福岡大学人文学部
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Novis 2013

Novis 2013 目次

Novis 2013 本文

新入生の皆さんへ
梶原良則 (人文学部長)
 永く大学の教員を続けていると、卒業生の皆さんから、様々な 声が聞こえてきます。そうした声のなかに、「学生時代に先生から勧められた 『○○』 と いう本を、あらためて読んでみました。学生時代にはわからなかったけれども、社会に出 てからこの本を勧めていただいた意味がわかるようになりました。」という趣旨の声を、卒 業後五年から十年程度の時が経過した卒業生から聞くことがあります。

 新入生の皆さんは、これから始まる大学生活への期待と不安が先に立ち、卒業後の進路 や、どのような人生を送りたいのかといった、将来の問題について考える余裕はないかも しれません。しかし、大学生活は瞬く間に過ぎてしまいます。皆さんは、これから始まる 大学での学修、生活、進路、さらには卒業後の人生について、思い悩み、挑戦し、努力を 怠らず、様々な経験をつむことで、自立した「大人」へと成長し、社会へ巣立っていくこ とでしょう。

 この小冊子は、そのような新入生の皆さんに対する、人文学部の先生方からのメッセー ジです。これから始まる大学生活の羅針盤として活用してください。

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映画の字幕
間ふさ子 (中国近現代文学)
 外国語映画を見るときになくてはならないものが字幕です。映 画では目からの情報だけでなく、言葉や音楽など耳からの情報も大きな役割を果たしてい ますが、言葉が外国語だと何を言っているのかわかりませんよね。それを解決する主な方 法は吹き替えか字幕ですが、日本では字幕が主流のようです。字幕翻訳監修業という職業 の草分けである清水俊二さんの『映画字幕(スーパー)五十年』『映画字幕スーパーの作り方教えます』を読むと、日本におけ る字幕スーパーの歩みを知ることができます。

 字幕と聞いてすぐに思い浮かぶのが、この清水俊二さんや戸田奈津子さんなど字幕翻訳 者の存在です。語学を志す人で字幕翻訳者にあこがれたことのない人は少ないのではない でしょうか。自分の作った字幕がなければ観客たちは作品を十分に鑑賞できないのです。 しかも一行わずか一〇文字で台詞のエッセンスを表現しなければなりません。責任は重大 ですが、やりがいもあるというものでしょう。

 戸田奈津子『字幕の中に人生』、太田直子『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が 変だと叫ぶ』など、字幕翻訳のエピソードを綴った本は何冊かあり、いずれも興味深 いものです。また、前述の清水俊二さんの著書や高三啓輔『字幕の名工 秘田余四郎と フランス映画』を読めば、字幕翻訳者の生涯を通して二十世紀の日本と日本人の姿が、 外国映画の受容という側面から浮かび上がってくるでしょう。

 しかし、翻訳者だけでは字幕は出来ません。字幕を作るにはタイトルカードに字を書く、 フィルムに字を打ちこむなど、技術者の熟練の技が不可欠です。字幕がどのように作られ るのかを教えてくれるのが、神島きみ 『字幕仕掛人一代記 神島きみ自伝』 です。 この本を読むと映画が工業技術に支えられた芸術であることがよくわかります。

 現在では、デジタル映像であれば、素人でも専用のソフトを使って字幕制作にトライす ることができます。東アジア地域言語学科では、字幕制作ソフトを利用した語学の授業を 行うほか、有志で一九五〇年代、六〇年代の中国映画・韓国映画の秀作に日本語字幕をつ け、市民のみなさんに鑑賞していただくという活動を行っています。これまでにみなさん の先輩たちが、中国映画『白毛女』('50)、『家』('56)、『五朶金花』 ('59)、『我們村裡的年軽人(村の若者たち)』('59)、『今天我休息(本日 非番)』('59)、『李双双』('62)、韓国映画『青春双曲線』('50)、 『運命の手』('54)、『三等課長』('61)、『ソナギ(通り雨)』('78) な どに字幕をつけました。今年も九月の発表会に向けて準備を進めています。

 読むだけではなく、みなさんもぜひ字幕制作にチャレンジして、プロの翻訳者たちが縷々 語る字幕翻訳の神髄 ―限られた言葉で限りないイメージの世界へ観客を誘う醍醐味― の 片鱗に触れてみませんか。

  清水俊二『映画字幕(スーパー)五十年』早川文庫、一九八 七年
  清水俊二『映画字幕(スーパー)の作り方教えます』文春文 庫、一九八八年
  神島きみ『字幕仕掛人一代記 神島きみ自伝』パンドラ、一九九五年
  戸田奈津子『字幕の中に人生』白水Uブックス、一九九七年
  太田直子『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』光文社新書、二〇〇七 年
  高三啓輔『字幕の名工 秘田余四郎とフランス映画』白水社、二〇一一年

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迷って選んだ答えは必ず間違い
青木文夫 (スペイン語)
 山崎一夫、西原理恵子『迷って選んだ答えは必ず間違い』(竹書房)

 もう三〇年以上も前のある日。Craps(ルールの詳細は各自調べてね)のさいころを投げ るシューターの僕。ミニマム五ドルのテーブルで二〇ドルを置いて、さらにオッズベット で六〇ドル追加。ポイントで⑧だったので、とにかく投げたさいころ目の合計が⑧なら勝 ち。さいころの①の目を上にして気合いを入れて投げ入れる!出た目は②と⑥!気合いさ えあれば、さいころの目なんて簡単に出せるのである。

 この数年 NOVIS の読書案内の方針を無視して、雑感ともいうべき老兵の戯言を書いてき たが、昨年は学生諸君に読んで欲しい本に久しぶりに巡り合ったので、これを紹介したい。 ただし、相変わらず雑感が目立つことはご容赦願う。

 物事には理詰めで答えが出るものと、絶対に出ないものがあるという。サイコロを振っ て①が出たら、次に①が出る確率はやはり1/6なのに、出目というもう一つのオカルト で次は②から⑥が出易いと思ってしまう。①が三回続けて出る確率と①④⑥と出る確率は 同じなのに①が三回続けて出るほうが低いと思ってしまう。だからサイコロの次の目が何 かなんて絶対に理詰めでは分からないと言うが……しかし……

 大学受験を目指していた若かりし頃のある夜。とにかく不得手な数学。一つの問題を何 を調べてもよいから解けばよいという勉強方法でやっていた。いきなり上級問題(僕にと っては)に取り組む。朝までに答えが分かれば良いと、夜の一〇時くらいに取りかかり始 めた。例題の解き方と解説、教科書の練習問題、別の参考書の類似問題の解き方などなど、 しかしながら明け方になっても正解に到達しない。仕方なく高校へ行き、教室で数学大得 意のF君に問題を見せる。すると、問題を一瞥すると、手許の紙にすらすらと説明を交え ながら答えを書くではないか!前に解いたことがあるのかと尋ねると、そうではないとの こと。では、いくら数学得意だからと言って、かなりの難問をさらっと解けるのかとの問 いに、「青木は将棋、囲碁をやっていて、明らかに格下の相手には負けないよね。勉強も同 じ。自分が到達しているレベルの遥か下の問題は、すでに見下すことができるんだよ」と のたまうではないか。受験まであと一年弱。英語には自信があり、文系科目は適当に何と かなると思っていた筆者はここで数学を完全に捨てて、某私立大へ。一方、F君は東北地 方のある国立大へ進学し、現在は二人が学んだ母校の教師に。

 大学へ入ってからは、とにかく多芸(?)多趣味を満喫していたが、その中に今はすっ かりご無沙汰している囲碁も入っていた。麻雀と囲碁や将棋との差について麻雀は「運」 が占める要素が大きいなどととやかく言う人がいるが、どちらも強い人は強いのであり、 レベルが違えば絶対に負けないのである。

 最盛期で弱いアマチュア四段くらいの実力であったが、強豪大学では正選手になれない ところ、入った大学のレベルは関東二部リーグと三部リーグを行ったり来たり程度で、お かげで団体戦(五人対五人)では真ん中の三将を打つことができた。はっきり覚えていな いが、チェス時計四五分で時間切れは一分の秒読み(相手校の控えの選手が読む)だった と思う。もちろん必死で打っていたが、とくにある日、他の四人が先に勝負が終わってし まい結果は二勝二敗。何と団体戦の勝利の鍵が僕の対局にかかっている状況に。おまけに 形勢は微細。両校の選手二〇人近くがギャラリーになって、どちらも秒読み。人生で一番 胃が痛くなったのはこのときであり、試合のあと洗面所で吐いたくらいである。局面も終 盤になって予想にない手が打たれた。手を抜いて他に回れば勝ちであるが、そこに手が生 じて大きな損をする可能性もある。必死で読む、吸いかけのタバコの灰が落ちる(当時は 喫煙OKだった)。秒が読まれる。「五〇秒、一、二、三、四…」。分からん!迷う。指は手 抜きで大きな寄せに。結果は数手後に投了(負けを認める)する僕の声が空しく響くので あった。その後、渋谷の「村さ来」で後輩の辛辣な言葉を浴びながら飲む姿が!(学生と いえども勝負の結果に厳しいのがこの世界)

 囲碁や将棋でも、こういったのを「指運」と呼んだりするが、それは違う。結局、読め ないだけで、実力が劣るだけの話しに過ぎないのである。

 じゃあ、麻雀はともかく、高い寺銭を胴元に取られる競馬や競輪では、たとえ真剣に研 究したとしても勝てるとは思えないはずだが……

 麻雀は見下すレベルで打てる相手に恵まれたおかげで、ずっと奨学金をもらうことがで きたが、何と日本中央競馬会からも奨学金をもらって、おまけに八〇年代初頭のパチンコ の攻略法も加わって、夏休みにちょっと海外旅行をしたうえに、当時はワンセット八〇万 近くしたマイコン(今のパソコン)を買うことができたのである。人から教 えてもらった攻略法という「他人の褌」もどきの方法で勝ったパチンコはともかく、寺銭 が高い競馬も実は勝てる可能性があるのは事実だ。

 ここ数年、競馬に関しては、外国の投資グループがある方法(説明すると長いので省略) で数十億単位で利益を上げ、課税を逃れて日本から国外逃亡したとか、最近ではある一般 人がソフトを改良して数億稼いだが、外れ馬券が必要経費と認められず実利を上回る税金 を課され裁判沙汰になっているというニュースはみなさんも知っているかと思う(この稿 が発行された頃は結果が出ているかもしれない)。実は、これと同じような儲け話(理屈は 同じ)は大昔からヨーロッパのサッカーくじにあった。これは本にもなっていて、詳細は かなり難しいのだが、簡単に説明すると、スペインの場合一五試合の勝ち負け引き分けを 当てるサッカーくじで、その一五試合のうち確実にどちらが勝つかがわかっている試合が 五試合、多少なりとも番狂わせ(弱いほうが勝つ)が一試合分かっていれば、残りの組み 合わせを上手く配分して全て買ってもほぼ儲かるというのが基本理論である。しかしなが ら、確実に六試合の予想をすることも難しいし、残りのすべての組み合わせを買う資金も 膨大な額である。ところが、ヨーロッパにはこの組み合わせをかなり大量に買う投資グル ープが存在する。これは特別な例かもしれないが、僕も確かに競馬で暮らしていた奴を一 人知っていた。

 何故可能か?きちんと研究しないで馬券を買う連中がバイアスを生じさせ、寺銭程度の 差額は埋めてくれるからである。

 さて、ここからは半分オカルトの世界なので、今から述べることには何も根拠がないが、 学生諸君に対しては「迷うな!そして迷わない自分なりの方法を身につけろ!」、「迷った ら負け、せめて迷わず負けろ」というのがこの論の結論である。

 先ず、例を挙げた囲碁のように理詰めで結論を出せるもの、これは実は簡単なのである。 修行を積んで高いところに到達して、弱い輩を見下すことによって、迷わなくて済むよう になるのである。しかし、誰もが張栩先生のようになれるわけではないので、これには限 界があると言ってもよい。むしろ、競馬の控除やパチンコの景品交換率という仕組みの寺 銭があり、おまけに人間の頭脳だけでは確実な結果が出るとは言えない勝負事のほうが、 実は人生の醍醐味なのであり、攻略しがいがあるというものだ。(もう一度念を押しておく けど、あくまでオカルトだと思って読むこと)

 先ず基本理念は大学時代の友人T君の言。彼はパチンコ(まだ手打ちの頃)が相当上手 く、おまけに学業もしっかりとやっていたが、週末は神楽坂や御徒町あたりでかなり稼い でいた。その彼が言うには「人間が作ったものに人間が負けるはずがない」であった。先 ず、諸君にはこの言葉をしっかりと心に刻んで欲しい。人間が作ったもの、それがゲーム であろうと、社会制度であろうと、学問であろうと、戦争の脅威を生む兵器であろうと、 それを克服するのもやはり人間だと言うことを。だから、対峙する前から負けるかもしれ ないなどとは絶対に考えないことだ。もちろん、人間が作ったものとはいえ、その攻略は 簡単ではないので、不断の研究と努力なしに勝てるはずがない。

 次は、何でも良いから迷わない自分のパターンを持て。僕の場合も本当に多くあるが、 一例は、競馬でも競艇でも、「負けている日の最終レースは二番人気」である。何の根拠も ない。しかし、負けている日は調子が悪いに決まっている。そんなときは最後まで考えて も無駄。じっとオッズ表示(正式にはトータリゼータと呼ぶ)を眺めて素直に有り金を二 番人気に。そして、四コーナーから直線は思い切り叫んで、勝っても負けても、すっきり と清々しい気持ちで帰る。これが次の勝ちに繋がるし、たまに当たれば錦糸町や新小岩で 豪遊であった。あとは、決めごとで、何の情報もない状況で全く同じ確率や価値ならどこ から処理するかを決めておくのである。簡単なのは麻雀で三元牌を切る順番。これは絶対 に変えないほうがよいという経験則がある。変えることによってバイアスが生じ、変えな いときより絶対に悪い結果をもたらす。

 そして、意外かつ当たり前かもしれないがマナーを守ること。今でこそ滅多にネクタイ などしないが、当時はスーツにネクタイでパチンコ店やフリーの雀荘に出入りしていた。 そして、決して大仰な態度や横柄な言行をしなかったので、地場の年配の方に可愛がって もらいながら、謙虚に稼がせていただいたのである。

 そう、何でもよいので、学生諸君にも、大切な場面で迷わないようにする技を磨いて、 悔いのない楽しい人生を送って欲しいと願うものである。
 しかし、二五年以上前になるが、結婚するかどうかは、そんな勝負の機微を掻い潜って きた僕でさえ相当迷った。勝負は付いているはずだが、結果は敢えて死ぬまで見ないこと にしよう!


ⅰ 競馬とパチンコの奨学金などと不穏当な話しであるが、簡単に言うと、前者は追いか けていたある馬の引退レースで単勝四・九倍になけなしの一〇万を突っ込んで勝ち。後者 はフリーの雀荘で知り合った関西から稼ぎに来ていたお兄さんに目押し(デジタルの数字 をボタンを押すタイミングで揃えるという、すぐに対策がとられできなくなった必勝法) を教えてもらい、それが情報の伝達が今と比べて格段に遅い当時は、東京で広まるまで一 カ月近くかかって、その間一〇軒以上の店から出入り禁止をくらいながらも、最後は店の 対策が遅れた茨城県の水戸まで台を追いかけての嵐のような数週間での成果!その後も、 他の台にバグが見つかるとすぐに電話で連絡をもらっておいしい思いを何回かした。一緒 にサウナに泊まってドサまわりした「けんちゃん」今も元気かな?

