び交っています。 かつて澁澤龍彦の本は、 こうした話題についての定番だったのですが、 今でも読まれているのでしょうか。 そう思って、 あげてみました。 この本以外にも、 『黒魔術の手帖』 など、 澁澤龍彦の本はいくつも文庫で出ているので、 探してみて下さい。

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「スロー・アカデミック」と人文学部
則松彰文 (東洋史)
 渋谷ならハチ公銅像前、天神では三越ライオン前やソラリア大画面前……今も昔も「待ち合わせ場所のメッカ」なる所がある。しかし、ひと昔前、少なくとも、ケータイ電話が遍く普及する以前の待ち合わせは、なかなかスリリングなそれであった。時間に遅刻しそうになっても、それを伝える手段は無いし、場所を勘違いしていても、その誤りを修正する手立ては無い。謂わば、真剣勝負の待ち合わせ。随時、進行状況を確認しつつ、道順を教えてもらいながらの待ち合わせなど、ほんの少し前までは、有り得ない事柄だった。技術の革新とは、かくも「偉大」であり、かつ急である。

 技術の「進歩」は、大学の授業や研究方法をも確実に変えつつある。先ず、コピー機。われわれの世代(50代半ば)は、大学生時代に初めてコピー機が登場した世代である。図書館から借りだした学術書や学術雑誌、今なら疑うこともなくコピーするが、そのコピー機が無い時代の研究が今と大きく状況を異にしたのは、容易に想像がつくだろう。複写の手立ては、ただひたすら自ら書き写す以外に無いのである。時代は、コピー機からパソコン、ケータイ、スマート・フォンへ。今後の展開は、今の我々の期待と予想をすら遥かに超えるものとなるかもしれない。

 しかし、である。ファースト・フードに対するスロー・フードの如く、授業や学問・研究にも恐らくスロー・アカデミックなるものが存在すると思われる。換言すれば、どれだけ機械が発達しようとも、授業を受け、発表するのは「人間」である皆さんたち学生諸君で、かつ生身の皆さんの頭や脳みそを使わなければ、それらは為し得ないということである。分厚い百科事典を引くか、電子辞書やインターネットで簡便に検索するかの差はあっても、調べるのは我々自身であり、理解するのも考察するのも、今も昔も変わらぬ生身の我々なのである。

 時として、解答を導き出す出す事の出来ない問いが生じる人文学部の学問においては、電子辞書やインターネットによる検索も無意味となるケースも多々あるであろう。「文明の利器」の及ばざる対象と向き合い、じっくりアレコレ考える。正解のないものに純粋に向き合うこと、これもまた、大学で学ぶことの意味、人文学部で学問することの醍醐味の一つと言えるだろう。

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Tips for Learning English
Stephen Howe (英語学)
 Compared to someone who knows no English, you already know a lot. You are reading this page, for example. Remember, you have a good head start: Japanese has more English words than any other language (apart from English, of course), which means that you already know hundreds and hundreds of English katakana words. Build on what you know and try to improve a little each day. The secret of learning English is to use it: if you practise every day, your English will get better.

  1 .Use it or lose it
   ・To speak a language well, you must use it - as often as possible
   ・Practise speaking to yourself in English
      ・Try to think to yourself in English, for example on the train, bus or when brushing your teeth - how would you say that in English?
   ・Practise speaking English with your friends
      ・Meet your friends and practise speaking English for fun

  2 .Practice makes perfect
   ・Learning a language is like playing a musical instrument - you should practise a little each day
   ・If you never practised the piano, you would never learn to play. The same is true of language - if you want to get better, practise a little every day.

  3 .Be cool at school
   ・Not being able to speak English is really uncool - impress your friends with your fluency, whatever your major
   ・Learn in class
      ・Use your time in class to improve your English - your teachers want to help you succeed
   ・Learn outside class
      ・Don't think of your English class as the only time you learn - improve your English outside class, too

  4 .Dont worry about making mistakes
   ・Making mistakes is an important part of learning - so don't worry

  5 .Set yourself a target
   ・Set yourself a target to improve your English each semester. Improve a little each day, and you will improve a lot by the time you graduate.

  6 .Make friends with the international students on campus
   ・Practise your English on the international students at university - they want to talk to you!
   ・Ask them about their country and tell them about Japan

  7 .Watch TV and movies in English
   Movies are an easy way to listen to natural spoken English - and they are available anywhere - watch as many as you can
   ・Switch to English sound when you watch an English programme or movie on TV. This might be difficult at first, but gradually you will understand more.
   ・Watch a movie several times - you will understand more each time
   ・As well as movies, try watching the news in English at cnn.com

  8 .Read a book, magazine or newspaper in English
   ・Whether Harry Potter or William Shakespeare, read a book in English - there are thousands to choose from!
   ・Read an English magazine
      ・If you like fashion, read an English fashion magazine; if you like sport, read a sports magazine in English. You will learn a lot of vocabulary about your interest.
   ・Read a newspaper
      ・The Japan Times is available everywhere and is easy to read
   ・Read the news in English online
      ・Try bbc.co.uk for English news

  9 .Write a diary in English
   ・Like Samuel Pepys and Bridget Jones, write a diary about what you do each day, your thoughts and feelings, in English. This will improve your writing and help you express yourself better.

 10.Listen to English music and radio
   ・Listen to your favourite British or American bands - they can help you learn English!
   ・You can listen to English music on the web at bbc.co.uk/radio1/

 11.Plan a trip or study abroad
   English is not only the language of the UK, Ireland, USA, Canada, Australia, New Zealand and South Africa and more, it is also the international language that makes it possible for you to communicate with people from almost any country. Brush up your English ready for a trip or study abroad:
   ・It will be easy to meet people if you can speak a little English
   ・Practise the words and phrases you will need
   ・Use the opportunities offered by Fukuoka University to study in another country - you will have the time of your life

 12.Finally, what about after university - what can English give you?
   Knowing English can also help you get the job you want. It gives you:
   ・Communication skills
   ・An international dimension
   ・Awareness of other cultures
   ・Opportunities for work and travel

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犬がどのように考えているか、 をどのように考えるか
平田暢 (社会学)
 スタンレー・コレン著 (2007年) 『犬も平気でうそをつく?』文春文庫

  この本をお薦めするのは、 私自身が犬好きで、 犬好きの人にとって面白く役に立つ、 ということもあるのですが、 それ以上に、 大学で勉強するときに重要な 「考え方」 について自然に馴染むことができる、 という理由からです。

  日本語のタイトルはややひねりすぎです。 原タイトルは“How Dogs Think”なので、 こちらのタイトルで内容をイメージして下さい。

著者のスタンレー・コレンの専門は心理学で、 冬季オリンピックが開催されたバンクーバーにあるブリティッシュ・コロンビア大学の教授を務めています。 犬好きが嵩じて訓練士の資格をとり、 犬の訓練クラブのインストラクターもしているそうです。

  私たち人間は、 他の人たちを観察したり、 対人関係の中でさまざまなことを学びます。 これを 「社会的学習」 といい、 私たちは言葉や規範、 あるいは歯の磨き方などもそうやって身につけていきます。

  では、 そのような学習能力を犬も持っているのでしょうか。

  おそらく持っていると想像はできますが、 本当に知りたいのであれば確かめねばなりません。 そのための手続きは、 「犬には社会的学習能力がある」という考え―この考えのことを仮説といいます―が正しいとすると、 特定の状況でどのようなことが発生するか推測をし、 実際にそのような状況で観察を行って推測が正しいか否か確かめる―確かめることを検証といいます―ということになります。 「犬には自意識がある」 や 「犬には超能力がある」 という仮説を立てた場合も同様です。

  コレンの専門である心理学や私の専門である社会学では、 仮説を検証するというアプローチをよくとります。 実験はその典型ですが、 社会調査なども同じような手続きに沿って行われます。 大学の勉強では、 知識だけではなく、 このような手続き、 あるいは考え方を身につけることが強く求められます。 『犬も平気でうそをつく?』 という本は、 犬の能力や感情、 意識についてさまざまなことを教えてくれますが、 数多くの事例や実験、 調査がうまくはさまれていて、 仮説を検証するプロセスの面白さ、 その有効性がごく自然にわかってきます。