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美術・イタリア・歴史
浦上雅司 (西洋美術史)
E・H・ゴンブリッチ『美術の物語』(ファイドン社)
辻 惟雄『日本美術の歴史』(東京大学出版会)
J・ホール『西洋美術解読事典』(河出書房新社)

ファビオ・ランベッリ『イタリア的-南の魅力』(講談社新書メチエ)
F・グラッセッリ『イタリア人と日本人、どっちがバカか』(文春新書)
池上俊一『パスタでたどるイタリア史』(岩波ジュニア新書)

E・H・ゴンブリッチ『若い読者のための世界史』(上下)(中公文庫)

 皆さん、ご入学おめでとうございます。

 私の専門は、西洋美術史ですから、学生の皆さんに、できるだけ直接、美術作品に触れ てもらいたいと、いつも思っています。美術作品を扱ったテレビ番組(『新日曜美術館』 『美の巨人たち』など)を見たり、スライドで作品を見ながら講義を受け たりするのもよいことですが、美術館や博物館で作品そのものに触れるのがとても大事だ と確信しているのです。

 スライドやテレビ画面による美術鑑賞には、居心地の良い室内にいて、寛いだ気分で、 細部をジックリ眺めることができるというメリットはありますが、やはり本物の持つ「迫 力」(これを哲学者のヴァルター・ベンヤミンは「アウラ」〔日本語では「オーラ」と言わ れる〕 と呼んでいます)は伝わってきません。皆さんにも分かりやすい例をあげれば、車 やバイクの本物と、カタログ写真の違いと言えばよいでしょうか。カタログやテレビの自 動車番組を見ても面白いでしょうが、本物に触れて、できれば運転してみなくては本当の 特徴はわからないでしょう。美術の授業やテレビ番組も興味深いでしょうが、やはり作品 の実物と対峙していろいろ考えるのとでは、受け取るインパクトが違います。

 そんなわけで、皆さんにはできるだけ、美術館などで実物、しかも可能であれば多くの 人たちが優れた作品と認めている美術作品に触れてもらいたいと思うのですが、共通教育 科目の「芸術」を受講する学生諸君に尋ねても、美術館に行ったことがない、と答える人 が多いのは、とても残念なことです。

 幸い、福岡には多くの美術館があります。福岡市美術館、福岡市博物館、福岡県立美術 館、そして福岡アジア美術館など身近にあって、常設展なら数百円で入場できますし、ち ょっと足を伸ばせば、久留米の石橋美術館や、太宰府の九州国立博物館があります( ちなみに、福岡大学は九州国立博物館のキャンパス・メンバーズとなっており、皆さんは、 学生証を提示すれば、この博物館の常設展はタダで観覧できます。特別展も割引になりま すから、ぜひ、利用して下さい)。

 大学時代にできるだけ多くの美術館・博物館を訪れ、美術について知見を深めてもらい たいと思うわけですが、先ほどの例に戻って、車の性能を知るには、あらかじめカタログ を読んでいろいろ比較してから試乗に出かけるに越したことはありません。同様に、美術 館や展覧会に行くにしても事前にある程度の知識を持っていれば、よりよく楽しめます。

 ピカソ展とかゴッホ展のように、個別の作家を扱った展覧会であれば、大学図書館にあ る『小学館世界美術全集』の該当巻などで予習するのが良いでしょう。しかしなが ら、美術の全体的な流れを大きく把握しておくのも、美術館訪問をより有意義にする役に 立つと思います。ゴンブリッチ著『美術の物語』は西洋美術の全史として定評のあ る著作で、読み物としても優れており、「美術とは何か」考えるきっかけを与えてくれます (最近出たバイブルサイズの普及版は二千円ちょっとで買えます)。日本美術史であれば辻 惟雄さんの『日本美術の歴史』が、最近の定番です。

 日本の美術館に行くと仏像や絵巻物、浮世絵などがたくさんあります。これらは仏教や 日本の神話、歴史に取材した作品です。仏像をよりよく味わおうとすれば、釈迦如来と薬 師如来はどう違うか、などある程度の知識はどうしても必要です。こうした知識は、もち ろん、作品を一生懸命見ても自然に獲得されるものではなく、自分で調べて見なくてはな りません。西洋美術についても同様で、キリスト教やギリシア・ローマ神話、各国の歴史 をテーマにした作品をよりよく味わうには、その内容について多少は知っておく必要があ りますが、その手助けをしてくれるのがホールの事典です。「天使」とか「聖母マリア」「ク レオパトラ」など、誰もが聞いたことのある事項について、基本的な知識だけでなく、主 要な作品も紹介してあって拾い読みしても面白い本です。

    *****

 ところで、わたしはイタリア美術を専門に勉強しているので、イタリアという国の社会 や文化一般についてもできるだけ幅広い知識を持ちたいものだと思っています。しばらく 前まで日本でイタリアと言えば「美術」や「食事」「音楽(オペラ)」あるいは「犯罪組織 (マフィア)」などが想起されるだけの国でした(日本=「フジヤマ、芸者、キモノ、ヤク ザ」式の発想では、イタリア=「アモーレ、マンジャーレ、カンターレ」などと言われた りしました)。

 しかし、情報化社会が進み、ヨーロッパも身近になった(今ではローマの観光地に行く と、日本の高校生の修学旅行生を見かけるようになりました。大学の卒業旅行でフランス やイタリア、イギリスに行くのはごく普通の事です)こともあり、イタリアについても、 より実態に即した社会の状況や文化の様々な様子が知られるようになってきました(NH Kにはイタリア語講座もあります)。そんなわけで、この冊子でも時々、イタリア関係の書 籍や映画も紹介しています。今回ご紹介するランベッリの『イタリア的』は宗教か ら政治、現代文化の諸相におよぶイタリアの多様性を概説した著作です。これを理論編と すれば、グラッセッリの『イタリア人と日本人、どちらがバカか』はイタリアで具 体的にありそうな実例を紹介しながら現代イタリア社会の複雑さを教えてくれるイタリア 文化論の実践編と言えるでしょう。どちらも日本のことをよく知るイタリア人の著作です。 三冊目、池上俊一『パスタでたどるイタリア史』は中世史、ルネサンス史の専門家 がイタリア各地のパスタ(スパゲッティだけではありません!)を紹介しながら、それに 関連づけてイタリアの歴史を教えてくれます。この本を読んだ皆さんには、スパゲッティ だけでなく、ペンネやトルテッリーニ、さらにはニョッキやポレンタも味わってもらいた いですね。

    *****

 最後にあげたゴンブリッチ『若い読者のための世界史』(上下)は、ウィーンで ユダヤ系の家庭に生まれたこの美術史学者が二五歳の時(一九三五年)に書いた本が五〇 年後に改訂され、新しい後書きを付け加えて出版されたものです。

 この間、ゴンブリッチの故国オーストリアはナチス・ドイツに併合され、ゴンブリッチ 自身は英国に移住、戦時中はドイツ語放送モニターとして対独戦に協力し、戦後はロンド ン大学のウォーバーグ研究所で長く美術史の研究に携わりました(二〇〇一年没)。

 この「概説書」は訳文もこなれ通読しても面白いのですが、本当の価値は、訳者の中山 典夫さんも言うように、「五〇年後の後書き」にあります。第二次大戦から戦後の冷戦、そ してソヴィエト連邦の崩壊と、半世紀の間に世界の歴史は大きく変わりました。その歴史 を肌身に体験し、生きてきた歴史家の証言は貴重です。最初に出た邦訳は非常に高価で残 念でしたが、文庫本で簡単に手に入るようになりました。これは大変にありがたいことで す。

 皆さんは大学に入ったばかりで五〇年後の自分など想像も出来ないかも知れません。で もあなた方にもやがて訪れる未来ですし、「温故知新」は人文学の基本です。皆さんも大学 にいる間に、ゼヒ、過去の人々の証言から多くを学んでください。

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身体の魅惑
遠藤文彦 (フランス文学)
『バレエ・リュスその魅力のすべて』(芳賀直子著、国書刊行会)

 本書は一九一〇年代から二〇年代にかけての二十年間おもにパリを中心に活動した伝説 のロシア人バレエ団「コンパニー・デ・バレエ・リュス」についての概説書である。概説 書といってもとっつきにくい研究書というのではなくバレエ・リュスの結成から事実上の 解散に至るまでのドラマチックな経緯をその創設に関わった人物や文字通りきら星のごと きスターたちの生き様を軸にしてつづった興味深い物語として割にすいすいと読み進める ことができる。バレエに馴染みのない人や興味のない人もバレエ・リュスの物語とそこに 登場する人々には魅了されるにちがいない。そしてバレエ・リュスのレパートリーを実際 に見てみたいときっと思うようになるはずだ。いまや世界の主だったバレエ団が取り入れ ているバレエ・リュスの演目のいくつかはDVDで観ることができる。ちなみにバレエ・ リュスの実話を下敷きに撮られた『赤い靴』(一九四八年製作M・パウエル&E・プレスバ ーガー監督の総天然色(テクニカラー)映画)もまたDVDで容易に観る ことができる。

 しかしできることならこれを機に本場のバレエを生で観てもらいたいものだ。そこでパ リに行くことがあったらオペラ座(パリ国立オペラ・バレエ団本拠地)には是非立ち寄っ て欲しい。当日ふらりと出かけても大抵キャンセルで空きがでるし開演前に売り出される 格安の席もある。脇からでやや見にくい場合もあるがたったの7ユーロ(八百円前後)で バルコニーから舞台を間近に見下ろすことができる。見上げればバレエ・リュスとも縁の あるシャガールの天井画が壮麗なシャンデリアに映える。でもオペラ座は七ユーロで見ら れてもフランスに行くのにお金がかかるじゃないかともっともな意見を返してよこしそう な諸君には日本の身体芸術歌舞伎の殿堂博多座に行くことを薦めたい。これは春(2月) と夏(6月)定期的に歌舞伎公演が行われる町福岡で学んでいる皆さんの特権である。し かしこちらもまともに観ようと思ったら金銭的に学生にはちょっと敷居が高いかもしれな い。ならば歌舞伎には一幕見(ひとまくみ)という観方があるので紹介し ておこう。昼の部夜の部それぞれいくつか演じられる演目の一つ(あるいはそのうちの一 幕)だけを見る方式で三階席からだが開場前にちょっと並べば千円前後で入場できる。映 画よりずっと安くて生の海老蔵や本物の獅童が見られるのだ。テレビやDVDの映像ばか りでリアリティ喪失気味の人にはとくにお奨め。大学四年間のうちに一度は足を運んでも らいたい。

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おすすめの本
大嶋仁 (比較文学)
  新入生の皆さん、人文学部にようこそ。新入生の皆さんに、お すすめしたい本と言えば、まず皆さんが一冊の本に何を求めるかによります。読み終えて 生きる元気が湧いてきた、と感じられるものとしては、何より福沢諭吉の『福翁自伝』 でしょう。落ち込んでいる人、孤独を悩んでいる人には、フランツ・カフカの『短 編集』『変身』をおすすめします。暗い内容のようでいて、なぜか根源から 力が湧くでしょう。また、人に対して優しい気持になりたい、細かい文章の味をかみしめ たいと思ったら、井伏鱒二の短編ですね。『山椒魚』などのタイトルの付いた一冊 を選べばよいのです。

  こんなところでしょうか。ここに挙げたどの本も文庫本で手に入ります。

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英語教師を志す皆さんへ
大津敦史 (英語教育学)
  大津由紀雄 編著『危機に立つ日本の英語教育』(慶應義塾大学出版会二〇〇 九年)

 新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます!これから4年後、社会人としての人生 をほぼ決定すると思われる大切なこの4年間、どうか無駄にせず、完全燃焼させてくださ い。もちろん燃え尽きてしまってはいけませんので、自律と自己管理にもしっかり心がけ て下さい。

 さて、皆さんの中には、卒業後、英語教師になりたいと思っていらっしゃる方も少なく ないでしょう。毎年、英語学科のみならずドイツ語学科やフランス語学科からも教職希望 者がたくさんいますので、今回はそのような方たちのために、右記の本を選んでみました。

 まず、編著者である大津由紀雄氏ですが、慶應義塾大学言語文化研究所の教授で、専門 は言語の認知科学です。「認知科学って何?」と思われる方は、ぜひインターネットを利用 して調べてみてください。最近では、大津氏は日本の英語教育、特に小学校での英語教育 の是非について様々な提言をされています。私と同じ姓ですが、残念ながら親類関係では ございません。

 この本の著者には、大津氏以外に、日本を代表する12名の研究者が名前を連ねています。 元々この本は、二〇〇八年九月一五日に慶應義塾大学三田キャンパスで開催された公開シ ンポジウム「「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」を超えて」および同年十 二月二一日に同大学日吉キャンパスで開催された言語・英語教育講演会「言語リテラシー 教育のポリティクス」がもとになっています。二〇〇八年は、二〇〇二年と二〇〇三年に それぞれ文部科学省によって策定された「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」 と「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」の目標達成年度に当たります。この 「構想」や「行動計画」がこれまで学校英語教育に与えてきた影響は測り知れません。し かしながら、「英語が使える人材」を希求する経済界(財界)主導のこのような語学行政は、 教育現場に無理難題を押し付けた結果、その教育現場は疲労困憊(ひろうこんぱい) し、英語教育の質の低下を引き起こしています。

 このような時期に、今一度日本の英語教育、学校英語教育の現状と課題とその解決策を 整理・模索してみることは非常に有効だと思います。そのような反省を通して、これから 英語教師を目指す皆さんの時代(次代)には、もっと豊かで心地よい教育環境が整備され ることを祈って止みません。

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先人を知ろう
甲斐勝二 (中国学)
勝海舟《海舟語録》 江藤淳・松浦玲編 講談社学術文庫

 勝海舟、世界でも希有な江戸という大都市を無血に明け渡した立役者。西郷隆盛を友と し、坂本龍馬を門下に置く。篤姫とも仲が良く、姉と偽って江戸を歩き回った事もある。 江戸開城の折には混乱を防ぐため、渡世人の世界にまで自ら赴き頼み回る気配りを語る。 良く世界を見ている。明治31年まで生きて、伊藤博文の政策への批判も多くある。

岩波文庫に 《海舟座談》 があるが、講談社学術文庫の方が注もちゃんとして いて、勝の発言録としては信用できそうだ。

  この本をおもしろいと思うのは、勝の人情の機微に渡る観察や、人物批評の痛快さ鋭さ、 また社会や人への気配りから、曾(かつて)あった日本の政治家の姿やそ の手法を知ることができると共に(善し悪し置くとしてこれはつい最近の政治家まで続い ている)、「機」を見るといった個人ではどうにもならない社会の動きへの視点もまた示さ れているところだ。

  内容は読んでいただくとして、中国学を専攻する紹介者にとって、「ふむふむ」と思う 文を二つ紹介する。まずは日清戦争後の李鴻章の態度についての発言。

李鴻章の今度の処置などは、巧みなのか、馬鹿なのか少しもそ の結果がわからないのには、大いに驚いていますよ。大馬鹿でなければ、大変、上手なの でせう。これまでの長い経験では、大抵、日本人の目に大馬鹿と見えるのがエライようで す(十五頁)
  次に 「支那 (ママ) 人」 についての発言。  

ナニ、支那が外国人に取られるというのカエ。誰が取るエ。支 那人は、他に取られる人民ではないよ。香港でも御覧なナ、実権は、みな支那人が持って いるジャアないか。鶏卵でも豆腐の豆でも、南京米でも、みな支那人から貰っているジャ アないか。それで支那人は野蛮だと言うやつがあるカエ。ナニが、文明ダエ(一五八頁)
  勝は西洋列強の植民地化に対してアジアの諸国が連合し、日本は海軍で海を守る役割も 考えたこともあるようだ。征韓論も馬鹿な話だと片付ける。勝の考えた方向で日本が動け ば、あるいは今とは違っていたかも知れない。どうしてあんな方向に進んでしまったのだ ろう。

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江戸時代を見なおそう
梶原良則 (日本史)
 新入生の皆さんは、江戸時代についてどのようなイメージを持っておられるでしょうか。 近年の歴史学研究は、江戸時代の通説的イメージに修正を迫りつつあります。ここでは、 新入生にも読みやすい代表的な本を紹介しましょう。

磯田道史『武士の家計簿』(新潮新書、二〇〇三年)は、江戸時代の中下級武士 の生活を家計簿から復元し、従来の武士のイメージを一新させました。

高木侃『三くだり半―江戸の離婚と女性たち』(平凡社ライブラリー、一九九九 年)・『三くだり半と縁切寺―江戸の離婚を読みなおす』(講談社現代新書、一九 九二年)は、夫が妻を一方的に離縁できるという夫優位の夫婦関係の通念をくつがえしま した。

宇田川武久『真説鉄砲伝来』(平凡社新書、二〇〇六年)は、一五四三年種子島 に漂着したポルトガル人によって鉄砲が伝えられたという通説に疑問を呈しています。

このほかにも、知的好奇心を刺激してくれる多くの本が皆さんを待っています。図書館を 有効に活用しましょう。

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「よい子」ってどんな子?
勝山吉章 (教育史)
灰谷健次郎著 『兎の目』 (理論社)

 「よい子」ってどんな子?親や教師の言うことを素直に何でも聞く子どもは、確かによ い子に違いない。では、親や教師の言うことを聞かない、親や教師の権威を認めない子ど もは「悪い子」なのだろうか。いつも親や教師のご機嫌を伺い、「よい子」であり続けるこ とに疲れた子どもは、もうよい子ではなくなるのだろうか

 『兎の目』の主人公「鉄三」は、そのような問いを投げかける。

 偏差値教育、管理主義的教育に慣らされてきた者にとって、「鉄三」は落ちこぼれに映る だろう。しかし、人間本性に照らし合わせて考えた時、管理化された現代社会に馴染んで いる私たちこそが、大切な人間性を失っているとは言えないだろうか。

 本書を既に読んだ学生も多いと思うが、大学時代に再度読んでもらいたい書物である。

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中国の歴史(全十二巻)
紙屋正和 (東洋史)
講談社版『中国の歴史』(全十二巻)(講談社)

 一九七〇年代に、『中国の歴史』(全十巻)、『図説中国の歴史』(全十二巻)、『新書東洋史』 (全十一巻、うち中国史は五巻)と、中国史の概説書のシリーズをあいついで刊行した講 談社が、『新書東洋史』以外は入手困難になった二〇〇四年から二〇〇五年にかけて、ほぼ 三十年ぶりに刊行した中国史の概説書がこのシリーズである。この間に中国史・中国自体、 あるいはそれらをとりまく環境は大きくかわった。

 古い時代については、考古学の大きな発見があいついでいる。稲作の起源は、遺跡が発 掘されるたびに千年単位で古くさかのぼり、今や一万二千年前の栽培稲が発見されたとい うニュースが流れているほどである。また以前は、中国の古代文明といえば黄河文明と相 場がきまっていたが、現在は長江流域において黄河文明に勝るとも劣らない高度な長江文 明があったことが明らかになっている。戦国・秦・漢・魏晋南北朝時代については、当時 の法令・行政文書や思想・文学などの著作を書きしるした簡牘(かんとく) (竹のふだと木のふだ)類や人の目をうばう遺跡が多く発見され、これまで文献史料で知 ることのできなかった事実が明らかにされつつある。新しい時代については、放っておい ても新事実が積みかさなってくるのであるが、以前に未発表であった公文書が公表され、 さらに中国・中国経済自体が大きくかわりつつある。政治は社会主義のままであるが、経 済はもう完全な資本主義に、少し大げさにいえば日本よりも極端な資本主義になり、すで に世界第二の経済大国として世界経済を引っぱっている。経済成長がすすみつつあるさな かに、この『中国の歴史』(全十二巻)が企画されたのである。ただし、このよう に大きくかわりつつある「古い時代」と「新しい時代」とに挟まれた中間の時代の場合、 大発見があったわけでもなく、新しい文献が見つかったわけでもないため、執筆者はこま ったらしいが、旧来通りの中央からの視線でえがくのではなく、地方の現場から世界を見 なおすといった機軸によって新鮮味をだそうとしたという。

 全体的にかなり高度な内容になっているが、全部を紹介するわけにいかないので、私の 専門に近い古代史関係についてのみ内容を簡単に紹介し、のこりは執筆者と書名だけを列 記するにとどめる。

 宮本一夫著『神話から歴史へ神話時代・夏王朝』(01)は、中国の地に人類が居 住しはじめてから、殷周社会が成立する前まで、いわば中国の先史時代をとりあつかう。 現在の中国の経済発展は巨大な開発をともない、発掘もさかんに行なわれている。その結 果、先史時代の文明は黄河流域だけではなく、現在は中国の各地で発見されている。宮本 氏はこうした発掘成果をもとに、物質文化における地域間比較だけでなく、社会構造上の 地域間比較をも試みることによって、先史時代における段階的な社会構造の変化に注目し、 殷周社会にいたる道のりを多元的に説明する。これまで「中国の歴史」というとき、先史 時代についても文献史学の研究者が執筆することが多かったが、これは考古学の専門家の 手になる概説書である。

 平?(ひらせ)隆郎著『都市国家から中華へ―殷周・春秋戦国』 (02)は、新石器時代から戦国時代までを対象とする。本巻は、著者自身がみとめるよう に「一般に提供されている中国史とは、若干異なった視点」で書かれている。すなわち中 国史を、蘇秉琦著・張名声訳『新探中国文明の起源』(言叢社)が提唱した「新石器時代以 来の文化地域」を基礎において分析し、まぼろしの夏王朝、殷王朝・周王朝、そして戦国 時代の領域国家のいずれもが新石器時代以来の文化地域を母体として成立したという。こ うした歴史を背負う戦国時代の諸国家は、自国の立場から、先行する夏・殷・周の王朝を 論じ、そのうちの一部が史書として現在にのこされている。しかしそれらの史書は、それ ができあがった時代に規制され、ときには無かった内容を付けくわえている。そこで、本 巻は、何が後世に付加された虚構の産物なのか、またどの記述が事実を伝えているのかを 検討する形で書かれている。安易な気持ちで、急いで読もうとすると、絶対に理解できな い。

 鶴間和幸著『ファーストエンペラーの遺産―秦漢帝国』(03)は、秦・始皇帝に よる天下統一から前漢・新をへて後漢が滅亡するまでの四百四十年間をとりあつかう。こ の時代は、簡牘類や多くの目を見はる遺跡・遺物の発見があいつぎ、歴史像が大きくかわ りつつある時代である。鶴間氏は秦の歴史、始皇帝像の再評価を試み、また秦・漢時代を 地域の視点から見なおそうと試みてきた研究者である。そうした自分自身の研究を反映さ せ、あわせて新発見の出土資料を既存の文献史料とつきあわせて本巻を書いている。とく に新出土資料についてはよく調べて多くの情報を提供しており、専門家としても参考にす べきところが多かった。

 金文京著『三国志の世界―後漢・三国時代』(04)は、後漢後半期に外戚・宦官 が政治を乱しはじめた時期から西晋の統一によって三国時代がおわる時までの約百三十年 をとりあつかう。この書名にある「三国志」とは、『魏志』倭人伝などをふくむ歴史書の『三 国志』ではなく、小説の『三国志演義』であり、執筆者は歴史家ではなく、中国文学者で ある。本巻は、ゲーム・アニメ・漫画によってつくられた『三国志』ブームを意識したも ので、よくいえばこのシリーズに新鮮味をだすための、悪くいえば読者に迎合するための 企画といえよう。内容は、この時代の歴史の動きを淡々とおいかけ、ところどころで『三 国志演義』がどのように脚色されているかを明らかにしている。本巻は歴史の概説書とし て読みごたえがあるが、『三国志演義』ファンにも歓迎されるであろう。

 川本芳昭著『中華の崩壊と拡大―魏晋南北朝』(05)は、西晋が中国を再統一し たものの、また分裂してから隋が久々に中国を統一するまでの約三百年をとりあつかって いる。基本的には分裂の時代といえるこの時期の歴史を、胡漢、すなわち遊牧民族と漢民 族の対立と融合をキーワードにして、隋・唐時代に新しい漢民族・中国文化が登場するこ と、また中原(黄河中流域)の混乱などによって、未開発地がまだ多くのこされていた長 江流域に厖大な人口が移動・移住し、その地の開発が急速に進展することを明らかにし、 あわせて中国の周辺において朝鮮半島の三国や倭のような国家がうまれてくることにも目 をくばっている。

  氣賀澤保規著『絢爛たる世界帝国―隋唐時代』(06)
  小島 毅著『中国思想と宗教の本流―宋朝』(07)
  杉山正明著『疾駆する草原の征服者―遼・西夏・金・元』(08)
  上田 信著『海と帝国―明清時代』(09)
  菊池秀明著『ラストエンペラーと近代中国―清末・中華民国』(10)
  天児 慧著『巨龍の胎動―毛沢東vs鄧小平』(11)

 尾形勇など著『日本にとって中国とは何か』(12)は、太古から現代までの中国 の歴史をふりかえったあとで、日中関係がギクシャクしている現在、日本にとって中国と は何か、逆に、中国にとって日本とは何かについて、このシリーズの編集委員四人と中国 人二人が総論的に論じたものである。日本と中国は同じ漢字文化圏、儒教文化圏であるか ら何もいわなくても分かりあえると認識することが、大きな誤解であることを知らなけれ ばならない今この時、一読すべき本であろう。以下、執筆者と論題だけを紹介する。

  尾形 勇「大自然に立ち向かって―環境・開発・人口の中国史」
  鶴間和幸「中国文明論―その多様性と多元性」
  上田 信「中国人の歴史意識」
  葛 剣雄「世界史の中の中国―中国と世界」
  王  勇「中国史の中の日本」
  礪波 護「日本にとって中国とは何か」

 概説書は新しければ新しい顔をして我々の前にあらわれてくる。新しければよいという ものではないが、少なくとも情報は新しいものがふくまれている。読書には、自分の知ら ないことをまなぶという「学ぶ姿勢」と同時に、何かおかしい、納得できないことを書い ていないかをさぐるという「批判の姿勢」も必要である。

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学問の領域に捉われない読書の勧め
鴨川武文 (地理学)
木内信蔵(一九六八)『地域概論―その理論と応用』(東 京大学出版会)
日高敏隆(一九九八)『チョウはなぜ飛ぶか』高校生に贈る 生物学3(岩波書店)
武野要子(二〇〇〇)『博多―町人が育てた国際都市』(岩 波新書)

 木内信蔵の『地域概論』は39年前に刊行されました。39年前の本というと、「な んて古い本なんだろう」と思うかもしれませんが、地理学や地理学が研究対象とする地域 について体系的に論じられています。私は共通教育科目の地理学を担当していますが、こ の本は、地理学の講義を学生の皆さんに行うにあたっての、私にとっての参考書ともいう べき座右の書です。

 日高敏隆の『チョウはなぜ飛ぶか』は生物学の本ですが、この本は次の2点にお いて興味深い本です。

 第1点は、「チョウはなぜ飛ぶか」というタイトルですが、内容は、一言でいうと、チョ ウは自分自身が飛ぶ道筋をしっかりと認識して飛んでいるということです。つまり勝手気 ままに飛んでいるのではないのです。全く土地鑑のない場所に出かけた時に頼りになるの は地図です。地図を見てわれわれ人間は行きたいところに行くことができます。チョウは 地図を持ってはいませんが、自分が行きたいと思うところへ行くことができ、またそのよ うな本能を持っているのです。

 第2点は、研究というものはどのように行われているのか?研究者は試行錯誤・紆余曲 折を繰り返しながら研究成果を出している、研究者とはどのようなタイプの人たちなのか、 科学的なものの考え方とは何か、などについていきいきと書かれているという点です。学 生の皆さんが志している学問の枠に捉われることなく、多くの本を手にして教養を高め、 知識を習得してほしいと思います。

 武野要子福岡大学名誉教授の『博多』には、博多の町の成り立ちや、政治的に、 また経済的に博多に関わりのあった武士や豪商のエピソード、今に伝わる博多の伝統や住 民の生活史など興味深い話題が数多くあります。また、聖福寺や承天寺、櫛田神社、鴻臚 館、防塁など博多にゆかりのあるものの記述もあり、この本を携えて福博の町を散策して みたらいかがでしょう。

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嘘つき
桑原隆行 (フランス文学)
 一念発起(いちねんほっき) して拙宅の片づけを始めた。片づけに着 手せざるを得なくなったのっぴきならない事情があるのだがここでは秘す。夜逃げの準備 のためでないことは断言できる。そもそも一念発起という言葉は片づけや夜逃げという言 葉と馴染まない、違和感があるのだが、まあいい。たぶん、一念発起して芸道に精進する、 というような言い方をするのが正しい。いずれにせよ、私の家はウィルスに浸食されたか のように、恐竜時代からのモノ(ガラクタ)に覆い尽くされている。ネズミには理想的な 住環境みたいで、何千家族もがコロニーを作り、子育てを楽しんでいる。よく散歩してい るのを見かける。家主をこれ以上不機嫌にさせるのは忍びないと思うのか、自己犠牲の精 神を発揮してネズミ・ホイホイに引っ掛かってくれる心優しいネズミもいる。ネズミにと っての快適は人間にとっての不快。本当はよくないけれど、これもまあいい。ともかく片 づけることを一念発起したのだから。人間の領地回復は齧歯目(げっしもく) ネズミ科どもの夜逃げと駆逐(くちく)。私にもネズミにも、誰 にだって事情、言い分はある(『ナメクジの言い分』 を参照のこと)。

 片づけの最中、段ボール箱の奥から前川つかさ『貧乏生活マニュアル』が見つか った。人間は工夫次第で最小限のモノだけで生きていけることを再確認させてくれる漫画 が、このタイミングで出現するとは、まるで天の啓示、運命の皮肉みたいだ。この本は残 留決定。本来なら処分するのが現在の状況と漫画の教えからすれば妥当だろうけれど、ま あいいか。片づけと言ったが、収納スペースには限りがあるので、捨てるモノ九割残すモ ノ一割が目標だ。こういう仕分け作業は疲れる。疲れたら無理はしない。ティータイムに しよう。仕分けという言葉で思い出したのだが、読みかけの小説、乃南アサ『ニサッタ、 ニサッタ』の続きが気になる。配達員を住み込みで置いている新聞販売店(配達前の 朝の仕分けが大変そうだ)で知り合う若い男女の話だ。女は沖縄、男は北海道出身。ニサ ッタという不思議な語感のこの言葉はアイヌ語で明日を意味する。

 ところで、アイヌ語の所有表現は中々興味深い。というような言語、九〇の言語を巡る 話が書かれてある黒田龍之助『世界の言語入門』はハンディータイプの新書版。少 なくとも、私にはあまりに面白すぎた。その結果、いくつもの言語の入門書を何万冊も買 い込んでしまったほどだ。代償は高くついたよ。巨漢力士何人分にも相当する本の重量で 二階の床が抜け落ちた。

 「ワイルド・エンジェル」『はじめての文学 村上龍』所収)を自分 の声で朗読録音して遊んだことがある。この小説は「ボクも同じだ、と言うと、嘘つきな のは変わってないわね、とほとんど皺のないきれいな顔でヨウコは、楽しそうに笑った」 という文で終わっている。この部分がなぜか好きだ。私の文章を読んだあなたからウォッ カで潤った艶っぽい唇で、大袈裟なのは変わってないわね、みたいな言葉を耳元で囁いて ほしいのかもしれない。その機会になればという下心で誘うのだけれど、また、例のバー に一緒に行こう。カラオケに行くのもいいかも。(歌手の名前は秘して、曲名だけを並べる けれど)「あの頃に届け」「愛してるって言わせたい」「あばうとに行きます」「ゆらゆ ら」「バイバイ」「ハッピーエンドは金庫の中」「夏が来た!」「ずっと好きだった」「恋に落 ちたら」「土曜の夜と日曜の朝」「マージービートで唄わせて」 「毎日がスペシャル」 「DE STINY」 「春よ、来い!」等々。以前何人かでカラオケに行ったとき、これらの歌 を歌ったけれど、本当はあなたにだけ聴いてほしくて歌ったんだ。実は他に聴くのも歌う のも好きな歌が二、三あるけれど、これは私の記憶中枢を刺激するのか必ず涙腺がゆるん で涙が溢れ出て大河になって流れ出すほどなんだ。一度溺れかけたことがある。自分の涙 に溺れて死ぬというのはロマンチックかもしれないけれど。迷惑になるから、歌うのは止 めておく。思い出や記憶につながるからという思い込みでモノを堆積させてきたのは愚か なことだった。モノに頼る必要はない。一つの歌が思い出をかき立てることさえあるのだ から。さて、家の片づけの方はどうなったかと言えば、一メートル四方ぐらいの床空間(何 もないスペース)は確保できたけれど、まだまだこれからだ。気長にやるよ。のっぴきな らない事情のその時期が迫っているので、気長にやるわけにもいかないのだけれど。まあ いいか。アメリカでテレビ放送された『ヒッチコック劇場』のDVDも観たいしね。 「サスペンスの妙味と真髄」を堪能できる。どの話でも冒頭にヒッチコック本人が登場し て、人を喰ったようなひねりの利いた皮肉でブラックな導入役を務めているが、これがシ ャレている。

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視野を広げて考えてみよう
高妻紳二郎 (教育行政学)
 最初から引いてしまう質問です。皆さんはなぜ大学に入学するのでしょうか?大学の目 的とはいったいどのようなものでしょうか?少し難解ですが、教育基本法、学校教育法と いう法律にはこう書かれています。

 「大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究 して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に 寄与するものとする。」(教育基本法第七条)

 「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究 し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。」(学校教育法第八三条)

 つまり、大学に入った皆さんは、高い教養と深い専門的能力を身につけて、知的にも道 徳的にも成長が期待されている、ということです。皆さんにはこれからどんな経験もでき るという特権があります。そしてそれぞれの経験が皆さんを成長させてくれるでしょうが、 グーッと引いて自己を客観視できる人、言い換えれば視野を広く持てる人になって欲しい と思います。ここに紹介するのは著者の二〇代の体験記ですが、藤原正彦『若き数学者 のアメリカ』(新潮文庫)は今なお色褪せない内容で一気に読むことができる本(エッ セイ)です。この本が出版される前、私は藤原氏の講演を聞く機会がありました。私が通 っていた中学校での講演会です。内容は覚えていませんが「べらべらよくしゃべる人」と いう印象を覚えています。後でこの本を読み、「ああ、そういう話だったのか。」と合点が いきました。海外に行った時の興奮や不安感は誰でも感じるものですが、表面上の体験で はない自己変容のプロセスに臨場感があり、自身に置き換えて今読み返しても共感できる 記述に多くぶつかるので、海外へ行ってみようと思っている皆さんには手にとって欲しい 本のひとつです。エッセイですので読み飛ばすにはもってこいです。

 また、岩波新書のなかでも多く読まれている本のひとつ、池田潔『自由と規律』(岩 波新書)をここで改めて推薦しようと思います。一九四九年が初版ですから還暦を迎 えた本となりますね。イギリスのパブリック・スクールに学んだ著者の体験をもとに書か れた、これも今なお色褪せない内容です。今の日本の教育は「ゆとり教育」とか「確かな 学力」、「生きる力」といったスローガンが先行して内実が伴わないことが目立ち、理念と 現実が寄り添っていない状況にあります。「もっとも規律があるところに自由があり、最も 自由なところに規律がある」という精神はイギリスの伝統です。いま、大学に入って多く の「自由」を手に入れた皆さんであるからこそ、じっくりと、いや、ちらっとでも「自由」 の本質を考えてもらいたいと思います。

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温故知新の人文学
小林信行 (哲学)
 私たちはいまを生きている。当たり前のことだ。そしてとくに若い時代は、いまを生き ることに執心して、新奇なものや新鮮なものを追い求めることに生き甲斐を感じてしまい がちだ。しかし、眼前の出来事にこころを奪われるあまり、感覚や思考や行為を通じて経 験している現在に、本当は過去や未来も入り込んでいることを忘れるべきではない。現在 とは、過去と未来の融合からなるものであることに注目すべきだ。その意味で自分たちが 時間の広がりの中を生きていることに気づけば、毎日の刺激的な新奇さも(あるいは退屈 さも)大きく変質することになるだろう。