  犬には社会的学習能力があるか否か、 それをどうやって確かめたかは、 本書を読んでのお楽しみ。

  以下に、 スタンレー・コレンの犬に関する他の著作も挙げておきます。 いずれも文春文庫です。 飼い主の性格に合う犬種は何か、 どうすれば犬に意思をうまく伝えられるか、 どのようにして犬は狼からつくられてきたのか、 などなど、 盛りだくさんで楽しめます (最後は結局犬が好きな人のための紹介になってしまった…)。

  『デキのいい犬、 わるい犬』 (The Intelligence of Dogs)
  『相性のいい犬、 わるい犬』 (Why We Love the Dogs We Do)
  『犬語の話し方』 (How To Speak Dog)
  『理想の犬 (スーパードッグ) の育て方』 (Why Does My Dog Act That Way? )

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大学生活における悩みとどう向きあうか
平兮元章 (社会学)
 姜尚中著 『悩む力』 (集英社新書0444C、 2008年、 680円) の一読を勧めます。

  「情報ネットワークや市場経済圏の拡大にともなう猛烈な変化に対して、 多くの人々がストレスを感じている。 格差は広がり、 自殺者も増加の一途を辿る中、 自己肯定もできず、 楽観的にもなれず、 スピリチュアルな世界にも逃げ込めない人たちは、 どう生きればいいのだろうか?本書では、 こうした苦しみを百年前に直視した夏目漱石とマックス・ウェーバーをヒントに、 最後まで 「悩み」 を手放すことなく真の強さを掴み取る生き方を提唱する。」 (本書、 導入部分より)

  著者の姜氏は政治学専攻の東京大学の教員であるが、 社会問題にも多くの発言をしている。 二〇〇八年六月に起こった秋葉原事件についても自我論、 相互作用論の観点から、 混迷の社会において 「相互承認」 の重要さを説く有用な問題提起を行っている。

  「悩みなき人生は貧しく不幸な生き方」 であり、 「悩みの果てに突き抜けたら横着になってほしい。 そこから新しい破壊力」 が生まれるという。 誰にでも具わっている 「悩む力」 にこそ、 生きる意味への意志が宿っていることを、 ウェーバー (社会学) と漱石 (文学) の苦悩を手がかりに証明しようとしている。 両者とも共通して 「文明が進むほどに、 人間が救いがたく孤立していく」 ことを示しており、 「悩む力」 を振り絞って近代という時代が差し出した問題に向き合ったのだという。

  悩みの末に生まれてくる新しい破壊力がないと今の日本は変わらないし、 未来も明るくない、 という。

  皆さんの考え方が少し変わるかもしれません。 是非一読を。

〈付録〉ここでは本を読むということだけに限ってものを言いますが、 教養を身につけるといっても、 具体的にどのような本を読めばいいのか分からないという人にとって格好のガイドブックがありますので、 紹介しておきます。 理系・文系を問わず、 幅広く紹介してあって、 面白く読めます。
 小林康夫・山本泰 (編) 『教養のためのブックガイド』 東京大学出版会、 2005年。

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発禁本を読む
広瀬貞三 (朝鮮史)
(1) 城市郎『定本・発禁本 - 書物とその周辺』(平凡社ライブラリー、2004年)
 城市郎は、日本における発禁本研究の第一人者である。この本は彼の名著『発禁本』(1965年)、『続発禁本』(同年)を1冊にまとめたもの。国家権力がある以上、発禁本はいつの時代にも、どこでも存在する。対象は、思想、政治、性、宗教の分野である。どの部分が、どのような理由で、権力の逆鱗に触れたのか。情熱をかけて、原本を探し出し、これをもとに伏字となった部分を詳細に復元する。現在も、発禁本は次々と生まれている。

(2) 今井修編『津田左右吉歴史評論集』(岩波文庫、2006年)
 歴史学者で、早稲田大学教授である津田左右吉は『古事記』、『日本書紀』を学問的に研究し、歴史的事実でないことを実証した。しかし、軍国主義化の中でこれが批判を受け、1940年に過去の著書『古事記及び日本書紀の研究』、『日本上代史の研究』など4冊は発禁処分となり、出版法違反で起訴される。容疑は「皇室ノ尊厳ノ冒涜」であり、同年早稲田大学教授も辞職する。この本は津田の長年の史論を、1冊に編纂したものである。

(3) 相対会『田原安江』(ちくま文庫、1998年)
 哲学者小倉清三郎が1914年に結成した「相対会」は、会員の赤裸々な性体験を報告、発表、研究した小組織である。会報の「相対」は、この時期の日本人の性体験を克明に記録した貴重な史料である。夫婦、売買春、不倫、サド、マゾなど、様々な、驚くべき性体験が語られる。たびたび「風俗壊乱」で発禁となる。小倉の死後は妻ミチヨがこれを引き継ぎ、「相対」は1944年まで発行される。戦後、ようやく活字本として刊行された。

(4) 小林多喜二『蟹工船・党生活者』(新潮文庫、1968年)
 プロレタリア作家の小林多喜二が執筆した『蟹工船』(戦旗社)は1929年に刊行されるが、翌1930年に発禁となる。北洋漁場で蟹漁を行なう漁師が非人間的な待遇に抗議し、労働争議が勃発する。天皇家への献上品の蟹缶詰に「石ころでも入れておけ」と書いたことが、「不敬罪」に問われる。また、漁夫の性欲を描いた場面が「風俗壊乱」となる。小林多喜二は1933年に特高警察によって厳しい拷問の末、殺害される。享年29。

(5) 宮武外骨『猥褻風俗辞典』(河出文庫、1996年)
 反権力の文筆家として、生涯に残した本、雑誌、新聞は厖大である。出版物による入獄は4回、罰金・発禁は29回に及ぶ。この本は、『猥褻廃語辞彙』(1919年)、『売春婦異名集』(1921年)を合冊したものである。前者は謄写版でわずか30部が友人らに無料配布されたが、その三日後には領布禁止令が出され、罰金7000円の処分を受ける。後者は売春婦の呼称を集めたものである。外骨は、「過激と猥褻」が「予の性格」と自ら記す。

(6) 松尾尊兌『滝川事件』(岩波現代文庫、2005年)
 法学者滝川幸辰は京都大学法学部教授だった。軍国主義化の中、1932年にその著書『刑法読本』、『刑法講義』が内務大臣令により「安寧秩序ヲ妨害スル」として発禁となる。さらに、彼の著作が「マルクス主義的」であるとして攻撃の対象となる。滝川は1933年、文部省の圧力により休職処分を受ける。しかし、これに反対する教員、学生が「滝川擁護」に立ちあがる。文部省対京都大学の厳しい対立抗争が、「滝川事件」と呼ばれる。

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〈人間学〉のススメ
馬本誠也 (英文学)
1. 内村鑑三 『後世への最大遺物』 (『世界教養全集9』 平凡社刊行、 1962)
  物質主義や自己中心主義が横行している今の時代に、 このような書物を紹介すること自体、 アナクロニズムの誹りを免れないかもしれない。

  だが、 この本を読み、 私は久しぶりに本当の日本人に触れた思いがした。 「生きる」 ことの意味やこの世に生きる使命感を彼ほど純粋な力強いことばで語れる人は、 そう多くないはずだ。 ここに示されているいくつかの生き方は、 おそらく真摯に自分の行き方を模索している青年の魂に深く訴えてくるのではないだろうか。

  わたしは、 すべての学生にこの書物を推薦しようとは思わない。 こころの奥底から聞こえてくる〈内なる声〉に耳を澄ますことのできる人であれば誰でもいい。 「わたし」 とは、 いったい何者であるのか。 自然界における人間の位置づけをどう考えるのか。 「社会」 と 「個人」 はどのように関わり合っていけばいいのか。 およそ人文学部に身を置く学生であれば、 内村鑑三のような高い志しをもった日本人の声に謙虚に耳を傾けて欲しい。 〈文化〉の意味や、 外国語を学ぶ楽しさとすばらしさが、 すべてこのなかで語られている。

  この書物は、 すでに過去数年にわたって紹介してきているが、 今日の日本の時勢、 日本を取り巻く世界情勢を考えると、 どうしても今の若い人たちに贈りたい書物の一冊である。 内村は、 その中で、 こう言っている。 「われわれは、 何をこの世に遺して逝こうか。 金か。 事業か。 思想か。 これいずれも遺すに価値のあるものである。 しかし、 これは何人にも遺すことのできるものではない。 ……何人にも遺すことのできる本当の最大遺物は何であるか。 それは勇ましい高尚なる生涯である」

※ ここに紹介した内村鑑三 『後世への最大の遺物』 は、 図書館で検索すれば必ずあると思いますが、 書店での入手は難しいでしょう。 自分で所有したい場合には、 インターネットの 「日本の古本屋」 を検索すれば、 必ずどこかの古本屋が出しています。

2. 吉田健一 『英国の文学』 (岩波文庫)
  ずいぶん昔のことであるが、 大学の文学部に入学して、 さてこれから何を勉強していこうかと、 漫然と思案していたとき、 たまたま書店の本棚で見つけたのがこの書物であった。 英国、 および英国人の風土や文学をこれほど見事に語った書物は、 そう多くないと思う。 わたしがイギリス文学を専攻したのも、 この書物に触れ、 その感動を少しでも追体験したいという気持ちに駆られたからであった。 爾来、 この書物はわたしの本棚から消えたことが無い。 折に触れ、 その一部の詩や名文を味読している。 たとえば、 シェイクスピアの十四行詩をつぎのような名文に訳出している。

  君を夏の一日に譬えようか。
  君は更に美しくて、 更に優しい。
  心ない風は五月の蕾を散らし、
  又、 夏の期限が余りにも短いのを何とすればいいのか。
  太陽の熱気は時には堪え難くて、
  その黄金の面を遮る雲もある。
  そしてどんなに美しいものでもいつも美しくはなくて、
  偶然の出来事や自然の変化に傷つけられる。
  併し君の夏が過ぎることはなくて、
  君の美しさが褪せることもない。
  この数行によって君は永遠に生きて、
  死はその暗い世界を君がさ迷っていると得意げに言うことは出来ない。
   人間が地上にあって盲にならない間、
   この数行は読まれて、 君に命を与える。

  このソネットの解説を始めとするシェイクスピアや幾多の文人を語る重厚な文体については、 多言を弄する必要はないと思う。 まず、 手にとって読んでみることだ。

3. BBC活用法
  昨年わたしは、 この欄でジャパンタイムズ編の 『ライブ・フロム・ロンドン』 (ジャパンタイムズ社)を紹介した。 これは、 ナマのイギリス英語を現地で録音したものをそのままCD付きの実用書にしたものである。 これでわたしは、 行き帰りの通勤電車やバスのなかでだいぶ楽しませてもらった。 不思議な感覚だ。 目を閉じてウォークマンを聴いているだけで、 こころは すでにロンドンに飛んでいる。 このCDを聴いて思うことは、 イギリス人だって時には言い間違えたり、 文法的に正しくない英語を発していることがある、 ということだ。 まして、 わたしたちは外国人だ。 英語を話すことを躊躇したり、 尻込みしたりすることはない。 実用英語を身につけようとするならば、 まず笑顔で話しかけてみることだ。 今は昔と違ってネイティブスピーカーの授業を受けようと思えば、 いつでも機会は提供されている。 福岡大学は、 ネイティブスピーカーの数だけでも全国有数のスタッフを擁している。 学生諸君がこの教育環境の利点を積極的に利用されることを勧めたい。

  しかし、 本場の英語を日常的な場でもっとシャワーを浴びるように聞きたいと願う学習者に勧めたいのが、 インターネットを利用した 「BBC活用法」 である。 グーグル検索でも何でもいいから、〈BBC 活用法〉と入力して検索すれば、 その利用の仕方について具体的に教示してある。 これで、 学生諸君は日本に居ながらにして英国本国のラジオ放送五局を現在流されているかたちでそのまま聴けることになる。 なかでも特に学生諸君に勧めたいのがひとつある。 『英語学習者向け : BBC Learning English』 のコーナーだ。 ここをクリックすれば、 テキストや単語の解説まで用意されているので、 時事英語を勉強するには最適な教材だと言えよう。

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『きみが読む物語』
毛利潔 (フランス文学)
  最近 (2005年2月) の週刊誌に 「おじさんだって泣きたい映画! 『きみに読む物語』 (2004米) 」 という記事がありました。 それに倣って、 今回のタイトルを 『きみが読む物語』 としました。   では、 どんな物語なのか?

世界には無数の物語があって、 そのどれかを、 明確に、 ひとつの 《物語》 として、 意識して読むことができれば、 それが誰にとっても、 それが自分の物語になることははっきりしています。

  しかし、 どんな物語なのか・・・?

たしかに、 この世界は様々な出来事に満ち溢れ、 ほとんどすべてが謎に埋め尽くされた世界のようです。 しかし、 本当のところ、 この世界はただ、 古今の哲学が語るように、 静かに風だけが吹いているだけの世界かも知れない、 と考えることができるかも知れません。 このような風景を描写できる小説が、 もし、 あるとすれば、 たぶんそれが、 「究極の小説」 だと言うことができます。 これまで、 そのような小説を書くことのできた小説家は一人もいないからです。 ただ、 それに近い世界に接近できた作家は何人かはいることは確かです。

  その一人がトルーマン・カポーティ。

『ティファニーで朝食を』  2 『草の竪琴』  3 『遠い声 遠い部屋』

(1、 2は映画化されています)

  カポーティとは、 では、 どんな作家なのか? それは、 いずれ分かります。 ただ、 私としては、 カポーティに関しては、 一つしか言うべきことはありません。 それは、 彼がこの世界に一番近い作家だ、 ということです。

 たとえば、 『ティファニーで朝食を』 の中で、 ヒロインが作家志望の青年の小説の習作をコメントして、 「あんたの物語には (中略) ただ、 木の葉のそよぎがあるだけ」 というようなことを言う部分があります。 つまり、 この作品には、 木の葉のそよぐ風の描写しかない、 という訳です。

  こんな風に、 何にも事件が起こらない、 ただ、 風が吹くだけ・・・こんな世界が本当に面白いのだろうか、 ただ、 うざったいだけかも知れない、 と考える新入生の方には、 とりあえず、 村上春樹さんの小説をお勧めします。 (ただし、 『羊の歌』 までの初期群の作品に限ります)。 とりわけ、 デビュー作の、 その名もズバリ、 『風の歌を聴け』 です。

  おそらく、 はじめは、 何も分からないかも知れません。 しかし、 私たちが理解しなければならないことは、 ひょっとしたら、 そのような世界があるのかも知れない、 という、 普段は見えない世界を意識することではないか、 と思っています。

  村上春樹を通して、 カポーティが何となく分かった、 となれば、 後は皆さんの自由です。

いきなり、 オカルトとかポルノの世界に入っても構いません。 キーワードはちゃんと掴んでいるからです。

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歴史と文学との垣根をとり払おう
森茂暁 (日本史)
福田秀一・岩佐美代子・川添昭二他校注 新日本古典文学大系『中世日記紀行集』(岩波書店)

  創造的な人生を送るには、 柔軟な頭脳と大胆な発想とがまず必要でしょう。 身近なことでは、 たとえば卒業論文のテーマ探しや執筆のさい、 このことは決定的に重要です。 常日頃から固定的な物の考え方をしないで、 自分の頭で物事をのびのびと考えてみましょう。 ここでは、 文学の史料は歴史の史料として充分に活用できるということを述べます。

  例えば、 鎌倉初期成立の 『平家物語』 、 鎌倉末期成立の 『徒然草 (つれづれぐさ) 』 、 南北朝末期成立の 『太平記』 などは、 高等学校の段階まではいずれも文学作品として扱われ、 古典の時間に読まれます。 しかし、 このような作品は同時代の歴史を知るための史料として極めて有用で、 価値の高いものです。 今度は歴史の史料として再読しましょう。 むろん原文で。 この場合肝心なのは、一部分ではなく全部を読み通おすことです。 きっと感動が湧きおこります。 古典のもつ不思議な力です。

  さて、 冒頭にあげた書物はそれに類するものです。 日本中世の紀行文 (旅行記) が多く収められています。 中世日本人の旅行意欲をかきたてたのは (すべてが単なる旅行ではありませんが)、 十四世紀の南北朝の動乱を通した人々の地理的視野の広がりだと筆者は考えていますが、 この動乱を契機に国内を旅する人が増えてきます。 そのようななかで、 紀行文が書かれるわけです。 それらは主として国文学のジャンルで研究の素材となってきましたが、 歴史の方ではほとんど無関心です。