 だが、私たちは未来を学ぶことはできない。それは欲求や希望の対象となるだけだ。そ して現在は生きることで精一杯だ。私たちがほんとうに学ぶことができるのは過去だけで はないか。その学習の蓄積が記憶となり、未来と結びついて現在を作り出しているのだ。 過去についての認識を深めることは、うたかたの人生を実のあるものにしてくれる。その ためには是非とも歴史の勉強が必要だという言い方もできるが、日々の生活の中にほとん ど些細で見逃されていた過去や記憶に目を向けるだけでも十分だ。手頃な小著としてキャ サリン・サムソン『東京に暮らす』(岩波文庫)、背伸びをしたければ渡辺京二 『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)など、類書の枚挙にいとまはないが、遠 い遠い昔の話ではなく、今もまだどこかでそれを感じることができるような、比較的近い 過去が記述されており、断片的な今をつなぎ合わせたデジタル時間ではなくて、流れとい うものをもった時間があることを身を以て感じることができるだろう。そしてその次に、 東西の古典という山脈のような過去に出会うことができれば、大学時代最高の経験になる。

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ヨーロッパ文化の源泉をたずねて ― ギリシア・ローマ神話と聖書 ―
堺雅志 (ドイツ・オーストリア文学)
トマス・ブルフィンチ『ギリシア・ローマ神話』(野上弥生子訳、岩波文庫、およ び大久保博訳、角川文庫。)
『聖書』『創世記』、『出エジプト記』、『ヨブ記』、以上は関根正雄訳、 『福音書』、塚本虎二訳、岩波文庫。)


 ヨーロッパのまちは教会を中心に作られている。改修に改修を重ね古くからの姿をとど めおく教会には、かならず祭壇画が飾られている。ヨーロッパの都市にはかならず美術館 があって、そこでは、画集ですらときめいた絵画を目のあたりにすることができる。ヨー ロッパ中世、そもそも絵画を描く場合、題材は『聖書』のモチーフに限られていた。 近世になると『ギリシア・ローマ神話』からの題材が再び供されるようになる。画 家たちはこの拘束のなかで想像力と創造力をはたらかせ自由に、腕を磨いてきた。

 教会では中世から聖歌が歌い継がれ、その音階をこんにちまで伝えてくれる。近世には ヘンデルやバッハ、近代にはハイドンやモーツァルト、ベートーベンが教会音楽を数多く 作曲し、私たちは今、様々な演奏家による演奏をたのしむことができる。劇場では、受難 劇のみならず、ギリシア悲劇や喜劇がこんにちなお古式ゆかしく、あるいはまた現代風に 脚色されて上演され、古代の文化を享受することができる。

 もちろん、古代ギリシア・ローマ、聖書やキリスト教に取材する文学も枚挙に遑がない。 ホメーロスが『イーリアス』の冒頭で「アッキレウスの怒り」をうたって以来、神 話は語り継がれ、また書き継がれてきたし、神の偉大なおこないが、『詩篇』にお いて賛美されて以来、様々なかたちで聖書の物語は紡がれてきた。

 ヨーロッパの基礎を築いたローマ帝国は、古代ギリシアの文化をラテン語に翻訳するこ とによってギリシア神話の世界を、そしてキリスト教を国教とすることによって聖書の世 界をヨーロッパに移植した。以来、神話と聖書とは、ヨーロッパの各国語に翻訳され、受 容され、ヨーロッパの芸術の創造的源泉となる。現在でも、聖書と神話の伝統は、かたち をかえつつヨーロッパの芸術に影響を及ぼし続けている。ヨーロッパを学ぼう、ヨーロッ パを理解しようと思うのならば、まずは聖書と神話とを繙いてみるのが一番である。
 

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お祭り見学の勧め
白川琢磨 (文化人類学)
 主に福大に入学する皆さんは、九州か中国・四国出身の人が多いだろうから、「もう一度」 お祭り見学の勧めと言うべきだろう。幼い頃から少なくとも何回かは近所の神社や寺のお 祭り、あるいは民俗行事に参加した経験があるかもしれない。だが年を経て自然と足が遠 ざかり、大学受験を控えてお祭りなどに行っている場合じゃないと思っていたかもしれな い。しかし今、改めて行って欲しいのである。そこに集う人々が何を語り、何を楽しみに しているのか、またどのような神仏に何を祈り、何故に来るのか、じっくり耳を傾け、し っかりと経験して欲しい。そのようにして君らにはまず立派な「ネイティヴ」に成って欲 しい。

 大学に入って「文化」を研究するのであれば、そうした君らの経験を再度「他者」の視 線から捉え直すことになる。しかしそれはそれ程難しいことではない。近代人類学は、「異 文化」に「他者」として参入することを業としてきた。だが人類学者という「他者の語り」 におとなしく耳を傾ける「未開社会」などもう世界の何処にもありはしない。世界各地で ネイティヴたちは、しっかりと自らの文化を語り始めたのだ。その力強い語りを前に、近 代人類学という巨人はしばしその歩みを留めているのである。西欧の人類学者の殿(しん がり)に連なってきた日本の人類学にとって、その影響は深刻である。我々は一体何者な のか?日本は西欧と同じく研究する側なのか、それとも異文化として研究される側なの か?答えはその両方であろう。研究し、そして研究されるのである。ただし、前提がある。 「ネイティブとして」である。日本のアフリカ研究の草分け、和崎洋一氏は、亡くなる前 に「先生がもう一度生まれ変わって研究するとしたら何処でしょうか?」との問いに躊躇 なく「日本」と答えたそうである。ポストモダンの時代に生きる我々は、大和崎が二つの 人生に分けた課題を一時に果たさねばならない。そのためにはまず我々はネイティブに成 り、ネイティヴを磨かなくてはならない。

 昨年は一年かけて「鬼」というネイティブの産物を追いかけてきた。写真家の清水健さ んと共同で文藝春秋の平成一九年一月号にグラビア特集が掲載されているので関心のある 人は見て欲しい。天念寺の修正鬼会を撮り終えた後、国東半島の宿で夜遅くまで語り合っ たが、「いやーそれにしても九州は奥深い凄い所ですね」と感に堪えたように呟いた。ナシ ョナルジオグラフィックの撮影で世界中を飛び廻り、今回の特集では全国を撮影して歩い た清水さんの言葉である。それに励まされて私は思わず書いてしまった。「九州は鬼の宝庫 である。」実は鬼だけではない。ネイティブを育成し醸成する豊かな土壌に恵まれているの である。祭や民俗芸能はそうした豊かな土着の集合表象に触れる絶好の機会である。

 今年の暦も既に動き始めている。正月七日夜、久留米大善寺の大松明の灯と煙に咽びな がら闇夜に紛れる鬼を追うことから始まり、十四日には志賀海神社で大宮司四良、別当五 良ら若者八人が渾身の力を込めた歩射の力強い矢鳴りを聞いた。やがて節分、さらに「松 会」、桜の開花の頃から駈仙(ミサキ)が活躍する勇壮な神楽が始まる。そして汗ばむ季節 になると各地で「山笠」の声が聞こえ始める。出身地は元より、福岡に来たら近郊の祭に 足を運んで欲しい(福岡民俗芸能ライブラリー http://www.fsg.pref.fukuoka.jp/e_mingei/index.asp)。必ず、何か得るものがあるはず である。文字に書いてあるものだけが価値があるという偏見を捨て、祭や芸能という生き た教材を是非経験して欲しいものである。

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博物館へのいざない
武末純一 (考古学)
 博物館へ行ったことがあるだろうか。人文学部の新入生ならば、すでに一つか二つはあ るだろう。しかし大学生には大学生なりの見方がある。行ったことのない人はまず特別展 を見に行くのが良い。

 私の専門は考古学、モノから歴史を考えていく学問である。以下は、博物館などでひら かれている考古学関係の特別展へのささやかな招待状である。

 特別展は、秋の文化シーズンにあちこちの博物館や資料館で開かれる。このごろは夏休 みや春休みに開くところも増えてきた。内幕をいえば、特別展を開く→お金がかかる→そ の分だけ多くの入館者が欲しい(でないと来年の予算にもひびく)→学生が休みで大人も 活発に動く夏や春に開こう、という発想がほとんどだが。でも特別展は楽しい。

 楽しさの一つは、それまで写真や図でしかみたことのなかった実物に会えること。せっ かくの機会だから、上から、下から、横から、斜めから、じっくりと眺めて、どのように 作られ、どんなふうに使われたかを想像しよう。もちろん、図録や横にそえられた解説文 に答えがのっている場合もあるし、それを理解するのも大事だが、それよりも大切なのは、 答をうのみにしないで自分で考えること、自分の疑問をもつこと。

 二つ目は、あちこちの発掘品が一か所に集められていることである。それぞれの保管場 所に行って見せてもらうととんでもない金額になるから、一見高そうに見える特別展の料 金も実は安いものである。

 それと、いつもは全く別のところにあるモノ同士がすぐ横に並ぶから、比較ができる。 これはけっこう大事である。何回もいったりきたりして見比べ、「似た形だけどここが違う な。これは出たところが違うからかな、それとも作った時代が違うからかな」「へー、こん なに遠く離れて出ているのにそっくりじゃないの」など、自分だけの発見ができればしめ たものだ。

 三つ目は、発掘の記録は報告書という形で本になるが、手に入りにくいし、入ったとし ても一般の人が読み通して理解するのはけっこうシンドイ。でも博物館では、そうした成 果をできるだけ噛みくだいて、どんな発見があったのか、何がわかったのか、どういう問 題が出てきたのかを、実際にモノを示しながら説明してくれる。

 ちょっと変わった楽しみ方もある。学芸員になった気分で。この照明は展示品のどこを 強調? しているのか。自分だったらこういう角度でここをみせたい。このパネルはなぜこの大き さでここにかけられているのだろう。展示品をきわだたせるためにどんな形や色の台を使 っているのか。なぜこの展示品とあの展示品の間がこの位空いているのか、などなどなど。

 そう、ここまでくれば、もう特別展だけじゃなくて常設展でも十分に楽しめることがわ かってくる。まずは福岡県内あるいは故郷の博物館だ。

 昔の博物館は、展示品がケースの中に重々しく鎮座し、いかにも「見せてやる」といっ た感じが強かったが、いまでは〈さわる〉〈作る〉〈使う〉などの体験コーナーも整いつつ ある。充実したミュージアムショップや市民ライブラリー、しゃれたレストランもけっこ う多い。講堂や入り口のホールで演奏会を開くところも出てきた。〈博物館は古くさい〉と いうイメージは消え始めている。

 自分の知の世界を広げるために博物館をのぞき、どれでもいいから、自分の心にとまっ た展示品をスケッチする。そんなすてきな時間を作ってみたらどうだろう。

 なお老婆心から蛇足を一つ。ゆめゆめ月曜日のデートの場所に博物館や美術館は指定し ないように。日本では月曜日は休館日なのだから。

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中国社会に関するものをすこし
田村和彦 (文化人類学)
魯迅の作品と『リン家の人々―台湾農村の家庭生活』(マ ージャレイ・ウルフ著、中生勝美訳、一九九八年、風響社)など

  最近、中国について様々な情報が流れ、週刊誌の記事や書籍となって書店に積 まれています。日本と中国の長い関係を考えれば古典や歴史の本が多いのは不 思議ではありませんが、同時代のものに限れば、政治や経済に関するものが多 いように思われます。他方で、日常生活を送る場としての社会を真面目に紹介 した本は多くはないのではないでしょうか。

 そこで、ここでは、こうした領域について手がかりを与えてくれそうな、いく つかの作品を推薦します。

 一つ目は魯迅のもの。皆さんももしかしたら『故郷』を教科書などで触れたこ とがあるかもしれないし、なにをいまさらという声が聞こえないでもないので すが、読んだことのある人も、そうでない人もしばらくお付き合いを。

  突然ですが、皆さんは一年に数冊の日本語の本しか読めないという状況に出会 ったことがありますか。私事で恐縮ですが、中国の農村に住み込んだときのわ たしがそんな状況でした。かなり悩んだ末に持ち込んだものが、今昔物語と魯 迅の文庫、淡水魚類図鑑でした。今でもなかなか良い選択だったと思います。 特に魯迅には随分助けられたのを憶えています。

  私は文学の研究者ではありません。にもかかわらず、魯迅の作品を挙げる理由 は、激しい論調や手厳しい諷刺のなかに垣間見える鋭い社会観察は、今日の中 国社会を考える上でも有用ではないかと思うからです。もちろん魯迅を読めば 今の社会がわかるといっているわけではありません。社会背景もずいぶんと異 なるはずですし、作品はあくまで作品でしょう。けれども、様々なヒントが含 まれているという点で、今日でも繰り返し読む価値のある作品が多いと思いま す。

  いろいろな人が訳しているので、誰のものを選ぶかは好みで結構。まず手始め に『吶喊』を手にとって見てください。

  二冊目は『リン家の人々』という本。これは、一九五〇年代末に台湾北部の村 で生活した人類学者の妻(後に著者本人も人類学者になってしまいました。 「異文化体験」というのはなかなか強烈で侮れません)が記したある大家族の 記録です。推薦理由は、訳者の解説にあるように漢民族の家庭生活の肌触りを 知るうえでは良書であるから、です。人や情報の往来は急増し、中国について 語る機会が増え、私たちはなにか中国社会について理解を深めたような自覚を 持ちやすい今日の状況がありますが、果たしてどの程度理解している、理解し ようとしたことがあるでしょうか。たとえば、本書の扱う家庭や人間関係など は如何でしょう。この本は、反省と驚き、知ることへの欲求をかきたててくれ る事でしょう。また、最近、中国大陸中心の議論が極端に増加していますが、 台湾、香港といった地域から考える、あるいはこれらを含めて考えることが不 可欠なのではないかと私は思っています。なので、台湾を舞台とした、面白い けれどもあまり話題にならない本を選びました。

  さきに断っておきますが、ここに挙げた本は、ある事象についての知識を簡潔 に記したものではありません。もしそうした知識だけが必要であれば、百科事 典でも暗記したほうがましでしょう。大学に来た以上、自分で問いを立てて、 常識を疑い、明確な論証を挙げて検討することが必要です。こうした営みが楽 しいかどうかは人によると思いますが、大学とはそういうところだと私は思っ ていますので、上の本を推薦してみました。後は自分で面白そうなものを探し てください。

  最後に、本ばかりでは味気ないという意見もあるかもしれないので、映画をい くつか推薦しておきます。ここでは、わたし好みの監督から『青い凧』(田壮 壮監督、一九九三年)、『女人、四十。』(アン・ホイ監督、一九九五年)、 『麻花売りの女』(周暁文監督、一九九四年)、『延安の娘』(池谷薫監督、 二 〇〇二年)の四本を選びました。図書館や教室だけが学ぶ場というわけではあ りません。前の三作品は本学の言語教育研究センターにもありますので、在学 中に是非足を運んでみてください。

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読んで楽しく、 作っておいしい料理の本
辻部大介 (フランス文学)
宮脇孝雄 『煮たり焼いたり炒めたり―真夜中のキッチンで』 (ハヤカワ文庫)

 この春から一人暮しになり、自炊をはじめたという人も多いことでしょう。そ ういう人に、またそうでない人にもおすすめの、ちょっと変わった料理の本を 紹介します。これは、英米小説の翻訳家である著者が、所有する英語の料理本 のコレクションから、全部で五〇ほどのレシピを、日本でも手に入りやすい食 材を使ったものにアレンジしたうえで紹介したものです。和・洋・中の分類で いえばとうぜん洋のメニューが中心ですが、カレーなどのいわゆるエスニック 料理もあるし、洋の中味にしても、「ロシア風」ロールキャベツ、「イタリア 風」ポークチョップ、「ハンガリー風」蒸し魚、「デンマーク風」アップルケ ーキ、というふうにバラエティーに富んでいて、読み手を未知の味覚の世界へ といざないます(作ってみると、どれもふつうにおいしいのですが)。

 オーブンがないとか、近所のスーパーに材料が見あたらないとか、あるいはた んに手間がかかるからといった理由で、じっさいに作るにはいたらないものも 多いかもしれません。それでも、どんな味がするのか想像するだけで楽しいで すし(「赤キャベツのジャム」なんていうのもあります)、なによりも、レシ ピに添えられた料理談義やあれこれのエピソードが、その語り口とあいまっ て、上質の読書体験をもたらしてくれます。

 それというのも、著者が料理人である以前に日本語の文章のプロフェッショナ ルであるからで(ミステリの巨匠パトリシア・ハイスミスの短編をこの人の訳 で読めるのは幸せなことです)、じつはこの本じたい、成り立ちが物語るとお り、一個の翻訳作品といえるのかもしれません。そもそも著者の料理への関心 は、小説に知らない食べ物が出てきたら、それがどんなものなのかつきとめな くてはならないという職業上の必要とも結びついており、言葉が指しているも のを具体的に知ろうとするこのような姿勢は、翻訳家ならずとも、およそ外国 語を学ぶ者にとってたいへん重要なものであると、フランス語を教えながらつ ねづね思っています。

 語学というものが、料理にかぎらず、いかに雑多なことがらに対する興味を求 めるものであるかは、同じ著者の、本業である翻訳にかかわるエッセイ(『翻 訳家の書斎―想像力が働く仕事場』『翻訳の基本―原文どおりに日本語に』研究社 出版、『ペーパーバック探訪―英米文化のエッセンス』アルク)でも知ることが できます。こちらもぜひのぞいてみてください。