  このような紀行文が、 どのような意味で歴史研究に有用かというと、 たとえば、 阿仏尼 (あぶつに) の 「十六夜日記 (いざよいにっき) 」 は、 十三世紀後半 (鎌倉時代) の所領訴訟関係史料としてはもとより、 東海道 (京都と鎌倉をつなぐ基幹道路) の交通史の史料としても使えますし、 また、 連歌師宗祗 (そうぎ) の 「筑紫道記 (つくしみちのき) 」 は、 十五世紀後半 (室町時代) の筑前・豊前国 (福岡県)、 特に博多の人々の生活や周辺の景観をくっきりと描き出しています。 一例をあげますと、 筥崎宮 (はこざきぐう) を訪れた宗祗(そうぎ)は博多湾をへだてて、 夕日のなかの可也 (かや) 山 (福岡県糸島郡志摩町) をながめ、 「富士に似たる山」 と感慨深げに書き留めています。 同記は、 大内氏研究のための史料としても貴重です。

  同書では丁寧な脚注や解説が施されていますので、 容易に読み進むことができます。 さあ、 実際この本を手にとって、 読んでみましょう。

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心を鍛える
山内正一 (イギリス文学)
  宇野 千代 『天風先生座談』 (廣済堂文庫) 2008年
  近藤 信行編 『山の旅』 明治・大正編、 大正・昭和編 (岩波文庫) 2003年
  田中 澄江 『山はいのちをのばす』 (青春文庫) 2000年

 明治生まれの女流作家おふたりの、 心と身体の健康をめぐるエッセイを紹介したいと思います。 宇野さん (1897―1996年) も田中さん (1908―2000年) も90歳を超す長寿を全うし、 晩年まで健筆をふるわれた、 人生の達人と呼べる方々です。 宇野さんの本は、 知る人ぞ知るあの中村天風の講話を彼女が編集したもので、 初版は1987年に上梓されました。 両書とも、 心身を賢く管理して人生をいかに豊かに生きるか、 というテーマについて貴重なヒントを与えてくれます。 これから本格的な自己形成を目指す大学生にとって、 貴重な指針を与えてくれるものと信じ、 ここに紹介することにしました。

 田中さんの本には 「老いを迎え討つかしこい山の歩き方」 という副題が付いていますが、 老いない人間はいないわけですから、 若い学生の皆さんにとっても心身を鍛錬するうえで有意義な本であることに変わりはありません。 執筆開始時、 田中さんは89歳。 「体力と精神力の強化が、 私が山歩きをすすめる理由」 (147頁) と断言する彼女は、 「苦しい登りの道で出会って、 息もたえだえの身をどんなに花に励まされたことでしょう」 (78頁) と言える心根の持ち主でもあります。 49歳で北アルプスを縦走したあとで大腿骨骨折の手術を二度し、 リハビリの甲斐あって58歳で再び北アルプスを歩けるようになったという、 田中さんの山への深い思いは次の文章に良くあらわれています ― 「私はキリスト教徒ですけれど、 神道にも関心があります。 (中略) 私は自分が山を歩くのは、 山を通して神が大自然の気を吸わせてくださるのだと感謝している」 (45頁)。 「山は病院」 「山は保養所」 という彼女の言葉 (92頁) の奥行きは深いのです。

 『山の旅』 は、 明治・大正・昭和と三代にわたるわが国の 「山の文学」 の精髄を集めたものです。 「自然と対峙するのではなく、 自然のなかに溶けこんで一つになる」 (大正・昭和編、 451頁) という、 山と日本人の触れ合いのありようを確認できる良質の文章の宝庫です。 田中さんのエッセイと併読することを勧めます。

 宇野さんの本は、 独特の心身統一法を創出した巨人、 中村天風の健康哲学の解説・案内書になっています。 「優柔不断に、 ただ、 あるがままに生きているんじゃァ、 長生きは出来ないんだよ。 生活の条件の中の肉体の、 一番大事なことは、 終始一貫、 いかなる場合があっても、 訓練的に積極化して行く。 これで、 心身統一の根本条件が具体化したんです」 (81頁) という天風の言葉は、 「心を鍛えたければ、 まず肉体を鍛えなさい」 と語っているように聞こえます。 しかし、 別所で天風はこうも述べているのです ― 「健全な肉体は健全な精神によって作られるのであって、 健全な肉体によって精神が作られるのではない。 (中略) 心は心の方から直さないかぎりは強くなれない」 (107一108頁)。 要は、 肉体の鍛錬が先か心のそれが先かではなく、 心身一如の境地を目指す両者の鍛錬こそ真の健康の源なのではないでしょうか。 そこにこそ人生を生きることの妙味が生まれる。 このことを、 田中さんと宇野さんは (そして天風さんも) 教えてくれているようです。 皆さん自身の目で読んで、 この点を確かめていただきたいのです。

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汽車旅の勧め・その2
山縣浩 (日本語史)
 交通手段が多様化し、全輸送量に占める鉄道の割合は、一昔前・二昔前と比べると、旅客・貨物とも著しく低下した。これに対し、JR・私鉄各社は、旅客確保のため、独自に或いは旅行会社と共同で様々な知恵を絞っている。その1つが、移動のための手段としてでなく、乗ること自体を目的とした様々な企画である。それに乗せられ、踊らされるだけで終わるのは口惜しい。主体的に利用すれば、次の宮脇氏の言葉ではないが、新たな「文化」の創出となる。

   交通機関は目的地へ行くための手段である。そのかぎりでは「文明」にすぎない。しかし、車窓を楽しみ、街道をたどった昔の人に思いをはせれば「文化」の趣を呈してくる。鉄道旅行には、その余地が残されている。 宮脇俊三 『終着駅』(河出書房新社・2009年刊)175頁

 また「「手段としての鉄道」を「目的としての鉄道」に転換させたのが鉄道紀行文学」(原 武史 『新潮文庫・「鉄学」概論 車窓から眺める日本近現代史』(新潮社・2011年刊)16頁)の如く「「乗ること」を第一義」(同書 16頁)にした「文学」も生まれている。 注(1)

 20歳前後の感受性の豊かな時期に、いろいろな世界に飛び込んで、実体験をすることは大切である。しかし、大学4年という限られた時間で、多様な世界を実際に体験することは難しい。そこで、日常の世界を飛び出す手立てとして、汽車旅に出る。そして、車窓からさまざまな地域の自然風土を眺め、車中でいろいろな乗客を観察する。途中下車をして、地域の文化や歴史に触れたり、異なる世代の人たちと言葉を交わしたりする。いつまでも旅人ではあるが、新たな世界が開けてくる。

 そして、このような違ったもの・こと・ひととの出逢いは、人文科学を志す学生としての素養を育む。同世代の、気心の知れた仲間内の世界から踏み出す第一歩として、汽車旅に出かけてみようではないか。

 この旅を有意義にするための必須条件は 一人であること 携帯電話は持参しないこと である。

 車中、友達とおしゃべりをしていては、何に乗車しても、単なる移動の手段に堕してしまう。人と言葉を交わすのは、途中下車をしたときだけである。従って、携帯電話も車中での集中を妨げる物として厳禁である。勿論、非常事態への備えとして持参するのはよかろう。ただ、この場合も、電源を切って、鞄やリュックサックの底に仕舞い込んでおくべきである。

* * *

1. 入門編  - 福岡市営地下鉄一日乗車券で乗ってみよう

 福岡市内及び周辺の高校に通っていても、地下鉄で通学していた人は意外に少ないようである。多くの人は、かなりの距離でも自転車で通学していた、バスを利用していたのではないだろうか。従って、殆どの人が大学に入ってから地下鉄を日常的に利用するようになったと予想される。このような時、例えば、天神南駅や薬院駅などから乗車して、いつも福大前駅で下車しているだけでは世界は広がらない。

 例えば、梅林駅、更に橋本駅まで行って下車する。そして、地上に出る。すると、どこかで見たことがあるようで、どこか違う、別の福岡市の一面に出逢える。

 それを体系的に実行するため、1日乗車券を利用する。即ち、究極の途中下車を繰り返すのである。空港線・貝塚線・七隈線全35駅。それぞれに複数の出入口がある。すべてに足を運んで、それぞれの出入口から見える街並み・家並み、更に山並みを観察する。地下鉄には車窓が存在しないため、出口から出た瞬間、想像しなかった世界が突然開ける。3・4駅を経験するうち、その驚きへの期待のため、地上へ登る足は軽くなるはずである。

 勿論、車窓を楽しむことはできない。七隈線で最後尾の運転席に座ると、非日常の世界が広がりはするが、変化は乏しい。また乗客観察が汽車旅の楽しみの1つであるが、地下鉄の車中は没個性的である。更に地下鉄のようなロングシートの場合、こちらの行動も観られている訳で、キョロキョロの度が過ぎると不審者に間違えられる。

 蛇足であるが、空港線は姪浜駅でJR筑肥線と繋がっている。このため、筑前前原行き・唐津行きに乗車したまま姪浜駅を過ぎると、1日乗車券の区間外となる。勿論、地上を走るため、車窓の楽しみが加わる。下山門駅を過ぎ、松原が途切れると、今津湾が眼前に迫り、旅情が漂う。間もなく佐賀県に入るような気がするが、まだ今宿・周船寺など、西区、更に糸島市が続く。西区の向こうは、決して佐賀県ではない。

 地下鉄の旅は、汽車旅の魅力の多くを欠く。しかし、鉄路に親しみ、非日常の世界を覗く方法として最も身近な存在である。

 なお、1日乗車券を提示すれば、割引の受けられる施設が福岡市交通局のホームページに記されている。存分に利用すれば、1日乗車券の500円・600円は安い。

2. 一般編  - 観光列車に乗ってみよう

 近年、各地の路線に観光列車が運行されるようになった。九州・山口地域に限っても少なくない。その先駆は、蒸気機関車の運行で、小郡駅(現新山口駅)・津和野駅間の「SLやまぐち号」であろう(1979年より運行)。また九州では熊本駅・人吉駅間の「SL人吉号」が現役である。更に近年は既存の車両を改造した観光列車が多い。

 「いさぶろう・しんぺい号」は、霧島連峰を望む「日本三大車窓」の1つの区間、ループ線やスイッチバック、「好字」駅の真幸(まさき)駅など、様々な観光資源を有する肥薩線の人吉駅・吉松駅間を走る(吉松駅から更に下れば、開業当時(1903年)の面影を残す、貴重な駅舎の薩摩横川駅・嘉例川(かれいがわ)駅が続く)。 注(2)

 このような観光列車は、乗車することを目的に運行されているため、サービスは満点である。絶景のビューポイントで停車し、イベントが車中で催され、スポット駅で長時間停車するなど、乗客を飽きさせない。

 福岡市を出て、旅情に浸り、汽車旅の楽しみを知るには、観光列車が一番である。

 またこの手の列車は多く4項で紹介するローカル線を走る。これらの収益によって通常の列車運行が某か支えられ、駅々で地元の産物が購入されれば、沿線住民にとっても貴重な存在である。これらの点から、私は、観光列車に自ら進んで乗車しないが、新幹線より評価する。

 とは言え、1度だけ観光列車に乗ったことがある。山陰本線の「みすゞ潮彩号」である。これは、松江市から下関市へ向かう際、長門市駅で他に列車がなく、また同じ山口県出身者として今日のように広く知られる前から心を寄せていた金子みすゞに因むため、乗車した。 注(3)

 日曜日の午後の車中は、ラフな出で立ちの夫婦、家族連れ、グループやカップルばかりで、スーツ姿の一人客は浮いていた。それでも、福岡からやってきた観光客の振りをして、地元民として見慣れた北長門の海岸を眺め、車中のイベントである、高杉晋作の活躍、「回天義挙」などを描いた紙芝居を楽しんだ。

 しかし、一番は乗り合わせた乗客の観察であった。特に大学生くらいのカップルは目を惹いた。男の子は妙にはしゃいで、女の子にしきりに話しかけ、盛り上げようとしている。しかし、女の子は、口数が少なく、浮かぬ、つまらなさそうな風で、車窓を眺めていた。どのような経緯で、彼らは、私の乗り込む前の仙崎駅から乗車することになったのか、下車後はどこへ行くのか、想像世界は広がるのであった。

 汽車旅の重要な要素である、車窓からの楽しみは十分で、沿線地域を知るきっかけとして、観光列車はお勧めである。そして、非日常の場であるため、地下鉄で見られない乗客と乗り合わせる。彼らを観察することは、「人の振り見て我が振り直せ」ではないが、人を見る目、自身を省みる目を鍛えるために重要である。

3. 中級編  - 福岡近郊区間を乗ってみよう

 東京・大阪など、大都市ではJR路線が錯綜し、A駅からB駅まで行く場合、いろいろな経路が存在することは、容易に想像できよう。そこで、次のような特例が設けられている。

  東京・新潟・大阪・福岡の近郊区間内のみを普通乗車券または回数乗車券でご利用の場合、乗車経路を重複したり、2度同じ駅を通らない限り、乗車券の運賃は実際の乗車経路にかかわらず、最も安くなる経路を使って計算できます。…  『JTB時刻表』「JR線営業案内・運賃計算の特例 ●東京・新潟・大阪・福岡近郊区間の乗車券」

 東京・大阪以外に福岡にもこの特例が存する。従って、例えば、博多駅から吉塚駅へ行く場合、次のような最短・最長二通りの経路が可能になる。

 即ち、鹿児島本線で小倉方面行きに乗車して次の駅で下車する場合、久留米方面行きに乗車して、原田駅で筑豊本線に乗り換え、その後、途中下車をしないで、桂川・新飯塚・田川後藤寺・西小倉・香椎・長者原の各駅で乗り換え、吉塚駅で下車する場合である。

 いずれの場合も、先の特例により、運賃は160円である。しかし、所用時間は、前者なら約3分、後者なら約4時間半である。同じ金額で約90倍もの時間列車に乗っていられるのを利用しない手はない。1分当たり、前者は53.333円、後者は0.593円となる。

 このような計算をすると、新幹線を利用するのがアホらしくなってくる。我々は、並行する在来線の特急が殆ど廃止されているため、急ぐ場合、高い値段で時間を買わされるのである。

 福岡県出身の人でも、この最長経路の沿線すべてに馴染みがある人は稀であろう。乗り通すことによって、知っているようで知らない、福岡県の一面を窺い知ることができる。

 私が初めて新飯塚駅から後藤寺線に乗車した折である。筑前と豊前の境の小さな峠を一両の気動車で越え、田川方面へ下ると、真っ白な世界が現れた。船尾駅はセメント工場のまっただ中にあり、白い駅である。筑豊と言えば、石炭、黒のイメージであった。また田川後藤寺駅からの日田彦山線沿線も石原町駅まで香春岳など白の世界が点在する。

 なお、3分で行けるところを4時間半も掛けることに何の意味があるのかと思う人も多かろう。しかし、それは鉄道を移動の手段としか考えない発想である。4時間半も車窓から異なる景色が見続けられるのである。映画館でもこれだけの時間違うものを見せてくれない。

 勿論、途中下車ができないのは、難点である。しかし、福岡県の北辺を周遊する手立てとして、福岡県出身の人にもお勧めできる。福岡市・北九州市の間を鹿児島本線や高速バスで行き来しているだけでは出逢えない、新たな世界が開ける。

4. 上級編  - ローカル線に乗ってみよう

 「ローカル線」の定義は、意外と難しい。朝夕の通勤・通学時間帯を除くと、上り下りの列車が1時間に各1本以下しか運行されていない路線というのが私なりの漠然とした定義である。その他、特急などの優等列車が走っていない、非電化であるなども付帯条件として入れてよいかもしれない。

 しかし、全線がローカル線と言えない場合がある。例えば、前項の福岡近郊区間の中で原田駅・桂川駅間は、1日上下各9本で、すべて普通列車である。このため、この約20キロは筑豊本線の中でもローカル区間となる。一方、筑豊本線でも桂川駅・折尾駅間は、篠栗線と一括電化されて「福北ゆたか線」と称せられ、直方駅・博多駅間には特急「かいおう」が走る。

 細かなことを言い始めると、話がややこしく、長くなるのでこれ以上立ち入らない。一般的には、途中下車をすると、次の列車がやってくるまでかなり時間がある、ちょっとした買い物などで途中下車をするのが躊躇われる路線・区間をローカル線・区間と考えるのがよかろう。そして、これらを旅する場合、特急が殆ど走らないため、青春18キップで十分である。

 ローカル線の基準となる運行本数の少なさは、利用者の少なさを反映したものである。そして、鉄道利用者の少ない地域は、一般に人口密度の低い地域と言える。このような地域は、多くの場合、自然環境が過酷である。このことは、同時に、原野や河川、山や渓谷、海岸などの絶景を生み出す。またこのような地域に鉄路を敷くのは容易でないため、トンネル、橋梁、スイッチバックなど、様々な鉄道技術を要する施設が必要となる。このため、常には見られない貴重な鉄道施設を体験することができる。