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学ぶことを支える仕事
徳永豊 (支援教育学)
 教師は学校で子どもたちと授業をして、国語や数学の内容を教えることが仕事である。 別の言い方をすれば、学校で子どもたちがよりよく学ぶことを支える役割が教師にある。
 子どもたちは、学校で同じように学ぶのであろうか。学びについて、みんなが同じであ ることはけしてない。それぞれの理解の程度、これまでの経験、学び方など実に多様であ る。
 よくわかる子ども、理解が早い子どもがいる。また、よくわからない子ども、理解がゆ っくりの子どもがいる。教師として「学びを支えること」を考えた場合に、どちらがおも しろいのであろうか。
 「よくわからない子どもに教えることがおもしろい」という障害のある子どものための 学校の教師がいる。わかる子どもとの授業では、教師の苦労は少ない。よくわからない子 どもとの授業は、教師が工夫し苦労しながら授業に取り組む。数多くの失敗を繰り返し、 授業に工夫を加えることで、徐々に子どもの「学びを支えられる」ようになる。そしては じめて、子どもと「わかった喜び」を共有できるように教師が成長する。
「よくわからない」世界で、「わかる」を拾い上げた瞬間である。この瞬間があるからこそ、 やめられない仕事が学校にはある。

村田 茂 著
 『障害児と教育その心 ― 肢体不自由教育を考える』慶應義塾大学出版会(一九 九四)
 肢体不自由教育の道を三〇年、歩んできた著者が、子ども一人一人を大切にする温かい 視点で特別支援教育全体と肢体不自由教育のあり方を見渡し、わかりやすくまとめたもの である。

徳永 豊 著
 『重度・重複障害児の対人相互交渉における共同注意 ― コミュニケーション行動の 基盤について』慶應義塾大学出版会(二〇〇九)
 意図・感情の共有や人間関係の形成に必要な「共同注意」、乳幼児が獲得する「共同注意」 の形成までを「三項関係形成モデル」として示し、障害のある子どもの事例研究によって、 「自分の理解」や「他者への働きかけ」「対象物の操作」の発達の筋道を示す。

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短い味、長い味
冨重純子 (ドイツ文学)
 一説によると、短編作家は短命で長編作家は長命の傾向があるという。それは さておき、短編と長編にそれぞれの呼吸というようなものがあるのは、たしか だろう。

 短編小説は「短い話」である。何の話というように、核になる着想をもってい るものも少なくない。ゴーゴリの「鼻」は、鼻を失くした男の話であるし、カ フカの「変身」は朝になって目を覚ますと虫になっていた男の話である。(ニ コライ・ゴーゴリ『鼻/外套/査察官』(浦雅春訳)光文社古典新訳文庫他、 フランツ・カフカ『カフカ・セレクション3』(平野嘉彦編)ちくま文庫他)

 ある朝、理髪師のイワン・ヤーコウレヴィッチが朝食をとろうとすると、焼き たてのパンの中から鼻が出て来る。しかも、知っている人の鼻だ。かと思え ば、持ち主の八等官コワリョーフが必死になって鼻を探していると、昨日まで は彼の顔にちゃんとついていて、ひとりで馬車に乗ったり歩いたりすることの できなかった鼻が、礼服を着て教会に行ったりしている。「鼻」は相当めちゃ くちゃである。「変身」の方は、虫はあくまで虫らしい。コワリョーフが鼻を 失くした話は、ペテルブルグ中の話の種になるが、虫になったザムザの物語は 家族の中で閉じていて、もう少しメランコリーを感じさせる。

 この、おそらく世界でもっともよく知られている短編のうちに数えられる二編 は、鼻を失くすとか虫に変身するとかの最初のできごとを除けば、細部に至る まで日常的な世界を描いた、きわめてリアリスティックな短編小説として読む ことができる。たとえば、「鼻」は自分の体面を保つことに必死の小役人の話 でもあるだろうし、「変身」は家計を支えてきた者の失職にともなう家族内の 変化の話でもあるだろう。しかし、やはり「鼻」は鼻を失くす話であるし、 「変身」は虫への変身の話なのだ。なぜ鼻なのか。なぜ変身するのか。何かの 比喩、アレゴリーなのか。読みながら、それぞれの場面でニヤッと笑ったり、 コワリョーフやザムザの気持ちになったりしながらも、われわれはやはり作品 の奇妙さについて考えることをやめることはない。

上述の短編とは異なり、作品世界に読者を引き込み、すっかり浸らせてくれる 長編小説の変わり種を二つ紹介しよう。レオ・ペルッツの『第三の魔弾』(前 川道介訳、国書刊行会)とシャーンドル・マーライの『灼熱』(平野卿子訳、 集英社)である。ペルッツは一八八二年、プラハに生まれ、ドイツ語で書いた ユダヤ系の作家で、一九三八年テル・アヴィヴに移住し、一九五七年に亡くな るまで、オーストリアとテル・アヴィヴを行ったり来たりして暮らした。マー ライはハンガリーの作家で、一九〇〇年に生まれ一九八九年死去。見ようによ っては象徴的な生没年である。第二次世界大戦後、共産主義に反対したマーラ イは国を離れ、亡命先での、ベルリンの壁崩壊直前の死は自殺だった。

ペルッツは、史実に取材しながら、そこに強烈な作者のヴィジョンを加えて亀 裂を穿つ、幻想的歴史小説と呼ばれる作品を多く残したが、『第三の魔弾』も そのひとつ。舞台は、旧大陸ヨーロッパで宗教改革の嵐が荒れ狂う時代の、新 大陸である。スペインの征服者たち(旧教派)の前に、ドイツ人(新教派)が 立ちふさがる。ラインの暴れ伯グルムバッハが、宗教戦争を逃れたドイツの農 民たちを率いて、アステカ王国に一足早く到着していたのである。この驚くべ き着想から出発して、ペルッツは三発の魔弾にまつわる呪いの物語を軸に、強 欲、冷酷、勇猛、剛直な男たちの血で血を洗う地獄絵を描き出す。しかし、何 と言っても、この魔弾の物語の前と後に置かれた序曲と終曲の、すべてが忘却 のうちに沈んで行く絶望のような、霧のようなものが流れて行く風景は、ただ ならぬものがある。

『灼熱』は長編と言っても短めで、むしろ室内劇の趣をもち(日本でも舞台 で 上演された)、『第三の魔弾』とは何の共通点もないが、その世界はある意味 で、『第三の魔弾』の世界よりわれわれから遠い。

一九四〇年、ハンガリーの森奥深くにある、大貴族の館。当主のヘンリクのも とへ、若き日の友コンラードが訪ねて来る。友が突然姿を消したあの日から、 四十一年ぶりの再会であった。今や老人となったふたりは、秘密について、情 熱について、真実について、語り合う。ふたりはただこの時を待っていたのだ った。「生涯を通じてたったひとつの課題に向けて準備してきたかのよう」だ った。人生と存在に意義と緊張を与えてきたすべてが、この一夜で終わるとヘ ンリクは思い、夜明けとともにロウソクは燃え尽きる。深い持続と凝縮と完成 の感覚に満たされて本を置くとき、われわれ自身も古いヨーロッパにいるよう だ。

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お気に入りの本
永井太郎 (日本文学)
  新入生向けの読書案内ということで、何かの勉強になるとか、大学生として読 んでおくべきといった本を紹介しようかとも思ったのですが、やめました。こ れからあげるのは、僕が読んで、個人的に面白かったという、お気に入りの作 品です。完全な趣味です。傾向が少し偏っているので、万人向けとはいきませ んが、良かったら本屋や図書館で手にとってみてください。

H・G・ウエルズ『タイムマシン』(創元推理文庫)
  最近少し古いエンタテイメントにこっているのですが、 中でもウエルズの作品は今読 んでも十分に面白いと思います。 「タイムマシン」 という言葉はもう常識ですが、 この アイデアをはじめて作品化したウエルズの小説を、 実際に読むことはなかなかありません。 読んでみると、 持っていたイメージとは違いがあって、 逆に新鮮に感じられます。 集中 の 「塀についたドア」「水晶の卵」 なども名作です。

ロバート・マキャモン『少年時代』上・下(ヴィレッジブックス)
 時代は飛んで、いきなり現代作家です。マキャモンは、もとはスティーヴン・ キングなどと同じホラー作家でしたが、この本はホラーではありません。一人 の少年の一年の経験を描いた成長小説です。しかし、ただ成長小説というだけ でなく、ホラーやファンタジーやミステリーなどの要素が詰まった、実に魅力 的な小説です。久しぶりにページをめくる手がもどかしいという経験をしまし た。

日影丈吉 「猫の泉」『日本怪奇小説傑作集2』 (創元推理文庫)、 『怪奇探偵小説名作選8日影丈吉集』(ちくま文庫) などに所収)
 日影丈吉という名はまず知らないと思います。ミステリー作家であり、幻想文 学でも優れた作品を数多く残しました。あげたのは彼の代表作の一つで、南仏 の谷間の町を舞台にした、静かな怪異譚です。他にも、同傾向の幻想的な短編 としては、「かむなぎうた」「吉備津の釜」「吸血鬼」などが 有名です。

澁澤龍彦 『夢の宇宙誌』 (河出文庫)
 澁澤龍彦『夢の宇宙誌』(河出文庫) 西洋の怪しい知識を紹介したエッセイ集です。本を開くと、アンドロギュヌス やホムンクルスや自動人形といった楽しげな言葉が飛び交っています。かつて 澁澤龍彦の本は、こうした話題についての定番だったのですが、今でも読まれ ているのでしょうか。そう思って、あげてみました。この本以外にも、『黒魔 術の手帖』など、澁澤龍彦の本はいくつも文庫で出ているので、探してみて下 さい。

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新書の魅力、中公新書の面白さ
則松彰文 (東洋史)
 「活字離れ」が叫ばれて久しいが、それでも本屋を覗くと、まるで溢れんばかりの本が 並んでいる。新たに出版される本は相変わらず多いが、それらの多くが店頭から姿を消す スピードは、以前に比して各段に早くなった。

 本屋には大抵「新書」のコーナーが設けられている。福岡大学の中央図書館にも、二階 の開架閲覧室の書架に充実したコーナーがある。岩波新書、講談社現代新書、ちくま新書、 文春新書等々、多くの出版社のものがあるが、やはり何と言っても、一押しは、中央公論 社の中公新書であろう。少なくとも、私の専門に関わる歴史分野で言えば、この新書の知 的レベルと充実度は、他の追随を許さない。

 中公新書には、ロングセラーやベストセラーが多いが、加えて、新書ながら学術的評価 のきわめて高い名著もまた多い。中国史関係に限っても、三田村泰助 『宦官』、外山軍治 『則 天武后』、宮崎市定 『科挙』 などは、今なお色褪せることのない不朽の名著である。

 しかし、私がここで最もお薦めするのは、一九八〇年に初版が刊行された、角山栄(つ のやま さかえ)氏の 『茶の世界史   緑茶の文化と紅茶の社会   』 である。既に 三〇版を超えた中公新書屈指のベストセラーであるが、同時にまた、その学術的評価は頗 る高い。一六世紀以降、中国原産の茶がイギリス人をとりこにして歴史が大きく動き出す。 東インド会社、貿易赤字、インド産アヘンの中国への流入、アヘン戦争等々、まさに「た かがお茶、されどお茶」、茶という一つの物産から、これほど見事に世界史の醍醐味を味わ せてくれる書物も稀有であろう。私の愛読書の一つであると同時に、共通教育科目の「東 洋史A・B」や森丈夫先生の「西洋史A・B」でもしばしば紹介される本である。福大の 図書館や本屋さんで、先ずは一読されることをお勧めしたい。

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Tips for Learning English
Stephen Howe (英語学)
Compared to someone who knows no English, you already know a lot. You can read this page, for example. Remember, you have a good head start: Japanese has more English words than any other language(apart from English, of course). That means you already know hundreds and hundreds of English words in katakana. Build on what you know and try to improve a little each day.

 Practice makes perfect
 Learning a language is like learning to play a musical instrument - you need to practise a little each day. And music is for playing and enjoying. So, have fun speaking and communicating in English
  ・If you never practise the piano, you cannot learn to play. The same is true of language - if you want to get better, practise a little every day

 Use it or lose it
 To speak a language well, you must use it - as often as possible
  ・Practise speaking English to yourself
     ・Try to think to yourself in English, for example on the train or in the bath
  ・Practise speaking English with your friends
     ・Meet your friends for coffee and practise speaking English for fun

 Train your brain
 Set yourself a target to improve your English each year you are at Fukuoka University. Improve a little each day, and you will improve a lot by the time you graduate
  ・Set aside some time to study English each day - 40 minutes in the morning or evening
  ・If you commute to university by bus, train or subway, use your time to learn English

 Don't worry about making mistakes
 Just like in life, making mistakes is an important part of learning a language - so don't worry, just keep talking!

 Be cool at school
 Impress your friends with your fluency in English, whatever your major
  ・Learn in class
     ・Use your time with your teacher to improve your English
  ・Learn outside class
     ・Don't think of your class as the only time you learn - try to improve your English outside class, too
 Make friends with the international students on campus
 Practise your English on the international students at Fukuoka University - they want to talk to you!
  ・Ask them about their country and tell them about Japan

 Watch TV and movies in English
 Movies are a great way to listen to spoken English - and they are available
everywhere - watch as many as you can
  ・Switch to English sound when you watch English programmes or movies on TV. This might be difficult at first, but gradually you will understand more
  ・Watch a movie several times - you will understand more each time
  ・Try to repeat what the actors say
  ・As well as movies, watch the news in English at cnn.com
  ・NHK shows English news early each morning. Watch the news each day, and you will make great progress in your understanding for TOEIC

 Read a book, magazine or newspaper in English
 Whether Harry Potter or William Shakespeare, read a book in English - there are thousands to choose from!
  ・Read an English magazine
     ・If you like fashion, read an English fashion magazine; if you like sport, read a sports magazine in English. You will learn a lot of vocabulary about your interest
  ・Read a newspaper
     ・The Japan Times is available everywhere and is easy to read
  ・Read the news in English online
     ・Try bbc.co.uk for English news

 Write a diary in English
 Like Samuel Pepys and Bridget Jones, write a diary in English - about what you do each day, your thoughts and feelings. This will help you improve your writing

 Listen to English music and radio
 Listen to your favourite British or American bands - they can help you learn English!
  ・You can listen to English music on the web at www.bbc.co.uk / radio1 /
  ・Download a podcast for mobile English or listen on your computer at home

 Plan a trip or study abroad
 English is the international language that makes it possible for you to communicate with people in other countries. Get your English ready for a trip or study abroad:
  ・Practise ready for your trip
  ・It will be easy to meet people if you can speak a little English
  ・Fukuoka University has several study abroad programmes. If you can, study in another country - you will learn many things and have the time of your life

 Finally, what about after university? What can English give you?
 English is a key to the world and knowing English can help you get the job you want. English gives you:
  ・Communication skills
  ・An international dimension
  ・Awareness of other cultures
  ・Opportunities to work and travel abroad
  ・And the ability to communicate with the world

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犬がどのように考えているか、 をどのように考えるか
平田暢 (社会学)
 スタンレー・コレン著 (2007年) 『犬も平気でうそをつく?』文春文庫

 この本をお薦めするのは、私自身が犬好きで、犬好きの人にとって面白く役に立つ、と いうこともあるのですが、それ以上に、大学で勉強するときに重要な「考え方」について 自然に馴染むことができる、という理由からです。日本語のタイトルはややひねりすぎで す。原タイトルは“HowDogsThink”なので、こちらのタイトルで内容をイメージして下さ い。

 著者のスタンレー・コレンの専門は心理学で、カナダのバンクーバーにあるブリティッ シュ・コロンビア大学で教授を務めています。犬好きが嵩じて訓練士の資格をとり、犬の 訓練クラブのインストラクターもしているそうです。

 私たち人間は、他の人たちを観察したり、対人関係の中でさまざまなことを学びます。 これを「社会的学習」といい、私たちは言葉や規範、あるいは歯の磨き方などもそうやっ て身につけていきます。

 では、そのような学習能力を犬も持っているのでしょうか。

おそらく持っていると想像はできますが、本当に知りたいのであれば確かめねばなりま せん。そのための手続きは、「犬には社会的学習能力がある」という考え―この考えのこと を仮説といいます―が正しいとすると、特定の状況でどのようなことが発生するか推測を し、実際にそのような状況で観察を行って推測が正しいか否か確かめる―確かめることを 検証といいます―ということになります。「犬には自意識がある」や「犬には超能力がある」 という仮説を立てた場合も同様です。

 コレンの専門である心理学や私の専門である社会学では、仮説を検証するというアプロ ーチをよくとります。実験はその典型ですが、社会調査なども同じような手続きに沿って 行われます。大学の勉強では、知識だけではなく、このような手続き、あるいは考え方を 身につけることが強く求められます。『犬も平気でうそをつく?』という本は、犬 の能力や感情、意識についてさまざまなことを教えてくれますが、数多くの事例や実験、 調査がうまくはさまれていて、仮説を検証するプロセスの面白さ、その有効性がごく自然 にわかってきます。

 犬には社会的学習能力があるか否か、それをどうやって確かめたかは、本書を読んでの お楽しみ。

  以下に、スタンレー・コレンの犬に関する他の著作も挙げておきます。いずれも文春文 庫です。飼い主の性格に合う犬種は何か、どうすれば犬に意思をうまく伝えられるか、ど のようにして犬は狼からつくられてきたのか、などなど、盛りだくさんで楽しめます(最 後は結局犬が好きな人のための紹介になってしまった…)。

  『デキのいい犬、わるい犬』(TheIntelligenceofDogs)
  『相性のいい犬、わるい犬』(WhyWeLovetheDogsWeDo)
  『犬語の話し方』(HowToSpeakDog)
  『理想の犬(スーパードッグ)の育て方』(WhyDoesMyDogActThatWay?)
  『犬があなたをこう変える』(TheModernDog)

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危機の時代における思想と自己内対話
平兮元章 (社会学)