 従って、昨今、ローカル線に観光列車が運行されることが多い。

 しかし、車内の喧噪を避け、一人静かに車窓を楽しむためには、通常運行の列車に乗らなければならない。そうすると、今度は、有名ローカル線の場合、リュックサックの軽装ながら、異様に立派なカメラを持参した、いわゆるマニアに出逢うことになる。確かに、彼らは、徒党を組んで車中で声高におしゃべりをしたり、日が少しでも射し込むとすぐにブラインドを下ろしたり、カーテンを閉めたりしない。従って、我々に害は与えない。むしろ、彼らが車中で、また停車中にどのような行動を取るかを観察することが楽しみになる。運転席横のフロント・ガラスからシャッターを切ったり、ロングシートに横座りをして車窓を眺めたり、駅構内を歩き回ったりする彼らの姿を資料としてコンパクトカメラに納めたことがない訳ではない。

 しかし、いい年をして同じ臭いを持つ者であると彼らから誤解されることは厭う。このため、駅で彼らを見掛けると、身構えてしまう。従って、私は、ローカル線に乗車する際、できるだけスーツを着て、仕事でたまたま乗ってます…という風を装う。

 ただ、近年、ローカル線で困ったことに遭遇した。

 豊橋駅と辰野駅を結ぶ飯田線でのことである(本線は、豊橋駅・飯田駅間を特急が2往復し、電化されているため、真性のローカル線と言えないところがある)。特に中部天竜駅から天竜峡駅までは、県境(静岡県と長野県)区間の常として、この約54キロを通して運行される普通列車は1日に上り下り各9本と少ない。更に、天竜川沿いの絶景、小和田(こわだ)駅などの「秘境駅」が連続する。 注(4) 従って、その筋にはよく知られ、また西日本在住の者にはなかなか乗車のかなわない、憧れのローカル区間である。

 豊橋方面から向かうと、深い谷を渡り、木立に覆われた、天竜川直上の鉄路を進む。小さなトンネルがいくつも続く。この先に何があるのだろうかと不安が募る。ところが天竜峡駅を過ぎると、南アルプスと中央アルプスに挟まれた広大な伊那谷に飛び出す。

 しかし、絶景の有名路線であるが、観光列車は運行されていない。このためかもしれないが、ある秋の土曜日、この区間の半ば過ぎ、長野県下伊那郡天龍村の中心地にある平岡駅から胸にバッチを付けた団体客が大挙して乗り込んできた。それから天竜峡駅まで車中は周遊ツアーの1つとして列車に乗せられた有象無象のため、騒然となり、色づき始めた天竜沿いの紅葉を心静かに味わうことができなくなった。

 例に漏れず中高年の女性客が中心で、おしゃべりに興じ、隣のボックスシートの小学生数名は日本有数の絶景に見向きもせず、戯れ会い、その祖母のような人物は「車掌さんがいろいろ説明をしてくれるので、大井川鐵道の方が面白いね」などと、訳の分からないことを言っていた。 注(5) そして、30分後、天竜峡駅でその1行は待ち構えていた観光バスに乗るべく、下車し、駅から出て行かされた。

 暫くして同じような経験を思い出した。長大な山陰本線のローカル区間の1つ、兵庫県北西端の香住駅・浜坂駅間のことである。2007年の冬、余部(あまるべ)鉄橋の掛け替え工事の始まる前、香住駅から顔を赤らめた団体客が立錐の余地もないほど乗車し、2つ先の餘部(あまるべ)駅で一斉に下車した。 注(6) 私は次の列車まで1時間少々餘部に滞在したが、その赤ら顔たちは、鉄橋下の国道に駐車していた、「カニ」「鉄橋」の文字がフロントガラスの掲示に見える、何台もの観光バスに素早く乗車し、どこかに移動した。

 これらの企画がどのくらいの線区でどの程度行われているのかは知らない。しかし、有名ローカル線には季節・曜日・時間帯を考えて乗車しなければ、折角の旅が台無しになってしまうと思い知らされた。

 観光列車は、外れが少ない。しかし、お仕着せの旅である。一方、ローカル線に自ら乗車しようとする場合、どこの路線で何を目的とするかを事前に調べ、限られた列車に効率よく乗車するため、入念な計画を立てる必要がある。従って、主体的な取り組みが求められる。ただ、繰り返すうちに大判の時刻表と首っ引きで計画を練ること自体が楽しみになってくる。

5. 番外編  - マイナー・ローカル線に乗ってみよう

 全国的に知られた観光地、絶景の山岳や渓谷、貴重な鉄道施設など、沿線に取り立てられるものを有さないローカル線をマイナー・ローカル線と個人的に呼んでいる。

 従って、いかにもその筋の者です! という人たちを車中でも沿線でも殆ど見掛けない。また汽車旅の何たるかが分かっていない輩が旅行会社に乗せられてくることもない(はずである)。多くの場合、地元のお年寄り、時間帯によっては高校生との旅となる。

 しかし、反面、起伏の少ない路線で、どこにでもありそうな田園風景がいつまでも続く。勿論、絶景がない代わりに、廃屋や廃校、荒れ果てた田畑、倒木の夥しい山林などを見掛けることは殆どない。従って、この車窓は暮らしやすさの一端を示すものとして、心を痛めることは少ない。とは言え、車窓の眺めとして変化に乏しいことは事実である。またそのような路線だけに車中で観察に値する人もいない。気動車に揺られるうちにうっかり寝てしまい、何のために乗車したのか分からなくなることがある。

 このため、楽しみは途中下車となる。

 どの地域にも歴史があり、某かの史跡がある。小さな町村でも歴史や民俗の資料館を備えている。また、途中下車をしても、次の列車まで時間がたっぷりある。このため、地域の文化や歴史の一端に接したり、土地の人と言葉を交わしたりすることができる。勿論、そのためには4項に記した以上に念入りな下調べが必要である。下調べに時間を掛けた分だけ、途中下車をする際、新たな出逢いに期待が膨らむ。

 例えば、姫路駅と新見駅を結ぶ姫新(きしん)線。全線非電化で、特急は走っていない。全線を乗り通そうとしても、佐用(さよ)駅または上月(こうづき)駅、津山駅で乗り換えねばならず、県境(兵庫県と岡山県)区間はやはり1日上下各9本である。このため、九州からであると、全線約158キロを1日で乗車するにはそれなりの覚悟が必要である。私も3回に分けて完乗した。最後まで残った姫路駅・東津山駅間は、当初、乗り通すことが目的であった。

 金曜日の朝、姫路を発つ列車から旅を始めることにした。しかし、接続の関係で、途中どこかで1時間半近く待つ必要がある。そこで、待ち時間に訪ねる施設・史跡を決めるため、沿線市町村の情報をインターネットで集めた。そして、兵庫県佐用(さよう)郡佐用(さよう)町を検索する中で、乗車する列車の終点・上月駅近くにある上月城跡を訪ねることにした。

 戦国時代、当地は織田勢と毛利勢の接する地として、小さな山城である上月城を巡って凄惨な争奪戦が行われた。最後は織田方を頼って尼子氏再興を目指す山中鹿介(しかのすけ)らが依った。 注(7)

 当日は、麓の歴史資料館が休館であったため、登山口にある合同の慰霊碑や尼子勝久の墓などに手を合わせると、山頂を目指して山道を登り始めた。麓から見上げると、高さは40メートルもないかもしれない。このときはスーツ姿でなかったが、運動不足の身に2泊3日の旅程の荷物を両手にして登るのは、容易でない(マイナー・ローカル線の駅には、多くコインロッカーは備えられていない)。すぐに息が切れ、フラフラになる。何度も休み、鹿介の一念に負けじと喘ぎながら登った。

 山頂は、麓から想像したより広く、郭(くるわ)跡や上月合戦の案内板、最初の落城時の城主・赤松政範の碑などが建っていた。眺望は、木立のためよくないが、僅かな合間から北側に姫新線が見える。鹿介を初めとして、数度の争奪戦ごとに本城に依った織田方・毛利方の人たちは、どのような想いで、たぶん今も昔も変わらぬ、周囲の山々、麓の佐用川を眺めたのであろうか。

 上月は、姫新線完乗の目的や待ち合わせの時間がなければ、生涯足を踏み入れることのない地であった。上月城跡を訪れ、数年前に訪れた富田城跡と繋がり、尼子氏を入口にする中世地方史の世界が少し広がった。