最近読んで、私自身興味をもって読んだ本、皆さんにとって役に立つのではと思った本を 二冊紹介します。

(一)仲正昌樹(なかまさまさき)著『いまを生きるための思想キーワード』(講 談社現代新書2134、二〇一一年、七四〇円)

(二)姜尚中(カンサンジュン)著『あなたはだれ?わたしはここにいる』(集英 社新書、0609F、二〇一一年、七四〇円)

 まず(一)の文献から。二〇一〇年にテレビ放映されて大変反響をよんだハーバード大 学、マイケル・サンデル教授の「ハーバード白熱教室」のなかで、アメリカの政治哲学の キーワードとして注目を集めた用語の解説に始まる。「正義」(justice)から徐々に視野を 拡大していき、合計で二一のキーワードにターゲットを絞って解説している。正義、善、 承認、労働、所有、共感、責任、自由意志、自己決定/自己責任…等々である。

  一例として、最初に出てくる「正義」についての解説の概略を示してみよう。英語の (justice)と日本語の「正義」の間には大きなズレがあるという。日本語の「正義」とい う言葉を聞いてすぐに思い浮かぶのは、「正義の味方」、つまり「善」の化身のような存在 だろう。「正義の味方」は弱者を虐げる「悪」と闘い「正義」を実現することがその証明に なる。神々、天、宇宙の意志のように個々の人間の思惑や利害を超えたものに由来する「絶 対的な善」あるいはそれを実現することとほぼ同義に使われることが多い。しかし、英語 の(justice)は、日本語のような人情的な意味は含まず、むしろ対立する意味さえあると いう。辞書でjusticeを引いてみると、正義、公平、といった意味と並んで、司法、裁判、 裁判官といった法律関係の意味が出てくる。法と深く結びついているのである。各人の権 利が適切に保護され、もめごとがおきても法によって解決されることが「正義」であった。 この意味での「正義」は、個人的な感情や義務などはできるだけ排除し、予め決まった法 的ルールに従って問題を公正に処理することが「正義」なのである。

この例にみられるように、各項目を人間生活との関わりにおいてわかりやすく説明してい る。この本には、「政治哲学・倫理学系21のことば」というサブタイトルがついているが、 ここでとりあげられている項目は、人間生活上の問題と深く関わっているし、社会科学、 人文科学のみならず、科学技術の分野にも関わっており、日常の勉学において利用価値の 高い文献である。読み易い文章であるので一読を勧めたい。
 小林康夫・山本泰 (編) 『教養のためのブックガイド』 東京大学出版会、 2005 年。
次に(二)の文献について。

二〇一〇年に出版されて反響をよんだ『悩む力』(集英社新書)に続く同社から出版 された新書版である。NHKで放映された『日曜美術館』の司会を行った経験から著され たものである。デューラー、ベラスケス、マネ、クリムト、ゴーギャン、ブリューゲル、 ミレー、等伯、若沖、沈寿官…らの絵画や陶芸作品をとおして作者(画家、陶芸家)達の 作品に込められた意志や意図を読みとり、姜氏自身の「自己内対話」を行った内面記録で ある。その思索の深さには驚かされざるをえない。氏自身の潜在力として持っていた内面 の止揚力をいかんなく発揮している。姜氏はこの司会経験をとおして「わたしはもう一人 の自分に会えた気がしてならなかった」と告白している。われわれは社会生活を送ってい くうえで、自分を見つめ、「自己内対話」を行うことが重要であるということがよくわかる 文献である。

私自身の経験を振り返ってみても、学生時代、絵画や陶芸作品を鑑賞して思索に耽 り、自分自身を見つめ直すという経験が少なかったと思う。閉塞状況にある今の日本を変 えるには、思索し、悩んだ末に生まれてくる新しい力が必要かもしれない。是非一読を勧 めます。

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おとなりの公安、公調、内調
広瀬貞三 (朝鮮史)
? 萩野富士夫『特高警察』(岩波新書、二〇一二年)
 萩野は小樽商科大学教授。一九一一年、警視庁に特別高等課が設置された。これが後に 「治安維持・社会秩序の維持」を目的とする特高警察に拡大する。中心は内務省警保局保 安課であり、八係(庶務・文書、左翼、右翼、労働・農民、宗教、内鮮、外事、調査)が 置かれた。治安維持法の威力を背景とし、特高警察は国民弾圧に猛威を振るった。敗戦前、 拷問による死者は八〇名、獄中死は一一四名、病気による獄中死は一五〇三名に達した。

? 青木理『日本の公安警察』(講談社現代新書、二〇〇〇年)
 青木は共同通信の記者。警察組織を機能別に見ると、刑事、交通、防犯、地域、警備に 大別される。公安警察は「国の公安に係る犯罪」に関する情報収集、捜査を行う。警察庁 警備局には、六課(警備企画、公安第一、公安第二、公安第三、外事、警備)がある。全 国の都道府県警察の警備部がその手足となる。主な業務は、尾行、視察、拠点・アジトの 視察、工作である。「サクラ」、「チヨダ」と呼ばれる非合法専門の公安秘密部隊もある。

? 大島真生『公安は誰をマークしているか』(新潮新書、二〇一一年)
 大島は産経新聞の記者。公安警察の中枢である警視庁公安部の職員は、本庁に約一一〇 〇名、警察署に約一三〇〇名、計約二四〇〇名。彼らがマークするのは、日本共産党(日 共)、過激派、革マル派、右翼、ロシアスパイ、北朝鮮工作員、アルカーイダである。隠し 撮りは「秘撮」、盗聴は「秘聴」、基礎調査は「基調」、スパイをつくることは「協力者獲得 作業」と呼ばれる。ゲリラ事件現場には、まず公安機動捜査隊(公機捜)が投入される。

? 泉修三『実録・警視庁公安警部』(新潮文庫、二〇一〇年)
 泉は警視庁公安部外事一課、内閣情報調査室(内調)国際部で約三〇年に渡り、外事部 門に従事する。公安部では、連続企業爆破事件の捜査、スパイ(ソ連、北朝鮮)の摘発、 テロ(国際、国内)の防止、右翼・極左暴力集団の取締に当たった。内調国際部では各国 大使館と接触し、情報交換を行う。この本は泉が「どのようにあがき、苦しみ、生きてき たか」を、克明に記述している。泉は国際テロの源流を「中東和平問題」と断言する。

? 野田敬生『公安調査庁の深層』(ちくま文庫、二〇〇八年)
 野田は公安調査庁(公調)を経て、ジャーナリスト。一九五二年に破壊活動防止法(破 防法)が成立すると、これに基づき法務省の外局として公調が設置された。公調は団体規 制請求ができ、調査対象は、日共、過激派、右翼、オウムである。朝鮮半島、中国、ロシ アを対象とした対外情報活動も行っている。内部には、三部(総務、調査第一、調査第二) がある。調査第一部は国内部門、調査第二部は外事関係事象や海外部門を所管している。

? 大森義夫『日本のインテリジェンス機関』(文春新書、二〇〇五年)
 大森は警視庁公安部長を経て、九三年から九七年まで内調室長を勤める。室長は一週間 に一回、「総理報告」を行い、メインを三本、サブを五本用意する。彼は秘密保護法の制定 を薦める。「弊害は分かっている。繰り返すが、インテリジョンスは毒である。しかし、社 会安全のための必要な毒である。毒を用いるには解毒の社会装置を構築しなければならな い」。対外情報庁の設置を提唱し、三研究機関(米国政治、華人、コリアン)が必要という。

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〈人間学〉のススメ
馬本誠也 (英文学)
1.内村鑑三『後世への最大遺物』『世界教養全集9』平凡社刊行、一 九六二)
 物質主義や自己中心主義が横行している今の時代に、このような書物を紹介すること自 体、アナクロニズムの誹りを免れないかもしれない。

  だが、この本を読み、私は久しぶりに本当の日本人に触れた思いがした。「生きる」こ との意味やこの世に生きる使命感を彼ほど純粋な力強いことばで語れる人は、そう多くな いはずだ。ここに示されているいくつかの生き方は、おそらく真摯に自分の行き方を模索 している青年の魂に深く訴えてくるのではないだろうか。

  わたしは、すべての学生にこの書物を推薦しようとは思わない。こころの奥底から聞こ えてくる〈内なる声〉に耳を澄ますことのできる人であれば誰でもいい。「わたし」とは、 いったい何者であるのか。自然界における人間の位置づけをどう考えるのか。「社会」と「個 人」はどのように関わり合っていけばいいのか。およそ人文学部に身を置く学生であれば、 内村鑑三のような高い志しをもった日本人の声に謙虚に耳を傾けて欲しい。〈文化〉の意味 や、外国語を学ぶ楽しさとすばらしさが、すべてこのなかで語られている。

  この書物は、すでに過去数年にわたって紹介してきているが、今日の日本の時勢、日本 を取り巻く世界情勢を考えると、どうしても今の若い人たちに贈りたい書物の一冊である。 内村は、その中で、こう言っている。「われわれは、何をこの世に遺して逝こうか。金か。 事業か。思想か。これいずれも遺すに価値のあるものである。しかし、これは何人にも遺 すことのできるものではない。……何人にも遺すことのできる本当の最大遺物は何である か。それは勇ましい高尚なる生涯である」

※ここに紹介した内村鑑三『後世への最大の遺物』は、図書 館で検索すれば必ずあると思いますが、書店での入手は難しいでしょう。自分で所有した い場合には、インターネットの「日本の古本屋」を検索すれば、必ずどこかの古本屋が出 しています。

2.吉田健一『英国の文学』(岩波文庫)
  ずいぶん昔のことであるが、大学の文学部に入学して、さてこれから何を勉強していこ うかと、漫然と思案していたとき、たまたま書店の本棚で見つけたのがこの書物であった。 英国、および英国人の風土や文学をこれほど見事に語った書物は、そう多くないと思う。 わたしがイギリス文学を専攻したのも、この書物に触れ、その感動を少しでも追体験した いという気持ちに駆られたからであった。爾来、この書物はわたしの本棚から消えたこと が無い。折に触れ、その一部の詩や名文を味読している。たとえば、シェイクスピアの十 四行詩をつぎのような名文に訳出している。

  君を夏の一日に譬えようか。
  君は更に美しくて、更に優しい。
  心ない風は五月の蕾を散らし、
  又、夏の期限が余りにも短いのを何とすればいいのか。
  太陽の熱気は時には堪え難くて、
  その黄金の面を遮る雲もある。
  そしてどんなに美しいものでもいつも美しくはなくて、
  偶然の出来事や自然の変化に傷つけられる。
  併し君の夏が過ぎることはなくて、
  君の美しさが褪せることもない。
  この数行によって君は永遠に生きて、
  死はその暗い世界を君がさ迷っていると得意げに言うことは出来ない。
   人間が地上にあって盲にならない間、
   この数行は読まれて、君に命を与える。

  このソネットの解説を始めとするシェイクスピアや幾多の文人を語る重厚な文体につ いては、多言を弄する必要はないと思う。まず、手にとって読んでみることだ。

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『きみが読む物語』
毛利潔 (フランス文学)
 最近(2005年2月)の週刊誌に「おじさんだって泣きたい映画!『きみに読む物語』 (2004米)」という記事がありました。それに倣って、今回のタイトルを『きみが読む物 語』としました。  
 では、どんな物語なのか?

世界には無数の物語があって、そのどれかを、明確に、ひとつの《物語》として、意識し て読むことができれば、それが誰にとっても、それが自分の物語になることははっきりし ています。

  しかし、どんな物語なのか・・・?

たしかに、この世界は様々な出来事に満ち溢れ、ほとんどすべてが謎に埋め尽くされた世 界のようです。しかし、本当のところ、この世界はただ、古今の哲学が語るように、静か に風だけが吹いているだけの世界かも知れない、と考えることができるかも知れません。 このような風景を描写できる小説が、もし、あるとすれば、たぶんそれが、「究極の小説」 だと言うことができます。これまで、そのような小説を書くことのできた小説家は一人も いないからです。ただ、それに近い世界に接近できた作家は何人かはいることは確かです。

  その一人がトルーマン・カポーティ。

『ティファニーで朝食を』『草の竪琴』『遠い声遠い部屋』

(1、2は映画化されています)

  カポーティとは、では、どんな作家なのか?それは、いずれ分かります。ただ、私とし ては、カポーティに関しては、一つしか言うべきことはありません。それは、彼がこの世 界に一番近い作家だ、ということです。

 たとえば、『ティファニーで朝食を』の中で、ヒロインが作家志望の青年の小説 の習作をコメントして、「あんたの物語には(中略)ただ、木の葉のそよぎがあるだけ」と いうようなことを言う部分があります。つまり、この作品には、木の葉のそよぐ風の描写 しかない、という訳です。

  こんな風に、何にも事件が起こらない、ただ、風が吹くだけ・・・こんな世界が本当に面 白いのだろうか、ただ、うざったいだけかも知れない、と考える新入生の方には、とりあ えず、村上春樹さんの小説をお勧めします。(ただし、『羊の歌』までの初期群の 作品に限ります)。とりわけ、デビュー作の、その名もズバリ、『風の歌を聴け』 です。

  おそらく、はじめは、何も分からないかも知れません。しかし、私たちが理解しなけれ ばならないことは、ひょっとしたら、そのような世界があるのかも知れない、という、普 段は見えない世界を意識することではないか、と思っています。

  村上春樹を通して、カポーティが何となく分かった、となれば、後は皆さんの自由です。

いきなり、オカルトとかポルノの世界に入っても構いません。キーワードはちゃんと掴ん でいるからです。

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歴史と文学との垣根をとり払おう
森茂暁 (日本史)
福田秀一・岩佐美代子・川添昭二他校注 新日本古典文学大系『中世日記紀行集』 (岩波書店)

  創造的な人生を送るには、柔軟な頭脳と大胆な発想とがまず必要でしょう。身近なこと では、たとえば卒業論文のテーマ探しや執筆のさい、このことは決定的に重要です。常日 頃から固定的な物の考え方をしないで、自分の頭で物事をのびのびと考えてみましょう。 ここでは、文学の史料は歴史の史料として充分に活用できるということを述べます。

  例えば、鎌倉初期成立の『平家物語』、鎌倉末期成立の『徒然草(つ れづれぐさ)、南北朝末期成立の『太平記』などは、高等学校の段 階まではいずれも文学作品として扱われ、古典の時間に読まれます。しかし、このような 作品は同時代の歴史を知るための史料として極めて有用で、価値の高いものです。今度は 歴史の史料として再読しましょう。むろん原文で。この場合肝心なのは、一部分ではなく 全部を読み通おすことです。きっと感動が湧きおこります。古典のもつ不思議な力です。

  さて、冒頭にあげた書物はそれに類するものです。日本中世の紀行文(旅行記)が多く 収められています。中世日本人の旅行意欲をかきたてたのは(すべてが単なる旅行ではあ りませんが)、十四世紀の南北朝の動乱を通した人々の地理的視野の広がりだと筆者は考え ていますが、この動乱を契機に国内を旅する人が増えてきます。そのようななかで、紀行 文が書かれるわけです。それらは主として国文学のジャンルで研究の素材となってきまし たが、歴史の方ではほとんど無関心です。

  このような紀行文が、どのような意味で歴史研究に有用かというと、たとえば、阿仏尼 あぶつにの「十六夜日記(いざよいにっき)は、十三世紀後半 (鎌倉時代)の所領訴訟関係史料としてはもとより、東海道(京都と鎌倉をつなぐ基幹道 路)の交通史の史料としても使えますし、また、連歌師宗祗そうぎの「筑紫道記 (つくしみちのき)は、十五世紀後半(室町時代)の筑前・豊前国(福岡 県)、特に博多の人々の生活や周辺の景観をくっきりと描き出しています。一例をあげます と、筥崎宮はこざきぐうを訪れた宗祗そうぎは博多湾をへだてて、夕日のなかの可也かや 山(福岡県糸島郡志摩町)をながめ、「富士に似たる山」と感慨深げに書き留めています。 同記は、大内氏研究のための史料としても貴重です。

  同書では丁寧な脚注や解説が施されていますので、容易に読み進むことができます。さ あ、実際この本を手にとって、読んでみましょう。

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心を鍛える
山内正一 (イギリス文学)
  宇野千代『天風先生座談』(廣済堂文庫)二〇〇八年
  近藤信行編『山の旅』明治・大正編、大正・昭和編(岩波文庫)二〇〇三年
  田中澄江『山はいのちをのばす』(青春文庫)二〇〇〇年

 明治生まれの女流作家おふたりの、心と身体の健康をめぐるエッセイを紹介したいと思 います。宇野さん(一八九七―一九九六年)も田中さん(一九〇八―二〇〇〇年)も九十 歳を超す長寿を全うし、晩年まで健筆をふるわれた、人生の達人と呼べる方々です。宇野 さんの本は、知る人ぞ知るあの中村天風の講話を彼女が編集したもので、初版は一九八七 年に上梓されました。両書とも、心身を賢く管理して人生をいかに豊かに生きるか、とい うテーマについて貴重なヒントを与えてくれます。これから本格的な自己形成を目指す大 学生にとって、貴重な指針を与えてくれるものと信じ、ここに紹介することにしました。