 勿論、途中下車をして何をするかは、各自の興味・関心、待ち時間や時間帯などに応じて決めればよい。史跡ばかり訪ねる必要はない。

 例えば、時間帯によっては、食事のために途中下車をすることもあろう。その際は、ファーストフード店やファミリーレストランでなく(但し、マイナー・ローカル線の駅前に存する可能性は低い)、地元の食堂を利用すると、九州と異なる食文化に接することができる。また地元の人と会話を交わす機会ともなる。勿論、若い人、特に女性が地元の食事処に入るには大変な勇気がいろう。このような時は、観光案内所の職員や駅員などに紹介してもらい、店でその人の紹介でやってきたことを告げると、店での対応が違い、会話が生まれることがある。

 数年前、安来市の夜のことである。夕食を供さない宿で紹介された小料理屋に入った。最初は、一回り年上の常連さんばかりで緊張した。しかし、宿の紹介でやってきたことを言うと、打ち解けて話が弾み、最後は「てっぺいさん」に拉致される形でスナックに行くことになった。その間、当然、安来の食べ物・酒やことば、仕事のことなどを聴き、全く窺い知らない世界に接することができた。

* * *

 自然主義を代表する作家で、沢山の紀行文も残した田山花袋は、次のように記している。

   旅行をする人は、直覚が鋭敏であると共に、旅をする地方其(その)ものの知識に富んでゐなければならない。知識がなければ、豫(あらかじ)めその知識を豊富にして置かなければならない。其地方の沿革古蹟は勿論、現今に於ける其地方の生活状態、産業、地形、さうしたものをも詳(し)く研究して行けば行くだけの利益は必ずある。普通の人は只単に其處(ところ)を通つて行くばかりであるが、さういふ風に研究して行つた人には、其地方の印象が必ず分明と映つて来る。 『定本 花袋全集』(臨川書店・1994年復刻刊)第15巻「新しき紀行文」155頁

 どのような形態の汽車旅であろうと、その旅を有意義で、実りあるものにするためには、某かの準備が必要である。「研究」はいささか大仰であるが、下準備が入念であればあるほど、旅は思い出深いものとなり、接する世界は奥深いところにまで至れる。例えば、乗車する路線周辺の詳細な地図を準備しておくだけでも、車窓は異なってくる。

 勿論、旅に予想しない出来事は付き物である。その場では苦く、辛いものであっても、後で考えると、よい思い出となる。また次の旅へ向けての反省点にもなる。

 新たなもの・こと・ひととの出逢いを求め、そして自身の世界を大きく広げるため、汽車旅に出かけようではないか。

    

(1) 今回「その2」では「鉄道紀行文学」について述べない。しかし、これに親しむことによって自宅にいながらにして汽車旅を味わえ、汽車旅に誘(いざな)われる点は強調したい。
  原氏の本書、特に「第1章 鉄道紀行文学の巨人たち」では、内田百閒(ひゃっけん)、阿川弘之、宮脇俊三の3巨人について、それぞれの文章の特徴と代表作の持つ魅力が余すところなく、コンパクトにまとめられている。「鉄道紀行文学」のガイドブックとして最適である。

(2) 「いさぶろう・しんぺい号」とは、妙な列車名である。前者は山県伊三郎(1857~1927)、後者は後藤新平(1857~1929)に因む。それぞれ人吉駅・吉松駅間が建設・開業された当時の所管大臣と鉄道総裁である。
  観光列車や特急列車に人名が付けられることは多い。しかし、それらの多くは、後述の金子みすゞや魁皇の如く、運行される地域にゆかりがあり、全国的に知られた名前に因む。この点で当列車の命名はユニークである。

(3) 金子みすゞ(1903~1930)は、山口県長門市仙崎生まれの童謡詩人で、その詩は小学校の国語教科書にも掲載されている。
  長門市駅から1駅、即ち、2キロ少々、3分程度で仙崎駅に至る(この短い長門市駅・仙崎駅間は、山陰本線の支線とされる)。この駅から北に延びる「みすゞ通り」には、「金子みすゞ記念館」の他、ゆかりの場所が多く、沢山の詩碑が点在する。
  みすゞに関連する図書は多いが、『別冊太陽・日本のこころ 金子みすゞ』(平凡社・2003年刊)が入門書としてよかろう。
  なお、「みすゞ潮彩号」の乗車記として、野田 隆 『平凡社新書 カラー版・一度は乗りたい絶景路線』(平凡社・2009年刊)「PART2―6 山陰の潮騒と詩情、そして絶景」が詳しい。また本書には、コラムとして2項で紹介した肥薩線の真幸駅・矢岳駅間の記述もある。

(4) 「秘境駅」は、牛山隆信氏の命名により、「そこにたどり着く道もなく、したがって乗降客がほとんど皆無にもかかわらず、それでもひっそりと、そして逞(たくま)しく存在する駅」と規定される(牛山隆信 『小学館文庫・秘境駅へ行こう!』(小学館・2001年刊)2頁)。同書では中部天竜駅・天竜峡駅の区間から小和田(こわだ)駅・田本駅・金野(きんの)駅、続編の『小学館文庫・もっと秘境駅へ行こう!』(小学館・2003年刊)では為栗(してぐり)駅・千代駅が紹介される。
  これらの駅のうち、小和田駅は、小和田(おわだ)雅子様のご成婚にあたり、注目を集めた。私は下車したことがないが、本文に記す飯田線乗車の際には、当駅で同じ車両の中年夫婦が降り立ち、またすでに2・3名の先客があった。どのようなところに建つ駅であるかは、牛山氏の著書を読んでいただきたいが、車中から見ると、駅周辺に車の入れる道路はなく、駅を出ても、自然に接する以外、訪ねるところは全くないようである。
  なお、『もっと…』 では2項に記した嘉例川駅が紹介されている。

(5) 大井川鐵道は、静岡県の私鉄で、東海道本線の金谷駅から大井川沿いに南アルプスの麓に分け入って井川駅に至る。いち早く1967年から金谷駅・千頭駅間で蒸気機関車を走らせた。東京から程よい遠さであるため、テレビの旅番組でよく取り上げられる。それに依ると、車中は旅の素人に楽しいもののようである。この女性の発言も、通常の定期列車でなく、蒸気機関車の牽引する観光列車に乗車した際の経験に基づくものと判断される。

(6) 余部鉄橋はかつて餘部駅のすぐ手前にあった。即ち、約100年間風雪に耐え、2010年7月17日に役目を終えた。現在は、解体され、同年8月12日から新しいコンクリート橋が利用されている。
  その時代性もあるが、11基の橋脚を持つ、赤いトレッスル形式の橋梁は、谷の入口で、日本海に面して聳え、独特の美しさを誇っていた。1986年12月28日の列車転落事故以降、種々検討がなされ、架け替えられることとなった。
  本鉄橋に関しては、田村喜子 『余部鉄橋物語』(新潮社・2010年刊)に尽きる。

(7) 山中鹿介(1541?~1578)は、戦国大名で、出雲を中心に中国地方に覇を唱えた尼子氏の重臣である。昭和10年代国語教科書で扱われたとのことで、「願わくは、われに七難八苦を与えたまへ」の文言とともに、お祖父さんやお祖母さんの世代の方は名前をご存じかもしれない。
  1566年、現安来市広瀬町の富田(とだ)城で毛利氏に攻められ、尼子氏が滅亡する。その後、鹿介は尼子氏傍系の勝久を擁立して再興を目指し、奮闘する。しかし、1578年、毛利の大軍に上月城を包囲され、援軍も得られず、落城、その後鹿介は殺される(残念ながら、鹿介に関する図書で、容易に入手できる新書・文庫の類は存しないようである)。
  富田城での尼子氏滅亡に絡むのが、横溝正史「八つ墓村」(角川文庫)である。本書は、姫新線の一方の起点・新見市の近隣にあるという八つ墓村を舞台とする、戦後ミステリーの傑作の1つである。

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この漢(おとこ)に逢え
山田英二 (英語学)
「青竹」「よじょう」山本周五郎短編集(新潮社、他)

 初めに断っておくが、筆者は読書家では決してない。好きなものしか読まないからだ。

 それなら好きな作家は誰かと聞かれたら、尻のあたりがこそばゆく、たいてい口ごもる……。もしもそういう気分の分かる学生諸君(諸嬢)がいるとしたら、声を潜めてこの作家の名を語ってもいいか、と思う。