 田中さんの本には「老いを迎え討つかしこい山の歩き方」という副題が付いていますが、 老いない人間はいないわけですから、若い学生の皆さんにとっても心身を鍛錬するうえで 有意義な本であることに変わりはありません。執筆開始時、田中さんは八十九歳。「体力と 精神力の強化が、私が山歩きをすすめる理由」(一四七頁)と断言する彼女は、「苦しい登 りの道で出会って、息もたえだえの身をどんなに花に励まされたことでしょう」(七八頁) と言える心根の持ち主でもあります。四十九歳で北アルプスを縦走したあとで大腿骨骨折 の手術を二度し、リハビリの甲斐あって五十八歳で再び北アルプスを歩けるようになった という、田中さんの山への深い思いは次の文章に良くあらわれています「私はキリスト教 徒ですけれど、神道にも関心があります。(中略)私は自分が山を歩くのは、山を通して神 が大自然の気を吸わせてくださるのだと感謝している」(四五頁)。「山は病院」「山は保養 所」という彼女の言葉(九二頁)の奥行きは深いのです。

 『山の旅』は、明治・大正・昭和と三代にわたるわが国の「山の文学」の精髄を集めた ものです。「自然と対峙するのではなく、自然のなかに溶けこんで一つになる」(大正・昭 和編、四五一頁)という、山と日本人の触れ合いのありようを確認できる良質の文章の宝 庫です。田中さんのエッセイと併読することを勧めます。

 宇野さんの本は、独特の心身統一法を創出した巨人、中村天風の健康哲学の解説・案内 書になっています。「優柔不断に、ただ、あるがままに生きているんじゃァ、長生きは出来 ないんだよ。生活の条件の中の肉体の、一番大事なことは、終始一貫、いかなる場合があ っても、訓練的に積極化して行く。これで、心身統一の根本条件が具体化したんです」(八 一頁)という天風の言葉は、「心を鍛えたければ、まず肉体を鍛えなさい」と語っているよ うに聞こえます。しかし、別所で天風はこうも述べているのです「健全な肉体は健全な精 神によって作られるのであって、健全な肉体によって精神が作られるのではない。(中略) 心は心の方から直さないかぎりは強くなれない」(一〇七―一〇八頁)。要は、肉体の鍛錬 が先か心のそれが先かではなく、心身一如の境地を目指す両者の鍛錬こそ真の健康の源な のではないでしょうか。そこにこそ人生を生きることの妙味が生まれる。このことを、田 中さんと宇野さんは(そして天風さんも)教えてくれているようです。皆さん自身の目で 読んで、この点を確かめていただきたいのです。

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山田美妙の勧め
山縣浩 (日本語史)
 高等学校の学習は、生徒の理解や負担などに配慮して、事柄を単純化する向きが少なく ない。盛り沢山の学習内容を覚えるためには必要な方法であろう。しかし、それで事足れ りでは本当の姿は見えてこない。大学の学修は、高校で覚えさせられた「レッテル」を剥 ぎ取ることから始まる。
 例えば、娘たちが高等学校で使っている文学史のテキストを開く。明治時代の最初の方 に言文一致に関する記述が見られる。そして、文体の問題として「二葉亭四迷は「~だ」 調、山田美妙は「~です」調、尾崎紅葉は「~である」調を用いた」などと記してある。
 大学入試において、言文一致につき、それが何であるかは当然として、《二葉亭=だ調、 美妙=です調、紅葉=である調》を覚え、それぞれの文体で書かれた作品名「浮雲」「蝴蝶」 「多情多恨」が漢字で正確に書ければ、完璧である。注(1)
 しかし、《二葉亭=だ調、美妙=です調、紅葉=である調》という「レッテル」は、どの くらい各作家の文体の実態を正確に示しているか考えたことがあるだろうか。
 例えば、二葉亭は生涯にわたって「だ」で終わる作品を書き続けたのであろうか。或い は、代表作「浮雲」の文章の末尾はすべて「だ」、そこまで徹底せずとも、圧倒的に「だ」 が多いのであろうか。注(2)
 勿論、そのような文体の実態は高校で習わないであろうし、知らなくても入試では困ら ない。しかし、大学の学修は、高校で学習した《二葉亭=だ調》の実態はどのようなもの であるのか、それは妥当な物言いであるのかなどの問い掛けから始まる。
 これは、所属する日本語日本文学科に関係する事例に過ぎない。
 高等学校では、国語以外の教科・科目でも、教育上の配慮から「レッテル」を覚えただ けでよしとすることが多いのではなかろうか。勿論、「レッテル」であっても、知らないよ り知っている方がよい。人文学部の各学科で学ぶ内容は、高校で学習する教科・科目と関 連性が高く、それを基礎とすることが多い。即ち、人文学部での学修とは、定期試験のた めの知識、受験のための知識として、高等学校で差し当たり覚えた様々な「レッテル」を 剥ぎ取り、そこを入り口にして、その背後にある、人間それ自体、また人間による営み、 人間を人間たらしめる言葉それ自体、または言葉で紡がれた世界に分け入っていくことで ある。
 ここでは、先の言文一致家三名のうち、高校のテキストで最も簡略な扱いがなされる、 即ち、日本近代文学史において忘れ去られた存在であるとも言える、山田美妙(一八六八 ~一九一〇)を勧める。
 二〇一〇年は、美妙の没後一〇〇年に当たった。このため、雑誌の特集、研究機関での 企画展など、美妙に関する催しが種々執り行われた。全集も刊行されるようになった(青 木・須田・谷川・十川・中川・宗像・山田編 『山田美妙集 全12巻』 臨川書店・二〇一 二年~)。更に文庫本で作品に接することができるようになった。
  山田美妙・十川信介校訂『岩波文庫 いちご姫・蝴蝶 他二篇』 岩波書店・二 〇一一年刊
 入手しにくかった嵐山氏の評伝 『美妙、消えた。』(朝日新聞社・二〇〇一年刊)も大幅 に書き直されて復刊された。
  嵐山光三郎『美妙 書斎は戦場なり』中央公論新社・二〇一二年刊
 ただ、美妙の作品は、読むのに骨が折れる。すでに古典であり、内容が単純に楽しめな いためでもある。
 文庫本に収められている「武蔵野」「蝴蝶」「いちご姫」は、初期の歴史小説の代表作で ある。美妙固有の文章上の悪癖は少なく、内容的に工夫され、「いつもの甘酒」(「蝴蝶」序) ではない。注(3) しかし、主要な登場人物が殆どすべて死んでしまう悲惨な結 末であり、後味が悪い。発表された当時、どのような評価を受けたか、「裸蝴蝶」論争(「蝴 蝶」の挿絵=主人公の裸体画を巡る議論)を含め、どのように話題になったかなど、時代 的な位置付けを知り、それを踏まえて読む必要がある。そのためには、嵐山氏や後掲の諸 氏の著作によって、明治時代前半の文壇や青年知識層のあり様も知っておかなければなら ない。
 これら三作品は、島内氏が、各々の梗概も含め、歴史的位置をうまくまとめられている。
  島内景二『歴史小説 真剣勝負』新人物往来社・二〇〇二年刊
 本書は、「源氏物語」「御伽草子」から書き起こし、現代までの歴史小説を作家ごとに論 じている。美妙は、「第八番 「ちッ、ぺッ、ぷッ」の山田美妙」で扱われ、三作品を通し て「マイナーな文学性」が語られる。
 島内氏も触れられているが、作品の内容もさることながら、明治時代前半の文章家とし て、美妙に限らず、二葉亭・紅葉でも、彼らが腐心した新しい文体、特に言文一致体とし ての「話し言葉らしさ」にも注目してもらいたい。
 即ち、彼らが実践した言文一致とは、小説の場合、地文を当時の話し言葉に近い形で書 くことである。話し言葉そのまま、話し言葉の通りに書くことではない。ただ、この近さ の程合いが難しく、簡単に定められなかった。このため、美妙・二葉亭は苦労し、紅葉は なかなか踏み出さなかった。
 このように言文一致は地文を書くときの問題である(会話文は前代・江戸時代でも話し 言葉のまま書かれた)。このため、過去の時代を舞台とする歴史小説では、殊に美妙は初期 の作品で会話文に工夫を凝らしたため、江戸時代とは逆の形で、妙なことが起こっている。
 この例として、「いちご姫」を紹介する。本作は、文庫本で約三〇〇頁の長編で、舞台は 足利義政の時代、「多婬という悪癖」と「尊王の心」の篤さという「美徳」、この二面の間 で揺れる絶世の美女・いちご姫の短い生涯を描いたものである。恋情を寄せる窟子 (うろこ)太郎を初めとして、姫に関わる男たちがお互いに殺し、殺され、最後 はいちご姫自身も発狂して死ぬ。めまぐるしい場面展開の続く、波瀾万丈の物語で、「武蔵 野」「蝴蝶」に比べると、読み応えがある。そして、十五世紀を舞台とすることを考慮して、 美妙は、会話文に「おじゃる」「おりゃる」「お~やる」「うず」など、室町時代に特徴的な 言葉を散りばめる。
  「渡りやるは誰(たれ)どの。国方(くに かた)か、東山か…」
  「東山でおじゃる」。
  「いわれありてでおりゃるか、このわたりに?」
  「いわれありてでおじゃる。禁裡の仰せでこゝら繕(つくろ) いのためまいッておじゃる」。 
  応答の間、姫はおりおり目を外(そ)らせて若武者を見(み る)と、扨(さて)もたぐい稀まれな美丈夫(びじょうぶ)
「いちご姫」第一・『岩波文庫』 七〇頁 
 一方、地文のうち、登場人物の動作・状態の描写、情景の描写などは、言文一致の敬体、 いちご姫などの心理は、言文一致の常体で記される。
  もうもう今度という今度は思い切ッた 。それにしても憎(につ)くい窟子、思わせぶりな昨日に引きか えた今日の始末、あれ程(ほど)義政を贔屓(ひいき) す る(と思い込みました)からには打ち明かした今までの事を知らせるに違いない
  あゝ思い凝(こ)ッてもたしかな分別もなくなりました
  むらむらと萌(きざ)した出来ごころ、根が活気の婦人、おのれ、や れ、その寝(ね)寝首 (ねくび)を…
  殺してやれ
  心が心すべて雷同(らいどう)しました。           「いちご姫」第二十五・『岩波文庫』 二六三頁
 南北朝時代を舞台とする「武蔵野」及び平安時代末期を舞台とする「蝴蝶」でも、会話 文にはその時代に特徴的な言葉が使われ、時代性を高める。一方、これら二作品の地文も 言文一致体で、更に「いちご姫」では先の如く言文一致の敬体と常体が混在する。このた め、作品全体として、多彩な文体、別の言い方をすると、読んでいて落ち着かない文体で ある。注(4)
 このような文体の詳細は、大学の学修で接することがあるため、これ以上立ち入らない。 ただ、《美妙=です調》の「レッテル」に関して一言。
 言文一致で問題となる地文は、「蝴蝶」も敬体で、その使用状況からいわゆる「です」調 であると言える。しかし、その前に発表された「武蔵野」は、常体で、文末には「だ」が 散見される。「いちご姫」で敬体と常体の混在が見られるように、美妙は地文の文末を終始 一貫「です」で通した訳ではない。注(5)
 美妙への入り方は、その個性的な文体からでもよい。しかし、嵐山氏の評伝が存するよ うに、数奇な生涯からの方がよいのではなかろうか。美妙という人間が結果的に持つ魅力 である。ただ、人間に魅力を覚えてしまうのは、文学研究を生業(なりわい) としない者の気楽さのためであるのかもしれない。
 美妙は、その斬新な文体と時代を見通した話題性などから、若くして文壇の寵児となり、 注目を集める。しかし、生い立ちや性格などに原因する「脇の甘さ」のため、紅葉ら、硯 友社から離れ、孤立する。それに加え、頂点を極めたことへの妬みなどが原因となり、二 度も「スキャンダル」をでっち上げられ、社会から抹殺される。更にそれを恥じた父親か ら廃嫡される。
 二〇歳代の後半、このような公私にわたる苦難の中にあっても、硯友社の古い仲間であ った川上眉山のように自殺することなく、その後は、辞書編纂で糊口を凌ぎ、少ない友人 や支援者に支えられて、作品を発表し続ける。容易に読むことはできないが、晩年の「史 外史伝」と称する一連の歴史小説は、乗り越えてきたものが大きいだけに今日的な評価は 高い。
 嵐山氏の評伝は、氏の想像も交えて美妙の生涯の一面を生き生きと描き出す。一方、後 半生の「美妙の強さ」を解き明かそうとしたのが、美妙の曾孫に当たる山田氏の著作であ る。作品は、確かな文学研究の立場で捉えられ、生涯は、淡々とした語り口で描かれる。 作品案内・年譜も付され、入門的な研究書である。
  山田篤朗『日本の作家一〇〇人 山田美妙 ― 人と文学』勉誠出版・二〇〇五 年刊
 そして、嵐山氏も、山田氏も、美妙の日本語学者としての側面、『日本大辞書』(一八九 二年七月~九三年十二月刊)・『大辞典』(一九一二年五月刊)などの辞書編纂について紙面 を割く。
 最後に紹介する坪内氏の著作は、美妙を描くことを目的としたものでない。硯友社で仲 間であった紅葉との関係で触れられるに止まる。紅葉の目に映る美妙は必ずしもよいもの でないが、氏は美妙を公平に扱う。
  坪内祐三『新潮文庫 慶応三年生まれ 七人の旋毛曲(つむじまが) り 漱石・外骨・熊楠・露伴・子規・紅葉・緑雨とその時代 新潮社・二〇一一年刊
 なお、本書は、副題が示すように、明治時代前半の青年知識層の姿が様々な資料に基づ いて描かれている。美妙から離れて読んでも面白い。
 以上、嵐山氏・山田氏・坪内氏を重ね合わせて読むことによって、山田美妙という人間 が多角的に捉えられる。また美妙の生きた明治という時代が日本史で学ぶのと違った形で 身近に感じられる。
 高等学校の学習では、教科書に載せられた作品・文章で終わることが殆どであろう。し かし、大学の学修では、その作家や生きた時代にも立ち入る。研究的態度では、それを踏 まえて、作品を読み解くことが必要になる。しかし、ある人間がどのような時代にどのよ うに生きたかを知るだけでも、元気付けられ、自身を豊かにすることができる。

    

(1) 下の娘の持つ国語の総合ガイドは、《美妙=です調》の作品として 『夏木立』「蝴蝶」 を示す。また別の一冊は同様の作品として「武蔵野」「蝴蝶」を示す。注(5)で述べる如く、 『夏木立』 は、「武蔵野」など、常体で書かれた短編六編をまとめた作品集(単行本)の 名である。小説の題名ではない。
  従って、いわゆる「です」調の作品として 『夏木立』 やその収録作品である「武蔵 野」を示すことは誤りである。更に、何の説明もなく、短編集の名であって、作品名でな い 『夏木立』 を作品名である「浮雲」「あひびき」「蝴蝶」「多情多恨」と同列に示すこと も、結果的に誤った情報を提供している。
  ちなみに、「武蔵野」は、国木田独歩にもあり、こちらの方が有名なようである。しか し、美妙は、独歩に約十年先んじて発表した。「武蔵野」は、美妙が本家である。
  更に記すと、高校の文学史では《二葉亭=だ調、美妙=です調、紅葉=である調》で 十分である。しかし、大学の共通教育レベルでは、更に《嵯峨の屋御室=であります調》 も覚えて欲しい。
(2) 《二葉亭=だ調》の意味・内容について、「地の文の「だ」は第一篇、第二篇の四例に すぎない」ことから「一般に「だ」調といわれるが、これは非敬体の終止を含めた総称 を指す」(「浮雲」『国語史辞典』 東京堂出版)・「文末についてみると、『浮雲』 は「だ」 調といわれるが、これは敬語を使用しないという意味で、地の文にみえる「だ」は 第一篇・第二篇の四例にすぎない。第三篇には「である」が三例みえる。そして、全編を 通じて「で」止めが四八例もある。」(「新編浮雲」『日本語学研究事典』 明治書院)の傍線 部の如く、「だ」の少なさに基づく、ある「解釈」が施される。
  しかし、このような「解釈」の示されていない高校のテキストにおいて、《二葉亭=だ 調、美妙=です調、紅葉=である調》という「レッテル」の中で見たとき、生徒たちが《二 葉亭=だ調》を普通どのように考えるかという観点で話を進める。
  なお、この「解釈」は、二葉亭の場合にだけ見られ、美妙・紅葉の場合は寡聞にして 知らない。これらの点について考えるところがあるが、煩瑣になるため、これ以上述べな い。
(3) 「甘酒」は、一夜酒(ひとよざけ)とも言う。一夜の間に熟成するた めである。一八八八年八月、「武蔵野」などを収録した 『夏木立』 を刊行した後、美妙は 文壇で注目を集めるようになり、小説の執筆以外に、雑誌 『以良都女(いらつめ) 』 に加え、雑誌 『都の花』 の編集も中心となって手掛けた。多忙を極めたため、 この頃は一晩で書いたような水準の低い小説が少なくない。それを自嘲して「いつもの甘 酒」と言っている。このようなことを公にするところがまた美妙らしい。
(4) 「武蔵野」の会話文は、「いちご姫」と時代が近いため、先に示した室町時代語が概ね 認められる。「蝴蝶」の会話文は、時代を遡るため、「な…そ(禁止)」「こそ…已然形」や 「昨日の朝の程(ほど)なりき、崩(かく)させ たまいてき」(その三・『岩 波文庫』 五九頁)など、文語文法に見られる古風な表現(平安時代語)が満載である。注 (5)に示した、その地文と読み比べ、文体印象の違いを捉えてほしい。
  しかし、このように舞台となる時代に特徴的な言葉を会話文に用いるのは、初期の歴 史小説に限られ、明治二〇年代後半以降は、どの時代を舞台にする作品でも「ござる」「遊 ばす」程度で、室町時代語や文語文法に固有な言い方は見られないようである(森田剛史 (二〇一二)『山田美妙・時代小説の文法』 福岡大学人文学部卒業論文による)。
(5) 美妙の文体について記した一般向けの図書はない。しかし、《美妙=です調》という「レ ッテル」について、少し述べる。
  美妙は、最初、非言文一致体(雅俗折衷体)の「竪琴草紙」(一八八五年五・六月)を 発表する。しかし、すぐに言文一致体に転じ、常体の「嘲戒小説天狗」(一八八六年十一月 ~八七年七月)を発表する。この作品は、高校のテキストで「言文一致運動の先駆者」= 二葉亭四迷による、「近代文学の名に値する」「真の近代文学の起点」と絶賛される「浮雲」 (一八八七年六月~八九年八月)に先んじる。即ち、我が国初の言文一致体の小説である。
  その後、常体で、文末に「だ」の散見される「武蔵野」(一八八七年十一・十二月)を 発表する。これは、一八八七(明治二〇)年に美妙も二葉亭も、その意味・内容は異なる が、いわゆる「だ」調の言文一致体の小説を発表したことを意味する。
   体(てい)のいゝ小説(せうせつ)にハ大抵是 (たひていこれ)が敵(かたき)を切脱(きりぬ) けるといふのが趣向(しゆかう)だ。けれど二人 (ふたり)ハそれほど強(つよ)くハなかった。否(い や)さ。強(つよ)かッたらうけれども。それよりハ猶敵 (なほてき)の方(はう)(つよ)かッ たのだ。(畢)   「武蔵野」末尾・『読売新聞』 一八八七年十二月六日・付録
  しかし、小説では翌年の「空行く月」(一八八八年三月~八九年一月)から敬体、いわ ゆる「です」調に転じる。その後も同じ敬体で、「蝴蝶」(一八八九年一月)・「いちご姫」 (一八八九年七月~九〇年五月)などを発表する。
   時は夜更(よふけ)です。それで何か容易ならぬ事がある と見えてこの家の夫婦は臥(ふ)してもいません。男は胡座 (あぐら)、女は片膝立(かたひざだて)、二人とも思入 (おもいい)った(てい)です
   男も女も別人ではありません。 二郎春風と蝴蝶です
「蝴蝶」その三・『岩波文庫』 五一頁 
  しかし、一八九二年になると常体に戻り、一九一〇年に没するまで続く。この時期、 小説において多用された文末は《「た」・用言の現在形↓「た」・用言の現在形・「である」 ↓用言の現在形・「た」・「である」》の如く三転する(木谷喜美枝(一九六九)「山田美妙に 於ける言文一致」『国文目白』 ―8による)。
  即ち、敬体の時期は、美妙の約二十五年の作家人生のうち、一八八八年から一八九一 年までの四年間に過ぎない。またその四年間も、「いちご姫」の発表された一八八九年に入 ると、「です」は控えられ、先の引用のように敬体の表現は「ました」が多く、体言止め・ 助詞止めも少なくない。つまり、「です」が地文の文末で多数を占めるのは、木谷(一九六 九)でも述べられる如く、一八八八年三月から一八八九年初めにかけての約一年間に過ぎ ない。
  更に、「武蔵野」など、常体の短編六編をまとめた作品集 『夏木立』 は、その年の三 月から敬体で小説を発表し始めた一八八八年八月に刊行されたが、常体のままで、敬体に は改められていない。刊行時に付された「まへおき」だけが次の如く敬体で書かれている。
    文章ははじめ下流に対する語法 (=山縣注・「だ」「である」など、敬意を持たない用語を使うこと)の方が以上の ものより簡単ゆゑ、言文一致体の基礎となるだらうと思つたまゝ、此中の文のとほり残ら ずそれが地を占めて居ましたが、また此頃になつて考へて見れば、些((す こ))し違つた注意も出て来ましたゆゑ、今は大抵同等に対する語法(=山縣注・「です」「ます」 など、軽い敬意を持つ用語を使うこと)をして地を占めさせて居ます。         『夏木立』「まへおき」 
  そして、敬体末期に書かれた「妖女身嗜みの内の一くさり」(一八九一年四月)・「雪折 竹」(一八九一年七月)・「これが社会かみみずばれ」(一八九一年八月)な どが 『短編小説明治文庫第五編』(一八九三年十二月)にまとめられる際 には、文末の「~ました」「でした」は殆どすべて「~た」「~であった」に改められる(大 島瑞穂(一九八三)「山田美妙研究   『いちご姫』 から常体文体へ   」『東京学芸大 学附属高等学校研究紀要』   21及び 『山田美妙集 第三巻 小説(三)』 解題による)。
  即ち、異なる文体の時期を跨いで短編がまとめられ、作品集として刊行される際、一 八八八年は敬体の時期であったにも関わらず、常体の作品を常体のままで刊行し、一八九 三年は常体の時期であったため、敬体の作品を常体に改めて刊行するという違いが見られ る。
  時期が異なるため、単純な比較はできないが、敬体、いわゆる「です」調に対する美 妙の態度が窺えるのではなかろうか。
  それでは、一八八七年から一八八八年にかけての時期になぜ美妙が常体から敬体に移 行したのか、「だ」「です」は当時どのような性格の言葉であると考えられていたのかなど の問題が生じる。しかし、煩雑になるため、紅葉の文章を引用するに止める。
  紅葉の死後に発表された言文一致に関する発言の中に「言文(げんぶん) 一致体(ちたい)の文章(ぶんしやう)も随分 (ずゐぶん)変遷(へんせん)して、初(はじ) め山田美妙斎(やまだびめうさい)やなんぞが書かいた時分 じ ぶんには、実じつは僕大嫌(ぼくだいきらひ)で、(まる) で女郎(ぢよらう)の文見(ふみみ)たやうだ と罵倒(ばたう)した(こと)があつた。」(「故紅 葉大人断片」『紅葉全集 第十巻』 岩波書店・三三八頁)とある。美妙の言文一致体を「女 郎(ぢよらう)の文ふみ」と称するのは、「です」の多用 に基づく。今日、誰も「です」に対して特別なニュアンスを抱くことはなかろう。しかし、 「です」は江戸時代に「でござります」から変化して生まれた訛語形で、当時は遊里関係 者や芸人が使う、使用階層に偏りの存する言葉であった。このため、明治時代になっても 品のよい言葉でないと捉えられていた。
  美妙も、二葉亭が「浮雲」を中断せざるを得なかったことが示す如く、地文の文末に 「だ」を用いる常体に様々な不都合を覚え、敬体に改めようとした際、その語感の悪さは 承知した上で、「であります」「でございます」に比べるとより「「簡略」の徳のある物」で あると判断して「です」を使い始めたようである。しかし、使っている内に予想を超える 問題があることに気付いたため、敬体に改めた一年後には早々と「です」を減らし、体言 止め・助詞止めを増やした。実際、先の「蝴蝶」の引用で「です」を取り去っても、その 文は日本語として成立する上、文章は敬体として不自然でない。
  ♯ 時は夜更(よふけ)。それで何か容易ならぬ事があると見えてこ の家の夫婦は臥(ふ)してもいません
   男は胡座(あぐら)、女は片膝立(かたひざだて)、 二人とも思入(おもいい)った体(てい)
    男も女も別人ではありません。二郎春風と蝴蝶。
《美妙=です調》という「レッテル」は、美妙が文壇で最も輝いた時期に文末表現とし て多用したのが「です」であるという意味においては正しい。しかし、美妙の作家人生の 中で考えると、たとえ「です」調が「(「~ます。」などの)敬体の終止を含めた総称」をさ し、「敬語を使用するという意味」であるにしても、妥当であろうか。更に自身の文体を「下 流に対する語法」「同等に対する語法」と称したことを考え合わせると、文末で使われる、 特定の語だけでその文体を語ることは、一面的な捉え方であり、ある時期の美妙にとって は極めて不本意な物言いであると言わざるを得ない。

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雑煮の味わい
山田英二 (英語学)
『虚数の情緒』(吉田武著、二〇〇〇年、東海大学出版会)


 福大への進学がきっかけで親元を離れる学生も少なくない。おそらく、四月から十二月 までは瞬く間に過ぎるだろう。暮れに大きなバッグを抱えてバスを待つ姿を見かけるとつ い、『待つ人のいるふるさとに、これから帰るんだな』 と思う。
 この読書案内の原稿は、松の内も過ぎた深夜に書くのが常である。今頃受験生諸君も桜 花の季節を夢見ながら机に向っている頃だろうなと思いながら。
 若い頃の自分は徹夜もなんてことはなかった。山行きであれ汽車旅であれ、思い立った ら古服の間に本を数冊つっこんで出かけた。親が好物を作って待っているとも知らず雪山 で越年したこともあったし、いちおう帰省はしたものの雑煮だけをかっこんでとんぼ返り した正月もあった。子の身勝手さも、若さだけが持つ勢いというものも、待つ身になって 初めてわかる。
 今回は、休暇など少しまとまった時間がとれた時に、若さのキアイでもって是非読んで 欲しい本を紹介する。この 『虚数の情緒』 は、一見したところ数学の本のようである。 しかし、そうなのかと聞かれても答えられない。それと、あいにく旅の友として鞄の中に 入れて持ち運ぶにふさわしい本とも言い難い。何故なら千頁を超えているから。
 副題に「中学生からの全方位独学法」と書かれているように、第Ⅰ部はものの考え方に ついて、源氏物語や源氏香などに触れながら、宇宙の始まりから説き起こし、地球、人類 の歴史を見る。第Ⅱ部は数学である。自然数から、素数、指数、整数、三平方の定理、有 理数、無理数、実数へと進み、二次方程式、円周率、二次関数、フィボナッチ数列、そし て虚数へと至る。論理展開の鮮やかさ、読者を引きつけて飽きさせない話力、筆力に驚く。 最後の第Ⅲ部は、物理学、特に力学を扱う。ニュートン力学、エネルギー、運動量保存の 法則、重力と振子、波動方程式、干渉と回折、アインシュタイン、光学と電磁気学、不確 定性原理、量子力学、量子電磁力学、超伝導、果ては、二〇〇八年にノーベル賞を受賞す ることになった南部陽一郎博士の「南部・ゴールドストーン粒子」「自発的対称性の破れ」 までも、この時期に語り尽くしている。
 これら全てを貫いて支えているものが虚数なのである。虚数とは、「二乗してマイナス1」 になる数である。この想像上の数(imaginary number, i と書く)が、現宇宙を形 作る根幹となっている。著者は言う、「万物は虚数なり。」と。「物理では、いやこの現実の 世界では、虚数無くしては一切何も語れない。虚数は、完全な実在として、目の前にある 机や筆箱の様に、決して消し去ることの出来ない存在としてここに登場した(中略)、宇宙 も地球もこの我々も、すべては虚数の支配の下にある。」
 更に、筆者は「分けられないものを無理に分けないこと、知らないものを嫌わないこと、 否定する暇があったら肯定すること、過去に未来を見出し未来に伝統を引き継ぐこと、一 見対立すると思われる様々なことを一つの言葉に込めて長い物語を綴ってきた。」「詩的感 覚無き科学者は危うく、科学的精神無き詩人は不毛である。」「本書を疑え。自分自身を疑 え。」とも述べる。
 「情緒を情緒たらしめているのは、その下に隠れる論理である。逆に、論理は、情緒を その支えとして人間的な意義を保つ。従って、自らの情緒を豊かにする為には、自らの論 理を鍛える必要がある。そして、鋭利な刃物たる論理は、情緒の鞘に収めて置かねばなら ない。」
 「技術者の誇りとは、自分の分身である 『物』 を作ること、その手助けをしてくれる 道具を愛すること、唯そのことに尽きる。職人の使う道具を見れば一目瞭然である。およ そ一流と呼ばれる人で、道具を大切にしない人はいない。大工ならばノコギリを、調理人 ならば包丁を、野球選手ならばグラブやバットを、学者なら紙や鉛筆を、暇さえあれば手 入れして常に最高の状態に保っている筈である。」
 言語、文化、音楽、歴史、論理、数学、物理学などが、虚数というものを軸に縦横無尽 に語られる。あえて譬えるならば、ブリ、アゴ(飛魚)、昆布、いりこ、するめ等の海の幸 と、鶏、椎茸、かつお菜、餅、豆腐、サトイモといった山の幸とが見事に渾然一体となっ た博多雑煮の味わいにも似ている気がする。慣れ親しんだふるさとのはむろん格別美味い に決まっているけれども、雑煮はいずこもハレの日の食べ物には違いないから、食わず嫌 いをせず、縁あらば是非箸をとれと勧めたい。私はこの本に中学生時代に出逢いたかった。

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岡村敬二 『江戸の蔵書家たち』 (講談社選書メチエ71)
山田洋嗣 (日本文学)
 昨年、江戸後期の和学者、小山田与清のことを調べていて大変 面白かった。本当はここで与清の「擁書楼日記」をすすめたいのだが、いささか特殊にす ぎるかと思いなおしてこの本にする。

  江戸時代になると書物の流通が広くさかんになり、出版も多くなって、自然大勢の読書 家や蔵書家、また著作や出版に志す者、分類や目録を作る者、あるいは索引を編もうとす る者が出てくる。岡村敬二のこの本はその人々の群像とそのなさんとしたところをいきい きと描き出してみごとである。また、それがこの時代の文化のうねりを描くことにもなっ ている。

  ことに面白いのは、冒頭の小山田与清とその蔵書に群がる人々の様子である。与清は蔵 書のために蔵三つを建て、五万巻を収めたというが、彼らを動かすのは、すべての書物を 集めたい、すべての書物を読みたい、すべてを分類したい、という静かな狂気である。そ のために彼らは集いまた離れつつ、本を求め、購い、貸借を、輪読を、抜書を倦まずにく り返すのである。

  私は、実は小山田与清という人間をあまり好きになれないし、その著作が面白いとも思 わない。「行為」が面白くて、「結果」が面白くないのは彼の特徴である。しかし、この様 子を書くのに岡村が主な資料として使った「擁書楼日記」は、その様子が日々記録されて いて、実に面白いのである。

  なお、こちらを読みたいと思う人がいるかもしれないから書いておくと、「擁書楼日記」 は明治四十五年に出された『近世文芸叢書』の第十二巻に入っている。ただし、活 字化するにあたっての間違いが所々にあるから注意しなければならない。気になる人は、 早稲田大学図書館のウェブ・ページに与清自身の自筆本の写真版が公開されているから、 それを見るといいと思う。

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個性・一般性・リアリティ
山中博心 (ドイツ文学)
 大学での学びは個別的な科目を自分で関係づけ、そこから自分なりの意味と体系を見つ け出すと同時に、自分独自の考えが普遍的妥当性を持つかどうか確認することです。その 過程で一見無駄に見えるものが数多くありますが、それなくして全体は見えてきません。 「大事なものは目に見えない」という『星の王子さま』の台詞ではありませんが、 そうした試行錯誤の中で基礎体力が身につき、企業が求める「社会人基礎力」や「汎用的 能力」の修得が可能になります。
 そう言った観点から見て人文学部の学生にとって不可欠な「ことば」の修得の過程は部 分と全体の関係を知るヒントになると思います。今井むつみ『ことばの発達の謎を解く』 (筑摩プリマー新書)は「具体的なもの」と「抽象的なもの」の学びの必要性や「全 体」と「部分」の密接な関係を子供のことばの修得過程を通して説いてくれています。特 に「発見」「創造」「修正」という行為でまとめられている第5章は大学の学びにとっても 必読です。
 「創造」は「想像」に通じます。坂崎乙郎『絵とは何か』(河出文庫)では「絵 を見る」のではなく「絵を読む」ことが説かれています。そこには「想像力」が大きな力 として働いています。その際特にゴッホに焦点を当て、もののリアル感を持つことの重要 性が強調されています。「もし畑を鋤いている人間を写真にとれば、必ずその人間は畑を鋤 いていないだろう。」というゴッホのことばは「素描とは人が感ずることと、できることと の間にあるように思われる目に見えない壁を貫いて、通路を切り開くことである。」という ゴッホの祈りに近い生き様を表しているように思えます。
 リアル感といえば保坂和志『言葉の外へ』(河出文庫)も少し骨が折れるかもし れませんが、お薦めしたい一冊です。保坂氏は哲学を「世界を定義したい」という「意志」 の産物ではなく、「世界を実感したい」という「熱意」の産物ではないのかという疑問を呈 しています。そうしたリアル感の喪失はものを解体(分析)することが部分の「いい・悪 い」の判断だけでなされたこと、対象を説明する言葉が統合された全体とは似ても似つか ぬ言葉で記述され、部分の総和が全体であると錯覚したため、全体が見えなくなったため ではないかと指摘されています。保坂氏の考えの背景には「身体感」や反「人間中心主義」 があります。
 上記の三冊で問題にされていることがより身近な例で語られいるのが鷲田清一『大事 なものは見えにくい』(角川ソフィア文庫)です。「納得」「『自由』 のはきちがえ」 「言葉の故郷」「受身でいるということ」「人を理解すること」「逆立ちの 『体験学習』」「跨 がれる時間」等をお薦めします。
 何れにしてもあなたの「個的なもの」と皆の「普遍的なもの」を「リアル感」を通して 如何に統合するかだと思います。

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Novis 2013
― 新入生のための人文学案内 ―

印 刷 平成25年3月27日
発 行 平成25年4月1日
発行者 福岡大学人文学部
印刷所 城島印刷株式会社