 山本周五郎。作品集は30巻に及び、映画やテレビ化された作品も数知れないので、知名度は高いと言える。中には凡作もある。だから、という訳ではないが、その数多い作品のどれに手が伸び、どれに感銘を受けるかは人それぞれであるに違いない。時代小説、武家物語、下町人情もの、恋愛小説、ミステリー、戯曲や少年少女向けの作品までありジャンルは幅広いが、ただその作品の何れにも「山周色」が濃いのは確かだろう。

 ストーリーテラーとしての腕前は秀逸で、要所要所を意外性でシメていく。その語りの冴えについつい引き込まれ、読み終わってうーん、うまいな、さすがだなと感服する彼の短編集は、夜更けの独り酒の肴にはもってこいである。

 例えば、次のような話の続きがどうなるか想像してみて欲しい。

 一人の若侍がいて、この男は腕が立つ上に人望も厚い。同じ藩内に対立する2派があり、ある朝とうとう集団で切り結ぶはめになる。男を頼みとする側からの急報が届いた時、彼はまだ寝ており、応対に出たのは美しい新妻だった。聞けば夫はすぐさま、殺戮の場に駆けつけるに違いない……。知らせに来た友人が走り去ると、残された妻は悩みに悩んだ末、私闘は藩のご法度という言い訳を思いつき、あえて夫に伝えない決心をした。

 相当数の死傷者が出たこの果し合いは、表沙汰になることを畏れた藩の目論見もあってやがて丸く収まる。しかし、みすみす仲間を裏切った卑怯者という評判がたちまち藩内に広まった。男はいちどきに武士としての面目・立場・将来を失い、妻は自責の念に苛まれる。妻の兄が訪れ、(そんな男の妻では)家の恥だから妹と離縁しろと迫った時、男はようやく重い口を開いた……。(「4日のあやめ」)

 「貧乏と、屈辱と、嘲笑と、……そして明日の望みのなくなったときにこそ、はじめて我々は人生に触れるのだ。」と言ったのは山本である。若く、希望に溢れる学生諸君にも、避けがたい荒波に直面する時がやがてくるだろう。刹那にどう動くか、という判断は、或る意味いちかばちかであるが、これから大学で修める学問、そして多くの経験がその時、君の支えになることを期待したい。良き師、良き本に出逢うことも、一助となることを信じる。

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岡村敬二 『江戸の蔵書家たち』 (講談社選書メチエ71)
山田洋嗣 (日本文学)
  昨年、 江戸後期の和学者、 小山田与清のことを調べていて大変面白かった。 本当はここで与清の 「擁書楼日記」 をすすめたいのだが、 いささか特殊にすぎるかと思いなおしてこの本にする。

  江戸時代になると書物の流通が広くさかんになり、 出版も多くなって、 自然大勢の読書家や蔵書家、 また著作や出版に志す者、 分類や目録を作る者、 あるいは索引を編もうとする者が出てくる。 岡村敬二のこの本はその人々の群像とそのなさんとしたところをいきいきと描き出してみごとである。 また、 それがこの時代の文化のうねりを描くことにもなっている。

  ことに面白いのは、 冒頭の小山田与清とその蔵書に群がる人々の様子である。 与清は蔵書のために蔵三つを建て、 五万巻を収めたというが、 彼らを動かすのは、 すべての書物を集めたい、 すべての書物を読みたい、 すべてを分類したい、 という静かな狂気である。 そのために彼らは集いまた離れつつ、 本を求め、 購い、 貸借を、 輪読を、 抜書を倦まずにくり返すのである。

  私は、 実は小山田与清という人間をあまり好きになれないし、 その著作が面白いとも思わない。 「行為」 が面白くて、 「結果」 が面白くないのは彼の特徴である。 しかし、 この様子を書くのに岡村が主な資料として使った 「擁書楼日記」 は、 その様子が日々記録されていて、 実に面白いのである。

  なお、 こちらを読みたいと思う人がいるかもしれないから書いておくと、 「擁書楼日記」 は明治45年に出された 『近世文芸叢書』 の第12巻に入っている。 ただし、 活字化するにあたっての間違いが所々にあるから注意しなければならない。 気になる人は、 早稲田大学図書館のウェブ・ページに与清自身の自筆本の写真版が公開されているから、 それを見るといいと思う。

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頭も身体もしなやかに
山中博心 (ドイツ文学)
 今社会が求めている能力は、コミュニケーション力、論理的思考、問題解決力と言った汎用的能力、つまりは応用力、総合力と呼ばれる力です。何か資格を持っているというよりは状況に応じて対応できる能力です。それに加えて人間力や生きる力も必要です。

 ものを考えるためには言葉が不可欠です。そんな意味で今井むつみさんの『ことばと思考』(岩波新書)は国によって、民族によってものの見方、考え方が異なるのは何故なのかが分かりやすく書かれています。同時にことばに頼り過ぎることで抱えるマイナス面も教えてくれています。過ぎたるはなお及ばざるがごとしです。

 文化の違いを越えて気持を伝えるためには日本語と外国語を比較する必要があります。例えば英語の文章の構造は日本語と異なることは中学・高校と勉強されてきてご存知だと思いますが、創造的に英語を使いこなすためにはどうすれば良いかを教える立場から書かれているのが菅原克也さんの『英語と日本語のあいだ』(講談社新書)です。表面的なコミュニケーションではなく中身のある国際交流には欠かせない学習法だと思います。

 しかし、頭で考えるだけでなく、身体を動かすことも健康であるためには不可欠です。頭は嘘をついても身体は嘘をつかない、といわれるように身体からのメッセージを感じ取れるように身体感を養うという点では甲野義紀・内田樹さんの『身体を通して時代を読む』(文春文庫)を参考にして下さい。

 また昨年映画化された『ノルウエーの森』の作者村上春樹さんの『走ることについて語るときに僕の語ること』(文春文庫)には、生(エロス)の危うさ中に宿る死(タナトス)を窺うことができると思います。書くことを支える身体を極限まで追いつめて行くところは考えさせられます。

 こうした本が新入生の皆さんが大学4年間を有意義に過ごされるための良きセンス、バランス感に繋がることを願っています。

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考える力のために―パスカル『パンセ』のすすめ―
輪田裕 (フランス文学)
  世はIT時代。 情報を手にいれるための道具はますます便利になって、 音楽も、 かつてのカセットテープのためのウォークマンなど全く比較にならないほど、 音質も容量もすぐれた機器が出現しています。 昔の話ですが、 LPレコードで音楽を楽しんでいた私には、 針が飛ばないように身動きにも気をつけながら耳を澄ましていたころのほうが、 今よりも音楽を聴いたという実感があったような気がします。 語学も、 いまや電子辞書でらくらく単語をひくことができます。 でも便利になって語学は上達したのでしょうか。 確かに同じ労力をはらっていれば、 かつて以上に上達しているに違いないのですが。

  さて、 ここに紹介するパスカルの 『パンセ』 は文庫本に収まるほどの量にすぎません。 それも断片の寄せ集めなので最初から最後まで通して読むことが求められるものではありません。 一つの断片は、 短いものなら数秒で、 長いものでも15分もあれば読み終わる長さです。 その断片のどこから読んでもいいし、 どこで終わってもいい。 仮に意味を取り違えてしまっても、 誤解も一つの読み方なのだと思わせてくれる一冊です。 では、 気楽な随筆なのかといえばそうではない。 簡単に分かってしまうものは少ない。 何度も読み返すこと、 行ったり来たりすること、 さまようこと、 そうしているうちに少しずつ理解できてくる。 はっとする言葉に出会ったり、 反発を感じたり、 つまり 「こころ」 に何かがひびくとき、 それがパスカルの声が直接聞こえたときです。

  考える力、 などというといかにも論理的思考を意味しているように思うかもしれませんが、 実は 「さまようこと」 なのではないか、 と思います。 あるいはそのように 「さまよう力」 といってもいいでしょう。 さまようのは手引きとしてのマニュアルがないからです。 わたしたちの生きる世界にはマニュアルはありません。 たとえマニュアルがあったとしても、 それはすでに 「今」 には通用しないものです。 「今」 を生きるためには、 さまよいながら自分で作るマニュアルが必要です。 つまり、 自前のマニュアルです。

  『パンセ』 を読み、 自前のマニュアルを作ることができるように、 さまよう力をつけませんか?

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Novis 2011
― 新入生のための人文学案内 ―

印 刷 平成23年3月25日
発 行 平成23年4月1日
発行者 福岡大学人文学部
印刷所 城島印刷株式会社